6.境遇交差点

「狭いアパートだな」
 深春が居間の蛍光灯を点けたとき、光に目を細めながらも浩平は言った。
「うっさいわ……大体な、何で浩平があたしの家に来んの?」
 フォークソング全盛の時代を彷彿とさせる4畳半の和室。救いなのは風呂とトイレがついていることくらいだった。
「いや、成り行き上然るべくして」
「断じてそんな成り行きにはなっとらんわっ!」
 ギターケースを壁に寄り掛けながら、浩平を見ずに突っ込む。対する浩平はちらちらと部屋を見回している。
「手を伸ばせば必要なもんは何でも取れそうだぞ。狭いって便利だな」
「バカにしとんのかほめとんのか、どっちやねん……」
 とりあえず、2人は部屋の中心のテーブルの側、畳の上に腰を下ろす。
「ふぅ、今日も疲れたな〜」
「…………」
「なんでこんな疲れるんやろな。こんなん言いたないけど、あたしトシかなぁ」
「…………」
「妙に肩凝るしな。あたしに勉強なんて向いてないんやろなぁ……って言うよりガッコーつう環境が苦手なんやろなぁ、きっと」
「…………」
 1分経過。
「あのさ、センパイ。こういう場合ってフツー、『何か飲む?』とか聞いてくれるもんじゃないのか? 俺、客だぞ客」
 深春は舌打ちした。
「まったく……ズーズーしい客や。誰も誘ってへんのについてきおって、その上飲みもん出せとくるかいな? しゃあない、とっておきのもん飲ましたる。そんなコーヘイにピッタシの、スペシャルドリンクや」
 深春はわざとらしく嘆息すると立ち上がり、古ぼけたキッチンに向かった。
 きゅっ、じゃああああ……
 どんっ。
 すぐに戻ってきて、浩平の目の前に液体の入ったグラスを置く。
「……センパイ、これって」
 テーブルに置かれたグラスの中身を見て、浩平は唖然とした。
「“かるきりきっど100%”や。遠慮せんで飲め」
「て言うかあんた、単なる水道水だろ」
 しかもよく見ると、ほのかに褐色がついている。黒っぽい粉も点々とグラスを遊泳していた。
「バブル全盛期を戦い抜いてきた水道管から出る水やからな、鉄分たっぷりや。ほれ、グビッといきぃな。遠慮なんてすることないで」
「あんたこれ、単なるサビ水だろ……マジで言ってるなら、相当強者だな」
 この時点で浩平は諦めた。これ以上要求しても、何が出てくるか分かったものではない。
「あたしの目ぇ盗んで、クローゼットの中あさったりしたらあかんからな」
 深春はそれだけぶっきらぼうに言い放つと、狭い廊下へと姿を消した。
 1人になった浩平は、改めて深春の生活する空間を眺める。
 築25年は経っている4畳半の古びた部屋。壁は日焼けと、いつかの住人のタバコのせいで黄ばみ、お世辞にも綺麗な印象は受けない。しかしさすが女の子の部屋。丁寧に掃除がされてあるのがよく分かる。
 部屋の広さとしては、キッチンやトイレは居間と別にあるから、1人で素朴に生活するにはさして不自由しないくらいだった。
 片隅に置かれているちっぽけな銀メッキのラックには、ミストブリーチや整髪料、わずかな化粧品などが整理されて置かれていた。<Avant Pop Star>のバンドスコアや数枚のCDに並んで、愛らしいクマやパンダのぬいぐるみが中段に整然と飾ってある。
 浩平は深春の別の一面を見た。それは初めて彼女を見たときの印象と重なるものだった。
「センパイって、独り暮らしだったんだな」
 上下水色の部屋着に着替えてきた深春に、浩平は言った。
「そうや」
「両親はどこに住んでるんだ?」
 立って背を向けたまま、深春は押し黙る。深春の肩の向こう、窓の外で坂を上る車のライトが強烈な光を放っている。
 天井からつり下がる、黒ずんだ蛍光ランプが明滅した。
「両親はおらん。あたしが5歳の時に2人とも死んだんや」
 深春の声の調子は変わらず、いつものままだった。
 そのせいなのか、浩平はさして驚かなかった。黙って深春の背中を見つめる。
「同じだな。俺にも両親、いないぞ」
 浩平ははっきりと言った。
 ガタンガタン……ガタンガタン……
 近くの線路を電車が走り抜けていく。長く重い進行音。貨物列車のものだ。
 貨物列車が遠ざかり、深春の静かな眼差しが、浩平に向けられた。
「浩平もおらんのか」
 それは、驚いているでもない、哀れんでいるでもない感情のない透明な瞳。 「今は叔母さんの家に住まわせてもらってる」
 深春がテーブルを挟んで浩平と向かい合うように座った。
「そうか。あたしもな、中学卒業するまでは叔父さんとこに世話んなっとったんや。叔父さんは『高校を出るまで、何も気にすることはない。お前にその気があるのなら、大学の学費も出すぞ』って言ってくれたんやけど……あたしの性分なんやろな、人に迷惑かけんのが嫌でな。特に叔父さんは優しい人やから。優しい人には逆に迷惑かけたない。それで、中学卒業するなり叔父さんの家から出て、こんなアパート暮らしや。仕送りも拒否して、国から支給される金と、バイトしながらギリギリの生活。そんなあたしでも……しょっちゅう叔父さんは心配して様子見に来てくれるんや」
 深春は微笑して、テーブルに視線を落とす。
「……いい叔父さんだな。オレ、叔母さんとはあんまり親しくないんだ。一緒に暮らしてるって言っても仕事の関係で共有する時間は少ないし、叔母さんもオレについて色々気後れするところがあるんだと思う。仲が悪いってことじゃないが、相談を持ちかけるような間柄ではないな」
 浩平の言葉には、あまり感情がこもっていない。
 沈黙する2人の耳に、壁掛け時計の音が聞こえてくる。
「親おらんで、寂しいか?」
 突然、深春が聞いた。
「そうだな……もう慣れた。良くも悪くも、それが普通になった」
 それが本音だ。
「あたしもや。やっぱり、そういうもんなんやな」
「そういうもんだ」
 2人の声には悲嘆の影は微塵もない。
「ただな、あたしの場合――」
 深春が唇を引き結んだ。体が心なしか震えている。
「いや、なんでもない。気にせんといて」
「…………」
 再び、狭いアパートを静寂が包む。
 両隣の住人はこの時間はいないのか、生活の音はまったく聞こえてこない。
 沈黙に耐えかねた浩平は時計に目をやった。7時38分。
「オレ、もうそろそろ帰るわ……邪魔したな」
 浩平は立ち上がった。
「……うっ」
 その顔が歪む。
「浩平?」
 浩平は、2本の足が伸びきる前に尻餅をついた。

「足が痺れた」
「何やっとんのや……無理して正座しとることないやろ」
 深春が呆れた顔をする。
「畳ときたら正座。日本人の心だぞ」
 その真偽はともかく、浩平はひたすら足に衝撃を加えないように努めている。
 様子を見ていた深春は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふっふっふっ……」
 その顔のまま、ゆらりと立ち上がる。
「なっ、何をするつもり……」
 浩平はただならぬ気配を感じた。
「ぐぁっ!」
 深春は近くに歩み寄って、畳を踏みつけた。振動が、浩平の足に伝わる。
 どんっどんっ!
 浩平の反応を面白がるように、深春は立て続けに踏みつけた。
「きぃーひっっひ! その情けない姿、爆笑モンやでコーヘイ!」
「鬼かっ! ……はぁっはぁっ」
 浩平は太股から上を器用に浮かすことで防ぐ。
 笑みを深めた深春は、躊躇いなくダイレクトに蹴った。
「ぐっおぉぉっ、電撃がッ……!」
「思い知ったか、あたしのパワー!」
「意味わかんねーよっ!」
「すこぉーしばかり生意気やからな、コーヘイは。当然の報い。粛正っちゅうモンやで」
 数分を経過してやっと浩平の足は痺れから立ち直った。今はぐったりと、畳の上に仰向けに寝転がっている。
「センパイって、関西の方の出身なのか?」
 深春が話すのを聞いていると、そう考えるのが普通だ。
「ちゃうで」
「“ちゃうで”って、まるっきりそっちの方の言葉で否定されると混乱するんだが」
「あたしはここの出身や。関西弁はな、小さい頃から付きおうてる友達から伝染したんや」
「伝染?」
「そうや。その子は生粋の関西人でな、10年ほど前に家族揃って引っ越して来たんや」
 浩平は体を起こした。
「ほー。どんなヤツ?」
 深春は顎に右手を当てて、困った顔をする。
「どんなヤツか聞かれてもな〜。“おとなしい子”としか言いようないで。基本的に、影の薄いやつなんや。今時珍しく三つ編みなんかして、丸眼鏡かけとる。見た目そのまんま、文学少女ってヤツやな」
「関西弁を喋る人間で影の薄いやつって、想像できないぞ。なんか、“なんでやねんっ”ツッコミとか、バーゲンセールで押し合いへし合いしてるイメージが強い」
「それは偏見やっ。自己主張のできない人だってたくさんおるんやで? 割合としてはこっちの地方と比べたら少ないと思うけどな」
「そういうもんか?」
「そうやで」


 アパートのサビで赤茶けた階段を降りながら、浩平は西の空を見上げた。
 日中浮かんでいた雲はどこかに行ってしまっていて、空には満天の星。三日月が、街のぼやけた明かりの上に静かに輝いている。
 おととい河原で出会った少女。彼女の名は、道城深春。
“俺とセンパイ、どこか似てる”
 儚げな夜空を見上げる。その思考が頭を同道巡りする。
 一体何が、浩平にそう感じさせるのか。
 浩平は階段の手すりに手を置いた。冷たい鋼の感触が、腕の神経を通り抜ける。
 脳がそれを感知したとき、ふと、漠然とした答えが浮かんだ。
「そうか。俺もセンパイも、“欠けて”るんだ」

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