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Kanon Another Story



永遠の煌き




by 幻



 夢……。
 夢を見ていた……。
 今度は、どんな夢だろう。
 さっきみたく悲しい夢じゃなきゃいいのに……。
 でも、いいか。どうせ夢なんだから……。

 その夢の中で、わたしは何度も転んだ。
 気を抜くと手と足の動きがバラバラになって、こんがらがってしまう。
 次は足を前に出さなきゃ……と思っても、なぜか手が前に出てしまう。
 自分が二本足で歩いているのが、ひどく不自然に思えた。
 でも、あの人はいつも私のそばにいて支えてくれた。
 いや、初めは面白がって笑っていたかもしれない。そんなあの人の笑い声が今となっては、とても暖かく感じた。

 ある日、わたしは自分の指が、4本別々に動かなくなっているのに気がついた。
 箸を持とうとしても、人差し指と中指がくっついて離れない。
 わたしは何度も箸を落としては、家の人に迷惑をかけた。みんなが気を遣ってくれているのが、痛いほどわかった。
 だから、わたしは何度も練習した。台所から家の人に見つからないように割り箸を探してきて、自分の部屋で何度も何度も……。
 そんなわたしの様子を、部屋の片隅で子猫が見ていた。
 名前は……なんだっけ?思い出せないよ……。
 そんなことより割り箸だ。しかし一向にうまくなる気配がない。
 わたしは泣きそうになった。わたしの気づかないところで、何かが壊れはじめている、そんな気がして、いらいらして、割り箸を床にたたきつけた……。

 街を歩いていた。大好きなあの人と……。
 突然、あの人が何でも好きな物を買ってくれると言った。
 わたしはとても嬉しかった。あの人からの贈り物なら何でも良かったのだ。
 ちりん……。
 わたしが通り過ぎようとしたお店の棚から、とても懐かしい音がして、思わず立ち止まった。
 お店をのぞいてみると、髪飾りやブローチのぎっしり詰まった棚の中に、それはあった。
 指で弾いてみる。
 ちりん、ちりん、ちりん……。
 遠い昔に聞いた心地よい音色……、なんだか嬉しくなって、わたしはこれが欲しいと言った。
 あの人はなぜか気に入らなかったみたいだが、わたしはその鈴を手首にまいて、ぶんぶん振り回しながら歩いていった……。

 真っ暗な闇の中を、わたしは駆けていた。
 あの人がいない……。
 まるでわたしは世界でひとりぼっちになったような気がして、また置き去りにされたと思って、一生懸命あの人のぬくもりを追った。
 どこをどう走ったかはわからない。
 気がつくとわたしはあの丘にいた。
 そして、あの人もそこにいた。
 何かを探しているようで、そして絶望しているようで……。わたしがあの人を悲しませているような気がして、とても胸が苦しくなった。
 あの人は私に気づくと、駆け寄って抱きしめてくれた。
 そのぬくもりを、わたしはずっと忘れない。
 人間になって心から良かったと思えた……。

 あの人と歩く、いつもの川沿いの通学路。
 わたしは寒いのが苦手だ。
 だから、早く春が来ればいい……。
 春がきて……ずっと春だったらいいのに。
 わたしは、叶わない願いを口にしてみる。
 ずっと春だったら元気でいられる気がした。
 横で聞いているあの人は、笑って空を見上げていた。
 まるで何かを願うように……。

 果てしなく広がる暗闇のなかを、わたしは漂っていた。
 夢から覚めたんだろうか?
 いや、そうではなかった。
 わたしの手には、確かにあの人のぬくもりがあった。
 わたしはまだ夢の中ににいる。
 何度も何度も、あの人の名前を呼ぶ。
 すると、闇の彼方に光が瞬いて、あの人が答えてくれた。
 俺はここにいるぞ、真琴。
 夢の中で、わたしはずっと「真琴」と呼ばれていた。
 いつからそんな名前がついたのか、誰がつけたのかはわからない。ただあの人にその名前を呼ばれると、不思議と落ち着いた……。

 
 夢の中の私は、どんどん体の自由が利かなくなっていった。
 すでに指先の自由は全く利かない。立って歩くのも辛いから、わたしは一日の大半を横になってすごした。
 文字もわからなくなって、言葉も話せなくなっていった。
 そんなわたしをあの人は、辛そうに見つめていた。
 努めて明るく振る舞っていてくれるのが、痛いほどわかった。

 行って来ます、真琴。
 あの人は、諭すような口調でゆっくり言った。
 しかし、わたしの声はもう言葉にならない。
 それが悲しくて、涙がにじんだ。
 あの人が困ったような顔をしていると、家の奥から女の人が出てきて、二言三言会話をした後、あの人は出ていってしまった。
 その日一日、わたしは「秋子さん」と呼ばれた、この女の人と遊んだ。
 なぜだろう、秋子さんはあの人と同じにおいがする……。
 秋子さんの笑顔を見ていると、とても落ち着く。
 わたしは、おかあさんを思いだした。
 わたしが、ぼぉーっと秋子さんの顔を見つめていると、秋子さんは「どうしたの?」とやさしく微笑んで、頭を撫でてくれた。
 わたしはそれが心地よくて、しばらく秋子さんの膝で眠った……。

 その夜、あの人はみんなで出かけようと言った。
 わたしは、あの人以外の人に会うのが怖かった。
 でもあの人がずっとそばにいてくれるなら、どこへ行っても大丈夫な気がした。
 そこには、たくさんの人がいた。
 みんな楽しそうだった。本当に楽しそうで……。
 ……わたしは、それが少し悲しかった。
 笑えなくなってしまった、自分が悲しかった……。

 帰り道。
 頬にあたる風が、冷たかった。
 わたしは、ずっとあの人の手を握っていた。
 横には、秋子さんもいる。
 暗くて寒いのに、わたしは少し幸せだった。
 突然立ち止まって、あの人が言う。
 あれ、みんなでやらないか?
 指さした先には、あのプリント機があった。
 自分が自分であることを確認したくて、わたしは何度かその前に立った。立っただけで、撮らなかったこともある。
 もしボタンを押してそこになにも写っていなかったら……。
 怖かった……。
 でもわたしは信じたくて、これが夢じゃないって信じたくて、勇気を出して撮ってみた……。
 ボタンを押す指先が震えた。うまく押せない……。
 わたしはもう片手を添えて勢いをつけて押してみた。
 写真には、わたしがいた。
 不安そうに……、自信がなさそうに俯いているわたし……。
 嬉しくて、悲しくて、ちょっとだけ泣いた……。
 だからあの人が、撮らないか? と言ったときもわたしは不安だった。
 プリント機の前で、楽しそうにしているみんなを遠くから見ていた。
 すると、みんながわたしに言った。
 真琴、おまえがくるのをみんな待っているんだぞ……。
 ね、真琴っ、一緒に撮ろうよっ……。
 真琴、真ん中、きなさい。お母さんは脇役でいいから……。
 みんながわたしの名前を呼ぶ。
 わたしは、まだわたしなんだ……。
 嬉しくなって、みんなのところに駆け寄った。
 とてもあたたかい……。懐かしいぬくもり。
 吹雪の夜、暗く寒い岩穴の中、震えるわたしとお兄ちゃんをおかあさんは優しく包んでくれた。おかあさんの胸の中はとても静かで、わたしは外が吹雪だったなんて、すっかり忘れてしまった。
 そばには、お兄ちゃんもいる。いつもわたしを助けてくれる大好きなお兄ちゃん……。わたしは、そんなぬくもりが大好きだった……。
 このぬくもりをずっと感じていたかった……。

 目の前に女の人が立っている。
 わたしはどうしていいのか分からなくて、隣にいたあの人をちらちら見ていた。
 はじめまして。天野といいます。
 そう女の人は言った。
 …………。
 わたしが黙っていると、女の人は言った。
 お名前は?
 名前? 名前ってなんだろう?
 おいしい物かな? それともわたしの好きなもの?
 ほら、お名前は?
 その女の人は、何度も聞いた。
 わたしの一番好きなものは……、あの人が何度もわたしに言ってくれた言葉。
 まこと。
 でも、まことって何だろう?
 わたしはそれを伝えたくて頑張った。
 声にならないのがもどかしかった。
 でも、伝えなきゃ……。今はそれが一番大事な気がしたから……。
 女の人が腕を広げている。
 わたしは、なぜか不思議と懐かしいものを感じた。
 一瞬、お兄ちゃんが見えたような気がして、気がつくとわたしは女の人に抱かれていた。
 この街に来てから感じる何度目かの、人のぬくもり。
 人ってこんなに暖かいものなんだ……。
 落ち着いた。もう一回、頑張ってみる。
 ま……。
 最初の一文字。
 こ……。
 まこ? まこでいいの?
 ちがう、まだ終わっていない。わたしは首を振った。
 ……続きは?
 この人は優しく聞いてくれる。
 やっぱり、大切なものなんだ。わたしは頑張った。
 ……と。
 まこと。
 そう、まことだ。
 いい名前ね、真琴。
 まことは、わたしだったんだ……。
 大切なものを見つけたようで、とても嬉しくて、何度も繰り返してみた……。

 わたしはまた、深い闇の中にいた。
 ここに来るのはもう何度目だろう?
 ここに来る度に思う。もう帰れないんじゃないか……と。
 でも、わたしはまた光の中に戻ることができた。
 あの人のいる光の中へ……。
 わたしが目を覚ましたとき、あの人はわたしの手を握って、わたしを見つめていた。それがとてもせつなかった。
 大丈夫か、真琴?
 …………。
 もう、わたしには見つめることしかできない。
 本を読んでやる……。
 そうあの人は言って部屋を出ていった。
 わたしは、もう何もいらない。
 ただあの人のそばにいて、ぬくもりを感じていたかった。
 ぬくもりの中で、生命を終わりたかった。
 それが幸せだった……。
 「恋はいつだって唐突だ……」
 あの人は楽しそうだった。あの人が楽しいなら、わたしも楽しい。
 …………。
 薄明かりの部屋の中、暖かな時間がゆっくり流れる。
 風の音とあの人の声だけが心地よかった。
 「……わかった。絶対に迎えに来るから」
 「そのときはふたりで一緒になろう。結婚しよう」
 まどろみの中、あの人の声が響く。
 したい、けっこん……だったら、ずっといっしょにいられる……。
 「結婚しようか、真琴」
 わたしは、薄く目を開けてあの人の手を握った。
 これで、ずっと一緒にいられる……。

 秋子さんがいた。
 わたしたちはどこかに出かけるらしい。
 わたしは秋子さんから離れたくなかった。
 ずっと昔、同じ様な別れをしたことがある気がした。辛く悲しい別れ……。
 でも、秋子さんは微笑っていた。
 昔わたしがお別れを言ったあの人も、最後は笑っていたかな……。
 「おかあさん」
 と……わたしは、口を動かしてみた。
 声にはならなかった。
 秋子さんには通じただろうか。
 秋子さんは後ろを向いてしまった。
 「いってらっしゃい」
 ドアを出る。
 外に広がる真っ白な世界。
 あのときも、今日みたく白かったような気がする……。

 丘の上にいた。
 わたしが一番好きな場所。
 どうして、この場所が好きなのか、もう分からない。
 でも、いつもここにいたような気がする
 そして、今日もこの場所にいる。
 あの人に抱かれて……あの人のぬくもりを感じて……。
 朱い世界。
 燃えている……。
 最後はこんなに朱いのだろうか。
 「……そろそろ、始めるかぁ」
 ……まだ、終わりじゃないらしい。
 何を始めるのかわからず、わたしはあの人の顔を見つめた。
 「俺達の結婚式だ」
 そう言って、あの人はわたしに白いキラキラしたものをかぶせた。
 わたしはそれを風に飛ばされないように、しっかりと押さえた。
 とても大切なもの……あの人が私にくれるものは、いつも大切なものばかりだったから……。
 夕陽に向かって、あの人と並んで立つ。
 わたしの隣りで、あの人は何かをつぶやいていた。
 何を言っていたのかわからないが、わたしはとても幸せだった。
 「真琴」
 あの人が私を抱きしめる。
 「ずっといっしょにいような……」
 そのとき、風が吹いて、わたしの手から白いものが飛び去っていった。
 大切なものが逃げていったような気がして、あれがなくちゃあの人といっしょにいられないような気がして、悲しくて、自分の不器用さが悔しくて、わたしは泣いた……。
 ぼろぼろと泣いているわたしに、あの人は優しく言ってくれた。
 「今日から俺たちは、本当の家族なんだからな……」
 家族だったら、ずっといっしょにいられる……。
 わたしは嬉しくて、また泣いた……。
 涙が止まらない。
 「仕方のない奴だな、おまえは……」
 そう言って、わたしの頭を撫でてくれる。
 丘の上に座り、あの人が後ろから優しく包み込んでくれる。
 ちりん、ちりん、ちりん……。
 心地よい音色。
 わたしは目を開いた。
 ちりん……。
 わたしの手首にずっとつけていた金色の鈴が、夕陽を浴びて朱く輝いていた。
 「ほら、真琴も、ちりんちりんしてみな」
 不器用な指でそれを壊してしまうのが怖くて、わたしは指先を丸めて、かすかにさわってみた。
 ちりんちりん。
 鳴った。
 わたしは一生懸命、鈴を弾いた。
 ちりんちりんちりん……。
 なんだか、とても眠い……。
 ちりん……ちりん……ち……りん……。
 だんだん鈴の音が、遠くなってゆく。
 あの人の、ぬくもりが遠くなってゆく……。
 でも、わたしは幸せだった……。

 
 わたしは、目を開いた。
 そこは、さっきまでと変わらないどこまでも続く暗闇だった。
 なんだ、また夢を見ていたんだ。
 でも、よかった。
 悲しい夢じゃなかった。
 わたしは、また目をつむる。
 こんな暖かい夢といっしょなら、この暗闇をどこまでも流れてゆける気がしたから……。



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