4

 小春日和。
 ……というには、少し季節はずれかもしれない。
 しかし、今日はそんな春を思わせるような陽気だった。

 香里はいつもの川沿いの通学路を歩いていた。
 昨日まで道端の日影に残っていた雪山も、暖かさのせいか随分小さくなっていた。軒先に小さく垂れ下がっていたつららから、透明な雫が朝日を浴びて滴り落ちる。雫は下に出来た水たまりを揺らすたび、独特の澄んだ音色を響かせた。陽が高くなるにつれ雫の落ちる間隔は狭まり、やがてさわやかなリズムを刻み出す。


「よぉ、美坂」

 声をかけられて、香里は振り返る。
 綺麗なウェーブのかかった栗色の髪が宙を流れ、朝日を浴びてオレンジ色に輝いた。フランス人形を思わせる色白の肌にほんのりと紅がさしている。
 そして、桜の花びらのように薄く潤いに満ちた唇が、囁くように小さく動く。

「あ……おはよう、北川君」

 透明感のある心地よい響き。

「あ、あぁ……」

 北川は向けられた、香里の笑顔にドキリとする。
 思わず立ち止まって香里を見つめる。吸い込まれるような澄んだ黒い瞳が、朝陽を映してキラキラ輝いている。
 北川は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

 綺麗だ……。

 ありふれた表現が、一番ぴったりあてはまる。


「…………?」

 言葉を失って佇む北川を見て、香里が首を傾げる。

「……行きましょう」

 そう微笑んで、香里は歩き始めた。
 北川は我に返って後を追う。
 さっきまで香里がいた場所を通りすぎたとき、北川は何か甘く懐かしい春を思わせる香りを感じた気がした。


 北川は香里の半歩後ろを歩く。
 そして目の前で揺れる白いケープを見ながら、香里に初めてあった春の日の事を思い出していた……。

 

 

 ガタガタ……。
 教室に響く椅子を引く音。
 一点に集中する視線。

「……1年B組からきた、斉藤です。よろしく……」

 それに続く聞き慣れない声。
 パチパチ……。
 まばらに響く拍手の音……。
 そして訪れる不思議な静寂。
 組替えの初日のこと。
 2年生初めの授業は自己紹介を兼ねたホームルームだった。
 みんながお互いの距離を測りかねて、独特の緊張感が漂う。
 この時間はそれぞれが自己の存在を主張する貴重な時間だ、少なくとも北川はそう考えていた。


 ありふれた、普通の挨拶が続く。
 思わずあくびがでる。
 それでも北川は顔くらいは覚えようと涙目をこすりながら、自己紹介の主を見る。
 しかし……。
 となりの席の女生徒。
 彼女は、さっきからまるで関心がないように頬杖をついて、ただ自分の机だけを見つめていた。
 美坂……香里、たしかそう名乗った。
 ありふれた、普通の挨拶……。
 いや……、まるで自分のことは放っておいてほしい……そんな冷たい感じがする簡単な挨拶だった。


 暗いやつなのかな……。
 北川はそんなことを考えながら、香里の横顔をなんとなく横目で見ていた。

「次……」

 担任の声が、教室に響く。

「次、どうした……北川」

 北川が呼ばれて我に返る。
 自己紹介する前に、担任から名前を公表されてしまった。北川は一番おいしいところをさらわれて、担任を恨めしく見つめた。

 ガタン……。

 わざと大きめの音を立てて、椅子をひいて立ち上がる。
 チラッと横目で香里を見たが、まるで反応がない。
 相変わらず机に視線を落としている。北川は少し意地になって、腹に力を込めて声を出した。

「オレは1年C組からきた、北川潤。るんるんと呼んでくれ。ただし可愛い女の子限定だ……」

 ネタもとを知っている、一部にはうけたようだ。
 ドッと笑いが沸き起こる。


 北川は、まあこんなもんだろうと内心少し満足して、席に着くと
「よろしくな」
 と、隣の席の香里に声をかける。
 すると香里は頬杖をついたまま、チラッと横目で北川を見て言った。

「誰?」

 思わず音を立てて崩れ落ちる北川。
 教室の視線が集中する。
 それから、何事もなかったように北川は椅子にかけ直すと、香里に言った。

「るんるんだ……」

「…………」

 言われて香里は、不審そうな顔を北川に向けた。
 そのとき、はじめて北川は香里の顔を正面から見た。
 思わず動きが止まる。
 綺麗だ……。
 素直にそう思った。


 それから北川は、積極的に香里に話しかけた。
 香里の笑顔が見たかった。
 笑ったら、きっともっと綺麗になる。
 北川はそう信じていた。
 かと言って、香里が日常まったく笑わなかったわけではない。
 見ててわかったことだが、別に感情が乏しいわけではなく、むしろ喜怒哀楽がはっきりしていた。女の子のうちでも割とうけは良いほうだ。面倒見がよいらしく、人気もある。リーダーシップもあり成績も良く、一見完璧に見えた。

 しかし……と、北川は思う。
 それなら、あの笑顔に感じる違和感はなんなのだろう。
 どこか陰りのある笑い……。
 それが、ずっと北川の胸に引っかかっていた。



 ところが、今日、北川に向けられた、あの香里の笑顔……。
 あの笑顔には、今まで感じていた違和感を一気に吹き飛ばす、何かがあった。
 北川にとっては嬉しいはずだった。
 しかし、なにか釈然としなかった。
 一体、香里に何があったのだろう……。
 あの笑顔が今までの自分の努力の結果なら、喜んで受け入れられる。
 だが、先日までの様子を見ていて、とてもそうは感じられなかった。
 北川の脳裏をふと、不安がよぎった……。

 

 

「北川君……」

 香里が声をかける。
 しかし、返事がない。

「北川君?」

 立ち止まって振り返る。
 ……と、次の瞬間。

 ドンッ!

 俯いて歩いていた北川が、香里の背中にぶつかる。

「キャッ!」

 香里が小さく叫ぶ。
 それを聞いて、北川が我に返った。

「あ! ごめんっ……大丈夫か」

「えぇ……」

 そう言うと香里は心配そうに、北川をのぞき込んだ。

「どうかしたの……?」

「あ、いや、なんでもない」

 北川はその視線から逃れるように、川を見遣った。
 香里は、そんな北川をちょっと心配そうに見ていたが、北川につられて川に目を移す。


 川面は冬の弱々しい、だが暖かい陽光を映してやわらかく輝いていた。反射した水明かりが川岸の木々をゆらゆらと照らす。

 風が吹く。
 川面が揺れ、河原の枯れ草が一斉に波打つ。
 それは堤の上にいた二人に届き、その髪を揺らした。
 北川が視線を香里に戻す。
 香里が顔の横に垂れてきた髪を、細い指で後ろに流すと、一瞬白く細い首筋がのぞいた。
 それを見て、北川は思わず息をのむ。
 再び高まる鼓動。
 心臓に悪い……。
 北川が心の中で呟く。
 すっかり言葉少なになった北川に香里が話しかける。


「北川君は春、好きかしら……?」
「は?」

 突然の問いに、北川は返答に詰まる。
 しかし、香里の方はまるで気にする風もなく、独り言のように呟いた。

「あたしは、好きよ……」

 そう言った香里の瞳は、ここではないどこか遠くを見つめていた。

「春になったら……」

 香里は心の中で続ける。
 春になったら……栞とこの通学路を一緒に歩ける……。
 薄紅色の風の中、他愛ない日常の会話に花を咲かせながら、笑い声は絶えることなく、どこまでも歩いていける。
 香里の瞳にはそんな春の日の二人の姿が映っていた。
 北川はその香里の横顔をしばらく見つめていた。

「行こうか……」

 北川が言うと、二人は並んで歩き出した。

 

 

 住宅街から市街地に差し掛かった頃、どこか遠くからクリスマスソングが聞こえてきた。
 クリスマス・イヴはもうあさってだった。


 香里は歩きながら先日の名雪とのやりとりを思い出していた……。



「ねぇ、香里……」

 昼休みの食堂。
 名雪がテーブルに視線を落として、ぽつりと呟く。
 その視線の先には、イチゴムースがあった。しかしそれは、香里のトレイにのっているイチゴムースだった。名雪のそれはすでに空になっている……。


 その日、香里は名雪に誘われて食堂に来ていた。
 名雪が教室では話しにくいことがあると言うからだ。
 女の子同士で盛り上がる話と言えば大体相場は決まっている。現に耳を澄ませば、女生徒がたむろしているテーブルからは、恋愛話がとぎれとぎれ聞こえてきた。
 香里も今までずっと部活一辺倒だった名雪が、深刻な顔で相談があるというから、そんなところだろうと思っていた。そして、少しでも話題に入りやすいよう、名雪と同じAランチを頼んだ。


 じぃーっとイチゴムースを見つめている名雪を見て、香里がハイハイというように、トレイから取り出すと、それを名雪の前に置いた。突然イチゴムースが目の前に置かれて、名雪が驚く。

「わ……、なに?」
「何って……、食べたかったんでしょ? イチゴムース」
「違うよ〜」

 名雪が苦笑する。
 しかしその手は、しっかりイチゴムースの入れ物を握りしめていた。

「じゃあ、どうしたの?」

 香里が訊く。

「あのね、香里、最近北川君と一緒に登校してるよね」
「えぇ、そういえば最近、よく会うわね」
「うん……」

 名雪が俯く。
 それを見て香里が、思いついたように言う。

「名雪……、あなた……まさか北川君のこと……」

 その言葉を遮るように、名雪が言う。

「香里は北川君のことどう思ってるの」

 名雪は顔を上げて香里を見つめた。
 いつになく真剣なまなざしに、香里は一瞬ひるむ。

「あ、あたしは、別になんとも思ってないわ」

 香里は自分が動揺していることに気づく。

「名雪、あなたこそ、北川君のこと好きなの」

 思わぬ問いで、話が一足飛びに、核心に迫ってしまった。
 動揺している証拠だ。
 香里は自分自身に驚いた。
 しかし、名雪はのんびりした口調で言う。

「違うよ〜、わたしも北川君のこと、なんとも思ってないよ」

 いきなり話が噛み合わない。
 それでは、さっきの問いは何だったのか。

「どういうこと……?」

 香里が不審そうに訊ねる。

「えっとね、どうして北川君が香里と一緒に登校するかっていう話だよ」
「どうしてって……、家のある方向が同じだからでしょ」

 香里が当然じゃないと、言うように答える。
 しかし名雪の反応は違った。

「それがね、北川君の家って駅の向こうらしいんだよ……」

 駅の向こう……。
 香里の家とは商店街を挟んで反対側だ。
 なおも名雪が続ける。

「不思議だよね、香里の家まで来たらすごく遠回りになっちゃうよ……」

 そこまで言うと、名雪はなにかを探るように、じぃーっと香里の目を見つめた。それを聞いた香里は、ぼんやりと前に置かれたトレイを見つめていた。


 どういうことだろう……。
 毎朝、遠回りして学校に来るなんて……。
 やがて香里の思考がひとつの可能性に辿り着く。
 とても単純明快な答え。
 ふと、名雪の視線に気づいて、目が合う。
 すると、名雪はウンウンと頷いて、思わせぶりな笑みを浮かべながら、カプッとイチゴムースを口にした。
 どうやら、ミイラ取りがミイラになってしまったようだった……。



 香里は正直、北川のことが気になっていた。
 しかしそれはあくまで、学校の中での友達で、いままで誘ってくれたこともない。だから、それ以上関係が発展することはなかった……。


 香里は、隣を歩く北川をチラッと見上げた。
 その表情からは、なにを考えているのか、まるで読みとれない。
 いつになく無口な北川が、香里は少しもどかしかった。

 

 

 一方、北川は今回のこのクリスマスに賭けていた。
 美坂を誘う、そして……。
 北川の頭の中で、なぜか走馬燈のように漢の浪漫が駆けめぐる。

 暴走し始める想像にストップをかけるように、頭をぶんぶんと振った。隣を歩いていた、香里がその勢いに驚いてのぞき込む。

「大丈夫?」
「あ、ああ……、大丈夫、大丈夫」

 何が大丈夫なのかはわからないが、北川はとりあえず笑ってそう答えた。
 そして、言う。

「なあ、美坂……」
「ん? なに?」
「今度のクリスマス、暇かな……」

 香里は内心驚いたが、表情に出すことはなかった。
 誘ってくれてる……?
 トクン……トクン……。
 香里は鼓動が速まるのを感じた。

 でも……。
 クリスマスには栞が退院してくる。
 香里はなるべく栞と一緒にいてあげたいと思っていた。


「ごめんなさい……」

 香里が俯いて呟く。
 北川はいきなり出鼻をくじかれ、崩れかけたが気を取り直して続けた。

「いや、クリスマスっていっても25日じゃないぞ、イヴだ、イヴ」

 24日……栞の退院してくる日だった。
 なおさらだめだ。

「ごめんなさい……」

 香里は、さっきより小さい声で呟いた。
 その声には、はっきりと否定の意志がこめられていた。


 あぁ……。
 北川は、思わず天を仰ぐ。
 もう少し押してみようとも思ったが、香里がそんな駆け引きができるような性格でないことを考えると、何か訳があるような気がして、ためらわれた。

 ふと思い出す、さっきの香里の笑顔……。
 やはり……。
 最悪の想像が北川の脳裏をよぎる。
 しかし、隣で申し訳なさそうに小さくなっている香里の姿を見ると、その想像もなぜか現実味がなかった。

「いや……」

 いいよ……と、言いかけて、北川は最後の可能性に賭けてみようと思った。

「……明日は、だめかな?」

 23日……、天皇誕生日。ある意味めでたいが、特別な日というにはインパクトが弱い。しかしこのとき北川は、そんなことよりも二人の時間を過ごすことに意味を感じていた……というか、自分を納得させた……。
 とりあえず、このまま終わりたくはなかった。
 目を閉じて、香里の返事を待つ……。



 香里は考える。
 明日なら大丈夫かも知れない。
 両親もいることだし、退院の準備も問題はないだろう。
 栞のクリスマスプレゼントも選びたかった……。
 それに……。

「……いいわ」
「へ?」

 香里の返事を聞いて、北川が間抜けな声を出す。
 それを聞いた香里がぷっと吹き出して、北川を見上げる。

「いいわ、明日なら暇よ」

 そう言う香里の笑顔を見て、北川はまだポカンとしていたが、香里はくるりと身を翻すと手を後ろで組んで歩き出した。



 北川がその後を追おうと一歩踏み出したとき、後ろから名雪の声がした。

「かおり〜」

 名雪が走って追いかけてくる。
 それを見て、二人は思わず腕時計を確認した。最近この行為は、ほとんど反射になっている。しかし始業には大分、余裕があった。
 白い息を切らして二人に追い付いた名雪の顔を、香里と北川は意外そうに見つめる。

「おはよう、香里、北川君」
「どうしたの……名雪」

 挨拶の代わりに、香里が訊ねる。

「どうしたのって……学校に行くんだよ」

 名雪は困ったように真顔で答える。


 そして、何かにふと気がついたように、香里と北川の顔を交互に見遣った。名雪は前屈みになって下からのぞき込むように、香里の顔をじぃーっと見つめる……。

「な、なに……」

 香里がそんな名雪の真剣な顔を見下ろして、しどろに訊ねた。
 すると、名雪は突然にっこり微笑んで、香里に言った。

「香里、今日機嫌がいいね」
「…………!」

 香里の頬が赤らんでいく。
 さらに名雪は、横目で北川の顔をチラッと見て言った。

「香里、なにかいいことあったのかな?」

「なっ……」

 一瞬、香里が言葉に詰まる。

「なっ、何にもないわ!」


 そう言うと香里は、ひとりですたすた歩き出した。
 名雪と北川が顔を見合わせる。

「早くしないと、また遅刻するわよ」

 しばらく歩いたところで、香里が肩越しに二人を見て言った。
 名雪と北川は並んで歩き出した。



 10歩ほど先を行く香里の後ろ姿を、北川は複雑な表情で見ていた。
 隣を歩く名雪はなぜか、嬉しそうだ。
 北川がぽつりと呟く。

「なあ、水瀬……」
「ん? なに北川君」

 名雪が北川を見上げる。

「……美坂って、誰かその……つきあってるヤツとかいるのかな……」

 今朝香里の笑顔を見てから、ずっと気になっていたことを、北川は口にしてみる。
 名雪なら、なにかを知っているだろう。
 北川はそう思った。


 しかし、それを聞いた名雪の表情は複雑だった。
 名雪は前を行く香里の背中を見つめて答える。

「……いないと思うよ」

 北川は思わず胸をなで下ろす。
 そして、何かを言いかけたが、続く名雪の言葉がそれを遮った。

「香里はね……不器用なの……、照れ屋で、寂しがり屋で……」

 北川が隣を歩く名雪の横顔を見遣る。香里の後ろ姿を見るその横顔には、何か慈しむような感じがあった。
 そして思う。
 自分の知らない香里を名雪は、いくつ知っているのだろう。
 そして自分は一体、香里の何を知っているのだろう……。


「それにね……香里は泣かないんだよ」

 突然の名雪の言葉に北川が首を傾げる。

「泣かない…?」
「うん……その代わりに笑うの」

 そう言った名雪の瞳は少し寂しげだった。

「どんなに悲しいことがあっても笑うの。それでね、みんなそんな香里を見て安心するの……」
「どうして……」

 名雪は首を振る。

「……わからないけど、昔っからそうなんだよ」

 名雪は、初めての陸上競技大会の日の事を思い出していた……。

 

 

 夏の日射しが照りつける陸上競技場のスタンド。
 そのむき出しのコンクリートが陽に照らされて白く輝いている。
 名雪は観客席のオレンジ色のベンチに座って、膝に載せたスポーツバックを抱え込んで、それに顔を埋めていた。
 その肩が細かく震えている。
 スポーツバックの青い生地が、涙に濡れて黒く染まっていく……。
 誰もいなくなったスタンドを、乾いた風が吹き抜けた。

 パタパタ……。

 隣に立っていた香里の制服の白いブラウスが風にはためく。
 香里は、何を言うでもなく人気のなくなった競技場を見つめていた。



 名雪の初めての大会出場……。

 名雪が陸上部に入ったというのを聞いて、一番驚いたのは香里かも知れない。
 香里は正直なところ、のんびり屋の名雪に陸上なんて無理だと思っていた。
 香里が入部の理由を訊くと、名雪は
「……もっと、しっかりしなくちゃ……って、思ったからだよ」
 と、寂しそうに笑って答えた。
 香里が納得いかないような顔をしているのを見て、名雪は続けた。

「昔ね、好きだった人がいたの……。でもね、わたし、そのひとが悲しんでいるのを見ても、何もしてあげられなかった」

 名雪の瞳が遠くを見つめる。

「わたしには、待つことしかできなかった……」

 そして、結局あの人は来なかった……。
 きっとそれは自分が頼りなかったから……。
 名雪はあの日からずっと待っていた。

「……わたし気づいたんだよ。ただ待っているだけじゃだめなんだって、あの人がこの街にまた帰ってきたときに、あの人の支えになれるように、もっとしっかりしなくちゃって……」

 名雪の言葉が詰まる。
 そして、喉にこみ上げてきた何かを無理矢理飲み込むようにして、香里を振り返る。

「だから、自分を変えようと思ったんだよ」

 そう言った名雪の顔は笑顔だった。



 名雪はそれから毎日練習に打ち込んだ。
 家に帰っては、ただ食事をして寝るだけの、まさに部活一辺倒の日々が続く。
 学校のグランドを暗くなるまで、名雪は走り続けた。
 そんな名雪の姿を香里はいつも遠くから見ていた。
 そしてこの日、名雪は初めて競技場のトラックに立った……。


 結果は……。
 言うまでもない。
 名雪がゴールに着いたとき、その後ろにあったのは静寂だけだった。
 ゴールして倒れ込む名雪を、駆け寄って先輩達が抱き留める。
 香里のいたスタンドからは、遠く離れてその表情までは察しきれない。
 しかし……。
 香里にはわかっていた。
 そして今、ここにいた……。


 青い空を、真綿のような雲が夏の強い日射しに白く輝いて、ゆっくりと流れていく。
 香里は手をかざして、遠くに見える蜃気楼のような街並みを眺める。
 その影は競技場から立ち上る陽炎で、ゆらゆらと揺れていた。


「こんなんじゃ、また嫌われちゃうよ……」

 頭にかぶっていたスポーツタオルの下から、名雪の震える声がした。
 見るとタオルに印刷されていた子猫の顔が風に吹かれて歪んでいた。

「わたし、結局なにも変えられないよ……」

 香里は、ゆっくり名雪の隣に腰を下ろす。

「でも、頑張ったじゃない……」

 香里がそっと囁く。

「うぐ……」

 タオルの下から名雪の嗚咽が漏れる。


 風が吹く。

パサ……。

 乾いた音がして、名雪の頭からタオルが落ちる。
 そこから見えた名雪の横顔は、涙に濡れてぐしょぐしょだった。

「ね……」

 香里は微笑んで、その横顔をのぞき込んだ。
 名雪は涙で真っ赤になった瞳を香里に向けると、今度は香里の膝の上で声を上げて泣き始めた。
 香里はその名雪の髪を、泣きやむまでずっと撫でていた……。



 あれから、名雪はなんとか部活を続けていられる。
 香里が見てくれていることが、支えだった。

 

 

「わたしね……」

 名雪が、隣を歩いている北川に言う。

「香里のこと北川君に、ちゃんと知って欲しいんだよ……」

 そう言った名雪の横顔は真剣だった。

「もし、香里を悲しませる様なことがあったら……」

 名雪が、北川を見上げてキッと睨む。
 北川は普段見せることのない名雪の表情に、思わずひるむ。

「紅しょうがの刑だよ」

 名雪はそう言って、今度はニッコリ微笑んだ。
 そして、呆然としている北川を後に残して、香里に駆け寄っていく……。



「かおり〜」

 後ろから、名雪が香里の腕に組み付く。
 そして、その腕にぶら下がるように、体重を預ける。
 おもわず、香里がよろめいた。

「なに照れてるの〜」

 名雪が言って、香里の頬をツンとつついた。

「な、なにも照れてないわよっ!」


 北川は、じゃれあう二人の姿を遠くから眩しそうに見ていた。
 そして髪をかきあげて一息着くと、二人の後に続いた……。


第5話へ続きます