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 放課後。
 香里が昇降口に来たとき、あたりは薄暗くなっていた。まだ3時をすぎたばかりだというのに、空を覆う雪雲がただでさえ弱々しい冬の陽光を遮断してしまった。校庭の街灯には、すでに明かりが灯っている。
 雪宿りのつもりで参加した部活だったが、雪が止む気配がないのを知ると、香里はあきらめて部室をあとにした。

「こんなことなら、すぐ帰れば良かった……」

 人影のまばらな薄暗い昇降口で、香里は一人ごちた。


 「開放厳禁」という張り紙がされている、昇降口のガラス戸の取っ手に手を掛ける。
 取っ手から伝わってくる冷たさに、思わず開けるのをためらうが、意を決してガラス戸をスライドさせる。そのとたん、押し寄せてくる外の冷気が香里の身体を包みこむ。染み込んでくるような寒さに身を震わせながらも、外に一歩踏み出す。ガラス戸を後ろ手で閉めながら、香里は粉雪の舞い散る空を見上げた。

 雪雲が息が詰まりそうなほど低く垂れ込めている。
 真っ黒な空から降りてくる真っ白な雪……それが混ざり合ってできる灰色の世界。それを否定するかのように、はぁーっと吐いた息は一瞬だけ視界を白く染めたが、しばらく空中を漂うと、灰色の雲に吸収されるように消えていった。終業直後に生徒達が校庭に無数につけた足跡は、今となっては降り積もった雪の下にうっすらと見えるのみだった。


 香里はガラス戸に寄りかかって、そんな景色をじっと見つめていた。
 あたりに人影はない。
 降り積もった雪が音すらも吸収する無音の世界。
 いや……耳を澄ませば聞こえてくる。
 雪の降り積もる音が、しんしんと……。

 突然、静寂を破って、黄色い歓声がこだまする。
 校門の前を、近くの幼稚園の園児達が4、5人、息を白く弾ませてじゃれあいながら通り過ぎていく。
 その中の一人と目が合う。赤い色のプラスチック製のそりをひいていたその子は、雪の中何をするでもなくガラス戸に寄りかかっている香里を見ても、別段気にする様子もないようだった。
 あたしも、あのくらいの時は、雪に埋もれるのが好きだったっけ……。
 香里は、ふと視線を正面の雪のスクリーンに移す。
 何かを思いだそうとしていた。
 遠い昔、白く霞んだ記憶の向こうに……。

 

 

「おねえちゃん」

 あたしの横を歩いていたはずの、栞が声を掛ける。

「なに?」

 あたしは、斜め後ろから聞こえてきたその声に振り返ることもなく答える。
 今日は朝から雪だった。
 しかもぼた雪だ。水分を含んで巨大化した雪の結晶が、我先にともつれるように、どかどかと地面に降り注ぐ。
 あたしは容赦なく顔に飛び込んでくる雪の塊に、苛立ちを感じながら、目を細めて帰りの道を急いでいた。同じ幼稚園に通う栞も今日は一緒だった。

「あしがつめたいよ」

 泣きそうな声で、栞が訴える。
 立ち止まって見ると、積もった雪はすでに栞の膝の上に達し、長靴の隙間から雪の塊が中に入り込んでいた。
 あたしは、栞に肩を貸して長靴の中の雪を出させると、手で引いていたプラスチック製のそりに栞をのせた。家まであとすこし、坂道もないから栞一人を引っ張っていくのは楽だった。
 降り続く雪の中、栞をのせてそりを引く。栞もそりに足を投げ出して座りながら、両手で雪をこいでいる。吐く息は白かったが、完全防寒のスノーウェアの中では汗をかいていた。


 ほどなくして、家につく。

「ただいま」

 雪だらけになって、玄関に佇むあたし達を見て、お母さんがバスタオルを持って出迎える。

「おかえりなさい」

 お母さんはそう言って、雪でぐちょぐちょになった毛糸の帽子を脱がせると、バスタオルであたしと栞の顔を拭う。そのお母さんの顔は、とても楽しそうだった。
 あたし達は、玄関でスノーウェアを脱ぎ捨てると、そのまま居間のコタツにもぐりこんだ……。


「おねえちゃん……これだけ、雪降ったらかまくら作れるね」

 栞が、コタツの中で足をぱたぱたさせながら言った。

「雪やんだら、作ろうね」
「そうね、たくさんつもったらね……」

 少し疲れていた。
 あたしはコタツの心地よい温もりのなか、うとうとと眠りに落ちた……。


「おねえちゃん……おねえちゃん……」

 栞が、あたしの身体を揺する。

「おねえちゃん……雪、やんでるよ……」

 栞の声に促されて、あたしは身をよじってコタツを出る。
 ベランダから外を見ると、さっきまで空を覆っていた雪雲が嘘のように消え去って、代わりに突き抜けるように青く澄んだ空が広がっていた。


 あたし達は、再びスノーウェアに身を包み庭へ出た。
 重く湿った雪が、足にまとわりつく。庭の木々も、こんもりと雪帽子をかぶっていた。栞が裏の物置からプラスチックのスコップをズリズリと引っ張ってくる。
 あたしは、庭を見回す。
 それほど大きくもない庭では、すべての雪をかき集めても、かまくらを作れるほどの量にはならなそうだった。
 あたしは、栞に言った。

「栞、空き地に行ってみようか」

 栞が、ほぇ?っと、あたしを見上げて
「うん」
 と、元気よく頷く。


 あたしは栞の手を引いて、雪道についた車の轍をたよりに、空き地へ向かった。
 空き地に着くと思った通り、除雪された雪で大きな雪山が出来ていた。栞は自分の背丈の何倍もある、雪山を見て嬉しそうだった。

 早速、雪山を掘り始める。
 あたし達は、白い息を弾ませ、寒さで鼻や耳を赤くしながら、一生懸命雪をかきだしていった。しばらくすると、なんとか二人が入れるくらいの空間が出来た。


 あたし達は、窮屈な雪穴の中で身体を寄せ逢って、膝を抱えて座った。
 雪が外の音を吸収して、中はとても静かだ。陽光を通して雪の壁がやわらかく輝く。動くとスノーウェアのエステルの生地が擦れあう音がする。それは、狭い空間のなかで、ざわざわと大袈裟に聞こえた。


「おねえちゃん……」

 膝を抱えて、外を見ていた栞が言う。

「なに?」
「かまくらのなかでは、おもちたべるんだよね……」

 そういえば、以前見たテレビの番組で、まん丸なかまくらの中で餅を焼いて食べている場面があった。多分栞は、そのことを言っているのだろう。

「おもちたべたいな……」

 栞がつぶやく。
 確かに、このまま雪穴の中でじっとしているのも面白くない。
 あたしは、雪穴を出ると中にいる栞をのぞき込んだ。

「ちょっと、まっててね」

 そう声をかけて、家まで駆け戻った。


 家に帰ったあたしは、冷蔵庫の中を探した。加工された切り餅はあったが、火を通さなければ堅くてとても食べられない。
 なにか手を加えなくても、食べられるもの……。
 あたしは、背丈の倍ほどもある冷蔵庫をガサゴソとひっかきまわす。
 そして、冷蔵庫の端っこに忘れられたように、それはあった……。


 あたしはそれを手にして急いで、空き地に駆け戻る。

「栞っ!」

「あ、おねえちゃん……」

 栞は、あたしが出ていったときのまま膝を抱えて座っていた。
 ほらっと、あたしは冷蔵庫の隅で見つけてきたものを差し出す。


 それは、涼しげな青いカップに入ったアイスクリームだった……。
 きっと夏場に大量に買い込んだうちの一つが、冷蔵庫の隅に転がり落ちてそのままになっていたのだろう。

「わぁ……」

 それを見て栞は驚く。
 まさか真冬にアイスクリームを食べれるとは思ってもいなかったのだろう。
 あたしは、再び雪穴に潜り込んで栞の隣に座ると、アイスクリームのカップのふたを、もったいつけるように開けた。隣で栞が、口をぽかんと開けてその様子を食い入るように見ている。

「ジャン!」

 効果音をつけて、ふたを取る。
 それに続く、栞の歓声。
 雪の白さに目が慣れていたせいか、夏には眩しいくらいだったバニラアイスの白さも、今では黄色っぽく感じられた。しかし、かえってそれがバニラの甘さを思い起こさせて、あたし達は思わずのどを鳴らした。


 木のへらで、まるいアイスクリームの表面に薄く線を引く。

「はんぶんこね」

 そう言ってあたしは、栞にもう一つの木のへらを渡した。
 栞は堅く凍ったアイスクリームをすくうのに苦労していたが、やがて削るようにそれを木のへらにすくうと、小さな口に運んだ。

「つめたい……」

 そう言って、はぁーっと白い息を吐く。

「でも、おいしいね」

 栞は、嬉しそうにアイスクリームを立て続けに口に入れた。あまりに急いで口にしたため、気管が冷たさに驚いて突然せき込む。

「ほら……、いそがなくていいのよ」

 あたしは、そんな栞の背中をさすりながら、ある夏の日の事を思い出していた……。



 その日は、とても暑い夏の日だった。
 あたし達はお気に入りのお揃いのワンピースを着ていた。栞はピンク、あたしは水色だった。
 あたしと栞は、最近の暑さに備えてお母さんが冷蔵庫に買いだめしていたカップのアイスクリームを取り出して、キッチンのテーブルで食べていた。
 栞はアイスクリームを一口食べる度に、その余韻を楽しむかのように、木のへらを口にして、ニッコリしている。

 しかし、夏の暑さのせいでアイスクリームはどんどん融けてしまい、ついには薄黄色のただのクリームになってしまった。栞はまだ半分も食べていなかった。クリームになってしまったアイスを木のへらでくるくるとかき混ぜている。たまに木のへらですくってみるが、それは雫となって滑り落ちるだけだ。
 栞はそれを悲しそうに見ていた。

「もう……はやく食べないからよ」

 あたしが、そう言うと
「だって……」
 と、栞は何か言いたげな様子で、再びクリームをかき混ぜ始める。

 わかっていた……。
 栞の大好きなアイスクリーム。
 それを食べている間は、幸せな時間が続く……。
 しかし食べ終わったとき、それは終わる。
 ちっぽけな事だが、幼心には、この上ない貴重な時間だった。
 だから栞はいつもゆっくりとアイスクリームを食べていた。
 幸せな時間が長続きするように……。
 あたしは、アイスクリームを食べ終わって、カップの底を寂しそうに見つめる栞をいつも見る度に、この子をもっと幸せにしてあげたいと思った……。



 せき込んでいた栞が、涙目であたしを見上げる。

「ほら、ゆっくりたべよ……ね……」

 あたしがそういうと、栞は、ウンウンと首を振って答えた。
 冬の寒さのせいで、融けることのないアイスクリーム。
 幸せな時間が、ゆっくりと流れた……。

 しかし、どんな幸せにも必ず終わりは来る。
 カップに残ったちょっと大きめの最後の一口をあたしは、木のへらにすくう。そして栞の小さな口に運ぶ。栞はちょっとためらったが、大きく口を開けると、かぷっと木のへらを口にした。そして、なにやらもごもごしている……。

 あたしが、木のへらを栞の口から取り出すと、そこにはアイスクリームのかけらが半分のっていた。

「あぁー、栞! ぜんぶ食べちゃいなさいよぅ」

 あたしがそう言うと、栞は口をもごもごさせながら言う。

「……だって、おねえちゃんの……」

 あたしは、ちょっと呆れていたが、栞がじぃーっと見つめているので、仕方なくそれを口にした。
 すると、栞はとても嬉しそうに笑った。

「……おいしかったね」

 あたしが言うと

「うん!」
 と、栞は満面の笑みで頷いた。
 あたしは、栞を少しでも幸せに出来たことが嬉しかった……。

 

 

 風が吹いた。
 気がつくと、雪がやんでいた。目の前には、まるで上映の終わった映画のスクリーンのような灰色の世界が広がっている。
 雲の切れ間から、光の筋が一本二本と降りてくる。やがてそれは光の束となり街の雪景色を金色に染める。灰色の雪雲は青い空とまだらに溶け合って、東の空へ流れていった。

 サクッ……。
 香里は風に流される長い髪を軽く押さえながら、一面金色に輝く雪の絨毯にゆっくりと一歩を踏み出した……。



 香里が商店街着いたとき、あたりはすっかり暗くなり、街灯が空を青く照らしていた。
 行きなれた街の書店。香里は、栞に頼まれていたスケッチブックを買うために、ここに来た。店内にはいると仕事帰りのサラリーマンの姿がほとんどだったが、見慣れた制服の学生の姿もちらほらと見受けられた。

 客の靴に着いてきたのだろう。通路には雪がシャーベット状になって融けている。店員は忙しそうにモップを持ってきて床を拭いている。香里はそんな店員の横をすり抜けて、文房具のコーナーへ向かった。


 香里はそこでB4のスケッチブックを一冊手にすると、レジへと向かった。

「よぉ、美坂」

 不意に後ろから声を掛けられ、驚いて振り返る。
 そこには北川がちょっと驚いた顔をして立っていた。

「びっくりした」

 北川が言う。

「それは、あたしのせりふよ……」

 香里が胸の前でスケッチブックを抱いて、ほぅとため息をつく。

「万引きでもしようとしてたのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」

 香里は、店員の方を気にしながら言った。

「北川君の方こそ、こんなところで何やってるの」
「オレか? オレはな……」

 北川が言い出し難そうにしていると、香里が北川の立っている横の本棚を見て呆れたような顔をしているのに気がついた。北川がそれを見て視線を横に移す。
 そこは、アダルト誌のコーナーだった……。

「答えなくていいわ……」

 香里は北川を一瞥すると、くるりと身を翻す。

「まて! 美坂、これは違うぞ」

 北川はそのまま立ち去ろうとする香里の後を追った。


「いや、たまたま声をかけたのが、あの場所でだな……」

 北川が必死に弁解する。
 学校で男子連中が、その手の本を読んでいるのは、別に珍しくもない。その輪の中にたまに北川がいるのも、香里は知っていた。それなのに、今更必死に弁解をしている北川を香里は不思議に思った。

「別にいいじゃない、それなりに健全で……」

 香里は振り向いて北川に言った。

「…………」

 北川は、ばつが悪そうに頭をかいて突っ立っている。
 香里が振り返って、再び歩き出そうとしたとき、北川が言った。

「美坂には……誤解してほしくないからさ……」

 言って、照れくさそうに横を向く。


 香里は、どうして……と言いかけたが、ふと北川の手にしていた本が目に留まった。

「童話……?」

 香里がぽつりと呟く。

「あ? あぁ……」

 北川が本に目をやりながら答えた。

「おかしいか……」
「うぅん、別に……ただちょっと意外ね」
「似合わない?」
「そうね」

 そう言って、香里は微笑む。
 それを見て北川は安心したのか、今度は落ち着いて話し始めた。

「オレ、好きなんだよ。こういう話が……」
「どうして?」

 香里が訊ねる。

「なんか、いいだろ。こう……夢があってさ。それに童話っていうのはな……」

 北川は童話について熱く語り始める。


 香里はいつのまにか、そんな北川の子供のような瞳に見入っていた。
 不意に胸のあたりになにか、暖かいものがこみ上げてくるのを香里は感じた。

「……だろ?」

 突然北川が香里に同意を求める。
 香里は、はっと我に返って答えた。

「……でも、童話みたいな奇跡が、そうそう起こるかしら」
「起こるさ」
「たとえば?」

 香里が、悪戯っぽく北川の顔をのぞき込む。

「たとえば……」

 北川は上目遣いのその瞳に、ドキッとして返答につまる。

「たとえば、無事に北川君が進級できるか……とか」

 訊いた香里が先に答える。

「どういう意味だよ」

 気が抜けたように北川が言う。

「言葉通りよ」

 ふふっと笑うと、香里はくるりと振り返ってレジへ向かって歩いていく。
 北川は、ため息をつくと頭をかきながら、その後に続いた。


 「ありがとうございました」
 レジを後にして、書店の自動ドアの前に並んで立つ。
 自動ドアのガラスに二人の姿が映る。そこに映る北川の姿は香里よりも頭一つ分高く、思ったよりも肩幅が広い。
 香里はそれを見て、ふと不思議な感覚にとらわれた。
 なにか包みこまれるような安心感……。
 だが、自動ドアが開いた次の瞬間、それは外に広がる漆黒の闇に飲み込まれていってしまった。


 外に出る。

「ぐぁ、寒い」

 思わず北川が言う。
 風はなかった。
 夜空には眩しい冬の星がしきりに瞬いている。

「明日は寒くなりそうね……」

 香里が空を見て呟く。
 放射冷却。
 北国では、晴れるよりも雪が降った方が暖かいことがある。空一面に展開する雪雲が地表の熱が逃げるのを防ぐ、ふたの役目をするからだ。今夜のように雲一つない空の場合、地表の熱は容易に空気中に拡散してしまう。結果、翌朝は厳しく冷え込むことになる。


「それじゃ、オレこっちだから……」

 北川は背を丸め、ポケットに手を突っ込んで、香里と反対方向に歩き出す。

「北川君……?」

 香里が北川を呼び止める。

「…………?」

 2、3歩、歩いたところで、北川が振り返る。
 香里は何か言いかけたが、そのまま胸元で小さく手を振った。

「さようなら……」
「あぁ、それじゃあな……」

 北川はそのまま商店街の向こうへ消えていった。
 香里はしばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて振り向いて歩き出した。


第3話へ続きます