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Kanon Another Story



永遠の煌き




by 幻



 ここ数日の激しい寒さで堅く凍った雪原を疾駆する小さな影があった。
 小さな体躯に似つかわしくないほどの、力強い体の屈伸運動。その姿は野生の生命力をまざまざと感じさせる。

 やがて雪原を駆け抜けた白く小さな影は、クマザサがところどころ黒い影を出すシラカバの林を通り、ミズナラやクロマツの雑木林に至った。冬場なら人が好んで立ち入ることもない山深くである。

 フクロウが、森への侵入者を発見し、自らの食欲を満たすため、狙いを付けて木の枝を飛び立つ。しかし、その侵入者の影を認めたとたん甲高い鳴き声とともに翼をひるがえし、森の奥へと消えていった。

 白く小さな影はここに至ってその姿を変貌させていた。
 丸く愛らしい顔は、鼻の極端にとがった円錐形に変わり、白くフサフサした体毛は堅い銀色のそれになった。
 そこにはかつて「ぴろ」と呼ばれていた頃の面影は微塵もなかった。
 山の主……そう呼ぶのがもっともふさわしかった。

 日がだいぶ傾いていた。
 枝と幹だけの木々は、夕日を背に黒く浮かび上がり、影は雪原に白黒の縞模様をおとす。上下左右、鉄格子がはめられたような光景の中で、山の主は黒い影となって先を急ぐ。
 やがてアカマツの巨木の下にぽっかり開いた、岩に囲まれた洞穴を見つけると、そこに身を沈めていった

 そこには、一匹の雌狐が横たわっていた。
 真琴の母である。
 すでに肉体の死から半月が経とうとしていた。
 厳しい寒さのため朽ちることもなく、肉体にはまるで一刻前に事切れたかのような不思議な生命力の残滓が感じられた。
 黒い影は、そっと母狐に近づき囁いた。
「……よく頑張りましたね。これから先はあの子たち次第です」

 今朝、真琴が熱を出した。
 山の主は奇跡の終わりが近いことを知った。
 そうとなれば、もう自分が出来ることは残り少ない。
 母狐の最後の願いを叶えるべくここに戻ってきたのである。

 やはり……。
 母狐の妖力の衰えはいかんともしがたかった。
 奇跡は不完全だったのだ。
 いや、子狐を人間の姿にしたまでは成功だった。
 しかし、その術は産み落とされたはよいが、へその緒が繋がったままの赤子のように、母狐の妖力から切り離されることなかった。
 強力な妖狐の力は肉体が死してもなお、この世に残り奇跡を生じ続けた。
 例えるなら、それは日が沈んだ後の夕焼けのようなもの。輝きの本体を失った今、それは暮れゆくのみだった。
 奇跡は一瞬の煌めきであり、今、真琴はその残光の中にいた。

 母狐が最後に山の主に託した願い……。
 一つは奇跡の行く末を見守ること、そしてもう一つは真琴自身の再生の手助けだった。行く末はすでに結末が見えている。残りはもう一つだ。
 人間のぬくもりにあこがれ、人間の世界に身を投じたはよいが、その想いが成就するとは限らない。だがもし想いが通じ、あの子自身が人間として生きることを望むのであれば、そのときはあの子を再生に導いてほしい……。これが、母狐の最後の願いだった。

 母狐の生命と引き替えに生じた奇跡が終わりを告げるとき、真琴の肉体は霧散しこの世界から消え去る。
 しかし、精神は行く宛もなく永遠の闇を漂うことになる。
 本来どこにあるとも知れない闇にとばされ、行方など掴めることのない浮遊する精神。
 だが、今回は術をかけた母狐の精神が細々とではあるが、生きながらえているおかげで、それを頼りにあの子の精神が母狐のもとに戻ってくる。

 山奥の淵で水面に落ちた一枚の木の葉が、川の流れに身をまかせ、やがて現れる滝壺に飲み込まれてゆくように……

 しかし、飲み込まれてからでは遅い。
 山の主はその一瞬を捕らえるために、母狐の肉体のあるこの洞穴に戻ってきたのだ。

 
「遅い……」
 真琴が初めに熱をだした日から、すでに数日が過ぎている。
 戻ってくるはずの真琴の精神は、一向にその気配を見せない。
 山の主は日に日に衰えてゆく母狐の妖力を前に、少し焦りを感じていた。
 もしこのまま母狐の精神が先に果ててしまえば、真琴の精神は戻る闇すら失い永遠に復活できない。

 はやまったか……。
 山の主がそう思って、再び腰を上げようとしたとき、それは来た。
 母狐の弛緩した肉体の暗闇のうちに、ぼんやり光る灰色の雲が漂っていた。それは、紛れもなく真琴の精神だった。
 間に合ったのだ。山の主は安堵する。

 儚げに輝く生命のかけらを必死に抱きしめているさまは、とても痛々しい。
 果たしてこの娘にとって幸せとはなんなのだろうか? 
 山の主にとってそれは理解しがたいものだった。
 それは多分この先も判ることはないだろう。
 時の流れの外に身をおくとき、一瞬の幸せやぬくもりなど意味をなさないものなのだ。

 山の主は頼りなく闇を漂う雲に向かって語りかけた……。
 母狐のそして真琴の最後の願いを果たすために……。



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