冬の匂い

 

 

 ――朝――

 秋の温かい陽射しが、アスファルトの大地を優しく照らしている。

 まだ人もまばらなこの時間、ゆっくりと街が動き出す。

 そんな情緒たっぷりの朝に、歩道を爆走する影があった。

「間に合えッ!間に合えッ!間に合えぇッ!」

 なぜか両手で操縦桿を握っているようなポーズを取りながら(気分的に早くなったような気がする)、決死の形相で陸橋を渡り終える。

 彼の名は浦木康一。東峰高校(とうほうこうこう)に通う1年生。どこにでもいる健全な普通科男子高校生である。

「見えたッ!」

 移動用車両とのランデブーポイント(要するにバス停)を捕捉し、一気に加速する。

 今まさに後部のハッチ(要するに入り口)が閉じようとしたその時、

「ザ・ワールド!時よ止まれッ!」

 気分的にモノクロの背景の中(あくまで主観的な現象)昇降口にすべりこむ。

「……そして時は動き出す」

 プシュー

 ちょうどいい感じでドアがしまった。額の汗をぬぐうと一息つく。

「ハアハア、今日は勝って生き残った。だが、明日は……」

 今日を生き延びた幸運に感謝しつつ、明日の戦場の過酷さを思い浮かべて憂鬱になっていたその刹那、

 ゲシィッ

「朝から何やってんのよッ!」

 振りかえると、ショートカットの少女が立っていた。両手にはカバンを振り上げ、今まさに第2撃を加えようとしている。(おそらく先ほどの後頭部への打撃はこの凶器を用いたのであろう)

「やあ、おはよう村崎さん」

「良くこの状況でさわやかに挨拶できるわね……」

 ショートカットの彼女は村崎美奈(むらさきみな)。浦木のクラスメートで、部活も同じである。

「朝のあいさつは重要さ。どのくらい重要かというと、これを怠ったが為に解任の憂き目にあった歴史上の人物は数知れず……」

「そんな人知らないッ!またワケわかんないこと言って、朝っぱらから浦木節を炸裂させないでよ」

「人を演歌歌手みたいにゆーなッ!(演歌歌手の皆さんに失礼)」

「フフ、朝から元気ね〜2人とも」

 バスの後部にある横長の座席から、天使のような微笑が舞い降りた。背中まであるさらさらの髪がバスの窓越しの朝日を受けて輝いている。少なくとも浦木にはそう見えた。

「お、おはようございます!弓先輩!」

 突如『きおつけ』の姿勢をとり、しどろもどろになりながら敬礼する浦木。あからさまな男だ。

「おはよ〜それより座ったら?バスの運転手さんが困ってるわよ〜」

 見るとたしかに運転手がこちらをじろりとにらんでいる。その目は『とっととすわらねえかこのガキども!ッたくこのごろの若いもんは……』といいたげであった。

 浦木、村崎の両名はしぶしぶと席につく。

 1年先輩の弓小枝子(ゆみさえこ)を真ん中にして、右手に美奈、左手に浦木が座る。いつものポジション。3人は東峰高校の映像研究部で、もともと弓が朝から部室を開けるために早出していたのだが、美奈が「あたしも行きます」と言い出して、浦木もそれに便乗したのであった。

 ちなみに美奈はもともとバス通学で、早起きするだけですんだが、浦木は結構遠回りしてバス停までやってくる。それというのも……

「もう、そこまでして弓先輩と一緒のバスが良いわけ?」

「な、なにを言うんだ村崎さん。ボクはただこの『映研仲良し三人衆』で一緒に通学したいだけさ」

「変な名前付けないでよッ、弓先輩が困るでしょう」

「あら〜、いいじゃないの仲良しで〜。それとも〜、あたし達仲悪いの?」

 後半、目をウルウルさせながら小枝子が言う。色白の肌にほっそりとした身体。純和風美人の彼女は浦木のあこがれである。その独特の間延びしたしゃべり方がまたたまらない。

『い、いえいえ。とっても仲良しですよ〜』

 とってつけたような笑顔で、ぎこちなく握手をかわす浦木と美奈。どこかそれは冷戦状態の大国同士が表面上はフレンドリーな関係を保っているのに似ていた。

「よかった〜」

 安心してニッコリ微笑む小枝子。見ている者全てに安堵感を与える微笑だと浦木は信じて疑わない。むしろ彼にとってはある種の麻薬とも言える。彼女めあてに入部したとしても、彼を責めるのは酷というものだろう。

「東峰高校前〜東峰高校前〜」

 そんなこんなしているうちにバスは高校の前についた。バス停から目の前のあって非常に分かりやすい。

「さ、いきましょ〜」

 三人はそろってバスを降り、まだ生徒もまばらな校門をくぐるとまっすぐ映研の部室へ向かった。

 朝の学校は静まりかえり、まるでひとっこ一人いないゴーストタウンのようだ。自分たちの足音だけがこつこつと床を叩く。浦木はふと、もしや本当にこの学校には自分たちだけで、他の人間はなにか超常的な理由で(異次元にのまれるとかシェルターに避難しているとか)いないのではないかと思ってしまった。

(そうッ!いっそ地球上にボクたち三人だけとか。そして子孫繁栄のためにボクは貴重な『オス』として他の2人を交互に……おおうッ!空クジ無しのユートピアがいまここに!ビバ!人類滅亡!)

「なにが『ビバ!』なの?」

「ハッ!?しまった、後半の上昇したボルテージが本人の意識に反し言語中枢を刺激して言葉となって口を割ったか?」

「……その説明からするとそうとう変な事を考えてたようね……」

 もううんざりと言った顔でガックリしている美奈。2学期ともなればもうそれなりに長い付き合いだ。浦木がどんな人間かはおおよそ把握しているのだろう。

「変じゃあないさ。ボクはボクなりに人類の事を考えていたんだよ」

 人類滅亡を渇望していた男とは思えない台詞をはく。

「ふ〜ん」

 猜疑心満載のまなざしで見つめる美奈。そんないつもの会話をしながら、部室の前に到着する。

 小枝子はカギを所持しており自由に部室を開ける事ができる。(ちなみにスペアキーを作っていることは学校側には秘密である)そして……

「……いつもながらすごいですよね」

 部室内に広がる光景を眺めながら村崎がつぶやく。

「また片付けないといけないわね〜」

 慣れているのか、変わらぬ口調で小枝子が応えた。

 それもそのはず。部室の中は乱雑に置かれたカメラや三脚で埋もれており、使い古しのフィルムもそこら中に転がっている。あまつさえ、教科書や音楽、美術セットなのどいわゆる『私物』も散乱していた。

 本来それなりに奥行きのある部屋も、半分以上が足の踏み場も無い状態になっていた。

「いいじゃないか。このぐらい散らかってる方が落ち着くって」

「そんなのアンタだけよ!」

「フ、この一見ただ放逐されているだけのように見える機材達だが、実は機能的かつ実用的に計画性をもって並べられて……」

「うそつけ!」

 見苦しい言い訳をする浦木をばっさりと切り捨てる美奈。2人は普段からこう『ボケとツッコミ』を演じているのだった。どちらがボケかは言うまでも無い。

「そうだったの〜私はてっきりただ片付けが下手なんだと〜」

 ボケはボケでもこっちは『天然』のようだった。

「弓先輩ッ!真に受けてどーすんですか。こいつの意見をまともに聞いちゃダメです!」

「ほほう、いいのかな?実はボクのこの意見は『ある御方』の受け売りなんだが」

「ある御方?」

 美奈が頭に?マークを浮かべていると、

「おはよう諸君。相変らず早いな」

 と言いつつドアをくぐってきたのは、浦木と同じ制服に身を包んだ男である。校章の色から見て3年生のようだ。180センチの長身とさわやか系の笑顔が好印象である。

「おはようございます!天田先輩」

「おはよう美奈ちゃん。朝から元気だな」

 あきらかに天田が入ってきてから元気度が120%ほど増したのだが、神ならぬ身の天田は知る由も無い。

 天田は映研の部長で、この4人が実質的なメインメンバーと言える。他の部員も何人かいるが、気の向いたときにやってくる幽霊部員だったり、撮影時のヘルプだったりする。

 浦木と美奈は、1学期のクラブ紹介のときに、映研紹介でのフィルム上映にすっかり心を奪われて即入部したのだった。

 もっとも、浦木は正確には小枝子に奪われたのだが。そして……

「(ボソッ)自分だって、天田先輩がめあてで入ってきたくせに」

「ン?なんか言った」

 ギランッ!ビクウッ!

 にらみつけてくる美奈。ヤンキーの少ないこの学校では、おそらくトップクラスのガンつけだろう。浦木ももうタジタジである。

「天田先輩からも言ってやってくださいよ。浦木ってばこの部室の惨状を見てなんとも思わないんですよ」

 浦木には決してかけない甘えた声を出す村崎。だが、帰ってきた言葉は予想を裏切って余りあるものだった。

「いいじゃないか。このぐらい散らかってる方が落ち着くって」

「へ?」

「この一見ただ放逐されているだけのように見える機材達だが、実は機能的かつ実用的に計画性をもって並べられて……」

 ガックリとうなだれる美奈。そこへ勝ち誇ったように浦木が、

「フフ、わかってくれたかね?村崎君。これで賛成2、納得1で可決だ。ここは多数決国家だからな」

 かなり極論じみた論法で自分の優位性を主張する浦木。美奈はもうグウの音も出ないかに思えたが、

「ふっふっふ……」

 にやりと唇を引きつらせる笑いを浮かべながらグッと拳を握り、

「負けないわ!負けるもんですか!村崎美奈は強い子なんだから!」

 気合の入った叫びに、思わず拍手を漏らす三人。恋は盲目。いや、見えていても強引に見えないフリをするパワーを与えてくれるのかも知れない。

「うう、つようなったな。お父ちゃんは嬉しいで」

 ハンカチで目頭を押さえる浦木。

「おい二人とも、強くなるのは結構だがそろそろチャイムがなるぞ」

『は〜い』

 遊んでいるうちに時間がきたらしい。こうしていつもどおりの朝が過ぎ去っていくのである。

 

 

 その日の放課後、映研は校内でロケを行なっていた。タイトルは『冬のにおい』脚本、監督、演出は部長である天田がつとめている。

 ストーリーは、少しずつ風が冷たくなってくる季節の中、遠く離れた想い人が忘れられない女と、彼女をそれでも追いかける少年の淡いラブストーリー。ラストは遠くの想い人からの電話を取り、静かに涙を流すシーンで幕を閉じる。

「よし、準備はいいか?良ければ屋上のシーンを始める」

 カメラを覗く天田は真剣である。彼は映像関係の仕事につくのが夢らしく、卒業後も専門学校へいくそうだ。この作品は高校生活最後の物になる予定だ。

『ハイ。OKです』

 カメラの前の2人が声をそろえる。ヒロインはもちろん弓小枝子。そしてその相手役とも言える、彼女を追いかける後輩が浦木康一である。

 別にこのキャスティングは狙ったものではない(なにせ浦木達が入ってくる前から書き始めていたのだから)。狙ってはいないが、当の浦木は気が気ではない。

(ハアハア、小枝子先輩の相手役ッ、これを機にプライヴェートでも相手に……でも、この役最後にはフラれるんだよな〜)

 結末が分かっているだけにむなしい。プライヴェートでもそうなってしまったらきっと浦木は立ち直れないだろう。

「では浦木の台詞からいくぞ。始め!」

 ここは冬をひかえた校舎の屋上。放課後の空はもう日が落ちかけ、肌寒い風が吹いている。南(役:弓小枝子)が手すりからグランドを眺めている。

「またここにいたんですね」

 北村(役:浦木康一)が後から声をかける。その声は優しくもあり、どこか寂しげでもある。

「北村君……」

 振りかえった南は微笑んで見せた。普段の小枝子とはかけ離れた演技に、北村(浦木)は思わずドキッとした。さすがは映研の看板女優である。

「ここ、あの人が好きだったの。春はあったかいし、夏は涼しいのよ。秋は景色がきれいだし……」

「でも冬は寒いですよ」

「そうね……」

「南さん、ボクじゃ、ダメなんですか?」

「北村君……」

「ボクには、南さんのそばにいる資格はありませんか?」

 そっと南を抱きしめる北村。いや、浦木はもはや演技ではなかった。

(クウ、俺は今モーレツに感動しているッ!このさらさらの髪もッ、すべすべの首筋もッ、やわらあったかい身体もッ、今この瞬間は俺のものだ〜!この世に芝居というものを考えてくれた人ありがとう。脚本を書いた天田先輩ありがとう。そして神に感謝。我が生涯、一片の悔い無しッ!)

 天に向かって拳を突き上げたくなる衝動をグッとこらえて、浦木は小枝子の次の台詞を待った。

「ごめんね。北村君」

 そっと腕の中からこぼれおちる南。

「私こそ、あなたにそばにいてもらう資格なんて無い。私は、ずるいもの」

(おや?)

っと浦木は頭にハテナマークを浮かべそうになって慌てて踏みとどまる。今は本番中だった。しかし、

(台詞が違う……)

 たしか台本では、南は「私は、あの人が忘れられないの……」と言って屋上から駆け去っていくはずなのだが。

「私は卑怯者なの。自分からは好きだって言わないで、あの人に気づいてもらうことばかり考えてた。ダメだった時のことが怖くって……」

 小枝子の芝居は真剣そのものだ。見ている者全てが飲みこまれてしまうほどに。その証拠に、天田もストップをかけれずにた。

「だからただあの人のそばにいたくって。こっちを見てくれなくてもいい、必要としてくれなくってもいい。あの人の見てるものを私も見たい、感じたいの。それだけなら、誰も悲しまずにすむもの……」

「それは違うよ……」

 浦木は思わずつぶやいていた。彼女の言葉が心の中で渦を作っている。それが激流となってぶつかり合い、彼を突き動かしていた。

「そんなのおかしいよ。間違ってるッ」

 だんだん語気が荒くなる。

「北村君……」

「だって、だって君は、泣いてるじゃないか!」

 うつむく小枝子の頬に、いつのまにか涙が伝っていた。

「ごめんなさい……」

 言い残し、小枝子は屋上の階段を駆け下りていった。

 涙はとどまる事を知らず、ただ静かに流れるのみだった。

 

 

「一体どうしたんだろう……」

 機材を撤収しながら、浦木は駆け去っていった小枝子の事を考えていた。

 あの後、小枝子はそのまま帰ってしまったらしい。気の乗った演技だと思っていた天田はその段になって始めてあわてた。

「わかんないわけ?はあ〜、これだから男は」

 機材を部室に運びこみながら、美奈があきれたようなため息をつく。

「なんだよ、村崎はわかるのか?」

「わからいでかッ!」

 自信満々にポーズを決め、その勢いで機材を床にどしんと置く(精密機器は大事に扱うように)。今日は片付けが終了次第解散となっていた。

 それというのも部長の天田が「ちょっと急用を思い出した」といかにも不自然な理由で帰ってしまったからだ。よって今は美奈と2人きり。

「教えてくれよう〜ボクだけ仲間外れなんてずるいゾウ。仲良し3人衆じゃないか」

「ど〜しよっかな。女の子の秘密だし〜」

(ぬう、もったいつけおって)

 ここで引き下がるわけには行かない。両手を合わして引き下がる。

「そこをなんとかッ!」

「あたしおなかすいちゃったな〜」

(そうきたか……)

 どうやら彼女は物品的要求をつきつけてきたようだ。決まったバイトをしていない浦木の経済状況は発展途上国以下だったが、背に腹はかえられない。

「なら、商店街のワッフルでどうだッ!」

「二つね」

「チイ、足元を見やがって……」

「いいのよ?別にあたしは〜」

「ああ〜分かりました。おごらせていただきますですはい(トホホ)」

「分かればよろしい」

 契約成立。そうと決まれば二人の行動は早かった。機材整頓もそこそこに部室を閉め、校門をくぐってすぐの商店街に向かう。

 その道中、美奈は自分の推論を得意げに語って聞かせた。

「つまり、弓先輩は役の『南』とシンクロしちゃったわけよ」

「シンクロ?この時期に水泳とは無謀な」

「違う!人が真剣に話してあげてるのに、阿呆なボケは入れないで!」

「スマン。生来のくせか、考えるより先に口が動いてしまった。おそらくは昆虫の脊髄に走る『梯子状神経』のように、それ自体が独立した脳みそのように働いた結果だろう」

「アンタは無脊椎動物か……まあいいわ。いまさら驚く事でもないし」

「いやあ納得されても」

 それはそれで困るのだが、美奈は構わず話を続ける。

「要するに、弓先輩の置かれてる状況が、南と似てたから、思わず自分の事として話しちゃったんじゃない?途中から台詞変わってたし」

「じゃあ弓先輩も男に置いてけぼりにされたのか?」

「フフ、正確には『ING』って所かな」

 いたずらっぽく微笑む美奈。

「現在進行形?」

「そ、今まさにって感じ?」

「しかし、弓先輩を置いてけぼりにしようなんてとんでもない奴だな。見つけたらボクの真っ赤に燃えるこの手でヒート・エンドしてやるッ!」

 なんとなく右手を硬く握り締める浦木。個人的主観では拳の甲に紋章が浮かび上がってピカーンと光っている。

「いいのかな?そんなこと言って。先輩にそんな事ができるの?」

「先輩って、まさかッ!」

 鈍い浦木でもようやく気づいたのか、ここに、

 愛しい想い人→遠くに行ってしまう人→卒業→天田先輩

 ……の方程式が成り立った。

「なんてこったい。半年近くいっしょにいてゼンゼン気づかなかったよ」

「まったくもう。当の天田先輩もちっとも意識しないんだもん。見ててイライラしちゃった」

「しかし、君にしてみれば憧れの天田先輩がそう言う事になってしまうのは望ましくないはずだが」

「バカね、あたし達が入学する前からあの2人ずっといっしょだったのよ。いまさら割りこむすきまなんてないわ。ああ、それでもまじめに部活してるあたしってなんて健気なんでしょ。よよよ……」

 わざとらしく泣き崩れる美奈。さすが東峰高校映研の時期看板女優である(もっとも、女子部員は二人しかいないのだが)

「フ〜ン。そう言うもんか」

「そういうもんよ。あッ」

 おめあてのワッフル屋を発見。美奈はさっそく作戦行動に移った。

「二つください。プレーンで」

 アツアツのワッフルが鮮やかに袋に包まれる。店員に料金を払う間も、浦木はその事について考え中だった。

 なぜ弓先輩は告白しないのか。

 なぜ美奈は告白しないのか。

 二つの理由は似ているのか、まったく別物なのか。浦木には予想もつかない事態だった。

「こういうときに自分の無力さをひしひしと感じるよ」

「こういうことに有力でも困るんだけどね」

 ハフハフとワッフルにくらいつきながら、美奈がまるであやすように言ってくれる。ひょっとしたら慰めてくれているのかも知れない。

 どうやら、浦木は失恋したらしいからだ。

 さっきからごねごね考えているのも、その事実を受け入れまいとする本能のあらわれかもしれない。そんな自己分析をしているところへ、問題の当事者から声がかかった。

「おお、二人とも帰りか。弓君を見てないか?」

「天田先輩。まだ弓先輩は見つかってないんですか?」

 たまたま通りかかった天田が声をかけてきた。もう冬が近いというのに汗びっしょりになっている。あれから小枝子を探しつづけているのだろう。

「家にも帰ってないみたいだし、一体どこへ行ったんだろう」

 まだ小枝子が帰っていない。この事実から、浦木の無限に近い想像力はさまざまな事象を連想し、とある結論にたどり着く。

「なんてこったぁ。そんな大変にことになっているなんて!くはあッ!ハッ、いかん、いかんぞッ!止まれ!ボクの想像力よ!ストップ・ザ・マイ・マインド!」

「またか?浦木は」

「いつもの発作です。気にしないでください」

 街中で「くはあ!」とか言い出して身もだえしている浦木から2メートルほど距離を置き、美奈と天田は彼が落ち着くのを待った。

「こうしちゃいられない!天田先輩。ボクも探します!」

 ようやく建設的な方向にそのエネルギーが向いたのか、行動に移る浦木。天田は商店街の東側、浦木と美奈は西側を探す事となった。これで見つからない場合は一気に捜索範囲が広がる事になる。美奈には小枝子が行きそうなところを指摘してもらいながら、男では入りにくいところを探してもらうことにした。

「では作戦開始!各自健闘を祈る」

『了解』

 

 

 弓小枝子はあてどなく商店街をさまよっていた。

(飛び出してきちゃった〜……)

 皆に迷惑をかけてしまった。どうして自分はあんな事をしてしまったのだろう。

 だが、あの瞬間、どうしようもなくいたたまれない気持ちになって、これまでひた隠しにしてきた心が堰を斬ったように流れ出してしまったのだ。

 普段おっとりとしている彼女だが、その内には激しい感情が波打っていたのだ。

 このままでは天田が遠くへ行ってしまう。自分の手の届かない遠くへ。

(どうしたらいいの?)

 いつのまにか人気の無い路地に入ってしまった。たぶん、今の顔を人に見られたくないと思ったからだろう。

 最初脚本を渡されたとき、心臓が止まるかと思った。まるで自分の未来を見ているようだったからである。そしてラストで愛する彼は都会に出てしまい、それきりという悲しいものだった。

(そんなのいやッ!)

 自分の中にここまで激しい感情が眠っていた事は、彼女にとっても意外な事だった。

 ここまで来たら決意を固めるしかない。あのヒロインのように、なにも出来ずに終わる事だけはいやだった。壊れる事を恐れて、身動きの出来なかった彼女のようには……

「ハアハア、やっと、見つけた」

 突然の声に、今度は心臓が飛び出るかと思った。恐る恐る振りかえる。

「結構探したんだぞ。浦木達にも協力してもらった」

 今一番会いたくて、同時に一番会いたくない人物。

 汗だくになって息を切らせている天田四郎がそこにいた。

「……」

 言葉は無い。ただ見つめ合い、同じ時間を共有していた。

 このまま時が止まってしまえばいい。小枝子は冗談ではなくそう思った。

 それでも、このままではいけない。そう決意したばかりだ。

「四郎さん……」

 はじめて彼を名前で呼ぶ。

「ずっと、あなたの事をみていました。あなたが撮ったフィルムはどれもすごかった。見た人みんなに、希望を与えてくれる……」

 息がつまる。心臓は数えられないくらい早く鳴り響く。今まで心の中ではなんども繰り返した言葉が、思いどおりに出てこない。

「それは撮っている人が暖かい人だから、とても暖かい人だから……」

 涙がこぼれている。想いがあふれかえる。

「そんな四郎さんが……私は……」

 声にならない。秘めた想いが強いほど、言葉は無力だ。その涙に濡れた瞳が、なによりも雄弁に語っている。

 天田はゆっくり歩みより、小枝子を優しく抱き寄せた。

「ありがとう……俺、嬉しいよ」

 たくましい腕に抱かれ、小枝子がきゅっと身を硬くする。

「俺、映画バカだから、映画撮ることしか頭に無くて、そんな風に見てくれてるなんて思ってもみなかった」

 言葉には出来なかったが、彼女はたしかにこう言った。

(そんなところが……好き)

「俺、卒業したら東京の学校に行くんだ。だから……」

 小枝子の華奢な肩がふるえる。分かっていた。分かっていたはずなのに……

「週末くらいしか会えないけど、それでもいいかな?」

 ハッと顔を上げる。想いもよらない返事。いや、もしそうなったらどれほどいいかと思っていた返事だった。

「四郎さん……」

 再び彼の胸に顔をうずめる。もう言葉は要らない。

「小枝子……」

 再び彼女を抱き寄せる。より強く。彼女のぬくもりを感じられるように。二人が離れられなくなるように……

――だが――

「お楽しみのところ、失礼しますよ」

 誰もいなかったはずの路地に、いつのまにかその男はいた。

「においにつられてやってきたのですがね。まあいいでしょう」

 呆然と見つめる二人の前で、男のからだがメキメキと膨れ上がる。

 両手、両足のほかに、4本の腕が伸び、それらが8方向に伸びていく。

 胸から下が膨れ上がり、アンバランスな胴体が出来あがる。

 そして頭からはおよそ人間の特徴が失われ、昆虫のような複眼と触覚、そして鋭い牙が生えそろった。

 ほんのわずかの間に、男は『クモ人間』とでも呼べばしっくり来るような怪物に成り果てた。

「ひッ!」「ば、ばけもの!」

 二人はあまりに突然の恐怖に動けずにいたが、先に我に帰った天田が小枝子の手をとって逃げ出した。

「オトコハアマリスキデハナインデスガネ、マアアトデカンガエマス」

 声帯も変化してしまったのか、人間のときとは違った甲高い声でクモ男が言う。

 そしてその巨体(足の長さで言えば4メートル強!)からは想像もつかないすばやさで壁を這い、二人の前にまわりこんだ。

「ニゲラレマセン」

 

 プシュウッ!

 そういって口から白い糸を吐き出す。

「キャアッ!」「うわあっ!」

 しばらくは抵抗していたが、やがて二人は動かなくなった……

 

 

 化粧品店の捜索を美奈に頼み、入り口付近で待機しているときだった。

 ピキンッ!

「っ痛!なんだ?」

 突如浦木の頭に電撃のような頭痛が走った。それほど強い痛みではないが、頭の中で鐘を鳴らしているような、そんな痛みだった。

「なんだろう?」

 なんとなくだが、そこの路地を見たときに痛みが走ったように思う。何も根拠は無いが、なんとなくそう思い、その路地に入ってみる。

 路地裏は予想どおり狭く、ホコリっぽかった。

「なんでボクはこんなとこに入ったんだろう?」

 自分でも良くわからない行動に多少困惑しながらも、浦木は持ち場に戻ることにした。

「ン?これは……」

 向きを変えたときに、空中に光る筋のようなものを発見した。角度のせいで見えなかったのだろう。手にとって見る。

「クモの糸だ……」

 別にそれ事態はなんでもない、ごく普通の事柄に思えた。だが、どうにもいやな予感が拭い切れない。さっきの頭痛から、自分の中がなにか変だ。おかしい。

「どうしたの?」

 美奈が心配そうに顔をのぞき込む。彼女がそんな風に聞いてくるところを見ると、自分はよほど苦しそうな顔をしているらしかった。

「いや、なんでもないよ。それよりそっちは?」

 残念そうに首を横に振る美奈。これで西側はほとんど探し尽くしたように思う。

「とにかく、一度天田先輩に連絡しよう」

 だが、携帯電話は、むなしく天田を呼び出しつづけるだけだった。