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Leaf Visual Novel Series Vol.2 "Kizuato"



氷の微笑




by 森田信之



「あ、あのさ…千鶴姉……」

「え? なぁに?」

げんなりとした表情の梓とは裏腹に、実に上機嫌なのは柏木千鶴(26歳)。彼女はたった今、職場へと向かう夫を送り出したところだ。

「どーでもいいけど、そのエプロン何とかなんないの?」

「…これ?」

「それ」

今千鶴が身につけているのは、フリフリのついた真っ白な可愛らしいエプロンだ。もちろん、胸元のポケットの中には、料理で手を切ったときのためのバンソウコウが十枚ほど入っている。これでもここ数日で半分に減ったくらいだから、彼女の不器用さがありありと見て取れるだろう。

「なんかさぁ、あからさまに『新婚の若奥様』じゃない? もーちょっと落ち着いたのなかったの?」

「でも、耕一さんだって『似合ってるね』って言ってくれたのよ?」

「…………」

この瞬間、柏木家の次女、梓は自分の発言を後悔した。

「そうそう、この前の日曜にお買い物にいったときなんかねぇ」

と、誰も聞いていないのに目をキラキラと輝かせて、梓のほうを向いて前傾姿勢で話し始める千鶴。こうなったら最低でも20分は止まらない。止めても止まらない。それこそ、両手を後ろ手にふん縛って、口をガムテープでふさいで庭の倉に閉じ込めるくらいでないと、絶対に止まってくれない。

それくらい、千鶴のノロケっぷりは度を越していた。いや、新婚ボケというべきか。

 

柏木家の四人姉妹の内、次女の梓、三女の楓、末っ子の初音にとって、長女の千鶴と彼女たちにとっては従兄にあたる柏木耕一の結婚は、至極当然のことだった。

今を溯ること半年前、二人から結婚の話を聞いたときも、誰も驚きはしなかった。当然こういう結果になるだろう、という、暗黙の了解めいたものが存在したからだ。そして二人は婚約から五ヶ月後、今から1ヶ月前に結婚した。

「…梓姉さん…」

三女の楓が少し心配そうに梓の顔を覗き込む。すでに楓も地元の有名な大学に通う女子大生だ。

「あ、楓…今の千鶴姉には近づかないほうがいいよ」

「……」

黙ってうなずく。彼女は昔からどちらかというと無口なほうだ。根暗というわけではないが。

「今日は…どれくらい?」

「さっきは25分だった。まぁ一昨日よりはマシかな。一昨日は30分オーバーだったから」

「昨日は初音が45分って…」

「それって新記録だよ。…初音もよく我慢するよねぇ」

彼女たちが話しているのは、もちろん『千鶴のノロケ話』耐久レースのことだ。耐久レースであるからには、時間が長いほどツラい目にあう。現時点では、最も耐久性に優れているのは末っ子の初音らしい。

それこそ最初のうちは三人とも面白がって千鶴のボケっぷりを眺めていたのだが、人の色恋沙汰を目の前で見ていると無性に腹が立つ、ということを身をもって実感していた。

「耕一ももーちょっとさぁ…こう、なんか言って欲しいよね」

「でも耕一さん…千鶴姉さんと一緒になってノロケてるから…」

「まぁノロケるのはまだいいんだ。あれを何とかして欲しいね、アレを」

梓が『あれ』といって視線を向けたのは、台所で料理の研究にいそしむ千鶴の後ろ姿だった。

一般的な観点から見れば、新婚の若妻となった長女の料理修行を見守る妹たち、という、実に微笑ましい情景なのだが…

「今度は何を作るんだか…」

「中華みたいだけど…」

千鶴の手元には『あなたにもできる! 本格派四川の味!!』と銘打たれた本がある。

「こーいう表題にするから、千鶴姉みたいなのが勘違いして挑戦しちゃうんだよ。まぁ前よりはいくらかマシになったけどさ」

「タマも最近は千鶴姉さんの料理食べて、一応は意識を保ってられるみたいだし……」

「油断しちゃだめだよ。いつまた変なの作るか解らないんだからさ。それがタチ悪いんだよねぇ」

という美人姉妹の微笑ましい(?)会話の中に、末っ子が入り込んできた。

「あ、初音。千鶴姉何作ってたの?」

そう、彼女は今までずっと台所で千鶴の料理の手伝いをしていたのだ。

「今日のはマーボー豆腐だよ。味見したけど、普通の味だった

大丈夫なの初音っ!? 千鶴姉の料理が普通の味だなんて…」

急に顔面蒼白になる梓。心配そうな顔で妹の顔を覗き込む楓。

「あぁ…天変地異でも起こらなきゃいいんだけど……」

「梓姉さん、今日は学校へは傘持っていかないと…」

「一応ミニラジオも持っていこう。地震でも起きるかもしれないよ」

と、散々な言われ様だが、柏木家の中では千鶴の料理下手はかなり有名だ。

時に家族全員の性格を反転させ、時に飼い猫のタマを意識不明にまで追い込み、時に社員五人を病院送りにする(参考文献:隆山にゅーすねっとわーく)など、数々の武勇伝を作ってきたくらいだ。有名になるな、というほうが難しい。

「さてと、それじゃあ昼ご飯の時間になる前に大学に行こうか?」

「そだね。千鶴おねーちゃーん、私たち大学に行くからねぇー」

台所から「はーい、気をつけるのよー」という姉の声が聞こえてくる。これで彼女たち三人の消化器官の健康は守られた。

 

 

昼下がりの柏木家。

ここに今いるのは、つい最近結婚したばかりの柏木千鶴ただ一人。

「…誰からかしら…?」

千鶴はたった今、耕一宛ての宅急便を受け取ったところだ。

送り主を見ても、まったく千鶴には見覚えのない名前だった。柏木家が会長職を勤める「鶴木屋」関係であれば、現会長でもある千鶴が知らないわけはない。恐らく耕一の大学時代の友人からだろう、と軽い気持ちで送り状を読むと…

「小出…由美子……? ……だ、誰…?

丸文字だった

いかにも「若いピチピチした(死語)女の子が書きましたよぉ〜★」とでも言わんばかりの文字だった。

思わず荷物を持つ手に血管が浮き出る。

ビシっ、という、何かに亀裂が入るような音でふと我に返る千鶴。

「い、いけないわ。そんな…耕一さんが浮気なんてするはずが……そうよ、大学の友達よっ、それ以外の何者でも…」

もちろん、千鶴が導き出した答えは大正解だ。

「でも……でも、もし耕一さんが…」

しかし、なぜか彼女はよよよと力無く壁にもたれかかってしまった。

 

「そ、そんなっ! 耕一さん! 私を捨てないでっ!」

「ふぅ…解ってくれ千鶴さん。俺も男なんだ。若くてピチピチした(死語)身体の方がいいんだよ」

「それだけのために…? たったそれだけの理由で私を捨てるの…?」

「あぁ、それだけだ」

「私は…こんなに耕一さんのことを愛してるのに?」

といっていきなり耕一に抱き着く千鶴。

「耕一さんのためならどんなことだって…私……私っ!」

耕一のシャツを濡らすくらいに涙を流しながら、必死で耕一を離すまいと腕に力を入れる。

「お願い耕一さん…私……耕一さんがいなかったら……」

「…ふふっ、馬鹿だなぁ千鶴さん、俺が浮気なんかするわけ無いじゃないか。ちょっとふざけすぎたね。ごめん。ほら、もう泣かないで」

「え…?」

「この人は大学のゼミで一緒だった人だよ。心配ない、ただの友達だから」

「そ、それじゃあ…」

「心配しないで……愛してるよ、千鶴さん…」

そういうと、耕一は優しく千鶴にキスをしながらエプロンを脱がせていく。

「…あっ……耕一さん…」

そして薄めのセーターの裾からゆっくりと耕一の大きな手が…

 

ぴんぽーん、という玄関のチャイムでまたしても我に返る千鶴。あわてて鼻血をポケットティッシュで拭き取った。

「は、はい〜」

からから、という軽い音を立てて玄関の戸が開く。そこには、メガネをかけた女性が一人立っていた。

「…あ、あの…どちら様で?」

「あ、私柏木君の友達で小出っていいますけど…あのぉ、柏木君は…?」

不意に玄関の温度が3℃下がる

小出?

この小包の差出人は小出由美子。

間違いない、「この女」だ。

主人でしたら今仕事に出かけてます

言葉づかいは非常に丁寧だが、妙に「主人」という言葉に殺気がこもっていた。

それで、主人に何か?

さらに3℃温度が下がった。今度の「主人」には、先ほどとは比べ物にならないくらいの殺気がこめられている。

「え? あ、あのっ…べべべべ別に用ってほどのモノじゃあ…」

由美子も尋常ならざる殺気を本能的に感じ取ったのか、半歩後ずさりしながら作り笑いを浮かべる。

「た、ただ旅行で近くまできたんで、いるかな〜? って思って来ただけですんでっ」

と、そこまで言うと脱兎のごとく逃げ出そうとした。

そう、逃げ出そうとしただけで、現実には逃げられなかった。

せっかくいらしたんですから、どうぞお茶でも

表面上はにこやかで、非常に社交的な千鶴の笑み。だが、その奥には狂気とも言える憎悪の炎がメラメラと燃え上がっていた。

もちろん小出由美子も、それに気づかないほど命が惜しくないわけはない。が、あまりの威圧感に逆らう事ができず、家の中へと連れ込まれてしまった。

そしてここは柏木家の茶の間。まるで猛獣のオリの中に入れられたように脅えきった小出由美子が、本当に「恐る恐る」みかんの皮をむいていた。

「あ、あの…柏木君の……奥様…でいらっしゃるんですよね?」

「えぇ。そうですよ」

とりあえず、書体が明朝体に戻っていることからも千鶴の言葉に殺気は感じられない。ある程度落ち着きを取り戻したようだ。

「それで…今日はどういったご用向きで?」

「あ、そ、そうでした。こないだ小包を出したんですが…」

「これですね?」

といって穏やかな顔で千鶴が先ほど受け取った小包を差し出す。まさか由美子は、この奇麗な細い指が鉄をも引き裂く(ほどの威力があるか否かは定かではないが)鬼の力を持っているとは考えも付かないだろう。

「あ、そうそう、それです。直接持ってきた方がよかったかなぁ

ゴオオオオオオオオオオオオォォォォォォッ

突如、猛烈な圧力で怒りの波動が襲ってきた。もちろん由美子に、である。

「え? な、なに? 今の…?」

「え? どうかしました?」

ふと由美子が視線を上げると、そこには相変わらず微笑みをたたえた「奇麗な若奥さん」千鶴が座っている。

「……い、いえ…」

「どんなのを送られたんです?」

まるで近所の奥さんと世間話でもするかのような千鶴の口調。

だが、その裏には非情な鬼の顔が潜んでいた。

「こないだ友達の結婚式があったんですけど、柏木君仕事で来れなかったんです。それで、記念品と写真を送ったんですが…」

「あら、そうだったんですか」

突如、由美子の両肩に重くのしかかっていた威圧感が消えた。

「あ、そうそう、もうお昼は召し上がりました?」

「…そー言えばもうお昼過ぎてるんですよね…あはは、食べるの忘れちゃった」

「よかったら召し上がっていってください。たくさん作りましたんで」

「え? いいんですか?」

「どうぞどうぞ」

そう言って、千鶴は台所へと姿を消した。

もしこの場に梓がいたら、体を張って由美子を守っていた事だろう。だが、騎士となるべき梓もこの場にはいない。彼女は現在、二人の妹と共に学食でのんびりとお喋りに興じている。

ほんの数分後、マーボー豆腐の入った器を持って、千鶴が帰ってきた。

「すみません、急にお邪魔した上にお昼までごちそうになっちゃって」

「いいえ、いいんですよぉ」

耕一の浮気の疑念が消えたお陰か、先ほどまで家中に充満していた殺気はきれいさっぱり無くなっている。が、由美子にとっての本当の試練はこれからだった。

「それじゃ、いただきます」

一口目。

「…………っ…」

「…? あの…お口に合いません?」

「いっ、いえっ……」

二口目

「……………(涙)…」

「あのぉ…?」

このシチュエーションで「やせ我慢」という言葉を使うことこそ、日本語として正しい使い方なのだろう、と由美子は実感した。

辛い。

ひたすら辛すぎる。

全身から汗が噴き出てきた。舌の感覚はすでに8割強失われている。

味に不満がないわけはない。だが、舌がしびれて何も喋る事が出来ない。しかし、食べないわけには行かなかった。

由美子は本能的に、さっきの殺意混じりの怒りの波動の主が、目の前の女性である事に薄々気づいていた。

ヘタに刺激したら殺される!

そう直感していたからだ。この場はひたすら上手く機嫌をとって、一刻も早く柏木邸から脱出を図らなければ…

ただその一念だけが彼女を突き動かしていた。

そして小出由美子が奇跡的に、無事に柏木邸を出る事が出来たのは食べ始めて三時間が経過した頃だった。

 

 

「ただいまぁー」

「お帰りなさ〜い、耕一さんっ♪」

「ごめんよ、遅くなって」

「いいえ、お仕事ですもの。仕方ないわ。それよりお風呂とご飯、どっちにします?」

「んー…そうだな、腹へってるから先に飯にしようかな」

玄関からは異様に上機嫌な千鶴の声が聞こえてくる。そう、千鶴の声だけが…

「あ〜あ、またやってるよ千鶴姉」

「日課になっちゃったね」

「あれでもう26通り目……」

茶の間では梓、楓、初音がそれぞれ呆れ返った顔で玄関からの声に耳を傾けていた。

現在千鶴は、「耕一のお迎えシミュレーション」に没頭している。これは結婚してから今まで一日も欠かした事のない、千鶴の日課だ。こうして入念なシミュレーションの後、選び抜かれたパターンで耕一を迎えることになる。

「ただいま、千鶴さん」

「お帰りなさい耕一さぁん」

「ふふっ、寂しかったかい?」

あっ…耕一さん……ダメ…梓たちに聞こえちゃう…

かまうもんか。ほら、力抜いて

だ、だめ……こんなところで…

どうやら新バージョンを開発したらしいが、恐らくこのシミュレーションは現実になる事はないだろう。

「最近の千鶴姉さん、暴走気味だから…」

「気味どころか、もろに暴走しちゃってるよ。まったく…」

「仕方ないよ。新婚さんだもん」

お茶を啜りながら、悟りきったような事を言う初音。恐らくこの三人の中では、もっとも千鶴の行動と言動に理解を示す努力をしているのが彼女だろう。

「まぁね。ほぼ全ての事が『新婚さんだから』で片づけられちゃうけどさぁ…」

「耕一さん…早く帰ってこないかな…」

「そだね…」

この言葉にはもちろん、彼女たち三人が耕一を慕っていると言う事実もあるが、とりあえず玄関先での一人ロールプレイングを中断させて欲しい、という切実な願いが込められていた。

 

そして彼女たちの願いが天に通じ、残業を切り上げた耕一が帰ってきたのは、それから1時間後であった。

(その間、千鶴のシミュレーションが延々続いた事は言うまでもない。)




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