5

 次の日、香里は学校にいた。
 祝日だったが、冬休み前ということもあり、部室の整理をするためだ。大体目途がついたところで、解散となりそれぞれに帰宅することになった。
 時計はすでに1時を回っている。


 香里はいつもの通学路を、足早に家に向かっていた。
 昨日に続いて、今日も冬にしては暖かい一日だった。白い日射しが降り注ぎ、氷の溶けた水たまりがそれを映してキラキラと瞬く。
 香里はまるでステップをふむような、軽い足取りで道を行く。
 思わず口ずさむ流行歌のリズム。
 胸元で白いケープの端をもてあそびながら、香里は昨日の放課後のことを思い出していた……。

 

 

 朝の一件以来、香里と北川はなんとなくぎこちなかった。
 昼休みも名雪をいれて3人で食堂に行ったが、名雪一人がご機嫌でにこにこしながらAランチを食べていた。香里は横目で北川を気にしながら、名雪と話をしていたが、その度に名雪がからかうような視線を向ける。
 香里はそんな名雪の視線が、くすぐったかった。


 一方、北川も一日中落ち着きがなかった。
 授業中も、まるで上の空で、窓の外を眺めては何かを考えている。
 そうこうしているうちに、放課後になった。


 教室をざわめきが満たす。
 北川が、香里に話しかける。

「なあ……美坂」

 香里は北川を見ずに、机の中の教科書を鞄に移しながら答えた。

「なに?」
「明日のことなんだけど……」

 一瞬忙しげに動かしていた、香里の手が止まる。

 トクン……。

 香里は胸が弾むのを感じた。
 しかし、それもほんの僅かな時間で、香里はまたせわしなく片づけを始める。


 そんな香里を見て、北川はふと不安を感じた。
 ひょっとして、気が変わったのでは……。
 そのとき、朝の名雪の言葉が脳裏をよぎった。
『香里はね……不器用なの……、照れ屋で、寂しがり屋で……』
『香里のこと北川君に、ちゃんと知って欲しいんだよ……』
 今、北川はその言葉を信じることにした。


「……7時に駅前で待ち合わせってのはどうかな」

 カチャ……と、香里が学生鞄を閉じると、不審そうに北川に顔を向ける。

「朝の……?」

 北川は思わぬ問いに、少し戸惑う。

「いや、夕方だ……」

 夕方というには時間が遅い。
 冬の7時といえば、立派な夜中だ。
 しかし香里が少しでも警戒感を抱かぬように、言い回しに気を遣った結果だった。

 香里は机に顔を戻して、しばらく考えて言う。

「どこに行くの……?」

 北川にとっては当然予想されていた問いだった。昼間なら映画館やショッピングと楽しめるところはいくらでもある。しかしさほど都会でもないこの街では、夜になると行動範囲は限られてくる。香里が不審に思うのも当然だった。
 北川はその気持を察して、笑顔を作る。

「レストラン……予約したんだ」

 この街に1件だけある不似合いな高級レストラン。特にクリスマス時期は人気で、予約などまずとれない。しかし昨日ダメモトで入れた予約は奇跡的に受け入れられた……。

「…………」

 しばらくの沈黙。
 北川が何か言いかけたとき、香里が遮るように訊く。

「でも……高いんでしょ?」

 香里の沈黙の理由が少しわかったような気がして、北川は勢いよく話し始めた。

「いや、大丈夫だ。全部オレがもつ。誘ったのはオレだし、それに今日のために……」

 今日のために、春からずっとアルバイトをしてきた……。
 言いかけて口をつぐむ。
 今となっては、そんなことはどうでもよかった。
 ただ香里の喜ぶ顔が見たかった……。
 香里はそんな一生懸命な北川を見て、少し嬉しくなった。

「いいの?」

 再び香里が訊く。

「あぁ……」

 北川が短く答えると、香里はニッコリと笑って言った。

「……ご馳走になろうかしら」

 北川は心の中でガッツポーズをきめた。

「オ、オレ、タキシード着ていくぞ!」
「それじゃあ、あたしはドレスを着ていったほうがいいのかな……」

 香里は半分冗談のように、ふふっと笑うと椅子から立ち上がる。
 そして、今日は部活だから……といって、教室から出ていった。


 北川はその後ろ姿を見送って、香里のドレス姿に思いを馳せていた……。

 

 

 ふふっ……。
 香里の口元に、思わず笑みがこぼれる。
 そしてケープをいじっていた指で、髪を後ろに流すと、空を見上げた。
 空はどこまでも澄みきっていて、なにもかもが上手くいくような気がした……。



 ……その時は。






 カチャ……。

 香里が自宅の玄関のドアノブを回すと、まるで抵抗なくドアが開いた。今日は両親ともに栞の退院の準備で、病院へ行っているはずだった。
 どうして、鍵が開けっ放しなんだろう……。
 香里は不審に思って、そっとドアの隙間から中をうかがう。すると、玄関には見覚えのある革靴……父親のだった。
 なんだ……帰ってきてたんだ。


「ただいま……」

 香里は呟くように言うと、玄関をあがり自分の部屋に向かった。
 リビングを通り過ぎようとしたとき、中から母親のすすり泣く声がして、ふと立ち止まる。

 お母さん……?

 香里がリビングのドアに手をかけると、父親の声がした。

「このことは、香里には……」

 絞り出すような低い声……。
 え? あたしの話……?
 香里の手が止まる。

「でも……」

 母親がすすり泣きながら言う。

「言ってどうなる……悲しむのは俺達だけで充分だ」

 何の話だろう……?
 香里は意味が分からず、その場で立ちつくす。

「でも、栞にはなんて言うの」
「…………」

 重苦しい沈黙が漂う。

「あなた言える? 栞に……。あと、1か月しか生きられないなんて……」

 え……?
 あと1か月?
 栞の命が?
 香里は自分の耳を疑った。
 あまりに突拍子もない話。
 先日、元気な栞の顔を見ていただけにまったく現実味がなかった。


 父親の返事はない。
 香里がリビングのドアノブに力をかけようとしたとき、父親の低い声がした。

「栞には、黙っておこう……、医者すらさじを投げてしまった病気だ。せめて残された時間だけは病気のことは忘れて過ごして欲しい……」
「えぇ……」

 母親の泣く声がする。
 ドアノブにかけていた香里の手が力無く、ストンと落ちた……。



 パタン……。

 香里は後ろ手で部屋のドアを閉めると、ドアに寄りかかって天井を見上げた。
 そして目を閉じて、さっきリビングの前で聞いた事を反芻してみる。
『あと、1か月しか生きられない……』

 1か月……?
 突然決まった退院……。
 なぜ今頃?

 同じ問いを自分自身に何度も繰り返す。
 香里は自分を取り巻く状況が突然変わってしまったことに気づき始める。


 母親のすすり泣く声。
 父親の苦しげな呻き。
 重苦しい沈黙。
 それらが残酷なほどのリアリティを持って脳裏に蘇り呆然とする。


 香里の瞼の裏に、血塗れになって倒れていた少女の姿が浮かぶ。
 そしてシーツを見つめる栞の空虚な瞳……。
 医者ですら、さじを投げたって?
 突然怒りがこみ上げてくる。
 医者なら最後まで責任取りなさいよ!
 香里は手に持っていた学生鞄を振り上げる。
 握りしめていた左手がぷるぷると震えている。


 しかし……。
 その手は振り下ろされることなく、力無く垂直に落ちただけだった。


 ゴト……と、鈍い音がして鞄が床に落ちる。


 本当なんだ……。
 香里は不思議なほどすんなりと、その現実を受け入れた。
 よく考えたらこっちの方がずっと現実らしかった。
 あたしは今まで現実から目をそらしていただけなんだ……。
 失望と脱力感が心を満たす。


 香里はふらふらとベッドに歩み寄ると、そのままうつぶせに倒れ込んだ。
 ふとコルクボードに目を遣ると、写真の中で栞が笑っていた。


 もう、なにもかもどうでもいい……。
 香里は疲れたように眠りに落ちた……。






 コンコン……。
 部屋のドアをノックする音がしする。香里は微睡みのなか、それをどこか遠くの世界からの音のように聞いていた。


 コンコン……。
 音が部屋に響く。
 香里はゆっくりと瞼を開いた。


 白いシーツが、窓から射し込んでくる月の光に、青く照らされている。部屋はすでに暗闇に包まれていた。
 香里は自分が随分長く寝ていたことに気づく。


「香里……」

 ドアの向こうで、母親の呼ぶ声がする。

「ん……」

 香里はベッドにつっぷしたまま、短く返事をした。

「お夕飯、食べないの……?」

 優しい母親の声。
 しかし今の香里には、その声すらわずらわしかった。
 一人になりたい……。
 今はただそれだけだった。

「いらない……」

 そう答えると、母親はドアの前でなにかためらっている様子だったが、やがて諦めたように去っていった。


 カチッ……カチッ……。
 時計の秒針の刻む音が、やけに大きく聞こえる。
 今、何時なんだろう……。
 そういえば何か忘れていたような気がする……。
 大切なこと?
 香里はしばらく自問したが、答えが出ないのを知ると思考をとめた。


 そして、ほぉっと一息つくとベッドから身を起こして部屋を出る。


 その時リビングから出てきた母親と、廊下で出くわす。
 母親はまだ制服姿のままの香里を見て、首を傾げながら言った。

「お夕飯食べる?」

 香里は首を振って答える。

「出かけてくる……」

 母親は、すっかり暗くなった外を見て心配そうに言った。
 もう時計は7時を回っていた。

「どこに?」
「名雪のところ……」

 そう言うと香里はふらふらと玄関に向かった。
 後ろから、母親が「遅くならないでね」と声をかけたが、それに適当に返事をして、玄関のドアを開けた。
 身を包む冷気を構うことなく、香里は外に出た。

 

 

 祝日の駅前。
 いつもならサラリーマンや学生で賑わう時間帯だが、今日は人影もまばらだった。
 そのかわりカップルの姿が目に付くような気がした。
 いや、それは自分が意識しすぎているせいかも知れない。
 北川はやたら辺りを気にしている自分を自制した。

 ふと駅前の時計を見上げる。
 7時30分……5分前。北川がこの場所で香里を待ち始めて、もう1時間が経とうとしている。黒のロングコートに身を包んだその姿を、街灯が青白く照らしていた。

 北川の目の前を若いカップルが通り過ぎる。
 その楽しげな雰囲気に、思わず視線で追ってしまう。
 やがて暗闇の向こうに消えていくその背中を見遣りながら、ほぉっとため息をつく。もう何度もついたため息だったが、その度に白さを増していくような気がした。
 日が沈んでからは気温は急激に下がりだす。駅前の電光温度計は、すでに5度をきっていた。時折吹く風が、冷え切った身体にはこたえた。
 カイロ代わりにと買った、缶コーヒーもコートのポケットの中ですっかり冷え切ってしまった。


 ポーン……。
 聞き慣れない音に、北川が顔を上げて辺りを見回す。
 ポーン……。
 音の聞こえた方を見ると、駅前の時計が8時を告げていた。
 この時計こんな音がするのか……。
 北川は初めてそれに気がついた。
 そういえば、今まで駅前でこんなに人を待ったことはなかった。いや待ったとしても、人通りの多い昼間では、その音は街の喧噪にかき消されて気づくことはなかったろう。
 しかし、今はその音がまるで耳のすぐそばでなっているように、はっきりと聞こえた。



 ふられたか……。
 北川は思う。
 別に女の子にふられるのは、これが初めてじゃない。
 かといって慣れているわけでもなかったが、今回はなんとなく特別な気がした。


 なぜだろう?
 思わず星空を見上げる。
 街明かりに照らされて空はぼんやりと白く輝いていた。しかしそれにも関わらず、冬の星々の煌めきは強烈だった。
 やたらと目立つ星座の形が、目に飛び込んでくる。
 赤と白の一等星が一際目をひくそれは、夜空を駆ける猟師の姿だった。

「赤と白……」

 北川は、ぽつりと呟いてみる。

「あかとしろ……」

 北川は何かを思い出しかけていた……。
 目を閉じて記憶の深淵をさぐる。


 そう……。
 あれは確か、オレが幼稚園の時。
 オレが初めて好きになった女の子だ。
 真っ白な雪原の中、あの子は赤いコートを着て佇んでいた。
 オレはその女の子の笑顔が好きだった。
 その笑顔を見るとオレは安心できた。
 しかしそれはいつもオレではない誰かに向けられていた。今となってはそれが誰なのか、いやその女の子の顔すらはっきりと思い出せないが、なんとなくその横顔が、美坂に似ていたんだ……。


「そういうことか……」

 北川は口に出して言ってみる。
 まるで何かを確認するように。
 オレは美坂の笑顔が見たかったんだ……。
 その気持は今でも変わっていない。
 レストランでの食事はあくまで誘うきっかけでしかなかった。
 北川は確認したかったのだ。
 香里の笑顔を……。
 そして自分の気持ちを……。


 北川はベンチに腰掛けると、ポケットから冷え切った缶コーヒーを取り出し、一気に飲み干した。
 美坂はもう来ない……。
 なぜかそんな気がした。
 しかし、北川はいつまでもそこを動く気になれなかった……。



 駅前の時計が9時を告げて、しばらく経った頃。

 コツ……コツ……。

 人通りのめっきり減ってきた駅前の広場に靴音が響く。
 そして、コツッ……と、乾いた足音をたてて、ベンチにかけていた北川の前でとまった。その影が真上から街灯の光をうけて、地面に四散する。
 俯いて地面を見ていた北川が思わず顔を上げる。


 しかし……。
 そこにいたのは、見知らぬ若い女性だった。
 美人といっても良かったが、それを見た北川の顔を失望がよぎる。
 彼女はそんな北川にお構いなく言った。


「あなたの幸せを祈らせて下さい」

 よくある宗教活動だ。
 人の幸せを祈ることで自分が幸せになれる。
 最近、駅前でよく見られる光景だった。
 大抵はみんな遠慮して顔を背けるのだが、中には気に入らないのか口論をふっかけたり、からかったりして憂さを晴らしているような連中も見られた。
 北川は、その様子を大人げないと眉をひそめて見ていたが、今日はその連中の気持ちが分かるような気がした。
 そして、なにか言いかけて彼女の顔を見上げた。
 しかし黙って胸の前で手を合わせ、一心に祈っている姿を見ると、なぜかその気も失せてしまった。

 勝手にしろ……。
 北川は心の中でそう呟くと、再び地面に視線を落とした。


 カサカサと音を立てて、枯れ葉が転がる。
 静寂の中、北川は祈られていた。

 北川は思う。
 彼女は何を祈っているのだろう。
 オレの幸せ? 自分の幸せ? それとも他の誰か?
 どれも無駄な事じゃないのか。
 祈ることで幸せになれるのか?
 そんなことなら、少しでも時間を有効に使った方がいい。

 でも……。
 もしも何もできなかったら?
 その人の幸せのために、自分が何もできなかったら?
 ……そしたらもう、祈るしかないじゃないか。

 ふっ……と、失笑する。
 それは、自分に向けられた笑いだった。
 オレが彼女のことを、とやかく言えるのだろうか?
 今オレがやっていることは、それ以上に無意味な事じゃないのか?
 来るはずもない人を待つ。
 この上なく無駄な時間を過ごしている自分がおかしかった……。


「ありがとうございました」

 祈り終わったのか、彼女は律儀にお礼を言うと、きびすを返して去っていく。
 北川は俯いて、その遠ざかっていく靴音を聞いていた。
 よく考えたら、この夜、人に話しかけられるのは初めてだった。人通りが少ないとはいえ、何人もの人が通り過ぎていった。
 ひとりぼっちで背を丸めてベンチに座っている自分を周りの人はどう見ていたのだろうか。


 きっと惨めに見えたに違いない……。
 北川は思う。
 彼女も、そんなオレを哀れんで声をかけたのだろうか?
 北川は顔を上げて、その去りゆく背中に思わず声をかけた。

「あ……」

 短い北川の声が、広場に響く。
 彼女は歩みをとめて、肩越しに北川を振り返った。
 綺麗な子じゃないか……。
 北川はそう思った。
 そして首を傾げている彼女に訊く。

「……どうして、オレに声をかけたんですか?」

 彼女は北川の方をゆっくり振り返る。

 あなたが可哀想に見えたから……。

 北川はそんな答えを予想していた。
 しかし、彼女の答えは違った。

「……私が、寂しかったからです」

 彼女はそう言って微笑むと、再び闇の中へ消えていった……。


 なんだ……オレと一緒じゃないか……。
 初めてオレが美坂に話しかけたとき、オレは寂しかったんだ……。
 赤いコートの女の子の姿が脳裏をよぎる。
 あの子はオレに笑ってくれなかった。
 だから、美坂の笑顔にすがりたかったんだ……。

 気がつくと北川は泣いていた。
 流れ落ちた涙がコートを黒く濡らしていった……。

 

 

「ふぁ……」

 思わずあくびが出る。
 名雪はリビングでテレビドラマを見ながら、風呂上がりの濡れた髪を乾かしていた。長い髪をバスタオルで挟むようにしてポンポンとたたきながら湿気を取っていく。

 髪切ろうかな……。

 ふと、そんな考えがよぎる。
 陸上を始めて実感したが、走る時長い髪は思ったより邪魔だった。なにより、髪を乾かすのに時間をかけることで、貴重な睡眠時間が削られることが惜しい。
 でも……、と名雪は思う。
 そう思うときに限って、あの人の顔が浮かぶ。
 私を置いて行ってしまった幼なじみ……。

 もしあの人が戻ってきて、髪を切ったわたしを見たらどう思うのだろう。
 まるで昔のわたしのことなんかすっかり忘れて……いや、ひょっとしたら名前すら思い出せずに「花子」とか適当な名前で呼ばれそうだ。

 あの人が帰ってくるようなことがあったら、それは雪の日がいい。
 駅前で待ち合わせして雪に埋もれて、少し頭を冷やしてもらおう。頭がすっきりしたところで、缶コーヒーでだめ押しのカフェイン投入。
 これであの人も目が覚めて、昔と変わらないわたしを見たら、少しはあの冬の日の事を思い出すだろう。
 ……いや、あの人のことだから、それでもボケそうだ。
 それを思うと名雪は悔しくて、髪をたたく手に力がはいった。


 ポンポンポンポンポンポン……。

 勢いを増す手の動きに、後ろで見ていた秋子が首を傾げる。
 しかし突然その手が止まる。

 そんな日がいつかくるのかな……?

 名雪はあるかどうかもわからない未来の出来事にムキになっている自分に虚しさを感じた。



 プルルルルル……。
 その時、電話のベルがなった。
 名雪はバスタオルを長椅子に置くと、受話器を取る。

「はい、水瀬です」

 しかし、相手は無言だった。
 名雪は再び繰り返す。

「もしもし?」
「…………」

 沈黙。
 名雪は受話器を耳に当てたまま、秋子を振り返る。
 それを見て秋子が椅子から立ち上がりかけたとき、受話器の向こうから聞き覚えのある声がした。

「……名雪」

 消え入りそうな弱々しい声。
 名雪は反射的に訊く。

「香里?」
「…………」

 しかし、答えはない。

「香里……どうしたの?」

 声の主は香里に間違いなかった。
 いつもと違う様子に、名雪の声がこわばる。
 しばらくの沈黙の後、香里の震える声が聞こえた。

「……名雪……あたし、どうしたらいいの?」
「香里、何があったの?」

 泣いてる……名雪は、直感した。
 香里が泣くなんて、よっぽどの事だ。

「香里……?」

 名雪が再び訊く。
 長い沈黙の末、香里が呟いた。

「……ごめんなさい」
「え? ……香里、何を……」

 そう名雪が訊きかけたとき、電話が切れた。


 名雪は反射的に香里の家へ電話する
 嫌な予感がした。
 電話に出たのは、香里の母親だった。
 二言三言言葉を交わして、力無く受話器を置く。

 どこへ行ったんだろう……?

 香里は家にはいなかった。
 名雪のところにいく……そう言って、家を出たという。


 でも……。
 名雪はリビングにかけられていた時計を見上げた。
 8時半を少し過ぎている。
 香里が家を出て、もう1時間以上経っている……。
 ……ごめんなさい。
 香里の最後の言葉に名雪は言いしれぬ不安を感じて、胸騒ぎがした。


「名雪、どうしたの?」

 電話の前で立ちつくしている名雪に、秋子が声をかけた。
 すると名雪は突然振り返り、2階へ駆け昇っていった。
 トントントントン……。
 ほとんど間をおかずに降りてきたかと思うと、今度は玄関で声がする。

「お母さん、わたし出かけてくる!」

 秋子がリビングから玄関を見たとき、すでに名雪は外へ飛び出していた。
 玄関のドアが閉まる寸前、名雪のまだ乾ききっていない髪が玄関のライトにキラキラと輝くのが見えた。

「あの子ったら……」

 秋子は、ふぅ……とため息をついて、長椅子に置き去りにされたバスタオルに視線を落とした。

 

 

 商店街の電話ボックスに、香里はいた。
 ボックスの中でライトに白く照らされて佇むその姿は、まるでガラスケースに入れられたフランス人形のようだった。
 しかし、その表情は俯いていて伺うことはできない。
 香里は受話器を持った右手を力無く落とし、左手を掛け具にかけて電話機に寄りかかっていた。

 ツー……ツー……。

 受話器から漏れる信号音が、ボックスに響いた……。



 香里は家を出ると、あてもなく街をさまよった。
 まるで、この世に自分の居る場所がないような気がして、不安で寂しくて悲しくてどうしようもなく……。そして気がついたら電話ボックスで受話器を握っていた。
 受話器の向こうから聞こえる親友の暖かい声……。



 香里は名雪の声が好きだった。
 のんびりした春の日溜まりのような暖かい口調を聴くたびに、香里は心がなごんだ。
 そして、なによりもコロコロ変わる表情が大好きだった。
 香里は小学生の頃辺り、栞の体調が不安定になって通院するようになった頃から、表情をだすのが苦手になっていた。
 それが人にとっつきにくい印象を与えるため、それを知らない人との間で誤解を生むこともしばしばあった。

 しかし、名雪は違った。
 初めてあったその日から、名雪は香里の僅かな表情の変化を、まるで自分のことのように読みとっていた。
 見た目に似合わない鋭い洞察力。
 心を見透かされるようで、人はそれを嫌うかも知れない。
 しかし香里にとっては、それはとても嬉しいことだった。

 自分が悲しいとき、名雪は泣いてくれた。
 自分が腹立たしいとき、名雪は怒ってくれた。
 自分が嬉しいとき、名雪は笑ってくれた……。
 自分が表現しきれない微妙な気持ちを、名雪が代わって表現をしてくれる。

 そして名雪の表情を見るたびに、香里は自分の気持ちを確認していた。すると、そんな名雪につられるように、いつのまにか香里は普通に気持ちが表現できるようになっていた。
 香里にとって、かけがえのないもう一人の自分、それが名雪だった……。


 一度、このことを名雪に話したことがある。

 すると名雪は、
「香里は自分が思っているほど、ポーカーフェイスじゃないよ」
 と、笑って答えていた……。



「もしもし?」

 受話器から聞こえるその声に、思わず言葉が詰まる。
 気持ちを落ち着かせて、親友の名前を呼ぶ。
 名雪の問いかけに、本心が溢れるように流れ出た。

「……名雪……あたし、どうしたらいいの?」

 しかし、その時香里の脳裏に、栞の笑顔が浮かんだ。
 そして気がつくと香里は電話を切っていた。
 最後に名雪への謝罪の言葉を残して……。



 ふっ……と、香里の頬が歪んで、笑いが漏れる。
 自分を嘲った笑い。
 香里は自問する。
 栞の次は、名雪……?

 あたしは今まで見舞いと称しては、栞に会いに行っていた。
 しかしそれは栞を元気づけるためじゃない。
 あたしが栞に元気づけられたかったんだ……。
 あの子の笑顔を見て、あたしが安心したかった、「これは悪い夢なんだ」って。
 ただそれだけ。
 栞のいない現実が寂しくて、あたしはあの子の笑顔にすがった。

 あたしは栞を利用していたんだ……。
 そして、栞がいなくなると知って、今度は名雪にすがろうとした……。
 弱い自分がどうしようもなく哀れになった。


 香里は電話ボックスのガラス戸を、ひどく重そうに開けると、ふらつく足取りで再び街をあてもなくさまよいはじめた……。


第6話へ続きます