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Leaf Visual Novel Series Vol.2 "Kizuato"



あの日から




by 森田信之



手術室のドアが開いた。

手術室前の廊下には、柏木家の四人姉妹が勢揃いしている。四人のうち三人は少し疲れたような表情だ。

「先生、耕一は?」

「大丈夫。すごい生命力だよ。普通なら…あれだけの怪我を負えば即死に近い状態で死ぬんだけど、今はもう心拍も血圧も安定してるからね。心配ない」

三人の口から同時に安堵のため息が漏れた。

普段は忌まわしい鬼の血も、この時ばかりは力を貸してくれたようだ。

「千鶴姉、よかったね。耕一助かるってさ」

「……こういちさん…?」

「うん。耕一お兄ちゃん、もう心配いらないんだって」

千鶴はまだ元に戻ったわけではない。相変わらず、どこに焦点を合わせているのか解らないような虚ろな目をしたままだ。

「ただ、まだ君たち以外の面会はできないよ。結構衰弱してるから、当分入院させたほうがいい」

「そうですね…でも、耕一さんは助かるんですよね?」

「それはもちろんだ。命に別状はないから」

ようやく楓にも笑顔が戻った。

これで千鶴が正気を取り戻してくれれば、完全に元どおりになる。

気にかかっていた連続殺人事件も、耕一が姿を消した数日後に解決した。これでようやく何も心配しないで笑える日がくる。

「千鶴お姉ちゃん…早く良くなろうね」

少しだけ、千鶴が笑った。

ほとんど泣くことしかなかった千鶴が、久しぶりに見せる笑顔だ。

「でも…どうして耕一さんはあんなところに…?」

「決まってんじゃない、あいつらが耕一をさらって行ったのよ。その上にこんなひどい怪我までさせて…」

「でも、あんなところに洞穴なんて無かったよね? もしあったら消防の人たちとかも中を捜してたはずだし…」

「まぁいいさ。耕一は生きて帰ってきたんだから、それでいいじゃない。細かいことは気にしない」

「…そうだね」

これから少し忙しくなるだろう。耕一が意識を取り戻すまでに千鶴が元に戻ってくれれば最高なのだが…

もちろん、警察にも耕一を発見したことを連絡しなければならない。それに、どういういきさつで耕一を発見したのかも言わなければ行けないだろう。恐らく信じてはもらえないだろうが。

それはそれで一向に構わない。警察が信じようと信じまいと、梓たち三人が耕一を無事に助け出したことは事実だ。

だが、どうも納得できない点が一つある。

隆山に伝わる天城忠義の逸話に出てくる侍「次郎衛門」。

鬼達がその生まれ変わりである耕一を怨んで、耕一を連れ去ったというのはまだ理解できる。そして、その耕一を殺そうとしたこともつじつまがあう。

ではどうして耕一は生きていたのだろう?

柏木家の人間であるとはいえ、耕一はまだ鬼の力を使いこなせないはずだ。その耕一がなぜ、あれだけの鬼の中で生き延びることができたのだろうか?

「多分耕一さん…鬼に抵抗するうちに、自分の中の鬼をコントロールできるようになったんじゃあ…」

ぴくっ、と千鶴が反応を見せる。だが、三人ともそれには気づかなかった。

「…それ…ありうるかも……いや、多分それだよ。必要に迫られて…っていうかさ、本当に命が危険にさらされたんだから、昔のあの水門のときみたいに鬼の力を使ったんだと思うよ」

「それじゃあ耕一お兄ちゃん…もう鬼の力を使いこなせるの?」

「多分…目が覚めたら耕一さんに聞いてみないと」

また千鶴に反応があった。

「…おにの…ちから……?」

「…え? 千鶴お姉ちゃん、今何か言った?」

「……つかいこなす………?」

「…そうだよ千鶴姉、もう耕一のことは心配しなくてもいいんだ。お父さんや叔父さんみたいに、自分の鬼に振り回されることも無いんだよ」

「…こういちさん………耕一さん!」

急に千鶴が立ち上がった。が、ここの所食事をろくにとっていなかったせいか、すぐによろけて座り込んでしまった。

「ちょ、ちょっと千鶴姉! そんな急に動いちゃ…」

「梓っ! 耕一さんは? 耕一さんはどこ?」

「千鶴姉さん…?」

「耕一さんは…耕一さんを探しに行かなきゃ!」

「 ……千鶴姉…正気に戻ったの!? 大丈夫なの?」

「そんなことより、早く耕一さんを…」

千鶴はひどく狼狽している。

それもそのはずだ。彼女の記憶は、耕一が姿を消して一週間目の時点から途切れているのだから。当然、ついさっき耕一が無事発見され、治療を受けたことも記憶の中には無いはずだ。

「千鶴姉、とりあえず座って。落ち着いて」

「落ち着いてられるもんですか! 止めても一人ででも探しに行くから!」

「だーかーらー! ちょっとは人の話を聞けっての!」

よろける足で飛び出していこうとする姉の両腕を掴んで、慌ててベンチに座らせる。

「いい? 耕一は見つかったのよ! 今は麻酔で眠ってて少し衰弱してるけど、命に別状はないのっ! あたしが言ってること解る?」

「……え?」

「耕一お兄ちゃん、河原の洞穴の中にいたの。その…話せば長くなるんだけど…」

梓が話せばゆうに一時間はかかるであろう内容を、初音は実に要領よく、三十分ほどで話して聞かせた。こういう要領のよさは初音が四人の内でもトップだろう。

「…っていう事なの」

「そ、それじゃあ……」

「今はまだ眠ってるけど…点滴も打ってるし、早ければ明日にでも目が覚めるだろうってさ」

「耕一さん…耕一さんが……」

病院の廊下に涙の粒が落ちる。

「…え? そういえば………ここ……どこ…?」

「隆山中央病院。さっきまで耕一が手術受けてたんだ。ひどい怪我してたから」

「どんな…怪我なの?」

「お腹にひどい傷があったみたい。私たちが見つけたときはもうふさがりかけてたけど…」

腹部に熊の爪でえぐられたような傷。

千鶴の記憶では、確かに河原で耕一の身体を爪で引き裂いた。その時の感触まで思い出せるし、その時にかいだ耕一の血の臭いも思い出せる。

どういうことだ? 本当にあれは夢だったのか? それとも現実なのか?

自分は何をしたのだろう?

必死で思い出そうとしたが、はっきりと思い出せない。夢だと思い込もうとする力と、現実だと認めようとする力が拮抗している。

「千鶴姉、もう深く考えるのはよそうよ。耕一は帰ってきたし、千鶴姉も元に戻った。これでいいじゃない」

「梓……」

「そうだよ千鶴お姉ちゃん、これで良かったんだよ。耕一お兄ちゃんも鬼の力を使いこなせるようになったみたいだし」

「耕一さんが…?」

「そうじゃないと理屈が合わないでしょ? だって、ものすごい数の鬼に囲まれて生きてるんだから、鬼の力を使いこなせるようになったとしか思えないよ」

「それじゃあ…耕一さんは……」

連続殺人鬼じゃなかったのか。

自分はその事を耕一に確かめようともせず…いや、確かめて耕一が否定しても、その言葉を信じようともせずに、耕一の命を奪おうとしたのか…

結局、耕一が正しかったのだ。

「私は……」

「もういいよ、千鶴姉。もういいんだってば」

また涙が溢れる。

とてつもない後悔が襲い掛かってきた。

耕一は自分の事を許してはくれないだろう。自分は殺していない、という耕一の言葉に耳を貸す事も無く、有無を言わさずに殺そうとしてしまった。許せるはずがない。

「…千鶴姉さん、今日はもう休んだほうが…」

「それじゃあ…どうしようか? 今日は耕一お兄ちゃんも目を覚ましそうにないけど…」

「初音と楓と千鶴姉は家に帰って休んでて。あたしはここに泊まってくよ」

 

家に帰ってから、千鶴は一言もしゃべらなかった。初音も楓も、また千鶴が正気を失ったのかと心配したが、目が以前とはまるで違う。落ち込んだような目をしてはいるが、きちんと正気の目をしている。

「…千鶴お姉ちゃん、どうしたの?」

「…え?」

「何だか元気ないけど…」

「そ、そう…?」

「耕一さんも帰ってきたんだから、もう心配することはないと思うけど…」

確かに千鶴にとっても耕一が生きていたことは嬉しい。おそらく四人の中で一番喜んでいる、といっても過言ではないだろう。

だが、今の千鶴にあるのは後悔と不安だけだった。

結局は自分が耕一を殺しかけたことになる。そんな自分を耕一は許してくれるだろうか。

目を覚ました耕一が、自分にも微笑みを見せてくれるだろうか。

「先生もね、早ければ明日にも目が覚めるだろうって。精密検査とかはまだしてないけど、見た限りどこにも異常はないんだって。だからそんなに心配しないでいいんだよ」

「耕一さんも…千鶴姉さんのそんな落ち込んだ顔見たら悲しむよ」

「…そうね……ごめんなさい、せっかく耕一さんが帰ってきたのに…」

ここまできたら覚悟を決めるしかない。どれだけ耕一になじられようと、どれほど耕一に嫌われようと、きちんと謝らなければいけない。

おそらく許してはくれないだろう。一生心に傷が残るような言葉でなじられるかもしれない。でも、それも全て自分がまいた種だ。全ては耕一を信じることが出来なかった、自分の弱さが原因なのだから。

「初音、楓……」

「うん?」

「……ごめんなさい…私が弱いせいであなた達に迷惑を…」

「千鶴姉さんが悪いわけじゃないよ。それに、梓姉さんだって迷惑だなんて思ってないから」

「…ごめんなさい……」

「…千鶴お姉ちゃん、今日は早めに寝たほうがいいよ。明日は朝から病院に行こう。耕一お兄ちゃん、目が覚めてるかもしれないよ」

「……そうね。それじゃあ今日は何だか疲れたから…もう休むわ」

「うん、お休みなさい」

 

一方、病院に残った梓はずっと耕一の側に座っていた。時々席を外すが、それでもすぐに戻ってくる。

「…耕一……」

まだ梓の呼びかけに返事はない。

静かな夜だ。ともすれば点滴の落ちる音まで聞こえてきそうなくらいだ。

「……恐かったろうね…あんな鬼の中にたった一人でさ…」

青あざが残る耕一の左手を、優しく包むように握る。

暖かかった。そこには確かに体温が感じられる。

「あんた…凄いよ。叔父さんも父さんも、鬼の力を使いこなせなかったのに……それなのに…」

すでに消灯時間を過ぎているため、病室の明かりは消えている。それでも、月明かりが窓から差し込んでいるおかげで、耕一の顔ははっきりと見ることが出来る。

「…感謝しなよ。あたしも楓も初音も、千鶴姉のことを考えて身を引くんだからね……」

少しだけ、耕一の手を強く握る。

「だから……今だけ…」

瞼を閉じたままの耕一に静かに顔を近づける。そのまま、軽く唇を合わせる。本当に軽い、触れるだけのようなキスだ。

それでも梓にとっては十分だった。

「……よしっ、今日は気合入れて寝るかっ」

意味の分からない言葉を口走って、付き添い用の薄い布団に潜り込んだ。

 

 

翌日はよく晴れていた。陽射しは相変わらず強いが、風が少しだけ涼しくなっている。

「お、来たね」

「おはよ、梓お姉ちゃん」

「おはよ。千鶴姉、よく眠れた?」

「えぇ。…それで、耕一さんは?」

「まだ目が覚めないみたい。でも大丈夫だよ。夕べもずっと落ち着いてたし。今朝起きたらちゃんと息もしてたしね」

ベッドの上では耕一が規則的な寝息を立てている。人工呼吸器も何も付けていないから、傍目には本当に「ただ寝ているだけ」に見えるだろう。

「梓姉さん、これ…」

「あっ、ありがと楓。今日朝おきてから何も食べてなかったんだ」

しばらく四人姉妹のいつも通りのやり取りが続く。千鶴もどうやら、本当に覚悟を決めたらしい。以前とまったく変わらない様子だ。

「…ねぇ、耕一お兄ちゃん…大学卒業したらどうするのかな?」

「え?」

不意に初音が耕一の方を見ながら呟いた。

「どうして?」

「だって耕一お兄ちゃん…向こうにいても一人なんでしょ? そしたら…卒業したら家に来ればいいのにね」

「まぁね。こっちに就職する気があるんならいいけど…千鶴姉、いっそのこと耕一に鶴木屋継がせれば?」

「……そうね、耕一さんが引き受けてくれればいいんだけど…」

恐らく千鶴がその事を言っても耕一は引き受けてはくれないだろう。自分を死の淵に追いやったものの言うことなど、聞くはずもない。

「でもね…」

と、千鶴が何かを言いかけたときだ。

「………ん…?」

四人が一斉に振り返る。

「……ここは…?」

「耕一! 目が覚めたの!?」

「耕一さん!」

耕一のすぐ隣にいた梓と楓が慌てて顔を覗き込む。

「…目が覚めた…って…?」

「……よかったぁ…耕一お兄ちゃん、大丈夫だったんだ…」

まだ耕一は状況がつかめていない。しばらく周囲を見回して、ようやくここが病院だということを理解したようだ。

「つっ…」

「あっ、耕一さん! まだ無理しちゃだめです!」

「あ、あぁ…大丈夫だよ」

体を起こそうとした耕一を、千鶴が優しく押え込んだ。

「…千鶴……さん……」

「…あっ……」

が、その手を慌てて引っ込めてしまう。そしてそのまま、二人とも黙り込んでしまった。

「……初音、梓姉さん、ちょっと…」

「え? …あ、あぁ、そだね。耕一、千鶴姉、あたし達ちょっと出てるから」

「え? ……う、うん…」

こうして、病室には耕一と千鶴の二人だけが残された。

しばらくは何も言えなかった。耕一も何も言わなかった。ただ、時計の針が動く音だけが聞こえている。

「…耕一さん……」

「…うん?」

「………耕一さん…私…」

「いいんだよ。もう終わったんだ」

「…えっ?」

「あ、そ、その…いや、そういう意味じゃなくてさ」

不安な表情になった千鶴を見て、慌てて自分の言葉の意味を説明しようとする耕一。どうやら違う意味での「終わった」と捉えられてしまったようだ。

「もう…悪い夢は全部終わったんだ。だからもう……もういいんだよ、千鶴さん」

「…耕一さん………でも…でも私…」

「いいんだ。…これ以上千鶴さんが苦しむ必要なんて、どこにもないんだから」

「…………耕一…さん…」

「…今まで一番辛い思いをしてたのは千鶴さんじゃないか。だからもう…これ以上千鶴さんにはそんな悲しい顔をしてほしくないんだ」

ひざの上で握り締めた手の甲に涙が一つ、二つと落ちる。

「…でも……私…耕一さんの言うことを聞こうともせずに……私…」

「……千鶴さんのお陰なんだよ。俺がこうして鬼の力を使いこなせるようになったのは」

「えっ? ……耕一さん…力を…?」

「うん。…あの後にさ…」

 

 

腹部には鈍い痛みがあった。

河原に一人で倒れ込んでいる、ということはよく理解できている。

そして、ずっと向こうの方には、走り去っていく千鶴の後ろ姿が見えた。

(これで…よかったんだ……これで…)

意識が少しずつ遠ざかっていく。

あぁ、これでもう死ぬんだな、ということが直感的にわかる。

それを自覚したとたん、急に「死にたくない」という思いが込み上げてくる。

これで良いわけはない。まだ死にたくない。千鶴さんと離れたくない。これからも千鶴さんと一緒に生きていたい。

そう意識した。考えまいとすればするほど、脳は考えていく。

これでいいのか? このまま、こんな形で死んでもいいのか? あの鬼は自分だという確証もないまま、千鶴の手にかかって死ぬことに本当に満足しているのか?

生きていたい、という望みはどんどん募っていく。が、そんな感情とは裏腹に、次第に意識が薄れていった。

そして、ついに何も見えなくなった。 

 

次に目が覚めたのは、真っ暗な広い部屋の中だ。

何かの気配がする。すぐ近くにいるが、姿はよく見えない。

起き上がろうとして、腹に激痛を覚えた。

「…ここ……は…?」

(目が覚めたか、次郎衛門)

まるで部屋全体から聞こえてくるような…いや、部屋がしゃべっているような感じだった。

「次郎衛門…?」

(そうだ…エルクゥの宿敵よ…)

次郎衛門…

そうだ、由美子さんが話していた、あの天城忠義の軍勢にいた侍の名前だ。

「何のことだ…? その次郎衛門ってのと俺とどういう関係が…?」

(オマエが忘れても我々は忘れていない……ようやくオマエを血祭りにあげる時が来た…)

全身の毛が逆立った。

本能が最大ボリュームで危険を知らせている。だが、逃げ道はない。

どうする? 今の俺に逃げることは出来ない。逃げ道があったとしても、この体じゃ絶対に逃げ切ることは出来ない。

でも死にたくない! 何とかして生きて帰りたい!

「まだ…俺は死ねないんだ! 殺されてたまるかぁ!」

傷ついた身体から、どうすればこれだけの音量が出るのだろう、というほどの叫び声だった。自分でも少々驚いたくらいだ。

「お前等の思い通りになってたまるか!」

(おもしろい…その身体でどれだけのことが出来るか…やってみるがいい!)

急に身体の底から力が湧き出てきた。足元の床が軋み始める。

昨日までの耕一なら、自分の体に何が起こっているのか判らなかっただろう。だが、さっきの千鶴を見た今なら理解できる。

これが鬼の力を使うということなのだ。

そして、次から次へと襲い掛かってくる鬼と、たった一人で戦い続けた。11日間休むこともなく、ただひたすら鬼を殴り、蹴り、爪で斬りつけ、踏み潰す。それを繰り返していた。

だが、いかに耕一が強大な鬼の力を振るおうと、傷ついた身体では限界はそう遠くなかった。

耕一がこの暗い部屋に入ってから十二日目、とうとう意識を失ってしまった。

 

 

「…で、気が付いたらここだったんだ」

「…………そ、それじゃあ…」

「千鶴さんがあの時、ああしてくれたから俺は今こうして生きてるんだよ。だから…もう自分を責めないで。仕方なかったんだ。千鶴さんだってあの時はああするしかなかったんだよ」

「…こういち…さん…」

両目からぽろぽろと涙が零れる。

耕一がいなくなってからどれほどの涙を流しただろう。だが、この涙が今までのものとは全く違う。

「私を……許してくれるんですか…?」

「許すも何も…感謝してるくらいだよ。俺が今鬼の力を使えるようになったのは千鶴さんのお陰なんだから。…千鶴さんがいなきゃ今ごろ俺は本当に殺人鬼になってたかもしれない。それを助けてくれたじゃないか」

「こういちさん……耕一さぁん!!」

細い腕で耕一に抱き着いた。

耕一が目を覚ましたらこれを話そう、こう言って謝ろう、もし許してくれたらこんなことを話そう…と、いろいろと考えていたものがすべて吹き飛んでしまった。

口から出た言葉はたった一つだ。

「ごめんなさい! ごめんなさい耕一さん! ごめんなさい!」

「千鶴さん……もういいんだ。もういいんだよ」

「ごめんなさい……ごめんなさい…」

「ほら…もう泣かないで。…もう全部終わったんだよ」

「私…私……」

「………これからは俺も側にいるから。梓と楓ちゃんと初音ちゃんと一緒に、俺もいるから」

「…え……?」

「その…ち、千鶴さんには…今まで辛い思いをした分、幸せになって欲しいんだ」

「……?」

「だから…その……俺も…千鶴さんの幸せに協力したい…」

「………?」

どうやら千鶴は耕一が意図していることをあまりよく分かっていないらしい。涙に濡れたままの目で耕一を見上げていた。

「俺が…俺が千鶴さんを幸せにしてあげるよ」

「…あ……」

ここまではっきり言ってようやく意味を理解したらしい。急に顔を真っ赤にしてしまった。

「耕一さん……」

「ほら、千鶴さん…笑って。もう泣かないで」

「……はい…」

耕一も千鶴を抱く腕に少しだけ力を入れる。

そして、壁に映る二人の影は完全に一つに重なった。

 

「梓姉さん…」

「うん?」

「これで……良かったんだね」

「うん、これでいいんだよ。耕一もこっちに来るつもりらしいし、大団円ってやつだね」

「それじゃあ耕一お兄ちゃんの部屋とか用意しなきゃ」

「あははっ、まだ早いよぉ。だって耕一が卒業するのって再来年の春でしょ? 来年一杯あるんだからさ」

「でも……」

三人で顔を見合わせる。

そうだ、これで良かったんだ。そう言いたげな笑顔だ。

「来年も…耕一お兄ちゃん遊びにきてくれるよね?」

「お正月とか呼ぼうよ。春休みも夏休みも、秋とかも耕一はテスト休みがあるだろうしね」

「うんっ、それじゃあそろそろ…入ってもいいかな…?」

「もーちょっと二人きりにさせてあげようよ。今邪魔したら一生怨まれるよ」

「梓姉さん、コーヒー買ってこようか?」

「ん? あぁ、いいよ。あたしも行くから。三人でのーんびりとくつろぐとするかニ」

廊下から三人の足音が遠ざかっていく。だが、遠ざかって行くことに不安はなかった。またすぐに戻ってくる。またすぐに、この部屋で、五人で笑って話すことが出来る。

ようやく長い悪夢は終わったんだ。千鶴と耕一は、口には出さないが二人ともそう考えていた。

「千鶴さん…」

「…はい?」

「俺…正月にまた遊びに来るよ。千鶴さんに会いに」

お互いの顔を見合わせる。

笑顔だ。こうして何の脅えも不安もない笑顔を見たのは、ずいぶん久しぶりだった。

千鶴が目を閉じる。耕一がその細い肩に手をかけて、優しく引き寄せた。そして、ゆっくりと顔を近づけ…

ガチャっ、というドアの開く音がした。慌てて二人とも不自然に距離をとる。

「あっ…ご、ごめんなさいっ! その…ジュース買ってきたから…耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんも飲むかと思って…」

「え? あ、あぁ、ありがと初音」

「わ…悪い耕一っ! 邪魔するつもりはなかったんだ」

「……ごめんなさい…」

と、次々に初音、梓、楓が入ってくる。どうやら外が暑かったかせいで戻ってきたらしい。

千鶴がちらりと耕一を見る。多分今、自分も耕一と同じような表情をしているのだろう、そう思うと可笑しくて仕方なかった。

なぜかこの日、耕一のいる病室からは笑いが絶えなかった。

 

この病院にいる誰もが、「柏木」という名字を聞いたことがあるだろう。だが、誰もその名の意味を知るものはいない。

呪われた血の宿命に翻弄されてきた五人。

その五人も、今は呪われた血に打ち勝っている。この笑い声は、勝利の凱歌でもあった。




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