M o o n l i g h t

1841 / 1 / 13

白い一面に立ち込めた霧。
その白いベールは街全体を覆い隠すように。
街の光がその白いベールによってやわらかに、優しく街を照らしている。
パリに次ぐ音楽と美術と戦争の都市。
今はハプスブルク家の居城、ウィーン。
その夜、この街は2人をその霧に抱まれた街の中に迎え入れた。



ウィーン・ミッテ駅。この街の玄関であるその駅に青年と少女が降り立ったのは真夜中を過ぎてのことだった。
真夜中。しかし、未だに人の気配は絶えない。
音楽の都の夜は、長い。
そこかしこで若い音楽家の卵達が、ヴァイオリンを弾き、ピアノを叩き、歌う。
そして意中の演奏家のもとへ急ぐ人、自分で見つけた卵を自慢するために歩きまわる。
浅薄かで、ひとりよがりな満足。
……主にこの街の人間と音楽はこんなものだった。



青年は列車を降りた後、忙しなく荷物を下ろしている赤帽に何事かを尋ねる。その赤帽は親切心からか、あるいはこれも仕事のうちなのか、聞かれたことに丁寧に答えた。
ありがとう、と軽い謝辞を述べて少女のもとに駆け足で戻っていく。
冬場なのに薄手の黒いサテンのドレスと黒のチョーカー、澄んだ黒い瞳と『黒の統一感』を持った少女。その少女が2人分の荷物の前で待っていた。
「どうだった?」
青年は残念そうにかぶりを振る。
「だめだね。王宮の周りには近づけないし。とくに何か見て回るものはないようだ」
あの庭園はせっかく綺麗なのにと、つなげる。そう、と小さく少女は呟き、目を外に転ずる。喧噪の広がる街路。
「そうだね。あの中を歩いてみるだけでも楽しいか」
少女は頷き、青年と並んで駅を出ていった。



ウィーン駅を出てフォルクス・ガーデンの中を2人で歩く。ウィーンの中心街であるパルクリンクに抜けるため。
街中であるにもかかわらず、ここだけは静穏を保っていた。もっともパントマイムやセレナード、バラードなど静かで穏やかなものをやってる人はいる。
しかし、それにもましてこの暗緑の木々と綺麗な月が、この音をかき消すように……。
今日は本当に綺麗な月。
その光がヒトでない2人の上にも平等に、唯一平等に抱み込む。
その中を静かに2人は歩いてくる。話をすることもなく、まるで月光を浴びるためにこのウィーンまで来たかのように。
「静かだね……」
その少女の声さえも光にかき消される。
「こんな光景を見ると今の状況を忘れちゃうよ」
「まるで街中とは思えない静かさだ。でも少し寂しすぎるよ」
青年の懸念もよそに、
「でも私は静かなのが好き。静かなところでずっと暮らしてたかった」
その言葉には青年が顔を顰めた。
「ごめん。気にしないで」
遠くから喧噪がする。それにつれて正面の方から明るい光が。
どうやらもうすぐ森にも等しい公園を抜けるようだ。



赤と黒の夕闇が東から街に迫る。
街は少しの間燃えるような赤に包まれ、黒へと塗り替えられた。
さあ、音楽の都の夜のはじまり。
本物は一握りの宝石よりも少なく、
全てが偽物。全てが見せかけ。
それでも表面の綺麗さに目を奪われ、中身の穢さに目を背け、
歌い、踊る。
ここは狂乱の魔都。
それでも、
少しの、たとえ空元気でも分けてもらえるのだろうか。



「そうですね…………、エステルハージ侯爵のサロンで、昔仕えていたピアニストが演奏旅行に来ているそうですが。それを見に行ってはいかがでしょう」
ホテルのボーイは簡潔にそう答えた。青年が礼を言うと一礼して仕事に戻る。
どうしようか、と青年が思案していたら、後から声をかけられる。
びくっ、として振り返るとそこには少女が立っていた。
「クリス、聞いてた?」
「うん。どうするの?」
そこでまた考え始める。
「エステルハージってことはリストじゃないの?」
「侯爵なんだから君が呼び捨てるのはまずいよ……。それに、リストって誰?」
少し考えた後、少女は答えた。
「えっと、パリのピアニストだよ。元々はここで生まれたらしいけど。子供の時はチェルニーとサリエリに師事してるよ。その後はパリでベルリオーズやパガニーニ、ショパンなんかと交流を深めて。今、彼が演奏している曲はほとんどショパンがリストに献呈した曲なの。それとね、リストってパリの女性にすっごく人気があって……。『リストマニア』とまで呼ばれる人たちが周りを取り囲んでる程なの」
よく知ってるな、と感心したが顔にも出さず、
「じゃあ、人多いかな」
「そうでもないと思う。エステルハージ侯爵も、シンと一緒で人嫌いだって話だから」
青年は少しの苦笑いを浮かべた。



エステルハージ侯爵邸に着いたのはホテルをでて30分後だった。
侯爵邸はそれほど判りにくいところに在ったわけではなく、むしろパルクリンクからそう離れてないところに在った。しかし、ただ通りをずっと歩いていただけでも真新しく、奇抜なものに目を奪われずいぶんと時間をくってしまった。
侯爵邸は概観のがっしりとした建物でかなり古い屋敷だということが伺えた。
だが内装はとても派手で、パリ風を更にごてごてとさせたもの−−ウィーン風といえた。
屋敷の中に2人が入ろうとしたとき、玄関でそこにひかえていた執事に見とがめられかけたが、青年が自分の出自を言うとあっさりと通してくれた。
サロンの中にはいるとそこには既に、10人ぐらいの先客がいた。もっとも、その人数は青年の思っていた数よりは少ないものだった。侯爵が人嫌いだというのもあながち嘘というわけではないようだ。
そしてその中央。
そこには小太りの中年とまだ若々しい男がいた。
少女から聞いていた話だけでどっちがピアニストでどっちが侯爵かは検討が付いたが、
「クリス、リストってあっち?」
小太りの男を指さしながら聞いてみる。
少女は微かに笑う。それは、本当に楽しそうに。
「ちがうって。あんなに太ってるわけないでしょ」
そんな馬鹿な話をしていたら、ピアニストは中央におかれた、珍しい黒いピアノの黒い椅子に座っていた。
深呼吸。
まるで初めて人前で弾く子供のように。
鍵盤に手を軽く置き、
まるで踊るように激しく、ショパンのエチュード12番を弾きはじめた。



踊るようにとはよく言ったもの。
まるでではない。本当に彼はピアノ椅子の上で踊っていた。
自らが奏でる曲に合わせ、その手、その頭、その体を使って。
激しく、優しく、緩やかに、厳しく。
冷静であって、熱狂的で。
そう、彼が自分の弾く曲の矛盾さを示すような。

エチュード12番−エチュード3番−ノクターン2番−エチュード5番

観客を息も吐かせぬまま自分に引き寄せ、そのまま感覚の蒼海に一緒に潜っていくような。
たしかにこれではその冷艶な美貌を差し引いても、女性が魅かれるのは頷ける。
最後のE-G#の4和音と共に音符を駆け上がらせショパンの4つの曲に幕を閉じる。
そして大げさに芝居かかった一礼をする。
あくまでも上品に、しかしその熱狂的な感情を隠せないまま歩み寄る観客達。
少女と青年はそれを遠くから見つめる。
あまりの熱狂に冷めてしまった。
冷ややかと言ってもいいほどに少女の冷めた視線とピアニストの視線があった。が、軽く微笑みかえされただけで終わり。



「シン、なにか弾いてみたら?」
ピアニストの演奏のあと、この場は少し腕の覚えのあるものが一曲弾いてみる、そんな場になっていた。中にはそれなりの技量を持った人物もいたがほとんどは子供の遊びのようなものだった。とうのピアニストは端のほうで侯爵と女性の相手で忙しそうだ。
「はぁ、クリスも僕が弾けないの知ってるだろ? 君のほうこそ何か弾けばいい」
情けない、と思いながらも青年は言葉を返す。
「…………君のピアノが聞きたい」
残念ながら顔を背けながら言ったので、珍しく少女が耳まで赤くなったのは見えなかった。
照れ隠しなのか少女は椅子に近づく。
青年は少女の後ろから付いていき椅子を引き高さを調整してあげる。
少女が椅子に座ると、そのピアノにしては珍しい黒という色と黒い服、髪の黒が少女をピアノと一体のように錯覚させる。
なに弾こうかな、と呟きながらも、あまりにも無造作にG#の音を叩く。
その繊細さに欠ける、緊張した音がサロンに響き他の注目を集める。
長めにとったG#の音はE、C#と移り次第に速度を増す。

ヴェートベン ピアノソナタ第14番嬰ハ短調

静謐で熱情を持った曲。
曲の難易度はショパンやシューベルト、ヴェートーベンの他の曲に比べると簡単ではある。しかし、40年もたった今、この曲がいまだに弾かれているのはなによりもこの曲が、簡素であるがゆえに演奏者の技量とスタンスを曝け出してしまうから。
少女はなぜこの曲を選んだ?
自分の技量に自信があった? それとも…………?
演奏は終わりにさしかかり、慎重な和音の3連打をppで。
余韻が響く。
サロンの中は静まり返っていた。あるいはそれは錯覚だったかも知れない。少女の演奏に耳を傾けていたのは、椅子の後ろに立つ青年と幾人かの聴衆、そしてこちらに近づいてくるピアニストだけだったから。
「非常にいい演奏でしたね。作曲者の心情がよく現れてる」
そういいながらこちらに近づいてきたピアニストは少女の脇に立つ。
彼は青年の耳元で小さく、だがはっきり囁いた。
「技量のほうも『変わってしまった』せいか元々からか知りませんがかなりの腕ですね」
え? 変わったって…………。
青年のてのひら越しに少女の緊張が伝わる。
「お話がありますので後でお時間宜しいでしょうか?」



月の光が部屋に幾多もの影を創る。それらはまるで魔的ななにかのように、揺れて影の境界線を曖昧にする。
ヨルが最も力を持つ時間。
部屋の中に明かりは、ない。
2人はその中の月光に晒されて白く光る長椅子に腰掛ける。



ドアが明けられランツ=リストが入ってきた。ドアを明けたのは侯爵。
「いい、さがれ」
あろうことか、ランツは自分のパトロンである侯爵にそんな暴言を吐く。だがそれがさも当然な様子で侯爵はドアを閉めていった。
「シン=ホーエンツォルレルンですか…………。これはとんだ大人物が。現プロシア皇帝の甥御でしたか?」
その口調には多分にからかいが含まれていた。
「また従兄弟です。だいたい、あなたは何者で私とクリスに何の用が?」
青年の困惑は声に現れている。
「クリスティ=グッチャルディ。没落した貴族の家柄でしたか。身分があなたとは釣り合わないような…………」
「そんなことはどうでもいい。あなたは私の問いに答えていない」
ランツは艶然と微笑む。
「そちらのお嬢さんはお気付のようですよ? あなたよりも鋭い感覚の持ち主のようですね。『変わって』から感覚が鋭くなるタイプですか」
不審さよりも無気味さを感じた青年はいつでも逃げられるように、少女を抱き寄せる。
「シン……、この人、私たちと同じ……」
その声に胸元の少女を見る。黒の瞳が不安そうに揺れていた。
「失礼な。まだ自分から獲物を獲らないような腑抜けどもと一緒にするな」
冷たい感情のない声。
「答えてあげようか。私は君達に警告と助言をしようとしてるんだよ」
「警告と助言?」
自分に言い聞かせるように噛み含む。
「ああ、そうだ。お嬢さんの素晴らしい演奏に対するお礼にね」
冷ややかな横顔を向けたまま、応える。
「警告はこうだ。君達にはもう時間がないんじゃないか? 血の匂いで判る。ずいぶんと血が変質している。もってあと2日か。助言の内容は、さっさと覚悟を決めて血を吸え。さすがになりそこないとはいえ、同胞の屍体を見るのは忍びないからな」
困ったような顔をする青年。
「私達は、そんなことをするのには耐えられません。この前に化物にはならないと決めたんです」
そう応えていたのは青年ではなく、いままで青年の陰に庇護されいた少女だった。だが、それでもランツの表情は変わらず、いやむしろより表情が消えたと言うべきか.
「何も知らない。それだからこんな、無謀なことがいえる。実際にアレを体験してない人間にしか言えない言葉だ」
3人の間に沈黙の帳がさがる。
「軽く話そうか? まずは12時間ぐらい前から、今までとは比較にならない『衝動』が来る。これは本当に比較にならない。生存本能がそうさせてるんだから。逆に言えばここがデッドラインだ。暫くすると幻覚。その後には激痛。体中のね。最後には血の変質による血液障害。大概は臓器不全で死ぬ。はれて悪魔のところに行ける訳だ」
そこで2人の方を見て、

「それも面白いかもしれない」

そのたった一言の呟きに、こいつ本当にヒト辞めてるな、と青年は感じた。
「まぁ、好きなようにしたらいい。私は義理を果たした。後の選択は君たち次第。僕が関知するところじゃないからね」
そうだ、とランツは元の人好きするような笑顔に戻って、
「忘れていた。君たちに言っておくことがあった。我々、吸血鬼についてだ。吸血鬼は純然たる生物だ。当然、日の光を浴びると灰になるということはないし、流水に溶けるということもない。これは全てバチカンの宣伝だ。たしかに人から血を吸わなければ生きていけない。だが決して吸われた人全てが変わるわけでもないし、死ぬわけでもない。それは全て、経験と知識で回避することも故意に行なうこともできるものだ」



それは、あまりにも甘美な解答。それで自分たちが避けようとしたもののほとんどが消えてしまうのだから。
それでも。
果たしてこの話は信用できるのか?
「でも」
少女の声にランツは反応する。
「私は貴方の様にならない」
だが、その言葉に対することなく、
「そんなことを言って……。君の血の匂いは『恐怖』が充満している」
それは、プラハで泣きじゃくった少女の本音。
「ヒトはね、『変わって』しまうときに代償として特別な力が備わるんだ。私の場合はそれが匂いだった。君たちはなんなのかな? それはどうでもいいか。さぁ、もう話すことはない」
そう言うと、ドアの近くのサイドボードの鏡台の上にある銀色の鈴を持ち上げ、軽く振る。
その鈴音は月光に照らされ白く光る。
「あぁ、言い忘れた。1つだけだ『私たちはヒトであってヒトでない』。これが吸血鬼の定義だ。覚えておくといい」
程なく、侯爵が現れ2人を玄関まで案内した。
その姿は、最後まで召し使いか奴隷のようだった。



ウィーンの街は何時になっても騒がしい。
その影でたとえ人が消えていても誰が気付くのだろうか?
或いは闇にまぎれて刺され、或いはこの町から逃げ、或いはナニカに襲われて。
それでもこの街が音楽の都である事に口を挟む者は誰もいず、この街が魔都であることを口にするものは誰もいない。なぜなら、それがこの街の、この街に住む多くのヒトでないものとその餌の家畜のルールだから。
そんな街を今夜も、まるでそれだけがヒトと平等だとでも言うように、綺麗な白い月光が照らす。

Special Thanks to …

S.Tominaga

Y.Izakari

H.Sakuma

Bloody Moon Project