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Kanon Another Story



永遠の煌き




by 幻



「……本気……なのですか?」
 長い沈黙の末に、つむぎだされた問い。
 その声には、融けかけたつららが陽を浴びて輝くようなせつない透明感があった。子狐と真正面に対峙していたその狐の瞳は、我が子を愛おしむ暖かさに満ちていた。
「はい」
 子狐は決意を込めて頷く。

 雪深い森の奥、アカマツの巨木の根に守られるようにして、その洞穴はあった。
 狐一匹がやっと通れるほどの入り口ではあるが、洞穴の内部は一家族が住むにはちょうど良い広さである。今、薄暗い洞穴の中には子狐と母狐、そして母狐に寄り添うようにして黒い影があった。
 黒い影は母狐達がこの洞穴に住む以前からいた「山の主」と呼ばれている妖狐である。山の主は、まるでオオカミのように全身を銀色の針金のような体毛に覆われ、近づくものすべてに畏怖の念をもたらした。
 しかし、今は母狐の後ろで黒い影となってうずくまっている。

 洞穴に急ぎ戻った子狐は、母狐に自らの決意を語った。
 人間となって、あの人に会いに行く……と。
 母狐はうずくまったまま首をもたげて、子狐と向かい合った。主はさして関心もないというように寝そべったままだった。
 陽が高くなるにつれて、雪は白く輝きを増し、それに反射した光が洞穴内を淡く照らす。
 入り口を背にちょこんと座っていた子狐の影が、母狐に向かって薄く伸びる。
 母狐はしばらく子狐の瞳を見つめていたが、そこから揺るぎない決意を汲み取ると、次にその薄い影を見つめ、なにかを思い出しているようだった。

 そんな母狐の姿を見て、子狐は昔別れた兄のことを思いだしていた。
 雪の降る夜、子狐の兄は、「人間の女の子に会いに行く」と言って山を下りた。
 女の子の名前は、ミシオ……だったと思う。
 母狐は、兄の去った林の向こうを、しばらくじっと見つめていた。
 子狐は母狐を見ていた。
 しんしんと降り続く雪のなか、母狐が埋もれてしまわないかと心配だった。
 それほど長い間、母狐は身じろぎもしなかった。
 そのときの横顔と今の母狐が重なって、子狐の胸は痛んだ。
 もし、母狐がとめてくれたなら、あるいはこの場は思いとどまったかもしれない。

 しかし、母狐いった。
「……わかりました。あなたの想うままになさい」
 淡い光で包まれた空間が微動した。
「ただし、人間となっては今までの記憶はすべて失われます。それは人間たちから、私たち妖狐を守るため仕方のないことなのです。わかりますね」
 すべての記憶……待ちわびた春が来たときの土の香りも、夏のむせぶような緑の光線も、木の実をお腹一杯に食べた秋の日も、凍てつく冬の夜に感じた母狐のぬくもりも、すべて……。
 だが、子狐は頷いた。
「……それでは、あの丘へ行きなさい。あなたはそこで人間の娘として生まれ変わります」

 もう、これ以上語ることはない。
 別れの言葉も励ましの言葉も、なんの意味も持たないのはお互いわかっていた。
 子狐はうずくまったままの母狐に歩み寄り、鼻先をその顔にこすりつけると、くるりと身を翻してふっきるように洞穴を駆け出していった。

 
「良いのですか……」
 ずっとそばに寄り添っていた黒い影が、そっとつぶやいた。
「良いのです……。わたしは、かつて誤りをおかしました……。もう二度と同じ過ちを繰り返したくはないのです……」
 黒い影に下弦の月のごとくあらわれた二つの瞳は、遠い昔のことを思い出すように、しばらく闇を凝視していた。

「あの子の兄のことですか……」
 それほど過去のことではない。
 永遠を生きる妖狐にとって、時はすでに意味をなさない。
 ただ精神的に意味をなさなくなってしまったもの、忘れても良い、忘れたい想いは過去となり、あいまいな時の流れの中に彼ら独自の時間軸を形成する。
 主は深く暗い記憶の淀みの中から、かつて自分の焦がれる想いを人間に伝えるべく、山を下りていった、子狐のことを汲み上げていた。

「そうです。……わたしはあの子の兄の時は、あまりに無力でした。わたしは彼の人間に対する想いの深さを理解することができなかった。いえ、というより永遠の時の中で忘れてしまっていたのです。あの子が霧となってしまったとき、やっと思い出したのです」

 主の瞳は、なにかを思い出すように閉じられた。
 そのとき、まだこの母狐は、子供達を引き連れて活発に山々を巡り歩いていたはずだ。それが、このような冷たく暗い岩山の洞穴に身を横たえねばならなくなったのは、いつからだろう。
 寿命……永遠であるはずの妖狐にとって、その妖力の衰えは生命の終焉を意味する。この母狐の分身ともいえる、子供の死が妖力が衰えるきっかけになったのであろうか。

「いえ……今度の過ちは、防げたことなのかもしれません。あの場所に近寄りさえしなければ、あの子も人と関わることは無かったのでしょう」
 ものみの丘……そう人間達が呼ぶあの場所は、遠い昔から妖狐達が奇跡を行う聖地だった。今はもう失われて久しいが、昔人間達が妖狐を祀る小さな社もあった。そのためだろうか、今でもあの丘を慕う妖狐は多い。
 しかし最近の人間達の開発で、近づく妖狐も数を減らしていた。

 母狐は、かすかに息を吐いた。
「私たち妖狐は、永遠の時を生きるが故に家族のぬくもりを、次第に失っていきます。父親も知らないあの子が、もし人間の男性に、ほんのひとときでも愛情を注がれたのなら、それを私たち親子以上の結びつきに感じられるのは、仕方のないことです」
 主は思う。愚かな……所詮、人間の気まぐれ、悲劇の淵の端をあてどなくさまよったあげく、水面に映る自分の姿に絶望し、淵に身を投じるのがおちではないか……。

 母狐の吐く息が不規則に視界を白く煙らす。
 その瞳は、先ほどの子狐の姿を必死に脳裏に焼き付けるかのごとく、堅く閉じられたままだ。
「私は再び同じ悲しみを知りたくはありません……それは……とても愚かなことです。あの子が奇跡を望むなら……私の……生命と引き替えに……」
 今まで、動かなかった主の影がわずかに揺れた。
 もう、この母狐の生命が残り少ないことは判っていた。
 もとより初めてこの洞穴に現れたときから、主はこの母狐に漂う死相に気がついていた。

「運命……なのかもしれません。もし、私たち妖狐の力がここまで衰えることが無ければ……奇跡など何度でも……おこせたはず。……人との交わりだって……奇跡などではなかったのに……」
 そのとき、主は悟った。
 あの子たちは、この母狐と人間との間に生まれた子供だったのだ。
 妖狐達がまだ大きな妖力を持ち人間達に畏怖され祀られていた遠い昔、この母狐は里の人間と交わりを持ったのだ。
 当時の妖狐の力をもってすれば、それは奇跡というにはおこがましいほど、たやすいことだったに違いない。主が重い口を開いた。

「後悔はしていないのですか」
 母狐は答えた。
「後悔など……人間のするものです。私たち妖狐には……無縁のもの……」
 精一杯の強がりだろうか、主は再び瞳を閉じかけた。
「……あの人が、後悔しないって……言ったから……」
 そう言った母狐の声が、まるで若い娘のように瑞々しかったので、主は驚いて瞳を開いた。

「最後に、お願いがあります」
 母狐は主に言った。
 主は母狐の顔に近づき、最後の願いに耳を傾けた。

 母狐はうっすらと瞳をあけ、子狐がでていった洞穴の入り口をみつめていた。
 傾きかけた冬の日差しが入り口に射し込んで輝きを増してゆく。
 やがてその光が母狐の周りに白く日溜まりをつくった。
 時がとまったような日溜まりの中で、母狐は遠い昔の出来事を思い出していたのであろうか。精気を失いかけていた瞳が一瞬鈍く輝いた。
「……約束……これで、守れます……幸せに、みんなで……」

 母狐が息を引き取るのを待っていたかのように、雲が太陽を覆い洞穴は光を失った。
 主が、のそりと重い腰をあげる。母狐の願いを叶えるべく、彼にはする事があった。一度母狐の顔に鼻先を当てると、まだ雪に覆われた洞穴の外へと踏み出していった。

 
 その丘で奇跡は起こっていた。
 降り積もった雪に包み込まれるように、少女の姿があった。
 寒さと、身を包む衣服の異様な感触に気がつき、少女は目を覚ました。
 太陽が薄曇りの空を白く照らす。上も下もどこまでも続く真っ白な世界。

 少女は身を起こし、白さに目を細めた。
 右の頬に手をあててみる。なにか湿っぽいものを感じた。
 そういえば、先ほど目を覚ます前に、なにかざらついたものに舐められたような気がする。

 右手を体を支えるために雪の上におろしたとき、手に何かがあたった。
 財布である。少女はそれをしげしげと見つめたが、それの意味がよくわからなかった。ただ持っているべき物として、なんとなく服のポケットにつっこんだ。
 少女は、よろよろと立ち上がる。

 まだ夢の中にいるように、体が揺れる。
 街に行かなきゃ……。
 丘に小さな白い足跡を残して、少女は街に向かっていった……。



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