F e a r

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陽の光がヘビーカーテンの隙間を縫って、顔に差し込んでくる。
ヒトが活動するその生活の音が漏れ聞こえてくる。
目が慣れていないのか回りの色彩が灰色になっていた。
青年は、寝乱れたシーツから体を起こすと、腕を伸ばしカーテンを閉める。
その行動には、『起きる』という選択肢はないようだ。
部屋の中がひどくしんとする。
灰色の色彩が一瞬にして黒へ。
そう、この方が目が慣れていていい。 事実こちらのほうが回りの光景がよく見えた。
隣で寝ている少女も。



無防備に寝顔を晒しているその少女の、飛び散るようにひろがった黒い髪を左手で弄びながら、器用に右手だけで煙草をくわえ火をつける。
一瞬だけ燈色の焔が点り、消える。
そのまま、これからどうするのかを考え始める。
期限はあと5日。
ここプラハを発つのは今日の夜行で。ウィーンに着くのは真夜中ごろになるだろう。
いや、そんなことじゃない。
期限の日、何をするか。
左手を止めて少女の寝顔を眺める。
ヒトとして死ぬか、バケモノとして生きるか。
いや、バケモノとして生きられるかどうかも怪しい。
400の審問官と1億のキリスト教徒と10億以上のヒトに狙われるのだから。
では、潔く死ぬ?
それもばかばかしい結論。
最初からそれができていれば何の問題もなかった。
それにいつでもチャンスがあったのに、できなかった。
ボストンバックの一番下、黒いポーチの中にそれは入ってる。
拳銃。アメリカのなんとかという会社の新しいリボルバーの拳銃。
ましてそんなものを使わなくても、ナイフで一刺し。それで血を流せるだけ流せばオシマイ。

ようは。
君から離れたくない、君を傷つけたくない、君に喜んでほしい。



衣擦れの音に青年が振り返ると、青年の横で寝ていた少女が焦点の結んでいない黒い澄んだ目であたりを見回していた。あの健康そうだった肌は、今は紫がかっているようにも見えるくらいに白い。
「どこ、シン?」
まだ寝惚けているのだろうか、隣にいる青年を見つけられないよう。
その声は、必死さを感じさせる程度には張りつめていた。
青年は少女の頬に右手を伸ばし、ここだよ、と囁く。
少女は青年の胸に額を擦り付ける。青年はさむいの? と問い腕を伸ばして肩を抱く。
指先に何か触れた。布のようなもの。
この前あげたチョーカーか。
「いつでもつけてるよ」
何のこと、ときょとんとしたが、チョーカーのことだと気づく。
「初めてのシンからのプレゼントだもの」
そうだっけ、と弁明してみる。そういえばこんなふうになる前はこんなにも存在感を感じるってことはなかった。
少女は顔をあげ青年の瞳を見つめる。
その美しい声が物語を紡ぐ。
「……おとぎ話をしてあげましょうか」僕は、君に、おとぎ話をしてあげよう



その地には、2人の兄弟がいた。
兄は農耕をし、弟は牧羊をしていた。
2人には一つの義務があった。
それは、神に決められた捧げ物をすること。
兄はより優れた供物を。
弟はきめられた供物を。
それぞれ捧げた。
しかし。
神は弟の供物のみを受け取り、
兄の物はその場で焼き、棄ててしまった。
その後も、兄は前以上のものを捧げる。
だが結果は同じだった。それは長い間続く。
信仰心の厚さゆえに神に疎外される、兄。
信仰心の薄さゆえに神に寵愛される、弟。
それ故、
兄が自らの道具を用いて、弟を殺したのは当然の帰結かも知れない。
神は兄に聖痕を与え、流刑地の更に外を放浪させる。



青年は物語が終わったと理解するのにずいぶんと時間がかかった。
それは物語の持つ独特な雰囲気のためか、それとも玲鈴にも似た少女の声のためか。
「旧約の創世記?」
「そう、カインとアベルのお話」
ある兄弟の悲しい話。
「ねぇ、私たちってカインに似てない?」
え?
「吸血鬼っていうラベルを貼られて、住み慣れたところから追われて」
そう、確かにこれは消えることのないスティグマ。
「でも、もしそうだったら多少の救いはあるかな」
「? どういうこと」
青年は囁く。
「彼は追放された後、エノクの町を作り上げた」



エデンの東、放浪の地、ノド。
カインはそこを長い間彷徨う。
そこは幻想の地。
そして幻覚の地。
彼はそこに街を作る。
水を引き、土を盛り、人を集め。
彼は、農耕者であり鍛冶屋であり狩猟者であり政治家であった。
そこは、ヒトという概念の生まれた場所となった。



「だから僕達には多少の希望があるよ」
「そっか、そんな続きもあったね。でもその部分は関係ないよ」
少女は青年のかいなの中に顔を埋める。
「だって、私たちだけで何かを作るには時間がないもの」



愚かな。
青年はその時にいたるまで少女が慄えていることに気づいていなかった。
「私ね、恐いの。だってあと5日しかないよ。私は誰かを殺してまで生きるなんてやだ。でもね、死ぬのも嫌だ。だって、死んだらどうなるの? 私ね、判るの。自分の体がどうなってるのか。シンもそうなの? 感覚がとっても鋭くなって、血がどれくらいの濃さで流れてるかなんてことも判って……」
やめろ、と呟く。だがそれは少女の耳には届かない。
「それで初めて判ったの。ワラキア候や青髯公の物語の中で出てくる、血を吸いたいっていう衝動。あれは恐怖なの。自分の命が一日、一日とカウントダウンされていく恐怖。あと何日かで自分の命が終えるって。自分の命を人質にとられて」
そんなことは青年も判っていた。
だがそんな終わり方もいいかな、と思っていた。
それまでの時をこのうえ無く享楽的に過ごしてみるのも。
自分勝手に。
そして何よりも、自分たちが死ぬことよりもこの少女が変わってしまうことを恐れていた。
少女が、本来真面目な聖職者の少女が青年と一緒に享楽的に過ごしてみたのも、その裏側に死への恐怖があったことに、今まで気づかなかった。
だから、これ以上ないというぐらいに青年は少女を抱きしめる。
愛しいから、これ以上言葉を重ねられたくないから。
しかし、

「私ね、耐えられないかもしれない」

Special Thanks to …

S.Tominaga

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H.Sakuma

Bloody Moon Project