8

 パタン……。

 香里が部屋のドアを閉じる。
 そして、栞の部屋の方をちらっと見る。
 そこにはただ静寂があった。

 あの日、香里は栞に現実を告げた。
 それから栞はずっと自分の部屋に引きこもっている。

 香里は、無言で栞の部屋を横切り、玄関へ向かう。
 あれ以来栞と話をしていなかった……。

 今香里は、名雪や北川のおかげで、なんとか辛い現実を目の前にしても平静を保っていられる。
 しかし、もう昔のように栞に対して笑顔を見せる自信はなかった。
 香里は考える。
 もし、栞がいまのあたしを見たら、一体何を想うだろう。
 きっと、そこに自分の死の影を見るに違いない。
 あたしの存在が栞を悲しめることになる。
 そんな栞の姿は見たくない。
 それなら、いっそのこと……。

 香里は栞の存在を忘れることにした。
 大切な栞のそばにいられないこと……。
 それは香里にとって、身を裂かれるくらい辛いことだった。

 今更笑顔や慰めは何の意味も持たないのはわかっていた。
 それに頼るのは本当の最後の瞬間でいい。
 どうにもならないという最後の時は、また笑えるかも知れない。

 だが……。
 今はまだ諦めたくなかった。
 奇跡を信じたかった。
 そして、その時まで耐えることにした……。



 外に出ると、そこには一面の銀世界が広がっていた。
 どこまでも広がる澄み切った青空を見上げて、香里は深呼吸をする。
 青と白、そして透明の世界。
 香里には今のこの世界が、栞を包むガラスの棺のような気がしてならなかった。


 あの日、何かが終わったのは確かだ。
 そして何かが始まったのも確かだった……。


 香里は、視線を雪に覆われた道に落とすと、ゆっくり歩き始めた。



 冬休みになって、5日目。

 年末のあわただしい喧噪が、街を包む。
 そんな街の落ち着かない雰囲気に急かされるように、香里は足早に待ち合わせの喫茶店を目指していた。
 今日は名雪と買い物をする予定だった。


 カラン……。

 喫茶店のドアのベルが、お昼時混み始めた店内に響く。
 香里は窓際に空いてる席を見つけると、そこに腰掛けて、時計を見上げた。
 待ち合わせの時間を5分過ぎている。
 早かった……。
 香里は心の中で呟いた。
 名雪との待ち合わせなら、あと30分は大丈夫なはずだった。しかし、香里自身、約束の時間に遅れることはなんとなく落ち着かなかった。経験上名雪との約束はそれも踏まえて時間を決めているので、名雪が遅れてきても香里はそれほど気にしていなかったのだが……。

 香里は注文を取りに来たウェイターに、コーヒーを頼むと、テーブルに頬杖を着いて、街の景色を何となく眺めていた。

 見慣れた街の風景の中を、足早に通り過ぎる人たち……。

 喫茶店に流れるゆったりとしたメロディー……。

 身を包む心地よい温もり……。

 そういえば、最近寝不足だったな……。



 香里は、軽く瞼を閉じた。



 喫茶店のざわめきが次第に遠くなっていく……。

 

 

 微睡みの中……。

 あたしは、まだ幼稚園に入りたての栞に、絵本を読んで聞かせていた。

 やわらかな春の日射しが射し込む、ベランダの日溜まりに寝そべりながら、栞は真剣に絵本の挿し絵を見つめていた。


「『りんごはいらんかね』」

 あたしは、ならべく雰囲気を出すように声を低くして、しゃがれた老人のまねをする。隣で栞が、口元で遊ばせていた手をキュッと握りしめる。


「『ごめんなさい、私は誰も中に入れてはいけないの。
  絶対にしてはいけないって、小人達が私に言ったの』」

 今度は、かわいらしい若い娘の声。

「『そうかい、おまえさんが欲しくないなら無理にとは言わないよ。
  私はただこのりんごを全部片づけてしまいたいだけなのさ。
  さぁ、ひとつあげるから試しに食べてみるといい』」

 あたしは、さらに調子に乗って読み進む。

「『いいえ、だめなの。
  何かをもらってもいけないの。
  小人達がそうしてはいけないって言ったの』」

 うんうんと、栞が隣で頷いている。

「『そうかい、怖がっているんだね。
  それじゃぁ、このりんごを2つに切って、半分を私が食べよう。
  このきれいな赤い方をおまえさんが食べたらいい』」

 栞が、後ろに投げ出していた足をぱたぱたさせて、あたしに訊ねた。


「おねえちゃん、お妃様死んじゃうの?」
「ううん、お妃様はね、リンゴを半分に割って、自分は毒の入ってない方を食べるのよ」

 あたしは、そう答えると先を続けた……。


「……ところが、そのりんごのひとかけらが口に入ったとたん、白雪姫は地面に倒れてしまいました……」

 栞が、ぽかんと絵本を見入っている。

「しらゆきひめ、死んじゃった……」

 栞があたしを見つめる。

「死んじゃうわけないじゃない……」

 何度も聞かされた昔話の結末に飽きていたあたしは、ため息混じりに答えた。

「でも、しらゆきひめ、倒れちゃったよ……」

「大丈夫なの……」
「どうして?」

 頬杖をついてつまらなさそうに絵本に目を落としているあたしの横顔を、栞がのぞき込む。


「そんなの、決まってるじゃない……」

 あたしは、あきれるように答える。

 しかし……。
 次の言葉が続かなかった。
 栞を見る。
 その瞳は、なにかを訴えかけるかのように、せつなげだった。


「……そんなの、決まってるじゃない……」

 あたしは、繰り返す。
 その先にあるものは、だれもが望む幸せな結末のはずだった。
 そして、あたしの望むものは……。


「お姉ちゃん」

 栞が、そんなあたしを見て微笑んだ。
 優しく暖かく、まるであたしを見守るように……。



 その笑顔が、白い光に消えていく。

「栞……」

 日溜まりが温もりを失っていく。
 冷たい春の陽光が、一人になったあたしを責めるように照らし続ける。
 絵本の最後のページは結局めくられることはなかった。

 あたしは、栞のいなくなったその場所にいつまでも佇んでいた……。






「……り……おり、……かおり」

 誰かが呼ぶ声がする……。

 

 

「香里……」

 名雪が、香里の肩を静かに揺らす。

「名雪……?」

 香里は、まだ眠そうな瞳を名雪に向けた。
 どのくらい寝ていたのだろう?もたれていた喫茶店の窓ガラスが、息で白く煙っていた。


「香里……泣いてる?」

 名雪が、心配そうにのぞき込む。

「えっ!」

 香里は驚いて目の下を拭う。
 しかし涙の流れた跡はなかった。

「名雪……?」

 見ると、名雪が泣きそうな顔をしていた。

「……なんでだろ……香里が泣いているような気がしたから……ごめんね」

 名雪がうつむいて答える。


 香里は何と言っていいのかわからず、テーブルに視線を落とした。いつの間にか運ばれてきたコーヒーはすでに冷め切って、喫茶店の白い天井を冷たく映していた。


 すると突然、名雪が顔を上げて手を合わせる。

「ごめんね、もう遅れてこないから」

 泣きそうな笑顔を香里に向ける。
 香里は、ぷっと吹き出した。
 喫茶店の時計は待ち合わせの時間を30分ほど過ぎていたが、名雪にしては上出来だった。

「いいわ、許してあげる」

「うん!」

 名雪が無邪気に笑った。


 名雪は再び注文を取りに来たウェイターに、コーヒーとイチゴパフェを頼んだ。

「お詫びだよ」

 そう答える名雪は、なぜか嬉しそうだった。香里は出会った頃と変わらない名雪の無邪気な笑みに、何か懐かしいものを感じていた。

 あたしが、変わってしまったのかな……。

 香里が自問する。
 ふと、窓越しに外を見る。
 どこまでも青く透き通る冷たい空。
 冬の弱々しい陽光に、街並みは浅黄色に染まる。
 それは、まるで陽に透かしたセピア色の写真のように淡く輝いていた。



「名雪……」

 香里は、そんな外の景色を見つめたままつぶやいた。

「ん? なに?」

 名雪は初めてつけたカーキのバブーシュカを、しきりに気にしながら訊ねる。

「白雪姫の結末、知ってる?」

 突然の香里の問いに名雪は一瞬きょとんとしたが、気を取り直して答えた。

「うん、知ってるよ」


 カランカラン……。
 喫茶店のドアについている鐘が鳴る。
 お昼時を過ぎて、人影はだいぶまばらになっていた。
 そのせいか、すこし店内の気温が下がったようだ。
 クラシックを現代風にアレンジしたスローテンポな曲が空間を満たす。


「どうなるのかしら……」

 訊ねて、香里は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
 その姿が白く煙り出す。
 答えを待つように、香里はそっと目を閉じた。


「そんなの決まってるよ」

 名雪の楽しそうな声……。


「最後はね、

 王子様があらわれて、

 ふたりでずっと幸せに暮らしました、

 めでたしめでたし……、

 だよ……」


 名雪はまるで絵本を閉じるかのように胸の前で、ぽんっと手を合わせた。



 なんだ、そんな簡単なことだったんだ……。

 香里は夢から覚めたようにゆっくり瞼を開いた。
 そして、目の前で微笑む名雪を眩しそうに見つめた。

「ありがとう……」

「うんっ!」

 今はこの笑顔を信じてみようと思った……。

 

 

 

 

 

 あたしは夢を見ていた……。




 通い慣れた川沿いの通学路……。

 うららかな春の陽光のなかを、桜の花びらの舞う薄紅色に煌めく風に吹かれて、ゆっくりと歩む。

 隣には真新しい制服に身を包んだ栞がいる……。

「……だいぶ、あったかくなってきたね」

 栞は、そういうと耳を澄ますように目を閉じる。

「そうね……」

 あたしが言う。

「お姉ちゃん……」

「ん?」

「あのね……」

「……なあに?」

「……えと……やっぱり、なんでもない……」

「…………?」

 見ると、栞が白い頬を紅く染めている。

「えーと……」

「どうしたの?」

 あたしが、再び訊く。

「……手、つないでいい?」

「ふふ……いいわ」

 そう言うと、栞は照れくさそうに、軽く手を握ってくる。

 栞が、あたしを見上げてニッコリ微笑む。

 あたし達は川のせせらぎに耳を傾けながら、流れる雲をなんとなく眺めていた。



「よぉ、美坂」

 後ろで、聞き覚えのある声……まだ、去年までの癖が抜けないようだ。

 あたし達は、そろって振り返る。

 それを見て、彼は苦笑する。

「おはようございます、北川さん」

 栞がぺこりとお辞儀する。

「おはよう、栞ちゃん……香里……」

「おはよう……」

 あたし達は、挨拶をすませると3人並んで歩き始めた。

 いつものたわいない日常会話に花が咲く。



「かおり〜」

 通学路が街中に差し掛かったとき、前の方であたしを呼ぶ声がした。

 名雪だった。

 そして、その横には、もう一人……。

「あっ!」

 栞はその人を見て、嬉しそうに駆け出した。

 あたしは、ため息をつく。

「本当に、男を見る目がないわね……」

「まったくだ……」

 となりで、北川君が同意する。

 そしてお互い顔を見合わせて吹き出すと、栞の後を追った。



「おはよ〜、香里」

 のんびりした名雪の挨拶。

 あたしは、随分賑やかになった顔ぶれを眺める。

 栞、北川君、名雪、そして……。

 この5人が一緒なら、少なくともどこへ行っても退屈だけはしなさそうだった。

 あたし達は、賑やかに歩き始める。



「あのね……」

 名雪がのんびりと言う。

「……時間ないよ」

 そう言って、腕時計を突き出す。

 みんながそれをのぞき込む。

「ぐぁ……名雪、それを早く言え」
「水瀬……おまえってヤツは……」
「名雪さん……」
「名雪……」

 非難の視線が名雪に集中する。

 それを見た名雪は

「くー……」

 寝ていた……。



 みんなが、一斉に駆け出す。

「うにゅ……、待ってよ〜」



 うららかな春の陽光のなかを、桜の花びらの舞う薄紅色に煌めく風に吹かれて、あたし達は駆け抜けた……。










 あたしは、思う。










 奇跡は、決して目には見えない


 触れてみて初めてその存在に気がつく


 透明なガラスのようなものなのかもしれない


 ……と。








 


皆さんの「Kanon」へ続きます

 

 

 

 

 

あとがきとお礼

この長いお話に、最後までお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。
言葉では著せないくらい、嬉しいです。
今回は、登場人物の細かな仕草や表情、冬の情景を、
力及ばずながら自分なりに丁寧に書いてみました。
それらのうち、少しでも皆さんに何か感じて頂けたなら幸いです。

いままでの幻の作品に感想を頂いた方々に、
この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
今回の作品は、皆さんの感想を励みにして
書き上げることができたと思います。

なお、この物語はKeyさんのHPに
投稿したSS「ガラス色の奇跡〜プロローグ香里〜」を、
細部修正したものです。

最後に、皆さんの「Kanon」で、
香里の望む奇跡が実現することを信じて……。


 1999.11 幻