2.ギター少女と夕焼け空@

 西の空に夕日が揺らめき、緑から黒へと色変わりした山が、水平線近くの天球にクリアな稜線を刻印している。そしてその上には、ねぐらへと急ぐ鳥の群がシルエットとなって羽ばたいていく。
 季節は初秋。半ば冷たい風が運ぶのは、乾いた土の香りと枯れ葉の臭い。
 帰宅部の折原浩平は、退屈な放課後を友人と将棋で過ごした後、久々にある場所に赴いていた。
 そこは、水が透き通った川だった。水量はさほど無く、穏やかな音を立ててゆっくりと水が流れている。両側の土手をコンクリートで舗装されているものの、土手の上には浅い芝と広葉樹が生い茂っていた。夏場は蚊が多くて訪れる機会は少ないが、今は初秋の夕暮れ時という、ある種幻想的な時間とシンクロし、落ち着いたたたずまいを見せている。
 水面をかける波紋に弾かれる橙色の陽光が、土手を直線的に撫でた。
 浩平は土手の上の芝に寝そべった。紫がかった空が目に映り込んでくる。
「う〜ん。あそこでああ来るとは……盲点だった」
 風情漂う情景の中、しかし浩平は先ほどの将棋勝負に思いをはせている。部活に所属していないとはいえ、毎日のように放課後を教室で過ごしている浩平は、もはや娯楽愛好会員と言えた。
 浩平の世話焼き役、長森瑞佳は吹奏楽部に所属していて、放課後ばかりは浩平についてくることはない。それでも、部活が休みの時などは肩を並べて下校したりはする。
「そういや長森……今週の土曜は部活が休みって言ってたっけな。あいつと下校するのは久々か」
 最近は大会やら定期演奏会やらの練習で、吹奏楽部では日曜日すら返上で活動している。必然的に、浩平と長森が校外で顔を合わせる機会は少なくなっていた。
「何が楽しくて、部活なんてやってるんだか。時間を束縛されるだけだ」
 寝転がったまま視線を左に転じて、稜線に触れかけている夕陽を見る。
 陽炎のように揺らめく太陽。大地に闇が広がってくるにつれ、気温も下がっているようだった。半袖のワイシャツだと少し肌寒い。
 浩平は両腕で体を抱え、身震いした。
 その時、川のせせらぎ以外の音が浩平の耳に届いた。乾いた足音だ。
 音の方を見やる。土手の上、細い道路を人が歩いていた。
 どこの高校かは記憶になかったが、制服を着た女の子だった。よく見かけるデザインだから、この辺りの高校の生徒であることは間違いない。そしてその小柄な体格に似合わず、背中には大きなギターケースがあった。
 浩平が見たその女の子の横顔には、どこか憂いの影が落ちているように見えた。
 この夕焼け空の下だったら、誰もがそう見えるのかも知れない。
「誰だ、あの人……」
 しばしばこの場所にやってくる浩平でも、会ったことのない人だ。茶色い髪を肩の辺りで切り揃え、頭には透き通るような水色のカチューシャを身につけている。少し離れたこの位置からでも、丸い瞳がやけに目立って見えた。
 優しそうな人、というのが浩平の第一印象だった。
 その女の子は道路から土手の方へ下り、芝のスペースで立ち止まった。
 そのまま、遠くの空を眺める。視線の先は、西の空。吸い込まれるように、じっと見入っている。
 顔こそ無表情だが、いや、それがかえって儚げなビジョンを作り出している。
 それを見る浩平の胸に、得体の知れない、違和感にも似た感情が生まれた。
 悲しい。虚しい。懐かしい。
 どれも近いが、どれとも異なる。未だかつて経験したことのない感情だった。
 しばらく経って、女の子は斜面の芝の上に腰を下ろした。背中のギターケースを大事そうに草むらに横たえると、慣れた手つきでケースを開ける。ギターを取り出そうとする女の子と、その様子をじっと見守っていた浩平の目が合った。
 しばしの間があいたが、彼女は何事もなかったかのようにギターを取り出し、ストラップを肩にかけた。それはアコースティックギターだった。
 ジャララ〜ン……♪
 サウンドホールの上を、細い右手が撫でるように動き、深い響きを持った音が紡ぎ出された。それだけでも浩平の琴線に触れる何かがあったが、女の子は首を傾げ、先端に付いた金具をねじり始めた。ギターに詳しくない浩平でも、それが“チューニング”という、6本の弦の音を整える作業であることが分かる。
 弦の1本1本を弾いてみて、先端の金具、ペグを回すことの繰り返し。女の子は何度か首を傾げた後、やっと納得がいったようにギターを構え直した。
 どんな曲を弾くんだろう。浩平は見守る。
 ピックを持つ女の子の右手が動いた。
 ジャガジャジャジャッ♪ ジャガジャジャジャ〜ン♪
「…………?」
 浩平は呆気にとられた。女の子の容姿や表情から、バラードやクラシカルな曲が演奏されるものだとほとんど決めつけていたのに、聞こえてきたのは実にポップなものだったのだ。彼女の無表情とは裏腹に、聞いていると踊りたくなるような曲だった。
「ただの気分転換か……?」
 かなり疑問は残るものの、浩平はその場で聴き続けた。
 チャッカジャ〜ガチャッカジャ〜ガッ♪
 ギターを知らない浩平の耳でも、女の子のギターは上手く聞こえた。そういう場合、そのギタリストはかなりの腕前を持っているということだ。ギターの初心者は、ちょっとコードが繋がるようになったくらいで人に聴かせたがるが、リズムがバラバラだったり、手首の使い方が下手だったりで酷い音しか出せないケースが多い。それでは、聴かされた方はコメントに窮するというものだ。
 ギター未経験者は、ギターを弾くことの難しさを知らないため、大抵が世のプロと比較して聴こうとする。要するに、辛口批評であることが多い。
 ただでさえ辛口の浩平が素直に賞賛したい腕前。事実、彼女は相当なレベルだった。
 たった1つのギターから送り出されるメロディーは、厚みを持って浩平の耳に届く。この場所の、夜の帳に包まれかけ、哀愁が漂っている情景を吹き飛ばすような、力強い明るい響き。それを演出する女の子は目を瞑ってひたすら両手を動かしている。
 その音の中に、浩平は雲1つない青空を見た。
 ジャガジャジャジャッ♪ ジャガジャジャジャ〜ン……♪
 リタルダンドして、曲は終わった。

「ふぅ……」
 演奏を終え、軽く息をつく。
 目の前に広がるのは、相変わらず夕焼けの空だった。
 西の空。山から半分のぞいている朱色の夕陽。
 網膜に焼き付く、鮮烈な赤。
 そしてこみ上げる、衝動にも似た記憶。
「…………」
 ピックをティアドロップ型に換え、もう1度ギターを構え直す。
 別の曲を弾こうと、右手を振り上げたときだった。
 チャリ〜ン……
 小気味のいい音がした方には、錆び付いた空き缶があった。中に、100円玉が1枚が見えた。

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