第5章  走り出す想い


 これは『With You〜みつめていたい〜』の二次作品です。
 氷川菜織シナリオで話は進行しています。


06/25 (Thu)

「こんにちわ〜」
「何だよ、それは‥‥せめて客らしく入れよ」
「まあいいじゃない‥‥」
 美亜子と冴子と知章の3人がロムレットに入ると、ウエイトレス姿の乃絵美が出迎
える。
「いらっしゃいませ‥‥三名様ですね。今、お席の方にご案内します」
「あー‥‥結構、混んでるね‥‥」
 そう言いながら知章が店内を見回していると、
「ニャハハンハン。そりゃあ勿論、人気ある店だからねん」
 と、前に居た美亜子が振り返って言う。
「へぇ‥‥じゃあ、この間が初めてで今日が二度目の俺って‥‥」
「かなりのもぐりだな」
「珍しいよね」
「あぅ‥‥」
 あっさりと二人に言われて、ガクリと躓く知章。



 乃絵美がそれぞれ三人のオーダーを運んできて、テーブルに置くと、
「お待たせしました」
 と、トレーを両手で前に持って笑顔を向ける。
「にゃはっ! 来た来た‥‥」
「忙しいな、頑張れよ」
「乃絵美ちゃん、ご苦労様」
 美亜子が早速パフェに手を伸ばす脇で、冴子と知章が忙しそうな乃絵美に声を掛け
る。
「うん。ゆっくりしていってね」
「今日は、正樹のヤツ、まだ帰ってないんだ‥‥菜織のヤツも辞めちまったみたいだ
し、大変だな」
 冴子は乃絵美の他にウエイトレスがいない店内を見回して、そう感心したように言
うと、
「うん。でも、お兄ちゃんはあくまでお手伝いだし‥‥私は、好きでやってるから‥
‥あ、それじゃあ、御免ね」
 乃絵美は兄を庇うように言って、カウンターの方へ戻っていく。
「看板娘‥‥か」
「お前だって、看板娘だろ? 寿司屋の」
 冴子が呟くと、知章が手にしたスプーンで冴子を指しながら言う。
「実家の話を持ち出すなよ」
「ミャーコちゃんも、そうだよ」
 二人の会話にスプーンを口にくわえたまま、美亜子が口を挟んでくる。
「でも、何か違うよな‥‥」
「ははは‥‥確かに」
 冴子が働いている乃絵美の後ろ姿を見ながらそう呟くと、知章も苦笑する。その二
人を見て美亜子が、
「どうやら、もう大丈夫みたいね」
 と、言う。
「へ?」
「何が?」
 美亜子の言葉に不思議そうに聞く二人だったが、それを無視するように美亜子はア
イリッシュティーの入ったカップを高く挙げて、
「ん?」
「あ、おい‥‥」
「じゃ‥‥今日はサエとトモクンの仲直りを記念して‥‥」
 と、音頭をとる。
「ちょっと待て、ミャーコ!」
「いつ喧嘩したんだ‥‥俺達?」
 それぞれ、眉を顰めるが、
「いいからいいから‥‥乾杯ぱーい!」
 と、勝手にそれぞれのカップに自分のカップをぶつける。
「喫茶店で乾杯するヤツ、俺、初めてみたよ‥‥」
「奇遇だな。あたいもだ」
 お互い、顔を見合わせて苦笑する。
「だから‥‥これは二人の奢りね」
「そうはいくか‥‥」
「はは‥‥」
「乃絵美ちゃぁ〜ん。ハニーレモンパイ、一つ追加ねぇ〜ん」
「こら、聞け! ミャーコっ!!」




06/26 (Fri)

「あ、橋本先輩‥‥」
 校門付近で本を持ったまま立っていた知章は、みよかの手を握って校庭を歩いてい
た橋本まさしに気付いて軽く挨拶をする。
「お、今日も図書室通いか?」
「げ、寄生虫」
「き、寄生虫‥‥。あ‥‥ええ、今日は本を返すだけですけど‥‥」
 みよかのストレートな物言いに、一瞬、知章の顔が強ばるが苦笑に変わる。
「みよか‥‥お前なぁ‥‥」
「お兄ちゃん‥‥じゃあ、私、先に噴水の方で待ってるから‥‥」
 まさしが苦笑してみよかを窘めようとすると、みよかはそのまさしの手を払うよう
に振りほどいて知章の脇を早足で抜いて行く。
「お、おい‥‥」
「早く来ないと、先に帰るからね‥‥」
「ったく‥‥すまんな」
 振り返らずに行ってしまったみよかの暴言に、苦笑の表情を残して謝るまさし。
「いえ、別に大して気にしてませんから。それに何か凄く慣れてしまいましたし‥‥」
「そうか‥‥いや、勘弁してやってくれ。それ程悪意はないと思うんだ」
「はぁ‥‥」
 そのまさしの説得力の無い言い方に、どう答えていいか判らずに知章は間が抜けた
ような返事をする。
「ところで‥‥知ってるか?」
 まさしは急に話を代える。
「何をです?」
「中学生の部の4OOMの東京都記録、こないだ見たらまだ更新されてなかったぞ」
 さっきまでと口調こそ、変わりはなかったが、そう言ったまさしの目は知章の反応
を窺っているようにじっと見つめていた。
「‥‥‥‥へぇ」
 それに対して知章は少し、反応が遅れたものの、表面的には平然と受け流す。
「それに、菜織ちゃんから気になることを聞いたんだが‥‥お前、走ってるんだって
?」
 今度はニヤリとした表情を作って話し掛ける。
「あ‥‥ちょ‥‥ちょっと健康の維持のために‥‥」
「ほぅ‥‥」
 知章の言葉をまるきり信じていない顔をして頷くまさし。
「外でやるより‥‥陸上部に入ってやった方が‥‥ずっと効果的だぞ。しかも400
M専門にやるヤツ、今いないし‥‥」
「いえ‥‥今更‥‥」
 自嘲して下を向く知章に、
「いいじゃないか、別に。まだまだ大会も残ってるし‥‥何なら、俺から言っておく
ぞ」
 そう、まさしが肩に手を掛けて勧誘する。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「すみません。もうちょっとなんです。もう少し‥‥あの頃のタイムが出るまでは‥
‥まだ‥‥」
 知章は顔を上げて、まさしの顔を見ながら申し分けなさそうに断ると、
「そうか‥‥まぁ、無理強いはしないが‥‥」
 と、肩に乗せていた手を放して腕を組む。
「本当に、スミマセン。今までずっと誘って下さったのに‥‥」
「いや‥‥あの関東大会の時のお前の走り‥‥今でも覚えていてな‥‥。確かあの時
は中2だったんだっけ?」
「ええ‥‥」
 知章は頷いてから、
「自分としてはその頃の走り‥‥せめて、あの頃までは戻りたいんです‥‥」
 と、真剣な表情をしてまさしに向き直る。
「そうか‥‥。おっと、あっちでみよかが睨んでる‥‥じゃ、俺はこれで‥‥いつで
も相談に乗るぞ」
「本当に、ありがとうございます‥‥」
 軽く笑って立ち去るまさしに知章は丁寧に頭を下げる。
「その頃の走りを見られているから‥‥見せられないし‥‥見せたくない」
 そのまま知章は唇を軽く噛んで、ゆっくりとトラックの方へ歩いていった。




「あ‥‥」
「おっす。ご苦労様」
 渡り廊下でなく、珍しくグラウンドで知章を見つけた冴子はちょっと驚いたような
顔をする。
「ふぅ‥‥」
「どうした? 疲れ切ったって顔してるぞ」
 そしてそのまま、正樹と別れて体育館に戻る途中の冴子と一緒に歩く知章。
「菜織のヤツも、正樹のヤツも‥‥全く‥‥」
「人のこと、言えないって‥‥」
「こないだ、おめえが言ってたのと‥‥関係有るかな?」
 陸上大会の時に知章の言っていた事を思い出して、冴子はそう聞いてみるが、
「かもね。詮索はするつもりないけど」
 知章はにべも無い。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥なぁ」
「‥‥ん?」
 何やら考え込んでいる顔をしていた冴子に知章は、
「‥‥何か、あったのか?」
 と訊ねる。
「何かって?」
「いや‥‥」
 知章は深く踏み込まず、口篭もって黙り込む。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「なぁ‥‥」
「ん?」
 今度は、冴子が知章に話し掛ける。
「ひょっとして‥‥お前、誤解してたんじゃないのか?」
「何が?」
「言っとくが、あたいはあいつの事、何とも思ってないぞ」
「え?‥‥あの‥‥」
 冴子の言葉の真意が読み取れず、キョトンとした表情をする知章。
「あたいがあれこれあいつに言うのは‥‥その‥‥」
「‥‥・?」
「‥‥昔の、お前を思い出すんだ‥‥だからで‥‥その‥‥別にあたいは‥‥‥いや
、だからって、その‥‥特に他意は‥‥」
 小さな声で、冴子は顔を真っ赤に紅潮させて呟く。
「あの‥‥何のお話でしょうか?」
「だ‥‥だって、その‥‥おめえがヤキモチ焼いてるって‥‥」
「はぃぃ? 何、それ?」
 知章はその言葉に初耳とばかりに驚いた顔をする。
「だ、だってミャーコのヤツが‥‥」
「信じてるのか?」
「違うのか?」
 じっとお互いの顔を見る。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「違くないよな。な?」
 焦っていきて、そう念を押す冴子。
「‥‥‥‥」
「な、何か言えよ‥‥」
 徐々に追い詰められたように冴子が言う。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥少しは、焼いてたかも」
「そっか、そっか‥‥あはははははは‥‥」
 そのただならないプレッシャーに押されたように知章がそう言うと、冴子も誤魔化
すように笑い出す。
「「はぁ‥‥」」
 そして合わせたように、同時に溜息をつく。
「でも、まぁ‥‥何か嬉しいよ。マジで」
 クスクスと可笑しそうに口元を指で押さえながら微笑む知章に、
「な、何だよ‥‥いきなり」
 赤くなった顔が戻らないままの冴子がその知章の楽しそうな顔に、憮然とする。
「いや‥‥何でもない。そろそろ‥‥」
「え? あ‥‥じゃあ、またな」
「ああ‥‥」
 体育館の目の前まで歩いてきたことに気付いて、慌てて練習に戻る冴子に手を振っ
て別れる知章。





 一人、神社を出て帰路に就く真奈美の前に、ロンジー姿のチャムナが待ちかまえて
いたように現れる。
「マナミ‥‥」
「チャムナさん!?」
 俯き加減だったので、ぶつかりそうになって慌てて顔を上げる真奈美。
「マナミ‥‥」
 そのチャムナの視線に、真奈美も目を落とすが、
「あのね‥‥言おうかどうか、散々迷っちゃった‥‥」
 ゆっくりと語り出す。
「‥‥‥‥」
「やっぱり、決意してたつもりだったけど‥‥いざとなるとなかなか‥‥」
「‥‥‥‥」
「でも、言えたよ。好きだって‥‥ずっと‥‥」
 そこで真奈美の目に涙がたまる。
「ずっと‥‥好きだったって‥‥言えた‥‥言えたんだよ‥‥」
「マナ‥‥ミ‥‥」
「これで‥‥後悔しないで済むよ‥‥前みたいに、ずっと後悔して旅立たなくて済む
‥‥」
 最後の方は、涙声になりながらも真奈美は、笑顔を崩さない。
「あれで、良かったの?」
「うん!」
 涙で両目を濡らしながらも、ニッコリと微笑んで見せた。
「絆、あったよ‥‥。私と正樹君の‥‥そして菜織ちゃんとの‥‥三人の絆が‥‥」
「‥‥‥‥」
「誰にも‥‥誰にも邪魔されない‥‥大切な思い出。大切な幼なじみとしての絆が‥
‥」
「‥‥マナミ」
「だから‥‥私、嬉しいの。嬉しいんだよ‥‥私‥‥」
「マナミ‥‥」
 チャムナは思わず、泣いていた真奈美の身体を抱きそうになるが、誰かに止められ
るようにピクリと手が止まる。
「‥‥レオン? ‥‥うん、わかった‥‥」
「え? どうしたの?」
 顔を上げて、チャムナの方を不思議そうに見る真奈美。
「いや、何でもない。今日の所は‥‥ひとまず‥‥」
「うん‥‥。それで‥‥」
「29日‥‥トモアキに空港まで案内して貰う。そこで、会おう」
「‥‥うん」
 チャムナにそう頷く真奈美は、眼鏡を外して指で涙を拭っていた。





06/27 (Sat)

 冴子と美亜子と正樹の三人で真奈美の引っ越しの手伝いに行くが、真奈美の家の前
で菜織と遭い、逃げる彼女を正樹が追いかけて行ってしまう。
「行っちゃったね‥‥」
「あ、ああ‥‥」
「はぁ〜、難しいねぇ、男と女って関係は‥‥」
「馬鹿。何言ってるんだよ‥‥」
「ねぇ、サエ知ってた?」
「何がだ?」
「トモクン、最近、深夜の公園で、何かしているらしいよ」
「へ?」
「何か、人目を避けるように‥‥怪しいよね」
「ふ、ふぅん‥‥」
 美亜子の言葉になるべく関心がないように装う冴子。
「‥‥ま、いっか。どうする? このまま、待ってる?」
 敢えて追求せずに、美亜子はそう聞く。
「先に手伝ってようぜ。真奈美だって、待ってるだろうし‥‥」
「そうだね。真奈美ちゃぁ〜ん」
「おい‥‥どうしてそんなにオメーは元気でいられるんだ?」






「‥‥リハビリにしては、ちょっと鍛え過ぎとちゃう?」
「リハビリのつもりなんて‥‥ねぇ‥‥から‥‥」
 同時刻、駅前のトレーニングジムで汗を流す知章を、顔なじみらしきスパッツにレ
オタード姿の同い年位の女性が呆れたように言う。
「あんまり無理して、また病院通いしても知らへんよ。前、太股の肉離れおこしたん
やろ?」
「あれは‥‥んっ‥‥別に‥‥軽かったし‥‥」
 機具を動かしながらのせいか、知章の返事は途切れ途切れになる。
「ま、いいんやけどね‥‥知章君、今日はアルバイトの方はもうないんやろ?」
「ああ。だから‥‥んんっ‥‥この時間に‥‥ここにいる訳‥‥っと」
「ふぅん‥‥陸上って大変やねぇ‥‥中学の時も、こないにやってたん?」
「いや、全然」
 知章が別の機具に移動すると、脇で見ていた女性も、
「やっぱり」
 と笑いながら自分も移動して横につく。
「昔からそうやったもんな、知章君。よう、サエが練習見ながら言うとったわ「もう
少し真面目にやれば、もって良い数字だせるだろうに」って‥‥」
「今は逆だったりして‥‥」
「今度は知章君が見てるんやろ。サエ、ハンドボール部‥‥だっけ?」
「ああ。そういうこと」
「仲良うてええなー。もしかして、転校したっちゅーのも‥‥」
「そう上手く話はいかないよ‥‥」
「そりゃそうやね。じゃ、ウチはそろそろ帰るわ。たまには、こっちの方にも遊びに
戻ってきぃ。皆、待っとる」
「‥‥うん。俊介とかにも会いたいし‥‥じゃあ」
「ほな、あんまり無理せんとき。無理しても誰も喜ばんからなぁ‥‥」
 知章は手を振って別れるその女性に、手を休めることなく顔だけを向ける。






「全然誰もいないじゃないか‥‥ミャーコのやつぅっ!! ‥‥あたいを担いだなっ
!!」
 同時刻の深夜、誰もいない公園で冴子が立ち尽くして文句を言っていた。





06/29 (Mon)



「マナミ」



「‥‥‥‥え?‥‥あ」
 空港の前で菜織達と別れを済ませた真奈美は、慌ただしい空港のロビーの中で待っ
ていたチャムナと、彼女をここまで連れてきていた知章に出会う。
 そこでチャムナは真奈美に、彼女のペンダントとして真奈美と共に国に戻ることを
決めた事を告げる。カナンと共に、真奈美の絆を守る為の精霊として。
「マナミ‥‥」
「私は‥‥自分の絆を、信じているよ。喩え、それは恋人になれないものでも」
 何か言いたげなチャムナを見て、真奈美が安心させるように微笑む。
「あたし達の絆は‥‥もっと大事なものだから‥‥」
 知章が二人に気を利かせるように一歩引いて離れていたが、そんな知章を見つめる
真奈美。
「‥‥‥‥」
 急に見つめられて気恥ずかしい気分になり、視線を外す知章。
「幼なじみとして、大切な友達として‥‥」
「マナミ‥‥」
「うん。本当に、嬉しかったよ。チャムナさんに会えて‥‥」
「また、会える。マナミが新しい恋をした時、私たちがきっと加護をしてみせる」
「うん、ありがとう」
「礼を言うのはこっちだ‥‥チェーズーティンバァデェ‥‥ホントに、ホントにあり
がとう‥‥」
「そして真田君‥‥」
 腕を組んだまま意味も無く視線を泳がせていた知章に真奈美が声を掛ける。
「ん?」
「頑張ってね」
「え、あ、ああ‥‥」
 にっこり真奈美に微笑まれて、知章は苦笑を返す。
「どうもなんだか、複雑のようだね」
「まぁ‥‥ね」
 そうチャムナに笑われた格好になった知章は、困ったような顔をする。
「ふふふ‥‥あ、そろそろ本当に時間だから‥‥行くね」
 アナウンスの離発着時刻の呼び出しがかかり、真奈美が時計を確認する。
「じゃあ‥‥」
「うん」
「ありがとう‥‥トモアキ」
 二人の女性を見送りながら、知章は軽く手を振った。
「‥‥また、いつか会えたら‥‥」
「うん!」


 にこやかに手を振ってエスカレーターに消えていく真奈美を、知章は最後までその
場で見送る。
 真奈美の首に下げたペンダントが、一瞬だけ赤く、光る。




「‥‥良かった‥‥本当に‥‥」
 目に涙を溜めた真奈美が、心から噛み締めるようにそっと呟いていた。




07/05 (Tue)

「あれ、サエやないの!?」
「‥‥よぅ、静香」
 昼近く、江戸川区周辺の路上で、相変わらずパーカーとジーンズといったお決まり
の姿でマウンテンバイクに乗っている冴子に、旧知らしいこちらも私服の女子高生と
出会う。
「いつの間にこっち帰ってたんや? ゆうてくれれば良かったのに‥‥」
「いや、婆ちゃんのお使いでちょっと戻ってきただけだったから」
「ちょっとって‥‥それで来たんか? 相変わらず、ごっつい体力してるなぁ‥‥」
「昔から結構、行き来してたから‥‥それにいい運動になるし‥‥」
「エラいなぁ‥‥サエ。ウチには到底真似出来んわ」
「今日、休日でしかも部活がなかったし‥‥久々にね‥‥」
 マウンテンバイクを降りて手で引きながら冴子は、その女子高生と話しながら歩い
ていく。
「そうそう‥‥最近、知章君には良く会うんよ」
「へ? あいつと?」
「うん。アルバイト、こっちの方でしてるみたいやから」
「ふぅん‥‥そうだったのか」
 一人、納得したように頷く冴子。
「あのさ、サエ、昼飯食うた?」
「いや、まだだけど‥‥」
「ウチもまだなんや。それなら一緒せえへん?」
「ああ。家で食べて行こうかとも思ったんだけど、何だか忙しそうでさ、遠慮してき
たところだったから‥‥」
「そんなら丁度ええな」
 そしてそのままその場で、二人は中学の頃の思い出話に花を咲かせる。
「そうそう‥‥その時、俊介が代わりに出たんだよな」
「そう。今でも俊介君ったら時々愚痴っとるよ。知章君が怪我さえせんかったらなぁ
‥‥そう言えばあの怪我、どこで何した言うてたっけ?」
「ああ。あれはあたいがあいつと一緒に近くの山に入ってた時だ、確か」
 小首を傾げる彼女を前に、冴子が懐かしむように思い出して言う。
「えっと、何か詰まらねえ事で口喧嘩しちまって‥‥あたい、丁度ムシャクシャして
たせいもあって、突き倒したか、何かした時に、あいつの足首に木の枝か何か引っか
けちまってね‥‥」
「え、知章君、自分で転んだんやないの?」
「いや、半分はあたいのせいもあるんだ。気ぃ使って周りには言わないでくれたみた
いだけど‥‥」
「あ、そうやったんか‥‥」
「んで、消毒するのが遅れたせいか傷口にばい菌が入ってて破傷風で長引いて‥‥悪
いことしちまったよな‥‥本当に‥‥」
「あれ?」
「でも、それぐらいで部活諦めることはねーよな‥‥」
 そう続けようとすると、
「破傷風って、嘘だったんやろ? ウチ、こないだまで全然知らんかったけど」
 彼女がそう口を挟んでくる。
「‥‥へ?」
 その言葉に冴子の方も足を止めて、逆に聞き返す。
「嘘って‥‥何だよそれ‥‥?」
「‥‥え? サエも、知らんかったの?」
 不思議そうな顔をする冴子に彼女の方も怪訝な顔を向ける。
「な、何がだよ‥‥」
「そ、そないに顔、近付けんといて」
「あ‥‥ああ。悪りい」
 興奮しかけていた冴子は、持っていた自転車を押し付けるように彼女の方にかなり
身を乗り出していた事に気がついて謝る。
「あのね、私も後から俊介に聞いたんやけどー‥‥知章君の脚、何か‥‥かなり危険
やったらしいよ」
「き、危険だったって‥‥?」
「そうそう、思い出したわ」
 話して行くうちに思い出したらしく、そう言ってから話を続ける。
「何でもな、木の枝か根っこかどこかは聞いてなかったんやけど、兎に角、怪我した
傷口に、そのささくれ立った所が一部脚の中にまで入り込んだんやって」
「‥‥・え?」
「でな、それが神経部分にまで達して傷つけててしもうたんやって。手術して抜き取
ったんやけど‥‥」
「‥‥‥‥」
「その時に何か知章君、神経を損傷したから二度と無理に走るなー、医者に言われは
ったんやって‥‥」
「えっ‥‥」
「ほらあの時、自分の不注意で怪我して、しかも破傷風で長引かせた挙げ句にレギュ
ラー落ちしおったから「格好が悪いから部を止めたんだろ」とか散々悪口、影で言わ
れてたやないか」
「あ、ああ‥‥」
「あの時は知章君も否定せんかったし、てっきり私も似たようなことなんかな思うて
気にせんでいたけど‥‥俊介、何か検診の時に付いていってその話聞いたって‥‥ウ
チが知章とジムで会ったー言うたら、その時に教えてくれたんよ」
 徐々に表情が険しく、強張ってきていた冴子は、彼女の言葉に過敏に反応する。
「ジ、ジム?」
「え、聞いてへんの? 知章君、ずっとリハビリ続けてて、スポーツジムに今も通っ
てて‥‥」
「‥‥‥‥」
「最近ではもう、普通に走れるどころかかなり昔に近付いてたみたいよ‥‥」
 その時、冴子の頭の中に、美亜子の話が蘇る。
「じゃ‥‥じゃあ、あいつ‥‥まさか‥‥」
「?」
「悪い。あたい、帰るわっ!!」
「あ‥‥サエ、昼飯の約束‥‥」
「すまんっ!! 今度にしておいてくれっ!!」
 冴子がマウンテンバイクに跨って、そのまま乗っていってしまうと、
「今度って‥‥相変わらずやなぁ‥‥」
 と、苦笑して見送る。






「おいっ!!」
 夕方、知章は自分のアパートの前で冴子が待ちかまえているのに気がつく。
「あ、冴子。どうし‥‥って何だよ、おい」
 いきなり胸ぐらを冴子に掴まれて、知章は慌てる。
「何で、脚のこと‥‥誤魔化してたんだよ」
「脚? 脚って‥‥」
 冴子は怒っていると言うより強ばっている顔をして、事情が掴めないで目を白黒さ
せている知章を睨み付ける。
「てめえの脚だよ。破傷風とか言ってた‥‥」
「ああ!! ‥‥って、でも、今頃言われても‥‥」
「今頃ってなぁっ!!」
 事情を掴みかけてもなおのんびりしている知章に、冴子は思わず怒鳴りつける。
「‥‥‥‥‥‥バレたんだ」
「今日の昼間、静香に会った」
 困ったような顔をする知章の胸倉を掴んだまま、冴子が言う。
「あ、最近バイト先のジムで会ってね。でも、言わなかった筈だけどなぁ‥‥」
「知ってたんだよ。既に」
「ありゃりゃ‥‥」
 知章は舌を出す。
「な、なんで‥‥なんであたいに言わなかったんだよ!!」
「部の皆に心配掛けたくなかっ‥‥」
「嘘つくなよっ!!」
 泣きそうな程、絞り切った声で冴子が叫ぶ。
「嘘‥‥って嘘じゃないぞ、これは‥‥」
「それだけじゃねぇだろ!!」
 抗弁しかける知章の言葉を遮って、冴子はもう一度叫ぶ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「余計な心配させたくなかったから‥‥かな」
 暫く、お互いに黙っていたが、泣き出しそうな噛み付きそうな冴子の視線に耐えか
ねたように知章は目を逸らして、そう呟く。
「ば‥‥馬鹿野郎っ!!」
「‥‥‥‥すまん」
 冴子に胸倉を掴まれたまま、視線を落として知章が謝る。
「謝るなよっ!! どうしてお前が謝るんだよっ!!」
「‥‥‥‥」
「あたい‥‥馬鹿みてぇじゃねぇか‥‥」
「‥‥‥‥」
「怪我させた本人が、怪我させた相手に‥‥なんだよ‥‥それ‥‥あんまりじゃねぇ
かよ‥‥」
「それは‥‥」
「くっ!!」
 知章が口を開こうとすると同時に、冴子は乱暴に掴んでいた手を離す。その反動で
知章はよろけるが、辛うじて体勢を維持してそのまま冴子を見る。
「‥‥‥‥」
「あ‥‥」
 不意に冴子が、睨み付けていた視線を切って横を向いて歩き出す。
「帰る」
「え?」
「帰るって言ったんだよっ!!」
 思わず聞き返した知章に、冴子が八つ当たり気味に絶叫する。
「お、おい‥‥」
「ついて‥‥ついてくるなよっ!!」
 慌てて後を追いかけようとした知章に、そうピシャリと言い捨てると小走りに駆け
だして行ってしまう。
「‥‥‥‥」
 その後ろ姿を知章は困ったように立ち尽くして見送っていた。





 自分のアパートにも入らずに知章はそのまま暫く、路上を歩いている。
「あ‥‥」
「‥‥真田先輩。話があります」
 暫くすると厳しい顔をしたみよかが不意に現れて、そのまま知章の側にくる。
「こないだ、田中先輩に必要以上に近付かないでくださいって私、言いましたよね」
「あ‥‥ああ。確かに‥‥」
 いつものみよからしくないその重々しい雰囲気に、知章は呑まれたようにその場に
立ち尽くす。
「訂正します」
「え?」
「いいですか? ‥‥今後、金輪際、田中先輩に近付かないでくださいっ!!」
「‥‥え?」
「あなたは田中先輩にとって一体、何だって言うんですっ!!」
「何だって言われても‥‥」
「ほらぁ!! 特に何もないんじゃありませんかっ!!」
「何もないって‥‥あのさ‥‥」
 みよかは全く知章の言葉など聞く気が無いらしく、遮るように捲くし立てる。
「いつもいつも馴れ馴れしく近付いて‥‥いいですか! あなたみたいな人に、田中
先‥‥な、何ですか!!」
「え?」
 みよかの視線を追うようにして、知章が振り返るが誰もいない。ただ、夕焼けが傾
いて影が斜めに地面に広がっているだけだった。
「?」
「そんな凄んだって‥‥私、脅しには屈しませんからねっ!!」
「‥‥あの、それって‥‥俺に言ってる? もしかして‥‥」
「今更とぼけたって‥‥駄目ですっ!!」
「えっと‥‥」
「誤魔化さないで下さいっ!!」
「あのさ‥‥みよかちゃん」
「馴れ馴れしく人の名前を呼ばないでくださいっ!!」
「それじゃあ‥‥橋本さん。君‥‥」
「大体、田中先輩が真田先輩とか伊藤先輩と仲良くしているのは特別なんですからね
!! だからって、いい気にならないでください!!」
 既に彼女の中でも言葉が支離滅裂になっているらしく、意味が通じない。
「幼なじみだから何だって言うんですっ!! 今の田中先輩にとって一番大切な人と
かそういう訳じゃないんでしょう!?」
「‥‥‥‥」
「私はいつも田中先輩の為を思って行動しているんです!! お弁当だってスポーツ
栄養学の本とか参考にしていつも作って持ってきているし、休憩の度に冷えた水とタ
オルが渡せるようにいつも準備しているし、マッサージだってキチンと専門書を読ん
で田中先輩の身体の手入れを毎日しているし、試合前にはお祈りだって何度も通って
しているし‥‥だからだから、だから田中先輩だって私のこと頼ってくれて、色々
と構ってくれているし、だから‥‥だから‥‥」
 自分で自分を追い詰めているように、みよかは捲くし立てている。後半から涙声に
近くなってきている。
「私、田中先輩のこと、誰よりもずぅっとずぅっと応援してました。今は全然頼りに
ならないけど‥‥いつか‥‥いつか田中先輩に頼られるような‥‥先輩の支えになれ
るようになりたいんです!!」
「‥‥‥‥」
「だからそんなの‥‥そんなのは許せないんですっ!!」
 全身に力を込めてみよかが叫ぶ。
「いつもいつもいい加減で、適当で、言い繕ったり誤魔化してばっかりで‥‥何で、
何でいつもはっきり言わないんですっ!!」
「‥‥‥‥」
「そんなただ、私より先に知り合ったからって‥‥付き合いがあったからって‥‥異
性だからって、同性だからってだからなんだって言うんですかっ!! あなたなんか
何も‥‥何もしていないじゃないですかぁっ!!」
 みよかの言葉、ひとつひとつを知章は胸に受け止めるように黙って聞いている。
「私、今の田中先輩のこと、誰よりも良く知っているつもりですっ!! だから‥‥
だから‥‥許せない!! 卑怯ですっ!! 狡いっ!! 狡過ぎますっ!!」
「‥‥‥‥」
「あなたなんか‥‥あなたなんか‥‥いなくなれば‥‥」
 みよかが両目から涙を流して自分の方に引っ張り込むように知章のシャツに掴み掛
かるが、知章は抵抗しないで腰を落とす。
「こんなに‥‥こんなに本気なのに‥‥言っているのに‥‥いつも、いつも‥‥それ
なのに‥‥」
「‥‥‥‥」
「こんなの‥‥こんなのの何処がっ!!」
「‥‥‥‥」
「あなたは‥‥一体、どういうつもりなんですっ!!」
「‥‥‥‥」
「どうなんですかっ!! 黙ってちゃ何もわかりませんっ!!」
「俺はね‥‥」
「‥‥‥‥」
「そうだな‥‥多分、あいつが女だって思い始めた頃からかな‥‥」
「‥‥‥‥」
「その頃から、ずっと好きだっ‥‥」
「っ!!」
 反射的になのか、知章の言葉の途中でみよかの平手が知章の頬に飛ぶ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 知章は、構わずに続ける。
「そう‥‥その頃から、ずっと好きだった」
「嘘っ!!」
「いや‥‥」
「嘘っ!! 嘘ばっかりっ!! そんな今更っ!!」
「今更‥‥ね」
「そうですよっ!! 今更何言って‥‥図々しいと思わないんですかっ!! そんな
の、そんなの狡いじゃないですかっ!! 今までずぅっと何も言わないで‥‥黙って
て‥‥それで田中先輩のこと、放っておいて‥‥それで急に今更‥‥」
「臆病だったし‥‥身勝手なのはわかってた。誤解も、していたけど‥‥それは言い
訳に過ぎないこともよく判ってる」
「そんな‥‥開き直って」
「‥‥うん。開き直り。本当にそうだね」
「そ‥‥そんなっ!!」
「確かに君の言う通りだとも思う。自分の気持ちに気づいた時に素直になって、言っ
てみれば良かったかも知れない。告白すれば良かったかもしれない。アタックし続け
てみるべきだったかも知れない‥‥でもさ」
「‥‥‥‥」
「それで‥‥あいつが仮にOKしたとして‥‥俺たちが付き合い始めたとして‥‥そ
れでいいのかな? 本当にそれで万事良かったのかな」
「な、何を言ってるんです?」
「勿論、違う未来の予測なんかは判らないし、予測するのは意味が無い事かもしれな
いけど‥‥俺は、それから今日までこうしてきて‥‥ここで今、冴子が好きだって言
える方が‥‥余程嬉しい」
「え‥‥」
「俺、本当にどのくらい冴子の事が好きかって‥‥さっきまで‥‥本当に気付いてい
なかったから」
「そんな言い方、卑怯ですっ!! それに前から好きだったと言うのとどう違うんで
すか!? どうして好きになり始めてすぐじゃいけないって、思ってたって言えるん
ですか! 理由を答えていません!!」
「自分の気持ちを押し付けてしまうだけでは駄目だと思っていたからさ。別に機が熟
すのを待っていたつもりはないけれども‥‥」
 そう言って、一区切り置く。
「俺は冴子のこと、大事に思ってる。ずっと‥‥。君の気持ちと比べるとかそういう
ものじゃないけど‥‥これだけは‥‥ずっと前から思い続けてた」
「‥‥‥‥」
「単に臆病の言い訳だったかも知れない。でも、俺は‥‥あいつのことを大事にした
いとずっと思ってた。それだけは‥‥誓って言える」
「‥‥‥‥」
「自分の気持ちが報われなくたって‥‥別に構わなかった。あいつを傷つけたくなか
った。俺のことなんかで‥‥傷つけたくなかった」
「‥‥‥‥」
「ほら、あいつ不器用だろ」
「‥‥‥‥」
「それにちょっと無愛想に見えるところがあるし‥‥今じゃ、クールって言われてる
けど。だから人から好意を受けることって‥‥あんましなかったんだ」
「‥‥‥‥」
「そのくせ意地っ張りだからさ‥‥人に弱音を吐いたり弱みを見せたりするのが凄く
嫌で‥‥」
「‥‥‥‥」
「激情家だから泣き虫のくせして、人前で涙を極力見せないで‥‥そう言えば悔し涙
ぐらいはよく見せたっけな」
「‥‥‥‥」
「誰にも自分から頼ろうなんてしないで‥‥でも、人からの期待には意地でも応えな
いでは済まさない程、律義で‥‥」
「知ってます‥‥全部‥‥殆ど知ってますっ」
「‥‥俺は‥‥そーゆーあいつを放っておけなかった」
「‥‥‥‥」
「傲慢だ。自分の始末も出来ない癖して‥‥それなのに今の俺は何やってるんだか‥
‥」
「‥‥う‥‥」
「‥‥え?」
「もう‥‥いいです‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥真田先輩」
「ん?」
「私、あなたが大嫌いです。今までの誰よりも‥‥ずっと」
「うん」
「だから‥‥」
「‥‥‥‥」
「だから、行ってください」
「‥‥‥‥」
「行くんでしょう?」
「‥‥‥‥ああ」
「大嫌い‥‥です」
「うん」
「でも‥‥」
「‥‥‥‥」
「私、負けませんから‥‥」
「うん」
「何、頷いているんですっ!! さっさと行ってくださいっ!!」
「‥‥‥‥じゃ」
「行きなさいよっ!!」
 そのままみよかに追い立てられるようにして、知章は歩き出し、そしてゆっくりと
走り出す。
「‥‥絶対に上手く‥‥上手く‥‥いきませんように‥‥」
 みよかは遠くなって行く知章の姿を見ながら、そう呟いた。








「いらっしゃいませ」
 ロムレットに入ってきた知章に、乃絵美が声を掛ける。
「あ、御免。乃絵美ちゃん‥‥冴子、来てないよね?」
「え? うん‥‥来てないけど‥‥」
「そっか、それじゃ、御め‥‥」
「真田先輩」
「ん?」
 そのまま立ち去ろうとした知章を乃絵美は呼び止めて、
「良かったら、アイスコーヒー飲んでいきませんか?」
 そう言って引き止める。
「丁度、キャンセルが出ていて‥‥」
 丁度、最後の客と入れ違ったらしく、知章は他に誰もいない店内の手前の席に通さ
れ、乃絵美がアイスコーヒーを運んでくる。
「あ、ありがとう‥‥」
「あの‥‥」
「ん?」
 知章が一口、飲んだ後に乃絵美が言う。
「余計なことかも知れないですけど‥‥」
「うん‥‥」
「前‥‥先輩、言ってくれましたよね。「自分なりに前を向いた方がいい」って」
「あ、うん‥‥詰まらないこと、言っちゃったね」
「詰まらなく何てないです。その言葉‥‥お兄ちゃんも「後になって、追いつけなく
て後悔したくない」って‥‥同じ様なこと、言ってたんです」
「そっか‥‥」
「それで‥‥」
 勇気を出すように、乃絵美は続ける。
「‥‥‥‥」
「今の先輩、何か‥‥」
「‥‥うん」
 大きく息を吐き出すように嘆息する知章に、乃絵美は恐縮したように身を縮こませ
る。
「あ、あの‥‥私‥‥」
「‥‥ありがとう」
「あ‥‥え?」
「全く俺って奴は‥‥人に言っておいて‥‥自分がやらない法はないよね」
「あ‥‥」
「そうだね。後で、後悔しないように‥‥取り敢えず頑張ってみるよ」
 そう言って、立ち上がる。
「アイスコーヒー、御馳走様」
「は、はい」
 吹っ切れたように笑ってみせる知章に、乃絵美も笑顔を見せて応じてくれる。



「あ、冴子見なかった?」
「あれれ? 家にいないの?」
 知章はロムレットを出た足でそのまま美亜子の家の近くで会った彼女に、訊ねてみ
る。
「まだ、帰ってないみたいなんだけど‥‥」
「ふぅん‥‥御免。あたしも知らないけど‥‥手伝おうか?」
「いや、いいよ。そっか‥‥参ったなぁ‥‥じゃ‥‥」
「あ、うん‥‥」
 そそくさと走り出して行く知章を見送った美亜子は、
「ふふふ〜 何だか面白いことになって来たみたいだねん」
 と、ほくそえんだ。





「いいの‥‥本当に手伝ってくれちゃって?」
「ああ。ちょっとだけ、頭を冷やしたいんだ‥‥」
「誰かと、何かあったの?」
「‥‥‥‥」
「まぁ、いいけど‥‥じゃあ、お願いね」
「悪いな。押し掛けちゃって」
「こっちこそ、御免ね。全然おもてなしできなくて」
「いや、いいんだ‥‥」




「はぁっ‥‥どこに言ったんだよ‥‥まさか、江戸川の方に帰ったんじゃないだろう
な」
 知章は取り敢えず、冴子の実家に電話を入れて聞いてみたりもする。
「夜遅いし‥‥市内を出てるとは思わないけど‥‥」
 あらかた心当たりを回ってみて、遠回りながら駅前から再び商店街の方に戻ると、
歩きながら思案を捲らす。




「ふぅ‥‥後は、何処だ?」
「じゃあ、ついでに上の社の方もお願いできるかしら」
「おうっ‥‥でも、お前、大変だな。いつもこれ、一人でやってるのか?」
「ええ。でも、もうコツみたいなものがあるから、馴れればそれほど大変でもないわ
よ。それに、最近になって手伝うヤツも出てきたし」
「へぇ‥‥じゃ、あたいは上の方でやってるから」
「うん。じゃあ、終わったらお茶とお菓子用意してるから‥‥」
「悪ぃな‥‥」
「何言ってるのよ。こっちが手伝わせちゃったんだから‥‥」
「あ、そうだ。菜織」
「何?」
 上の方へ行きかけた冴子が、菜織を呼び止める。
「あ‥‥いや‥‥正樹と、上手くいきそうか?」
「な‥‥いきなり何言うのよっ!」
 赤くなる菜織。
「ははは‥‥。じゃ、あたいは行ってるから‥‥」
「サエ」
「ん?」
 今度は逆に菜織が冴子を呼び止める。
「喧嘩したの‥‥ミャーコじゃないでしょ?」
「え? ‥‥あっ、えっ!?」
「ま、相手が誰であれ、あたしには関係ないんだけどねぇ‥‥」
 そう言いながらも、動揺する冴子の反応を楽しそうに見つめて菜織は社務所の方へ
歩いて行く。





「くぅぅぅ‥‥やっぱり学校でもないとなると‥‥」
 十徳神社に続く石段をヒイコラと登りながら、ぶつぶつ言う知章。



「ととと‥‥」
「‥‥あ、真田君じゃない」
 社務所前で菜織が、丁度三百段の石段を制覇して上って来る知章を見つけて声を掛
ける。
「あ‥‥ひ、氷川さん‥‥冴子、いる?」
 知章は一度、両膝に手をあてて肩で息をしてから顔を上げて菜織に訊ねる。
「いるけど‥‥どうしたの? 何かあったの?」
「えっと‥‥ど、何処?」
「上の‥‥あ、ちょっと‥‥」
「ふへぇ‥‥もっと早く気付いてれば良かった‥‥危うく江戸川まで行くところだっ
た‥‥」
 知章はフラフラとしながら、菜織が指差した方へと歩いていく。
「‥‥何か、あったみたいね‥‥」
 暫くその様子を見てから、菜織はお湯を沸かしに家の方へと歩き出す。



「あ‥‥」
「さ〜え〜こ〜‥‥やっと見つけたぞ‥‥」
 最後の石段を登って来た知章を見て、掃除をしていた冴子が固まる。
「な、何だよ。きゅ、急に神社の掃除がしたくなったんだよ」
「どこの世界にそんなヤツがいる」
 しどろもどろに言い訳をする冴子に、知章はきっぱりと言う。
「い、いいだろ、別に‥‥関係ないだろ。放っておいてくれよ」
「おけるかよ‥‥」
「く、来るなよ‥‥」
 よれよれになりつつ近寄って来る知章に、冴子は持っていた箒で牽制する。
「おい‥‥人をモンスターのように扱うな‥‥」
「あっ‥‥くっ‥‥」
「おい、待てっ! ここまで来て逃げるかっ!?」
 考えもなく逃げ出す冴子の後を、そのまま追いかける知章。



 しばらく、知章と冴子は敷地内をぐるぐると回るように走り、旧神社の前で見つめ
合い、牽制するように互いの脚が止まる。
 そしてそのまま見つめ合うような格好になる。
「あのさ‥‥」
「‥‥‥‥」
「嘘ついて‥‥御免な」
「‥‥‥‥」
 冴子の目をじっと見たまま、知章がそう改めて言う。
「‥‥‥‥」
「ど、どうして言ってくんなかったんだよ‥‥」
「‥‥気にして欲しくなかったから‥‥かな‥‥」
 そう言う知章の声のトーンがちょっとだけ落ちる。
「あたし‥‥あん時‥‥」
「記録出した直後だったから、下手に言って周りから騒がれるの嫌だったし‥‥」
「‥‥‥‥あたいがやったせいだからか?」
「‥‥‥‥だって、そう思ってるんだろ? そう考えてたら‥‥言えないよ。‥‥あ
あいう時はどっちがどうって、そう言うこと言えないだろうに‥‥」
 そう言って、知章は後ろに手を回して後頭部を軽く掻く。
「‥‥あたいがあん時に乱暴に突き倒さなければ‥‥」
「止めろって‥‥それ言われたくないから、黙ってたんだから」
 大きく息を吐いて、冴子の言葉を制して言う。
「‥‥でも‥‥」
「でもじゃないよ。あんなのは別に、他愛ないじゃれ合いの結果で、たまたま俺がド
ジ踏んだだけだから‥‥」
「でもよぅ‥‥」
「そう言うことで、落ちつかせようよ‥‥な?」
 子供を宥めるような口調で、そう冴子に言い聞かせる。
「‥‥その」
「んな顔、しないでくれよ‥‥頼むから‥‥」
 知章の口調が懇願するようになる。
「あ、ああ‥‥」
 そこで、知章は箒を持ったまま立っている冴子の身体を、不意に抱きしめる。
「っ!?」
「‥‥捕まえたっと」
「‥‥」
「‥‥あの時、結局、逃がしたままだったから‥‥」
「な、何言ってるんだよ‥‥お前‥‥」
「はは‥‥」
 抱きしめた姿勢、抱きしめられた姿勢、お互いそのままの状態で笑い出す。
「ははは‥‥」
「はははは‥‥」
 そして暫く、そのままで笑い続けた。




「どうしてこそこそ隠れるようにして走ってたんだよ」
 旧十徳神社の境内に並んで座ってから、冴子が知章に尋ねる。
「だってお前‥‥あの時の走り、見てるだろ?」
「‥‥‥‥」
「だから、戻るにしてもあの時の速さが戻るまではって‥‥」
「どうしておめえはそう‥‥」
「初めの頃は、酷かったんだぜ‥‥鈍足で」
「‥‥で、今はどうなんだ?」
「さっきので、わかるだろ?」
「確かに」
 知章の答えに、思いだしたようにクスリと笑う冴子。
「素直にリハビリやってれば‥‥もっと早く直ったんじゃないのか?」
「かも‥‥」
「‥‥‥‥ばぁか。てめぇこそどーして‥‥」
「でも、万全になったら‥‥考えてもいいなって‥‥思ってはいたんだけどね」
「陸上部か?」
 知章は冴子に軽く頷いて、
「橋本先輩と氷川さんにはばれてたんだ。先輩には前もって、話通していたし、氷川
さんにはちょっと無理した時、苦しんでいたのを見つかってね‥‥」
「‥‥‥‥・」
「完全復帰できたら、冴子にも言おうかなって‥‥」
「‥‥‥‥・」
「冴子?」
 いつの間にか冴子が俯いているのに気づき、そっちを見る。
「二度と‥‥」
「へ?」
「二度と‥‥んな真似、すんじゃねーぞ‥‥」
「うん‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」




「あら、遅かったわね」
 下で待っていた菜織が、石段を下りてくる二人に声を掛ける。
「悪い。こいつが途中で掃除の邪魔してくるから‥‥」
「手伝ったつもりだったんだけどなぁ‥‥」
「もう、遅いから帰るわ‥‥悪いな」
 そうぼやく知章を無視するように冴子は菜織に箒を渡す。
「いいわよ。こっちこそ、手伝って貰ってありがとうね」
 社務所に用意してあったお茶のセットと知章は横目で見て気付きながらも、
「ふぁぁ‥‥疲れた‥‥」
 と、欠伸をして誤魔化した。




「げ‥‥もうこんな時間。‥‥婆ちゃんに何、言われるか‥‥」
「俺が言っておくよ。探してた事、知ってるし‥‥」
「ひょっとして、探し回ったのか?」
「そりゃ、一応‥‥」
 そこで知章はちょっと照れたように、冴子から顔を逸らす。
「‥‥御免な。でも、いいよ。あたいが言うから‥‥」
「そっか」
「ああ。じゃあ‥‥」
 冴子の家に近付いてきたので、そう言って別れようとした時、
「そうそう‥‥大事なこと、言ってなかったっけ」
 知章が、思いだしたように言う。
「何だ?」







「好きだぜ」







「その‥‥何時からか‥‥はっきりとは覚えてないけどさ‥‥」
「あ‥‥」
 そう言って絶句したように動かない冴子を前に、照れ笑いを浮かべる知章。
「何かさ‥‥凄く遠回りになって、回りくどくなって、その上、凄い周りにも迷惑か
けちまって‥‥何だけどさ‥‥」
「‥‥‥‥」
「ずっと見守ってて、それだけでも一時期はいいと思ってたし‥‥今でもそう思って
いる部分もあるけどさ‥‥でも、言っておきたくて。それに‥‥今さ‥‥今までで一
番、お前のこと、好きになってるから」
「え‥‥‥‥」
「だから、言っておきたかったんだ。とても」
「あ‥‥そ、そのさ‥‥あたい‥‥」
「うん、いきなりで御免な。一応、それだけは言いたかったんだ。じゃ‥‥」
「あっ!! ま、待てよ‥‥」
 そう言って立ち去ろうとする知章を今度は冴子が呼び止め、半袖を掴む。
「あたいさ‥‥その、何かこういうのわかんなくて、どう言ったらいいか全然わかん
ないし‥‥その‥‥」
「‥‥‥‥」
「でも‥‥何か‥‥知章がそう言って来るの‥‥待ってたかも知れない」
「‥‥‥‥」
「そ、その‥‥今、凄い逃げ出したい程、照れくさくて‥‥」
 下を向いたまま、冴子は続ける。
「でも、足が震えて動かなくて‥‥でも‥‥恐いとかじゃなくて‥‥ああっ、何言っ
てるんだ、あたいは」
「冴子‥‥」
「も、もう一回、捕まえておいてくれるか‥‥」
 顔を真っ赤にして俯いている冴子の身体を、そっと包むように知章は腕を回して抱
きしめる。
「あ‥‥」
 そして知章が冴子の頬に手を当てると、頬を染めていた冴子の瞳が不安げに揺れな
がら、下か見上げてくる。
「‥‥‥‥」
 そしてギュッとその目が閉じて、顎が上がって顔が上向きになる。
「‥‥‥‥」
 知章がそっと、自分の唇を近付けて、





 互いの唇がそっと触れる。





「じゃ‥‥じゃあ、明日‥‥な」
「あ、ああ‥‥」
 お互い、真っ赤になって手を振って別れる。





 幼なじみという、有り触れているようなそうでないような関係。
 不器用で、回りくどくて、強情で、自分勝手で、それぞれがそれぞれの領域に踏み
込もうとしないで見つめ続ける。
 今のスタンスに安堵感を憶えながら、昔の純粋だった頃を途切れ途切れの記憶とし
て隅に追いやっていた二人。
 思い出を綺麗に飾っておくだけで満足しようとして、昔を羨みながらその事に対す
る努力を何もしないで、そんな微妙に食い違いを立場の違いとして消化してしまった
二人。
 周りの方がそんな二人の不自然な状態に気付きながら、当の二人はずっとあやふや
なままで続いていた。




 これが始まりで、ゴールではないけれど




 ようやく最後で素直になれた二人の姿がここにあった‥‥。




‥‥‥Lose no time in ending  



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