7

 乾いたアスファルトの歩道を、霜が白く覆っている。
 降り注ぐ街灯の青白い明かりを浴びて、キラキラと輝く。

 二人は人通りの消えた住宅街を歩いていた。
 あれから随分長い時間かかって、ここまで辿り着いた。香里の足の怪我は思ったより大したことは無いようだった。北川は、なるべくその足に負担をかけないように、香里に肩を貸し、半身を抱きかかえるようにして、ここまで歩いてきた。

 間近に迫る香里の横顔と、息づかい……。
 その頬にはぬくもりが戻り、薄紅色に染まっている。
 しかし瞳は悲しみをたたえ、暗く沈んだままだった。

 香里は歩きながら、北川に栞のことを語っていた。

 幼い頃の懐かしい想い出のこと……。
 栞の病気のこと……。
 繰り返される入退院のこと……。
 そして……。

 すべてを北川に話し終えたとき、香里は無表情だった。
 北川は黙って、その話を聞いていた。
 しかし、妹に嘘はつけないと語ったときの香里の悲痛な横顔が胸を締め付けた。
 美坂は妹に、この事実を告げるのだろう。
 いや自ら伝えなくても、訊かれたら事実を語らざるを得ない。
 北川は、これから姉妹を襲う過酷な運命の事を思うと胸が痛んだ……。


 果てしない静寂の中、二人の靴音だけが住宅街にこだまする。
 コツコツと、高く低く……。
 たまに引きずるようなノイズがそのリズムに、妙なアクセントを加える。


 しばらくの沈黙の後、香里が冷たい声で言う。

「栞はもう助からないわ……」

 白い息が、黒い闇に溶けていく。

「……奇跡でも起こらない限り」

 口元にふっと自嘲の笑みが漏れる。
 医者でさえ見捨てた病気……。
 今更、あたしに何が出来るのか……。
 あたしにできる事は、奇跡を祈ることくらいだ。
 そう香里は考えると、自分の無力さがおかしくなった。


 それを聞いて、今まで黙っていた北川が重い口を開いた。

「起こるさ……」

 かすれた、しかしはっきりと意志の通ったその声が、白い息とともに香里の前髪をそっとゆらした。

「でも……」

 香里は言う。

「起こらないから、奇跡っていうのよ」

「起こるから奇跡っていうんだ」

 香里は、間髪を入れずに否定されて、思わず北川の横顔を見上げた。北川の瞳は足下の闇を見つめていたが、その奥にはなにか力強いものが感じられた。

「どうして……」

 香里が訊く。


「美坂は童話、好きか?」

 突然訊かれて、香里は視線を落とす。
 嫌いではなかった。
 しかし過酷な現実を突きつけられて、今更甘ったるい奇跡の連続する童話など興味はなかった。

「……嫌いよ」

 香里は、そう答えてため息をつく。

「オレは、好きだ」

 北川が言う。

「特に、ハッピーエンドなのがいい」

 そう言った北川の横顔が、まるで子供のようで、クスッと香里が笑う。

「おかしいかな……?」

 北川が香里を見て訊ねる。

「うぅん……」

 香里は小さく首を振る。
 北川は再び視線を足下に落とすと語り出す。


「でもな、そういうお話は、大抵初めは不幸なんだよな……」

 物語の始まりは、大体同じ様なものだ。
 求めるものが初めっから無かったり、途中でそれに気づくかの差はあるが目指すものは一つ……幸せな結末だ。

「お話の中で、みんなが幸せを求めて、自分なりに右往左往する。端から見たら滑稽かも知れないけど、やがてそれが奇跡を起こして、幸せになれるんだ……」

 香里は黙って北川の言葉に耳を傾けていた。
 香里は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


「なぁ……美坂」

 北川が視線を闇に向けたまま、香里に訊く。

「ん……?」

 短い香里の答え。
 まるで、それを確認したかのように、北川は頷いて言った。

「人は辛い現実をしっかり見ることで、初めて奇跡を願うようになると思うんだ……」

 奇跡の始まりはいつも辛い現実だ。
 でも、願わなければ奇跡など起こりようがない……。

「だから、美坂が妹に現実を伝えることには、意味があると思う」

 北川はそう言って、香里の横顔を見つめる。
 香里はしばらく黙って俯いていたが、やがて力無く頷いた。


「それにな……オレ達には奇跡を祈ること以外に出来ることがある」

 北川は、今度はしっかり前を見据えていった。

「なに……」

 香里が足下に視線を落として、力無く訊ねる。

「信じることさ……」

 北川は思う。
 あの商店街で佇む水瀬の瞳が、教えてくれたこと……。
 それは、「信じること」だった。
 底知れぬ不安と悲しみの中でも、水瀬の瞳が力を失わなかったのは、信じていたからだった。
 オレや美坂との絆を……。
 そして、オレも美坂との絆を信じたから、あの場所で美坂に会えた。
 絆を、そして美坂の笑顔を信じて、オレは走った。
 そして奇跡は起こったんだ。

「…………」

 香里は黙って俯いた。
 その肩が、僅かだが震えたような感じがした……。

 

 

 角を曲がって、ゆるい下りの直線の道に出る。
 香里の家はこの先だった。

 香里がそっと北川の身体から離れる。
 支えを失って、一瞬よろめく。
 北川がのばしかけた手を、香里が大丈夫……と制して、体勢を立て直す。
 香里が後ろに続く道をチラッと見遣って言った。

「もう、近くだから……」

 北川が、苦笑する。

「さすがに、こんな夜中に男連れはまずいか」

「そうね」

 言って、香里が微笑む。
 それじゃあ……と呟いて、歩き出した香里を北川が呼び止めた。

「美坂……!」

 2、3歩、歩きかけて香里が立ち止まる。
 そしてゆっくりと振り返る。
 街灯に青白く照らされて佇むその姿は、月光を浴びて咲く薄雪草を思わせる。
 北川は言う。

「栞ちゃんは、白雪姫だ」


 香里は、ただ黙って北川を見つめた。
 そして、ふっと薄い笑みを浮かべると、冷たく言った。

「それなら、あたしは毒リンゴかしら」

 自分がこれからすること……つまり栞に死を宣告することは、白雪姫に毒リンゴを与えるようなものだ。
 それでも、自分を悪いお妃様に例えなかったのは、自嘲のためだった。
 自分にはお妃様ほどの強い意志はない。
 せいぜい毒リンゴくらいが適当だろうと、香里は思った。


 しかし、北川の答えは違った。

「美坂は、小人だ……」

 そう言う北川の瞳に、香里はなにか力強いものを感じた。
 物語の中で、白雪姫が生き返ることを信じて奇跡を待った小人達。
 ガラスの棺の中で変わらぬ美しさをたたえて横たわる白雪姫を見て、小人達は何を思ったのだろう。
 ふと、心細さが香里を襲う。
 これからの1か月、あたしは栞を目の前にして平静でいられるだろうか。
 奇跡を信じる事がどれほどの支えになるのだろうか。
 あたし一人じゃ……。


 香里は、静かに北川を見つめて言った。

「……6人足りないわ」

 北川の目が優しく笑う。

「オレがいる……それに……」


 北川が香里の背後を顎でさす。
 香里は振り返って、道の先を見る。
 家の前の街灯の下に、誰かが俯いて佇んでいるのが見えた。
 香里が目を凝らしたとき、その人影が顔を上げてこちらを見た。
 そして、ふらふらと2、3歩、歩いたかと思うと、突然こちらに向かって駆け出してきた。
 見覚えのある長い髪が、左右に揺れる。

 名雪だった……。


 走りながら名雪の瞳が香里の顔を見たとたんに潤み始める。
 名雪の駆け抜けた空間を、青白い煌めきが漂った。
 名雪は、勢いを緩めることなく、香里の胸に飛び込んだ。

「香里っ、香里!」


 香里は、すこしよろめいて名雪を受け止めた。
 胸の中で、自分の名前を呼んで泣き崩れる名雪の髪をそっと撫でる。
 まるで氷のように冷たいその髪を暖めるように、香里は名雪が泣きやむまでそうしていた……。



 北川は、そんな二人の姿を黙って見守った。
 オレ達なら何とかやっていける。
 そう信じたかった。



 やがて、名雪は落ち着くと、香里を支えて歩き出す。
 その姿を見送っていた北川が、ふと思い出したように声をかける。


「美坂!」

 香里が名雪に支えられて、肩越しに振り返る。

「……もし、王子様が現れたら……、しっかり導いてやるんだぞ」

 そう言うと北川は振り返り、肩越しに手を振って、ゆっくりと歩き出した。


 名雪は首を傾げたが、香里は去っていくその後ろ姿が見えなくなるまで、その場所に佇んでいた。


 冬の夜空を駆けぬけた猟師の姿が、西の空に大きく傾いている。
 入れ替わりに、東の空では季節はずれの春の星々が輝き始めていた……。

 

 

 次の日、香里は病院のホールで退院してくる栞を待っていた。

 待合所のざわめきから逃れるように、玄関脇の柱に寄りかかって、白い床に視線を落とす。
 ガラスを通して射し込んでくる冬の日射しが、やわらかく壁や天井を照らしている。昨日の夜、挫いた足は少し腫れていたが、歩けないことはなかった。

 やはり、自分が行かなければならない……。

 香里はなぜか、そんな気がした。


 白い廊下の向こうから、笑い声が聞こえてくる。
 本当に楽しそうな声……。
 そういえば、今日はクリスマス・イヴだった。
 なんだか、久しく忘れていた気がする。

 声の聞こえる方に視線を移すと、栞が顔なじみの看護婦さんと楽しそうに話しながら歩いてくる。その雪のように白い肌が廊下から射し込んでくる陽光に照らされて輝いている。香里は眩しそうに、目を細めてそれを見ていた。
 そして、悲しくなった……。
 つい先程のこと……。
 病室で退院の片づけをしていたときのことを、香里は思い出していた。



 最後の検査があるからといって、看護婦さんが病室に栞を呼びに来た。
 検査? 何のために?
 一瞬香里は呆気にとられたが、次の瞬間怒りがこみ上げてきた。
 うんっと嬉しそうに返事をして病室を出ていこうとする栞に、香里が何かを言いかけたそのとき、看護婦さんが二人の間に入った。
 そして、軽く首を横に振る。
 香里は知る。
 知らないのは、結局栞だけなんだ……と。


 一人残された病室で香里は、息が詰まりそうになった。
 外の空気を入れるため窓際に駆け寄る。
 開け放たれた窓から、冷たい風が吹き込んできた。


 パラパラ……。

 その風が、机の上に山積みにされていたスケッチブックのページをめくる。
 一番上にあった、真新しいスケッチブック……。
 香里がつい先日買ってきたものだ。

 パラ……。

 風が止む。

 そのスケッチブックに書かれていた、たった一つの絵。

 それは二人で飾り付けをしたクリスマスツリーだった……。



「お姉ちゃん!」

 栞の明るい声が、ロビーに響く。

「お待たせしました」

 そう言って、ペコリと律儀にお辞儀する栞を見て、香里は優しく微笑んだ。
 もうこんな所にはいたくない。
 香里は、一刻も早くここを立ち去りたかった。


 香里はお世話になった看護婦さんに、軽く挨拶をして、栞を振り返る。

「行こっか」

 香里がそう言うと栞は
「うんっ!」
 と、大きく頷いた。

 その肩には、一年前の誕生日にプレゼントしたストールを羽織っていた。
 パタパタと心地よい靴音をロビーに響かせて、栞が玄関の自動ドアへ向かって駆けていく。


 その時、あとを追って続く香里の視界に、あのクリスマスツリーがはいった。
 香里が無言で目をそらす。


 自動ドアが、音もなく左右に開く。
 吹き込んでくる風に、栞のストールが、ふわっとなびいた……。



 栞は勢いよく外に飛び出した。
 そして立ち止まって、辺りを見回す。
 雪景色を期待していた栞のその横顔を、わずかな失望がよぎった。

 ここ数日の暖かさで雪はほとんど溶けていた。
 そこにあったのは、モノトーンが支配する乾いた世界だった。

 栞は、それを見てぽつりと呟く。

「雪が降ればいいのに……」

 隣にいた香里が、空を見上げる。

 しかし、空はどこまでも青く、悲しいほど、なにもなかった……。

 栞は、プロムナードに繋がる玄関の階段を駆け下りた。


 レンガの敷き詰められたプロムナードには、陽光が降り注ぎ、白い日溜まりができている。
 栞は階段を駆け下りると、その日溜まりの輪の中に歩み出た。
 白い陽光が栞を包みこむ。
 そして栞は何かに思いを馳せるように、目をつむる。その姿は、まるでスポットライトを浴びて開演を待つ役者のようだった。


「雪が降ればいいのに……」

 栞は再び呟く。
 そして、くるりと宙で反転して、まだ階段の上で立ちつくしている香里の方を振り返った……。


 栞の足が再びプロムナードのレンガに降り立つ。

 タン……。

 あたりに乾いた音が響きわたった。



 そのとき……。



 まるで、それが何かの合図だったかのように



 乾いた地面から



 雪が



 舞い上がった……。



 白い粒子が、透明な空に吸い寄せられるように、ゆらゆらと昇って往く。

 それは次から次へと途切れることなく、やがて栞を包み込み、空を白く満たしていった……。

 陽を浴びて白からプラチナへと輝きを増していく空間の中で、栞は香里を見上げてニッコリ微笑んだ……。



 香里は目の前の光景に目を見張った。

 それは、今まで見たことがないほどの、雪虫の大群だった……。

 雪虫達が、中空で煌めく白い太陽を目指して飛び立っていく……。



 栞は、まるで重力を感じさせないその空間の中、宙を舞うように軽やかにステップを踏んで、くるくると回り始めた。

 コツコツとプロムナードに響く靴音が、心地よいリズムを刻み始める。


「お姉ちゃん……」


 香里を呼ぶ栞の声が、遠い夢の中から聞こえたような気がした……。


「わたしの夢はね……」


     『むかしむかし、あるところに……』



「お姉ちゃんと同じ学校に行くこと……」


     『……ねえ』



「お姉ちゃんと同じ制服を着て……」


     『なあに?』



「一緒に学校に通って……」


     『……あるところって、どこ?』



「お昼ご飯を一緒に食べて……」


     『とおいとおい、ところよ……』



「学校帰りに偶然会って……」


     『とおいところ?』



「商店街で遊んで帰る……」


     『そうよ』



「……春になったら……」





「『……わたしにも行けるかな?』」



 栞はくるくると回りながら、羽織っていたストールの端を両手でもつと、パッと羽のように広げた。それはまるで、季節はずれの雪原に舞い降りた蝶のようだった。

 儚げに舞う、その姿を見て、香里は思わず駆け出した……。



 ゆらゆらと舞い上がった雪虫達は、やがて青い空に溶けるように消えていく……。

 香里は栞が雪虫達の後を追って、このまま空に昇っていってしまうような気がした。

 自分の手の届かないどこかへ……。


 気がつくと香里は栞を抱きしめていた。

「お姉……ちゃん?」

 栞が呟く。

「お姉ちゃん……苦しいよ」


 乾いた地面に栞だけを残して、雪虫達は風の中に消えていった。

 空に青が蘇り、空間は再びモノトーンに染まり始める……。

 


最終話へ続きます