6

 ゆさゆさと、誰かが身体を揺さぶっている……。
 次第強くなっていく揺れに、北川が閉じていた瞼をゆっくりと開く。
 肩に感じる人の手の温もり……。しかし、その温もりに誘発されて肌全体を覆っていた感覚器が一斉に目を覚ます。
 次の瞬間、身震いするような強烈な寒さが北川を襲った。身体の奥底から生じた震えが、波のように肌に押し寄せ、体がガタガタと揺れる。北川は震えをとめるため思わず両腕で自分の体を抱きしめた。


「大丈夫ですか?」

 北川は声の方を見上げた。
 吐き出された息で、視界が一瞬白く煙る。
 街灯の逆光のせいで、顔ははっきりと見えないが、映し出されたシルエットは警官の制服のようだった。


 寒さで歯の根が合わなくなってしまったのか、北川は警官の顔を見上げたまま声を出せないでいた。
 かろうじて、首を縦に振って、大丈夫……と意志を伝えてみる。
 すると警官は、半ば呆れるように言った。

「だめですよ、こんな所で寝ちゃ……この時期、風邪をひくだけじゃ済みませんよ……。一昨日だって、一つ向こうの駅で……」

 警官はかろうじて生きている北川を見て安心したのか、堰を切ったように説教を始めた。


 北川はその声を遠くに聴きながら、辺りを見回す。
 すっかり人通りのなくなった駅前の広場。
 駅の照明はすでに落とされ、商店街のネオンもまばらになっていた。
 オレはあのまま寝てしまったのか……。
 ふと、駅前の時計を見上げる。
 11時を回っていた……。

 本当に冗談じゃないな……。

 北川は心の中で呟いた。
 身体が寒さになれてきたのか、次第に震えが静まっていく。
 そして身体の力を抜くと、目をつむってほぉーっと大きく息を吐いて、気持ちを落ち着けてみる。すると、さっきまでの震えが嘘のように止まった。
 手に蘇った温もりで、冷え切った頬や耳を暖める。
 立ち上がろうとして腰を上げかけて、思わずよろめいた。膝が寒さのため、かくかくなっていた。


 その様子を見て、説教を続けていた警官が再び訊いた。

「大丈夫かい?」

 北川は何とか立ち上がると、

「大丈夫です」
 と、今度ははっきり答えた。

 長いこと不自然な格好で寝ていたためか、身体の関節が痛い。
 2、3歩、歩いて今度は大きく伸びをしてみる。
 なぜか清々しい開放感が身体を包んだ。
 警官は、そんな北川の背中に二言三言注意の言葉を浴びせると、再び暗やみに消えていった。


 そして北川は、まだ少し明かりの残っている商店街に向けて歩き始めた……。


 本当は直接家に帰っても良かったのだが、なんとなく北川は商店街を歩いてみたくなった。

 明日はクリスマス・イヴだ。
 だが、オレが明日ここに来ることはないだろう……。
 それならせめて、いまのうちにその雰囲気くらいは楽しみたかった。


 コツコツと人通りのめっきり減った歩道に靴音が響く。
 街路樹のホワイトイルミネーションが、クリスマスの雰囲気を引き立てる。雪があれば言うこと無しなのだろうが、さすがにそこまでは人の力ではどうしようもなさそうだ。


 ちかちかと瞬く白い電球を見上げて、北川はふとある噂を思い出す。

 カップルでホワイトイルミネーションを見ると別れる……。

 真偽のほどは分からないが、若者の間では昔からある話だった。所詮、クリスマスの夜に一人の寂しい輩がカップルを妬んで広めた作り話だろう。

 しかし……と、北川は思う。
 暗闇に瞬く儚げな白い光。
 夏の花火のような派手さはないが、その光景は人の記憶に深く印象に残るだろう。
 愛する人を失ったときはじめて気づく大切な時間の儚さが、この光景とオーバーラップするのも無理はないことだ。誰もが共有するその想いが、やがて噂となって一人歩きを始めたのではないか……と。


 ふと、クリスマスのデコレーションで彩られたショーウィンドに目を移す。
 明かりの落ちたウィンドウの中で、マネキンが冷たく微笑む。身につけられていた金や銀色の派手な装飾具の煌めきが、やたら嘘っぽく見えた。
 そして、ガラスに映った自分の影が目に留まる。
 独りぼっちで今にも闇に消え入りそうなその姿を見て、北川はこれも嘘だったらな……と、苦笑した。

 

 

 北川は、冷やかしの視線でそんな街の光景を眺めながら、ふらふらと歩いていた。
 薬局の前を通りかかったとき、5件ほど先のコンビニエンスストアから、突然女の子が勢いよく飛び出してきた。そして、なにかを探すようにキョロキョロと辺りを見回す。駆け出そうとしては、ためらって振り返る。
 そんな落ち着きのない動作が気になって、北川はその女の子を目で追った。
 その横顔が商店の前に置かれていた自動販売機の明かりに白く照らしだされる。
 見知った顔だった。
 普段ののんびりした雰囲気とは全く違う、目の前の挙動に北川は一瞬その答えを否定しかけるが、どう見てもそれは名雪に違いなかった。


 北川は、遠ざかっていこうとするその後ろ姿に声をかけた。

「水瀬……!」

 その言葉に気がついて、名雪が振り返る。
 名雪はしばらくためらっていたが、それが北川だと知ると、突然駆けよってきた。
 白い息を切らせて、北川の前に立つ。


 その名雪の顔を見て北川は驚いた。
 痛々しいくらいに赤く染まった頬が、涙に濡れている。
 北川はかける言葉を失って、名雪を見つめた。
 するとその瞳が急に潤み始め、涙が溢れ出た。とめどなく流れる涙を拭うことなく、名雪はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。

 北川がその顔をのぞき込む。

「どうしたんだ、水瀬……」

 尋常ではない、その様子に北川の脳裏を不安がよぎる。
 名雪の様子から見て、涙の訳が男ということは考えられなかった。
 となると、他には……。
 北川の思考がそれに辿り着くのと同時に、名雪が言った。

「香里が……香里がいなくなっちゃったんだよ……」

 しゃくりあげながら、同じ言葉を繰り返す名雪を、北川が呆然と見つめる。

 美坂がいなくなった……?

 説明を求めようとして、俯いて泣いている名雪の肩に手をかけたとき、名雪の髪が北川の手に張り付いた。そして、北川は名雪の髪がまるで氷のように凍てついているのに気がつく。

「水瀬……おまえ……」

 言葉に詰まる。
 北川は香里のことももちろんだが、目の前の名雪のことも心配になった。
 そして、できるだけ優しい声で諭すように訊いた。

「美坂が……どうしたんだ?」

 少し落ち着いてきたのか、名雪は途切れ途切れに言葉を繋いだ。
 突然かかってきた香里の電話……。
 普通でない、口調……。
 謝罪の言葉……。
 香里が家に帰っていないこと……。
 そして、探し始めてから、もう4時間経つこと……。
 それらを聞いているうちに北川は、次第に怒りがこみ上げてきた。
 そんな大変な事が起こっているとも知らずに、オレは一体何をやっていたんだ……と。
 そこまで言うと名雪は再び泣き崩れた。
 北川は怒りを押し殺して、名雪に言う。

「水瀬……あとは、オレが探すから、おまえは家に帰れ」
「でも……」

 名雪が見上げて何かを言いかけたが、北川がそれを遮る。

「いいから、まかせろ。それに水瀬の家に美坂から連絡がいくかも知れないだろ……」

 後半の部分は気休めだった。
 こんな水瀬をこのままにしておけない……。
 北川はそう思った。
 名雪はしばらく俯いて考えていたが、やがてコクンと頷いた。
 北川は名雪を助け起こすと、再び家に帰るように念を押した。
 力無く佇む名雪も心配だったが、北川は背を向けて闇へ向かって走り出した。


 しかし……。
 行くあてなどなかった。
 とにかく、手当たり次第あたってみるしかないのだろうか?
 凍てつく空に消えていく白い息を見ながら、北川は思考を巡らす。
 が、結局何も思い浮かばず、空を見上げて何かを祈りかけたとき、背後から名雪の呼ぶ声がした。

「北川君!」

 北川が立ち止まって振り返る。

「香里、大丈夫だよね!」

 見ると名雪が両手を握りしめて、北川をまっすぐ見つめている。

「会えるよね、香里に!」

 名雪が問う。
 その瞳には、ついさっきの弱々しさは欠片もなかった。
 北川はその瞳の奥に、なにか力強いものを感じて、つられるように頷いた。
 そして、きびすを返して、再び走り出す。
 北川は、なにか忘れかけていたものを思い出したような気がした。

 水瀬の力強い瞳に秘められたもの……。

 それは……。

 ……そうだ、美坂はきっとあそこにいる。



 北川の足は迷いなくあの場所を目指していた……。

 

 

 フッ……と、香里の視界が突然傾いた。
 軽い浮揚感のあと、半身に衝撃が響く。
 それまでフワフワと闇を漂っていた意識が、突然現実に引き戻される。

 気がつくと香里は地面に倒れ込んでいた。
 呆然と辺りを見回すと、背後にコンクリートのひび割れた階段があった。
 よく見ると階段の表面は、うっすらと氷で覆われている。

 階段から落ちたんだ……。

 それを理解するのに、随分長い時間がかかった。

 ここはどこだろう……。

 香里は頭を巡らす。
 たちこめる夜霧。
 その向こうでぼんやりと灯るオレンジ色のナトリウム灯。
 耳元に囁きかけるような、心地よい水音……。

 夢の跡……ね……。

 香里は自覚する。
 そして、手をついて立ち上がろうとしたとき、左足に激痛が走った。
 思わず顔をしかめて、左足を見遣る。見た目にはなんともないようだったが、明らかに足首を挫いていた。


 香里は力無く地面に座り込む。
 その口元から、皮肉な笑みがこぼれた。

 なにやってるんだろ、あたし……。

 自分のやっている無意味な行動が、おかしくなった。
 それから、まるで何かを観念するように、枯れ草の上に身を投げ出し、仰向けになって夜空を見上げた。


 白い息が透き通る夜空にゆらゆらと吸い込まれていく。
 天を覆い尽くす冬の星々……。
 それは、まるで自分勝手に瞬きながら、その煌めきを競っている。
 ぼんやりと流れる天の川からは、白い星がこぼれ落ちてきそうだった。

「本当に落ちてきたら、面白いのに……」

 香里は呟いて目を閉じる。
 でも……。
 どうせ落ちてくるのなら、やっぱり雪がいい……。
 あたしをその白いベールで覆い尽くして欲しい……。



 閉ざされた香里の瞼の裏が、だんだん白く満たされていく。
 まるで一面の雪雲を見上げているように……。
 やがて、ひとつふたつと雪が舞い落ちてきた。
 しかし、その雪は白ではなく、セピア色に染まっていた……。

 

 

 あたしは幼稚園の遊戯室の窓から空を見上げていた。
 お昼頃から降り出した雪は、次第に激しさを増して、せっかく雪が溶けて歩きやすくなった道を再び白く埋め尽くしていく。
 後ろの壁にかけられていたカレンダーを振り返って、ため息をつく。

 もう、3月なのに……。
 幼稚園児にしては可愛くないぼやき。
 となりで一緒に外を見ていた保母のお姉さんも心配そうに、頬に手を当てている。
 ふと目があって、お姉さんがニッコリ微笑む。あたしはドキドキして思わず下を向いてしまった。

 このお姉さんは本当は保母さんじゃないらしい。
 えいようしさんといって、あたしたちのおやつを作ってくれたりしている。でも時々、保母さんの手伝いをしたり、お昼休みはあたしたちと一緒に遊んでくれたりする、とても優しい人だった。

 あたしは、おやつのジャムサンドが大好きだった。
 特にイチゴジャムは一番好きだった。でもたまに変な味のするジャムがあって、そっと中身を覗いてみると決まって黄色いジャムが塗ってあった。
 みんなの方を振り返ってみると、まるで決められたようにお皿にそのサンドイッチだけが残されている。
 それを無言で片づけるお姉さんの横顔が少し寂しそうで、あたしはいつもそれをむりやり口に詰め込んでいた……。


 そのお姉さんが、しゃがんであたしの顔をのぞき込む。
 蜂蜜と牛乳の甘いにおいがする。

「どうしたの、香里ちゃん」

 お姉さんが優しく微笑んで聞いてくる。
 あたしは、俯いたまま上目遣いでチラッとお姉さんの顔を見る。
 とても綺麗な人だった。

「雪が降ってるから……」
 と、もじもじとあたしが答えると、お姉さんはちょっと首を傾げた。

「雪は嫌いかしら?」
 ちょっと残念そうなその声を聞いて、あたしは顔を上げる。
 そして、ふるふると首を振る。
 雪は嫌いじゃなかった。
 でも最近、栞は体の調子が悪いのか、寒いのが辛そうだった。
 だから今日も栞のことが気になっていた。

「そう……」

 お姉さんは安心したように微笑んだ。

「それじゃあ、春は好きかな?」

 あたしは今度は、コクンッと勢いよく首を縦に振る。
 暖かくなったら、栞はきっとまた元気になる。
 だから、早く春になるといい。

「そうね、早く暖かくなるといいわね」

 お姉さんは、あたしの心が読めるかのように呟く。
 でも不思議とそれは嫌じゃなかった。
 まるで心が春の微風に吹かれるように、暖かくなるのを感じるから……。


 その時、陽の光が窓から射し込んで、遊戯室を明るく照らした。
 お姉さんは眩しそうに、空を見上げる。

「雪、やんだわね」

 見ると、雲の隙間から光の筋がいくつも降りてきて、幼稚園の軒下に出来たつららをキラキラと照らしていた。

「よかったね」

 そう言うお姉さんの笑顔は、本当に暖かくて春の日溜まりのようだった。
 ふと、お姉さんの名前が思い浮かぶ。お姉さんの名前と、目の前の表情のギャップがおかしくて、あたしは笑った。

「…………?」

 お姉さんはちょっと不思議そうに首を傾げていたけど、その表情はとても楽しそうだった。



 幼稚園が終わって、あたしは外に駆け出した。
 栞を探してキョロキョロと、辺りを見回す。年少組は先に終わっていたはずだ。
 そして、幼稚園の門の影で、しゃがんでいる赤いコートの背中を見つけた。
 なにかを作っているらしく、小さな肩が前後に動く。
 あたしは、駆け寄って栞の肩越しにのぞき込む。
 そこにあったのは、小さな雪だるまだった。

「わっ、おねえちゃん!」

 突然、頬に触れた暖かい息に驚いて、栞が振り返る。
 その頬が少し赤みがさしていた。
 あたしは反射的に、栞の額に手を当てる。
 しかし、あたしが心配したような熱はなかった。
 栞はきょとんとして、あたしを見上げると、笑いながら言った。

「おねえちゃん、ゆきだるまつくれるよ!」

 春の雪は湿気を含んで丸めやすい。雪だるまを作るには最適だった。いつも苦労して雪だるまを作っていた栞は、いつもより一回り大きくできた目の前の雪だるまを見て上機嫌だった。
 しかしそうかと言って、幼稚園の門の前を雪だるまだらけにするわけにはいかない。

「帰ったら、いっぱい作ろうね」

 そう言ってあたしは栞の手を引いて、帰ろうとしたが栞は動かなかった。
 そして栞は腕一杯に雪だるまを抱え込んで、持ち上げようとする。
 あたしは、それを見て呆れていった。

「栞、それは置いていきなさい」
「でも……」

 雪だるまの向こうから、困ったような顔を覗かせる。

「帰ったら、たくさん作れるじゃない」

 栞はしばらくためらっていたが、やがて渋々それを門の片隅に置いた。


 あたしは栞の手を引いて歩き出す。
 しかし、栞はまるで雪だるまとの別れを惜しむかのように何度も振り返っては、あたしの手を引っ張って立ち止まった。
 あたしは、じぃーっと門を見て佇む栞を見て、思わずため息をついた。
 そして家に続く雪で覆われた白い道を見遣る。


 ふと、名案が思いつく。

「栞!」

 あたしの声に、栞が振り返って、ほぇっと見上げる。

「ゆきだるま、作りながら帰ろっか!」

 あたしは、そう言うと足下の雪を丸めて転がしだした。
 見る見るうちに雪を巻き込んで大きくなっていく。
 栞がそれを見て嬉しそうに、駆け寄ってくる。


 あたし達は雪玉を押した。
 二人の力が違うので、ふらふらと右に寄ったり左に寄ったりしながらもなんとか押し進める。雪玉がちゃんと丸くなるように、たまに転がす向きを変えてあげる。巻き込んでくる石ころや木の枝を取り除きながら、あたし達は家に向かって雪玉を転がした。振り返ると転がった跡が、轍のように道に残っていた。

 雪玉はやがて栞の身長ほどに大きくなった。
 見ると栞は身体全体を使って雪玉を押している。あたしも、次第にきつくなって腰に力を入れて押していた。
 しかし、とうとうあたしの背丈ほどになったとき、まるで壁のように雪玉は動かなくなってしまった。それでも栞は、ウンウン言いながら押していたが、動かないのが分かるとあたしを見上げて言う。

「おねえちゃん……」

 その瞳はすこし涙ぐんでいた。
 家まではまだ随分ある。
 これ以上、この雪玉を押していくのはもう無理だった。また栞に辛い思いをさせてしまう、そう考えると胸が痛んだ。
 あたしは無理に笑って、栞の今にも泣きそうな顔をのぞき込む。

「栞、いつかあたしが、これよりもっと大きい雪だるま作ってあげる」

 そう言うと、栞は目の前の雪玉とあたしを見比べて言った。

「どのくらい……?」
「こー……のっくらいっ」

 あたしは、思いっきり背伸びして両腕を大きく広げる。
 しかしそれを見ても栞は不満そうだった。
 あたしは首を傾げて訊く。

「どのくらいがいいの?」

 すると、栞は何の躊躇もなく隣にあったビルを指さした。
 あたしが見上げたそのビルは、裕に20メートルはあった。

「あなたねぇ……」

 あたしは、言いかけて昨日の夜のテレビを思い出した。


 それは雪国の特集だった。
 その中で登場した、巨大な雪だるま。
 いや、だるまと言うよりも雪山と言った感じだ。よく見るとショベルで寄せ集めた雪山を、ユンボーで削って作ったようなあとがあった。それに顔をかいて、ドラム缶で作ったような帽子をかぶせていた。
 栞はそれを見て、とても興奮していた。
 本当にあんなビルのような雪だるまが出来ると信じているようだ。
 いや、実際に出来ているのだから仕方がないが……。


「あのね、栞……」

 あたしは諭すように言った。

「あたしは、こんなに大きいのは作れないけど……」

 それを聞いて、栞の頬が膨れる。

「でもね、いつか必ず栞が驚くような雪だるまを作ってあげる」
「ほんとう?」

 栞があたしを見上げて呟く。

「本当よ、いままであたしが栞に嘘ついたことあった?」

 あたしがそう訊くと、栞はふるふると首を振った。
 そしてニッコリ笑う。

「それじゃあ、やくそくね」

 そう言って、小さな小指を差し出す。

「うん、約束ね」

 あたしは、その小指に自分の小指を絡ませた。
 その手を上下させながら、お決まりの文句を言う……。



「ゆびきりげんまん、

 うそついたら、

 はりせんぼん、

 のーます……」



 栞が楽しそうに、ぴょんぴょん飛び跳ねる。


 そして……。


「ゆー

 び、

 きっ

 た……」



 あたし達の笑い声が、高く澄みきった空に響いた……。



 と、その時、あたしの頬に何かが落ちてきたを感じた。

 雨だった。

 冬の雨。

 しかし、冷たいはずのそれは、不思議なくらい暖かかった。
 暖かな雨粒があたしの頬に降り注ぐ。


 不思議に思って、隣にいた栞を見る。
 栞の顔は妙に大人びていた。
 そして首を傾げている、あたしに言う。


「いいんだよ、お姉ちゃん」

 何が……? と、問いかけたとき、その顔はウニウニと歪んで光の中へ消えていった……。

 

 

 北川は永遠に続くのではないのかと思われるほど、深い闇の中を駆けていた。
 すでに商店街を抜け、住宅地からも離れて、道を照らす街灯もまばらになっていた。一定の間隔で設置されている、オレンジ色のナトリウム灯がある以外は、これといった明かりはない。

 北川は、川に沿って続く通学路の堤の上を走っていた。
 通学路……といっても、それはここ数ヶ月くらいまえからのことだった。最近北川はわざわざ遠回りして、この道を歩くようになっていた。
 香里に逢うため……それが、理由だった。

 北川の脳裏に先日の香里の言葉がよぎる。
『北川君は春、好きかしら……?』
 朝陽を浴びて輝くその横顔の眩しさに、思わず目を細めた。
『あたしは、好きよ……』
 そういう香里の瞳はどこか遠くを見つめていた。
 そして、北川はこの場所で、ずっと待ち望んでいた香里の笑顔に出会った……。
 理由はどうあれ、あの笑顔は事実だった。
 美坂はきっとここにいる……。
 北川は、それを疑わなかった。

 白い息が次々と、後方に飛び去っていく。
 北川は延々と続く川沿いの道を、下の方の河原も注意しながら走っていた。もし一度見逃しでもしたら、どこまでも暗闇の中を走ることになる。一刻を争うとき、無駄な時間を費やしたくなかった。


 風のない静かな夜。
 黒のビロードのような川が月明かりを照らして、テラテラと流れている。川のせせらぎも、いつにもまして穏やかだった。そんな時間が止まったような光景の中で、北川の呼吸の音がひときわ大きく聞こえる。

 北川は商店街から、ここまで休むことなくずっと走り続けていた。
 絶えることなく送り込まれる、外からの冷気に肺が悲鳴を上げる。
 堤の上から河原に降りるコンクリートの階段に差し掛かったとき、北川はたまらずに立ち止まった。
 俯いて荒らぐ息を整える。
 そして、視線を河原に落としたとき、北川の動きが止まった。
 北川は階段の下の草原に横たわる何かを見た。


 それは人のようだった。
 しかし、それは仰向けになって空を見上げたまま、ピクリとも動かない。

 ドクン……ドクン……。

 北川は鼓動が早くなるのを感じた。
 最悪の事態が頭をかすめる。
 次の瞬間、北川は滑るようにして、堤を駆け下りた。



 そして、その人影の横に立ち、顔を見下ろした。
 香里……だった。
 その頬は、白を通り越して月明かりと同じ蒼白だった。
 髪の毛は霜が降ったように白々と光っている。
 北川はまるで時間が止まったかのごとく、呆然と立ちつくしていた。
 遅かったか……。
 駅前で一人時間を無駄に過ごしたことが、激しい後悔の波となって押し寄せる。


 しかし……。
 そのとき、香里の胸がかすかに上下した。
 北川はまるで何かの呪縛から解かれたかのように、我に返る。
 そしてコートを脱ぐとそれで香里の身体を包み、上半身を抱き起こした。
 氷のように冷え切った香里の身体。まるで現実味を感じさせない、両の手のひらから伝わってくる冷たさに、北川はこれが夢であることを祈った。
 北川は必死に香里の身体をさすった。
 まだ、生きている。
 それだけが、北川を現実的な行動に駆り立てた。

 香里の青白い顔をのぞき込む。
 その顔は不思議なほど穏やかだった。
 つい昨日までは、鮮やかな桜色だった唇も、今は薄紫色に変わって生気を感じさせない。
 北川の手のひらが、まるで壊れやすいガラス細工に触れるように、そっと香里の頬を包み込んだとき、胸を満たしていた切なさが、涙となって溢れ出た。
 とめどなく流れるその雫は、月の光に煌めきながら香里の頬に舞い落ちる。
 香里の頬が、北川の涙で濡れる。


 その時……。
 香里の薄い唇がかすかに動いた。
 それは、微笑みだった。
 なにか懐かしいものを見たとき思わずこぼれる、穏やかで儚げな笑み……。

「美坂っ……!」

 北川はこのとき、初めてそれまで我慢していた声をようやく上げた。
 声の波動すら香里を傷つけてしまいそうで、怖かった。
 すると、香里の唇が僅かに動く。
 北川はそれに耳を寄せる。

「……あ……め」

 囁きが漏れる。

「美坂?」

 再び北川が声をかけたとき、今度は香里の瞼がうっすらと開いた。
 その隙間から見えた瞳は、吸い込まれるような闇を映して、暗く沈んでいる。

「……雨って、こんなに暖かかったんだ……」

 視線を暗闇に漂わせて、香里が呟く。
 そして月光を背にした北川の黒い影を見て、かすれた声で囁いた。

「どうしたの……?」

 北川は黙ってそんな香里を見ていた。
 その姿がとても痛々しくて声がでない。
 冷え切った香里の手のひらが北川の頬をそっと撫でる。
 香里は湿気を帯びた温もりを指先に感じて、その影に問うた。

「栞? どうして泣いてるの?」

 そう言って、香里は微笑む。
 北川は思う。
 美坂は泣くことがないのだろうか?
 こういうとき泣いてくれたら、オレは美坂のためならなんでも出来る気がした。
 しかし香里は、ただ穏やかに微笑みをたたえている。
 北川はいたたまれなくなって、顔を背けた……。

 そんな北川の姿を見て、香里が再び囁く。

「栞……」

「美坂っ!」

 香里の言葉を、北川の叫びが遮る。
 ビクッと身体をふるわせて香里が我に返る。
 香里の瞳が光を取り戻し、北川の姿を映した。

「北川……君……?」

 香里の戸惑うような声。

「あぁ……」

 短い北川の声が震えていたのに、香里は気づいただろうか。

「…………」

 香里は無言で、北川を見つめた。

「……ごめんなさい。あたし……」

「いいんだ……」

 北川は香里の謝罪の言葉を遮るように言うと、香里を抱いている腕に力を込めた。
 しばらくの沈黙の後、香里はほぉーっと息をついて、北川の胸に顔を埋めた……。



 川面をわたる風が、霜の降り始めた河原の枯れ草をやさしく撫でる。
 僅かに氷の香りがする空気が二人を包み込んでいった……。



第7話へ続きます