1

「うぐ……えっ、えぅ」

 あの子が泣いていた。

 真っ白な光で満たされた空間に、あの子の赤いコートが浮かび上がる。
 髪の毛には白く雪をかぶっている。溶けかかった雪は、頬を伝い涙と一緒にしたたり落ち、雪にとけ込んでいった。

「う……あぅ」

 あの子は溢れ出る涙を、手の甲で拭っていた。この寒さの中、随分長いことそうしていたのだろうか。小さな手は、寒さで痛々しいほど赤くなっている。のんびり屋のあの子がうっかりしてなくさないようにと、紐で繋いで首からかけてあげた毛糸の手袋が、所在なげにコートの袖からぶら下がっている。手袋についていたお気に入りのウサギのアップリケも、雪解けの水を吸って、どこか歪んでいるように見えた。

「どうしたの?」

 あたしは、ちょっと膝をかがめて、あの子の顔をのぞき込む。
 するとあの子は、驚いたような顔をしてあたしを見つめた。見る見るうちに両方の瞳に涙が溢れてくる。そして顔を歪ませて抱きついてきたかと思うと、今度は安心したのか堰を切ったように、声を上げて泣き出した。

「うわーーん……うぐ……あーーん」

 あたしは、その頭に積もっていた雪を払い落とす。

「……えぅ……お、おね……おねったん……おねえちゃん……」

 そう、これは確かずっと昔。
 まだ、あたしが幼稚園のころの話だ。
 今、あたしの腕の中で泣いているのは、あたしより一つ下の組にいた妹の栞だった。あたしは、栞の短く癖のない髪の毛を、優しく撫でながらあやしていた。

「……う……あぅ」

 大分、落ち着いてきただろうか。
 あたしは、もう一度、栞の顔をのぞき込む。
 紅潮した頬には、髪の毛が涙で張り付いていた。あたしは、それを一本一本とりながら、再び訊ねた。

「どうしたの?」

 栞はまだ少し、すすりあげながら言った。

「空き地でね……あぅ……あそんでたら、たあくんたちがきて、ゆきがっせんしたの……」
「うん、それで?」
「……そしたらね……みんなして、栞にゆきだま、ぶつけたの……」

 栞はたまにせき込みながら、震える声で続けた。

「たあくんもね……えぅ、みんなと栞にぶつけるから……うぐ……栞、かえってきたの……」

 そこまで言うと、よっぽど悔しかったのか悲しかったのか、また声を上げて泣き出した。
 あたしは、栞が泣きやむまで背中をさすってあやしていた。

 やがて震えも止まって落ち着いてくると、あたしはハンカチで栞の顔を拭って言った。

「おねえちゃんが、やっつけてあげる」


 あたしは、栞の手をひいて、来た道を戻っていく。
 しばらく歩くと、住宅街の中にぽっかり開けた空間があった。広さは、一戸建ての住宅が質素な庭付きで建つくらいしかなかったが、それでも近所の子供たちが集まって遊ぶには、十分な広さだった。

 空き地は近所の雪捨て場として使われていた。
 あたしが空き地に着いたとき、彼らは、捨てられた雪が積み上げられてできた雪山で、そりに乗って遊んでいた。みんな近所で顔見知りの子達だった。年の頃は栞と同じか、中にはいっこ上であたしの見覚えのある顔もあった。
 あたしがあらわれたことを知り、彼らは困ったように顔を見合わせる。睨み付けると、逃げるように人の影に隠れる子もいた。

 そのなかのひとりが、あたしに声をかける。最近、都会から引っ越してきたという、生意気な子だ。口がたつので、最近ではすっかり調子に乗って、ガキ大将を気取っている。
 その子が、雪合戦をしようという。
 人を馬鹿にしたようなしまりのない顔に腹が立ったあたしは、望むところと受けてたった。他の子達は、そんなあたしの様子を見て乗り気でないようだったが、その子に促されてしぶしぶ雪玉を作り始めていた。

 あたしも、彼らの反対側の空き地の隅に陣取って、栞と一緒に雪玉を作り始める。
 2日前に降った雪は、お昼の暖かさで少し溶けたせいか、水分を含んで丸めやすい。重く固まった雪玉は、もろに当たるとかなりのダメージだ。
 あたしは、人数分の雪玉を作り終え、隣で丸めている栞を見る。のんきなあの子らしく、雪玉というには及ばない小さな雪のかけらが、2個ほど申し訳なさそうに並んでいた。
 そして3個めにとりかかっている、栞を見て言った。

「栞、もういいよ、できたから」

 ほぇ? という感じであたしを見上げ、栞の雪玉の5倍はあろうかという、あたしの前に並んでいる雪玉を見て驚く。

「おねえちゃん、これ……」

 栞は雪玉を一個取り上げて、太陽に透かしていた。

「石ころ入ってるよ……」
「常識よ」

 栞はもじもじしながら、あたしに訊く。

「たあくんにも、ぶつけるの?」
「たあくんのは、こっちよ」

 あたしは、端に置いてあったちょっと黄ばんだ雪玉を指さして言う。栞は直感的に何かを悟ったのか、その雪玉には手を出さずにあたしを見る。

「おねえちゃん、それって……」
「犬のウンコ入りよ」

 あたしは平然と答えた。

 そのとき、空き地の向こうから声がかかった。
 準備が出来たらしい。

「栞、あなたは投げなくていいから、後ろに隠れてあたしに雪玉をちょうだい」
「うん」

 栞は返事をすると、あたしの陰に隠れた。
 かけ声とともに、雪合戦が始まった。


 しかし、勝負はあっけなくついた。
 あたしの投げた雪玉が、百発百中で彼らの顔面をとらえたのだ。
 彼らは泣きながら空き地から逃げ出した。
 去り際、
「雪国育ちをなめるんじゃないよ!!」
 と、ガキ大将の子にむかって叫ぶと、その子は振り返って何か言いたげだったが、周りに誰もいないのを知ると、他の子を追いかけるようにして走っていった。


「ふぅ……」

 あたしは、ため息をつきながら、栞を振り返る。
 栞は、おどおどしてあたしを見つめていた。

「栞、あなたそんなに、たあくんのことがいいの?」

 あたしは、前屈みになって、栞の顔をのぞき込む。あたしが、たあくん用にと作った特製の雪玉は、ガキ大将の顔面をとらえていたのだ。

「……うん」

 栞が小さく頷く。

「本当に男を見る目がないわね……」

 あたしは、あきれるように言って彼らの逃げていった方を振り返った。

「……帰ろっか」

 あたしがそう言うと
「うん!」
 と、栞が元気よく頷いて、あたしの隣にぴったりと寄り添ってきた。


 いつの間にか、日は暮れかかっていた。オレンジ色に染まる帰り道。あたしたちは長くのびる自分たちの影を追うようにして歩いた。

「おねえちゃん……」

 栞が言う。

「おててつないでいい?」

 見ると、栞はコートの袖に小さな手を引っ込めて、堅く握っていた。まだ、手袋が雪で湿ったままなのだろう。
 あたしは、栞の手を握ってあげた。すると栞は喜んで、その手を両手で握り返してくる。あたしの右手は手のひらと手の甲から突然冷やされて、鳥肌がたったが、しばらくすると暖かい温もりに変わっていった……。


 道の両側には、除雪によって積み上げられた雪山が連なる。自分たちの背丈の何倍もある雪山は、白い壁となって視界をふさぐ。歩いても歩いても同じ景色の繰り返し。まるで出口のない迷路をさまっているような錯覚にとらわれた。

 どこまでも続く雪の迷路は、幼心にも不安を抱かせるには十分だ。空の色が茜色に染まり始め、風が冷たさを増す。唯一手に感じる栞の温もりだけが、あたしにこれがありふれた日常であることを教えてくれた。
 あたしは、栞の手を握り足早に帰り道を急いだ。

 あたしたちが家の近くまで来たとき、すでに空は紫色に暮れて、家の向かいの街灯には青白く明かりが灯っていた。家まで後少しのところで、あたしは門の前に人影が動くのを見た。
 あの子達かしら……。
 あたしは少し不安になったが、人影はひとりだけのようだ。門の前を行きつ戻りつウロウロしている。その姿が、街灯の明かりの輪の中に入ったとき、青白く浮かび上がった横顔を見て栞が叫んだ。

「たあくんだ!」

 栞は、嬉しそうにその影に走り寄っていく。
 たあくんは、頭をかきながら栞に何か謝っているようだった。

 あたしは、そんな二人の姿を少し離れたところで見ていた。

「あの子の男を見る目もまんざらじゃないのかもね……」

 あたしはそうつぶやくと、やれやれというように二人のいる方に向かって歩き出した。


 しかし……。
 二人までの距離は縮まらなかった。
 ふと不安を感じて、栞の温もりを失った右手を見る。
 右手は色を失って、消えかかっていた。
 足を見る。
 足が透けて、地面が見えた。
 あたしは、自分が消えかかっていることに気がついた。

「栞!! しおりっ!!」

 叫ぶ声は、音にならない。
 栞の姿が、どんどん遠ざかって行く。栞はそんなあたしにまるっきり気づいてないかのように、無邪気に笑っている。

「栞……どうして……」

 あたしは、透明な風となって宙を舞った……。

 

 

 冬の早朝。
 朝陽は雲を赤く焦がしながら、輝きを増してゆく。
 炎のように紅い陽光を浴びて、雪原は茜色に萌える。
 透明な雪の結晶は、なすすべもなく銀色の粒子となって宙に霧散していった。

 もし、光に音を奏でる力があったなら、冬の夜明けほど劇的な幕開けはないだろう。
 枯れ草に舞い降りた薄霜、土を持ち上げ僅かにのぞく霜柱、橋の欄干に小さく垂れ下がる氷柱、ビルの窓を覆う一面の氷花、置き忘れたバケツに張った薄氷……。
 あらゆるところで生まれたばかりの冬の陽光が、響きあい煌めきを競っていた。
 生物が微睡みに身をゆだね、無機物が世界を支配するとき、そこにあるのは、ただ静寂だった……。


 冬用の厚手のカーテンを通して陽光が部屋へ差し込む。薄紫色に包まれた部屋の中を、光の粒子が自らの煌めく場所を求めてさまよい漂う。冷え切った部屋の空気をかすかに揺らしながら、儚く消えさろうとしたその刹那、それはベッドの上に力無く横たわっていた少女の頬に舞い降りた……。

 気が遠くなりそうな静寂のなか、香里は目を覚ました。
 淡く輝く天井をぼんやりとみつめている。
 再び目をつむる。
 瞳の表面に薄くはっていた涙の膜が、雫となって頬を伝う。
 それは薄闇のなか、銀色の光の筋となって煌めいた。

 夢だったんだ……。
 心の中でつぶやく。
 そして、体をうつぶせにして、柔らかい羽毛の枕に顔を埋める。
 再び訪れる闇の世界。
 もう一度眠りに身を任せたら、あの時に戻れるだろうか……。
 微睡みのなかそんな考えが頭をよぎったが、身体は冷たい空気に敏感に反応し、活動を求めていた。
 トクン……トクン……。
 心臓が身体の各所にぬくもりを運ぶべく活発に動き始める。頭に運ばれた新鮮な血液のおかげで、香里はいつもの冷静さを取り戻しつつあった。

 背中に掛け布団を背負ったまま、両手をついて身を起こす。そのまま正座でベッドに座りこみ、歪んだシーツのしわをしばらくぼぉーっと見つめる。急に頭を持ち上げたせいか、少し目がくらんでいた。
 そして思い出したようにカーテンを開けると、真っ白な冬の陽光が射し込み、部屋を色彩で満たしていった。


 モノトーンのチェックを基調とした、落ち着いた雰囲気の部屋。フローリングの床に敷かれたムートンのカーペットがお気に入りだった。
 香里はそれを見て、ふと笑いがこみ上げる。
 名雪が初めてこの部屋に来たとき、あまりの素っ気なさにおどろいて、女の子らしい部屋にしようと商店街に繰り出した時の話……。

 商店街の家具屋で、名雪はやたら猫の絵柄のついた家具や敷物を勧めてきた。名雪の猫柄波状攻撃をかわしつつ、結局買ったのが大柄のチェックのこのカーペットだった。
 名雪はあからさまに不満な顔をしていた。
 そんな名雪をなだめるため、その帰りに百花屋でイチゴサンデーをおごった。なんとなく納得がいかなかったが、満面の笑みでイチゴサンデーを頬張っているのを見ていたら、それもいいような気がした……。


 香里は、なぜかそんな昔の事を思い返している自分に、まだ頭が朦朧としていることを知る。
 横顔に垂れていた、癖のある大きくウェーブした髪をかきあげる。
 何気なく壁に目をやったとき、壁のコルクボードに張り付けられた、一枚の写真が目に留まった。

「栞……」

 夏の日の木漏れ陽の中で、微笑む色白な少女。写真の中で永遠に変わることのない、儚げな笑顔が香里の胸を締めつけた。
 不意に喉の奥に悲しみがこみ上げる。
 香里は、それを振り払うかのように、俯いて頭を左右に振る。
 さっきの夢のせいで、感傷的になってるんだ……。
 自分にそう言い聞かせて、香里はベッドを降りる。
 足の裏に伝わってくる床の冷たさに、これが現実であることをあらためて知った。

 

 

「おはよう、お母さん」

 いつもの朝の光景。
 ベーコンエッグののった皿とコーヒーのカップがテーブルに並ぶ。
 香里はパジャマのまま、食卓についた。

「あら、香里、今日は早いのね」

 その問いに返事を返すこともなく、コーヒーカップに口を付ける。

「……お父さんは?」

 斜め前の席には、空になった皿と飲みかけのコーヒーカップが置いてあった。

「今日、お仕事で早く出たのよ……香里、トースト1枚でいい?」
「うん……」

 香里は、ぼんやりと返事をして、視線をその隣の何も置かれていない席に移す。
 栞の席だった。
 誰にも座られることなく、役目を果たせない椅子が、すこし寂しそうに見えた。
 栞が、この椅子に最後に座ったのはいつだったろう……。

 ……確か夏の終わり。
 栞はその席に座って、お子さま用のレトルトのカレーをおいしそうに食べていた。ベランダから差し込む夕暮れの光が、そんな栞の姿をオレンジ色に縁取る。

「おいしい?」

 正面の席にいた、香里が訊くと、

「うん!」

 と、子供のような無邪気な笑顔で答えていた……。

 それが香里の記憶にある、この席での栞の最後の姿だった。その次の日から、栞は再び入院してしまった。たった3か月前のことなのに、随分昔のことのように感じられた。
 やたらと見通しの良くなった目の前の空間。
 その先のベランダから見える庭の木々は、すでに葉を落とし本格的な冬の訪れに備えていた。

「はい、香里」

 トーストの香ばしいにおいに、ふと我に返る。

「香里、あなた明日、栞のお見舞い行くでしょう?」
「うん……」

 香里がトーストを口にしながら答える。

「それなら、栞の着替えとお洗濯ものお願いね。お母さん、明日からちょっとお仕事なの」

 テレビに映し出されていたニュースが、天気予報を伝えている。表示されている今朝7時の気温は、軒並み氷点下を示し、予想される最高気温は一桁だった。山の方の予報では、雪を示す雪だるまのマークがちらほら目に付いた。
 それをなんとなく眺めながら、香里は返事をした。

「うん……わかった……」

 そんな香里の様子を見て、母親は何か言いたげだったが、再び「お願いね」とだけ告げてキッチンを後にした。


 香里は朝食を取り終えると、部屋に戻って学校へ行く準備を始めた。鏡の前で、髪を軽くブローし、赤紫色の冬服に袖を通す。最後に、白いケープを羽織って胸の前のリボンでとめる。
 変わった制服だったが、女子の間では人気があった。この制服を着たいがために、あの高校を選んだ子もいたほどだ。


 手早く準備を済ませると、靴をつっかけながら玄関を出た。冷気が待ちかまえていたように、襲いかかってくる。今日の寒さは今月では一番のようだ。
 空を見上げると、分厚い雪雲が空を覆っていた。
 灰色の雲は、山のある西の空から延々と連なっている。
 今日は一日中雪かも知れない……。
 今にも降り出しそうな空を気にしながら、香里は足早に学校へ向かった。

 

 

 いつもの通学路。
 寒さで漂白されたように色を失った道端の雑草に、白く霜が降りていた。数日前に降った雪は、日中の暖かさでほとんど融けていたが、雪解けの水で道のへこみに出来た水たまりが凍って、黒々と輝いていた。
 黒く堅く凍った水たまりほど厄介なものはない。この極端に摩擦係数の小さい鏡のような氷面に、うっかり足をのせようものなら、一瞬ではあるが無重力の世界を経験できるだろう。そして、次にくるのは身体全体に響く衝撃と、局部的に広がる痛みである。

 香里は、凍った水たまりを避けながら先を急ぐ。
 この季節は、まだ住宅の屋根に雪が積もっていないので、落雪を気にすることなく足下に集中して歩けるのが良かった。

 ドスンッ!!

「おぅっっ!」

 突然、後ろの方で派手な音がして、叫び声が聞こえた。
 香里が驚いて振り返る。
 同じ高校の制服を着た男子が、仰向けになって倒れている。よほど強打したのか、腰を押さえたまま、のたうち回っている。
 香里はどうしたものか、しばらく様子を見ていたが、やがて男子は息を整えながら立ち上がった。
 その姿に見覚えがあった。
 同じクラスの北川だった。家の方向が同じなのか、最近登下校時によく顔を合わせていた。
 香里がその場で立ちつくしていると、北川がヨロヨロと歩み寄ってくる。

「……よぉ、美坂……」
「大丈夫…?」

 香里が訊ねると、北川はせき込みながら、大丈夫……と右手を挙げる。

「ドジねぇ……あんな所で転ぶなんて」

 確かにそうだ。
 氷の上に雪がかかって見えなかったのならともかく、今日の道路はむしろ乾燥していた。雪は、風に吹かれて道路の日影の部分に溜まっているだけだった。

「あぁ……油断した」

 北川が涙目で答える。

「まだ、時間があるから急がなくていいわ」

 香里が促すと、北川は腰をさすりながらゆっくり歩き出した。


 二人は並んで、川沿いの通学路を行く。
 市内に流れ込むこの川は、街に入るにつれて川岸がコンクリートに囲まれてしまうが、すこし住宅地に向かえば、まだ自然の川岸がそのまま残っていた。そんな河畔は、天気の良い日には、犬の散歩をしたり、ちょっとした運動をするには最適の場所だった。堤には若い桜の木が植えられていて、春には堤一帯、薄紅色の霞がかかったようになる。だが、今日の川面は折からの曇天を映して、鈍く灰色に揺らめいていた。


 香里は、なんとなく川面に視線を落としつつ、隣を行く北川の話に耳を傾けていた。
 昨日見たテレビの話、学校で流行っている無責任な噂、先生や授業に対する不満……北川は、話に抑揚をつけて、おもしろおかしく語る。
 香里の顔には、自然と笑みがこぼれる。
 学校では、香里はクールなイメージで通っているらしく、男子からは敬遠されがちだが、この北川は席が隣という事もあり、人なつっこく話しかけてくる。いつのまにか香里も北川の前では自然に振る舞うようになっていた。
 しかし、第三者の目があると、どうしても照れくさいのか、少し突き放したような態度をとってしまうことがある。その度に、香里は後から軽い自己嫌悪に陥るのだが、当の北川はそれを知ってか知らずか、まるで気にする風もなかった。


「北川君……」

 突然、香里が立ち止まる。

「……どうした?」

 北川が振り返ると、香里が上目遣いで見上げている。

「…………」

 香里は北川の正面に立つと、つま先立ちになって、北川の首に腕を回した。

「み、美坂……」

 香里の白く整った顔が、北川の目前に迫る。
 シャンプーの甘い香りが漂う。
 北川は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

「美坂……オ、オレ……」
「えり……」
「へ?」
「襟、めくれてるわよ」

 そう言って、香里は北川の学生服の襟をなおしていた。
 気が抜けたように脱力する北川。

「……急いできたの?」

 香里が制服の襟を整えながら訊ねる。

「あぁ……」
「もっと、落ち着いて来たらいいのに……」

 直し終えて、ポンッと最後に襟をたたいて、北川の顔をのぞき込む。
 ばつが悪そうに突っ立っていた北川の顔は僅かに紅潮していた。

「……どうしたの?」

 香里が不審そうに訊ねる。

「……心臓に悪い」

 北川は、かろうじて平常心を保ってそう答えた。

「…………?」

 香里は首をひねっていたが、その時突然聞き覚えのある声が聞こえた。


「かおり〜〜」

 見ると、同じ学校の制服を着た女の子が、前の方で手を振っている。
 名雪だった……。
 二人は顔を見合わせる。
 名雪がこの時間にここにいる。
 それが意味している事はただ一つだった。
 二人は、どちらからともなく駆け出した。
 名雪は、それを見てのんきに胸元で小さく手を振った。
 そして、急速に近づいてくる二人に挨拶をする。

「おはよ……って、あれ?」

 二人はスピードを緩めることなく、名雪の隣を駆け抜けた。

「わ……ちょっと、待ってよ〜」

 名雪が追いかけてくる。

「どうして、走るの〜」
「自分の胸に聞いてくれ」

 北川は、振り返らずにそう答えると、スパートをかけた。


 校門の前で息を切らしてうずくまる北川。
 その後に少し遅れて、香里と名雪が続く。

「なんとか、間に合ったようだな」

 後から来た二人に声をかける。

「えぇ……」

 香里が、息を弾ませて答える。

「ぜんぜん大丈夫だよ〜」

 名雪が、ぷぅ〜っと頬を膨らませて、ほらっというように、腕時計をつきだした。それを香里と北川がのぞき込む。
 時計の針は、チャイムの鳴る10分前をさしていた。

「奇跡だわ」

 香里が言う。

「香里、嫌い」

 名雪が、また膨れる。
 よく見ると周りの生徒達は、始業前の僅かな安らぎの時間を惜しむかのように、のんびりと登校している。そんな中で三人だけが、場違いなように息を弾ませていた。北川が立ち上がって、空を仰いで深呼吸をする。

「まあ、結果オーライということで……」
「そうね」

 北川と香里が何事もなかったように昇降口に向かっていく。

「わ……、ひどいよ〜」

 そんな二人の後を、名雪が不満そうに追った。


 灰色の空にちらほらと白い雪が舞い始める。
 風が吹くと校庭に植えられている木々が、寒さに震えるように、かすかに揺れる。
 それまで、のんびり歩いていた生徒達も、足早に昇降口を目指した。
 やがて3人の姿は登校時の生徒達の雑踏の中に飲み込まれていった……。



第2話へ続きます