12.誓い

 3日後。
 朝の天気が嘘のように、雲が立ちこめていた。
 いつも顔をのぞかせていたオレンジの夕日も、今日はその分厚い雲に隠されている。
 深春がいるのは、夕日の河原ではなく、ただ夜の帳が降りるのを待つ河原だった。
 側には、開けられていないギターケースが置いてある。
 本当は、今日ここに来る必要はなかった。
 小さな体で、大きなギターを抱えてくる理由は、もはやなかった。
 永遠の盟約は絶対だった。
 無駄だと知りつつもあがき続けた自分。
「あたし、なんでここに来たんやろ……」
 穏やかに流れる川に目を落とし、呟いても、答えは分からない。
 静かなせせらぎが、心に穿たれた穴を埋めてくれるわけでもなかった。
 ただ1つ、深春を支配している事実。
“あたしの存在は、この世界から消えようとしている”
 それは、幼い頃、自ら望んだこと。
 今となっては、皮肉な運命。
 その瞬間が、今まさに迫ってきている。
 にじり寄るように、自分の世界を浸食し始めている。
 学校でその現実に触れたとき、驚きや悲しみより、むしろ空虚感の方が強かった。
 今まで背後につけてきた、短いながらもはっきりとした足跡を、それはしんしんと降り積もる雪のように、静かに無に帰してしまう。
 幼い日の心の傷を癒すが為に。その傷から逃れようとするが為に。
 旅立つのは、ただ時間の流れない無機質な世界。
 自分を慰めてくれた、音が存在しない世界。なにも変化しない永遠の世界。
「あたしは、どうなることを望んどるんやろ……」
 しかし、それすら今の深春は見失っていた。
 永遠の世界へと旅立つことに対する抵抗感は失われつつあった。
 ただ、時の流れに身をまかせ、穏やかな風の吹く方へとなびいていく。
「それでもいいんかもな」
 学校で突きつけられた事実は、余りにも残酷で、どうしようもなくて――深春は自分を失くしていた。
 ……うぐっ、ひぐぅっ……
 声が、聞こえた。
 うっ……ひくっ……
 小さな女の子が、すすり泣く声。
 いつの間にか空に雲はなくなっていて、オレンジの夕日が顔をのぞかせていた。
 その主は近くにたたずんでいた。草むらにしゃがみ込み、顔をふさぎ込んで泣いていた。
「――どうしたん? お嬢ちゃん」
 知らず、声をかけていた。
 夕日を浴び、涙でグシャグシャになった顔が、深春の方を向く。
 薄い茶色がかかった髪の毛。印象的な大きな瞳。
 5歳ほどの女の子は、何も喋らなかった。ただ深春の瞳を、悲痛な眼差しで見入ってくる。
“パパとママが、死んじゃった”
 音ではないが、その声は、確かに響いた。
 深春の心を、抉るように。
“……夕日なんて、大嫌い”
 深春は、胸を締め付けられる思いがした。
“パパとママは、夕日にさらわれちゃったの……”
 女の子は、また顔を伏せて泣き出す。
 今、深春に言ってあげられることは、1つしかなかった。
 それは、自分の解放でもある。
「もうすぐや……もうすぐやで。あともうちょっと待っとったら、夕日なんてない世界に行けるんや」
“――ホント? 夕日のない世界に……”
「ホンマや。ねえちゃんはウソつかんで。無理することなんてないんや」
 歩み寄り、女の子の頭を優しく撫でてやる。
 しばらくそうしてやると、女の子は泣き疲れたのか、深春の膝枕で寝息を立て始めた。
 それで――いいのかも知れない。
 漠然とした想いに駆られながら、深春もいつしか眠りに落ちていった。


 ポツ……ポツ……
 雨が降っている。まばらに降り注ぐ小さなの水滴が、水面に波紋を描く。
「――カゼひくぞ、センパイ」
 その声で、深春は現実に引き戻された。
 自分の膝で寝息を立てていた女の子は、姿を消していた。空はやはり、暗雲に覆われている。
「……浩平?」
 生意気な年下の男の子は、いつものとぼけた調子で語りかけてきた。右手には青い傘。
 深春に雨が当たらないように、じっと掲げている。
「なんかリクエストしていいか? 無性にセンパイのギターが聞きたくなったもんでね。でもこんな天気だろ? だから俺、雨がギターにかからないように、ほら――」
 浩平は左手に持ったもう1本の傘を見せた。
「準備いいだろ、俺って」
 ただただ、いつもどおりに語りかけてくる浩平を見つめる深春。
 言葉は出てこなかった。
 目に、涙が滲む。
 心を支配していた感情の激流が、堰を切ったように流れ出す。
 もう堪えなくていい。
 誰かが――浩平が、支えてくれる。
「浩平っ――」
 深春は、浩平を抱き寄せた。
 自分より小柄な男の子を、強く抱きしめる。
「センパイ……?」
 深春は肩を震わせ、その大きな瞳からは止めどない涙があふれ出した。


 とうに薄暗くなった河原で、2人は川の流れを見つめる。
 降り止まぬ雨。浩平が持つ傘に、雨滴の当たる音が聞こえる。
「センパイ……どうしたんだ?」
 浩平が静かに口を開く。
「…………」
 深春はただ、穏やかなせせらぎを見つめるだけだった。
「……あたしの親が死んだっちゅう話、したよな」
「ああ」
「あたしの両親な――殺されたんや。父ちゃんは頭殴りつけられて、母ちゃんは首かっ切られてな」
 告白に、浩平は言葉を失う。
「あたしが友達と遊んで帰ったら、2人とも死んどった。一番最初に目撃したんはあたしやった……目も当てられん有様だったで。犯人は、今も見つかっとらん」
 深春は、曇り空を見上げた。
「あたしな、昔は夕焼け空、大好きやったんや。魚屋やってる両親が、丁度夕日が沈む頃に帰ってくるからな。こう見えてもな、あたし、寂しがりやの甘えん坊やったんや。あたしにとって、夕日は大好きな両親が帰ってくる合図みたいなもんで……」
 言葉が詰まり、嗚咽が漏れる。
「裏切られたんや……綺麗なオレンジの夕日を浴びて、両親は悲惨な死に方しとった……あたしは、それからしばらく喋ることもできへんようになって……」
「……センパイ」
「小さなあたしは――“夕日なんて、もう見たくない”――そう思ったんや。ずっとずっと、そう思っとった。ひょっとしたら、今のあたしもそう思っとるのかも知れん……」
 深春が、視線を川に戻す。
「そしたらな、ホンマにそうなったんや」
「……なんだって?」
「その強い想いで、夕日のない世界――時の流れない世界が出来上がったんや。小さなあたしは、そっちの世界に逃げ込んだ」
 真実味に欠ける話だった。だが、浩平は疑わなかった。
 何故か、疑えなかった。
「仕方なかったんや……余りにも悲惨な現実から逃れるには、そうするしかなかったんや」
「……どうやって戻ってきたんだ?」
 浩平は、知らずの内に奇妙なことを口走っていた。
「だってセンパイは今、ここにいるじゃないか。オレが見てるセンパイは、幻なんかじゃない」
「……戻ってきてないんや。あたしは、まだあっちにいるんや」
「でも……」
「確かにここにいるあたしもあたしや。でも、今となっては、どっちがホンマのあたしかもわからん。時を追うにつれて、その世界での存在の方が大きくなって行ったんや。それは、今も続いとる。別の世界での存在が強まることは、この場所での存在が弱まってくることで……」
 言葉を詰まらせる。
「あたしは今、ここから消えようとしているんや」
 声が震えていた。
「……どうにかならないのか?」
 うつむき、力無くかぶりを振る。
「ダメなんや。学校行ったらな……クラスの連中があたしのこと、転校生でも来たんか、って目で見たんねん。中には覚えとる人もいたんやけど……仲のいい友達だけやった」
「…………」
「それで……今日」
「今日……?」
「知加子も……知加子もあたしのこと……」
 深春はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
 小雨だった雨が、激しさを増す。傘を穿つ雨音も、一段と大きくなった。
 傘の端から、水滴が流れるようにこぼれ落ちる。
「残酷なもんやで……ある日突然姿が消えるんやなくて、周りの人たちの記憶の中からじわじわと消滅して行くんや。この世界で完全に1人になって、あたしはいなくなるんやろな……」
 深春が顔を上げ、告げる。
「……アリガトな、浩平。あたしのこと、覚えててくれたんやな」
 それはあまりにも力無い言葉。
 その時、浩平の中に怒りにも似た違和感が膨れ上がった。
 こんな風に弱音を吐く人は、センパイじゃない。
 自分が憧れた、好きになった道城深春じゃない。
 いつも、暗い過去を感じさせないほど元気で、凛とした態度で、自分というものをしっかりと持っていて……
 浩平の心にあった深春とは、明らかに違っていた。
「なに言ってるんだよ。弱音なんか吐くなよ、センパイっ!」
 浩平は深春の肩を掴み、叫んだ。
「…………」
「最後まで諦めるなよ! もっと抵抗して見せろよっ!」
「浩平……」
 透明な瞳が、浩平を捉える。
「そんなの……そんなのセンパイじゃない。かっこいいギターを弾いて、俺が好きになったセンパイじゃない!」
 深春の瞳に、驚きの色が宿る。
「頼むから、弱音なんか吐かないでくれよ……吐くなよっ」
「…………」
「センパイの周りの世界がどうなろうと、センパイの周りの人間がどうしようと、俺だけは、絶対に変わらないから。最後の最後まで、いつまでも、センパイのこと、忘れたりしないから」
 はっきりと、浩平は告げた。
 真剣な浩平の瞳が、深春を現実に引き戻そうとしているのが強く伝わってくる。  再び、深春の目に涙が滲んだ。
「浩平……」
 深春は、浩平に唇を重ねた。
 お互いの温もりが、唇を伝う。
 それは感謝の気持ちであり――浩平にとっては誓いとなった。

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