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Original Novel Michiyoshi Presents



剣舞祭


0 逆しまの愚者

充克(Michiyoshi)



『人の情の深くかかること、恋に勝るはなし』
どこぞの偉い……んだか偉くないんだか……兼業物書きの人が、そんなことを言ったそうです。
またある人は、かくも言っています。
『愛は死よりも、死の恐怖よりも強い』
いや、いかにも名言という感じのする言葉ですよね。
『恋は、ある点では人間を獣にし、獣を人間にする』
なんだか恐いですよねえ、こういうのを聞いたりすると。
『男と女の間に友情は有り得ない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。だが友情は無い』
納得したくない、納得できる部分を抑え込んででも否定したい言葉です。
理想論が楽観と同義でないのは、こういった言葉の反語でもあるからではないか、と私は思いますけれど、貴方はそれを考えすぎと言いますか?
『恋愛と戦争では手段を選ばない』
……嫌な言葉ですよね。
聞いてすぐに納得してしまうでしょう?
納得さえもしたくない。そういう理屈が存在していることさえ否定したい。
私、駄目なんですよ、こんな感じにどろどろしたのが。知っていなければ視野が狭くなる、いつか大好きな人も否定しなくてはいけなくなる、それは判っていても、やっぱり嫌です。
心に留めておく言葉くらい、明るいほうがいいに決まってるじゃないですか。
私の場合ですか? 私の場合は……
『恋は焔であると同時に光でなければならない』
うん、これですね。
……もっとも、恋愛未体験の身でおこがましい、とは思いますけど……
恋愛は求めていても、恋愛事件はお断り、というのは虫がよすぎるでしょうかね?




理解できないもの。自分とは明らかに違うもの。
傷ついた体を引きずって……傷ついた体は、戦うために動かすことはできても、殪すために動かすことはできそうもなかった。殪すために動いてくれない体に用はない。
勝つためには殪す必要があった。けれど、その役に立ってくれない体。
疲弊、負傷、消耗、衰弱、困憊、そのどれでもある。列挙するときりがない。重要なのは、どれが要因であるかはともかく、自分の力が不足しているということだ。
いや、本当に不足しているのだろうか。
上回られているのではないか? 力の不足ではなく、力が及ばないのではないか。
どれだけの力を詰め込もうとも、意志と目的を達成させてくれない体。
目的を達するためには、それを徹すためには意志が要る。事の大小はさておいて。
欠けている要因が分かればすべてが解決するとでもいうように、彼の意志は高速で駆けめぐった。
結局、それは徒労に終わってしまう。
意志を徹してくれない体を引きずって。意志ばかりが先行して、動いてくれない体。意志の通りに動いてくれない体を抱えて。決してそれらに不信を抱いたりはしないが。
彼は思っていた。
理解できないもの。自分とは明らかに違うもの。
つまり、共存が不可能なもののことだ。刹那的な共感を錯覚することはあるかもしれない。
それは男の後ろ姿をしていた。彼から何かを遮るように。彼と彼の後ろにいる者たちを護るように。彼よりもはるかに深く傷ついているというのに。彼よりも力は劣っているはずだというのに。
男は立っていた。
立っているのは彼ではなく、その男だった。
「では、後をお願いしますね」
男は言った。
彼が聞いた、たった二度だけの頼みのひとつだった。
つまり……どれだけ後に気づけただろう? 残すものばかり身勝手に置いていったそれは……別れの言葉だ。


ひとつの事実だ。彼女はその男を捜していた。
多分、朝だったと記憶している。
いつもはリボンで結いまとめている彼女の髪が、絹糸のように繊細な感触をてのひらに返すことを彼は知らない。陽光に溶け込むような髪の柔らかい色彩は、クリームブロンドとでも呼ぶべきものだった。
「遅かったわね。早速だけど減点だよ」
「……そういう判定をつけるつもりか」
彼は不服そうに呻いたが、彼女は瞳に湛えた炎の色を揺らめかせて笑っただけだった。
陽光の髪と、火焔の瞳と。
そんな目の眩むような笑顔を浮かべているのは、ようやく少女と呼べるような年頃に達したかという程度の娘だ。見た目は。
本当に見た目のままならば、ここまで凛とした眼をしてはいない。
もっとも、そんな尺度で考えること自体が大きな間違いではないかという気もする。
「行くつもりなのかい?」
「あたし、一人になったことってないんだ」
まるで脈絡のないような返答は、暗さを感じさせないさばけた声だった。
神秘的とさえ形容できる風貌には似合わない口調だけれど。
「だからさ、良い機会だと思うのよ。いろんなものを見てまわるのに。ほら、あいつがいなくなったから、あたしがあそこに残ってる理由もないしさ。みんなには悪いかもしれないけど、なんとか言っておいてよ。そこらへん聞くために、見送りに来てくれたんでしょ?」
「みんなが優しくしてくれるのが、つらいのかい?」
「……うん。そうかも」
「その子のことまで一人で背負うことはない」
彼女の抱きかかえているものに、彼は目を下ろした。
彼女は赤ん坊を抱いていた。
ありふれた清潔な白い布のおくるみに巻かれた、小さな赤ん坊だ。
無垢であるとか、それゆえにどんな色にでも染まるだろうとか、あまりにも脆弱すぎるために取りすがる小さな小さな手と泣き声しか持っていないとか、溢れるほどに注がれた期待と未来が詰まっているとか。
そんな、特権とさえ言えるような、見る者に無償の保護欲を掻き立てさせる小さな赤ん坊だ。
今は安らかな寝息で睡眠中だと主張している。
「駄目。あいつが戻ってくるまで、あたしがこの子の面倒を見なくちゃいけないの。でも、あいつ、道に迷いやすいんだもの。一人で戻ってこれやしないだろうから、あたしが探しに行かないと」
理屈が通っていないとは思ったが、そこを指摘したりはしない。
「…………もっと、後に引き延ばすことはできないかい? せめてその子が充分に育つまで。誰も探していないわけじゃない。みんなの探索でもきっと……」
「ううん。見つけられるのは、きっとあたしだけだよ」
曇ったところのない笑顔と一緒に断言するだなんて、卑怯だ。
そう思いながら言葉を失くして、彼は折れた。
赤ん坊の瞳は、眠っているから閉じられたままで、瞼の下にある深い、深い紫色を覗くことはできなかった。

同じ時、別の場所では別の女が別の者を求めていた。
引き締まっているとか、鍛え込まれているとか、鉄の塊のようであるとか。
およそ頑健な印象など抱けるはずもない拳が、壁に叩きつけられた。
何かしらの意図があっての行動ではなかった。衝動的な行動だったのかもしれないが、少なくとも、そんな指摘は無為でしかない。無為以上の意味はないだろう、よけいに彼女の意識を棘立たせるなどと。
命知らずというのは、そんなことをする者のことを言うのだ。
今の彼女には誰も近づけない。
壁の末路というのは単純だ。壁ではなく、壁だったいくつもの破片に変わった。当然だが、砕け散った瓦礫の山は壁ではない。だから、壁ではなくなる。
いちいち当たり前だが。
壁が……厚さは人の体の肉厚ほどであり、高さは彼女の上背の二倍ほどで、横には視界の続く限りの、強度はともかく固体である壁が。
それが粉砕された要因は彼女の拳がぶつけられたことだ。粉砕された原因は彼女の握り拳そのものであり、彼女の衝動だ。
まぎれもない事実は、それを木っ端微塵に破壊できるだけの力を、彼女が持っているということ。
もうひとつの事実は、彼女は今、その力を無秩序に解放しているということ。
「うぁ…………」
彼女は呻いた。
首をぐるりと一周している閉塞感を意識する。
苦痛の理由は直接それにはなかったが、ならば間接的にはそれにあるのか、と訊かれれば頷くしかないそもそも、身体に傷を負ったわけではないのだから。
「ぁぁあああああああああああっ!!」
身体に傷を負ったわけではないのだから、よけいに傷が痛む。わけの分からないまま胸が苛まれる。痛むのは、彼女を苛むのは、断じて拳の痛みなどではない。こんな痛みはどうでもいい。
痛むからといって、どうなるというのだ。
この、感情の向標さえ知れない憤懣が納まりはしないのに。
納まらないことを責めるのならば、それを止められない自分自身が悪い、という結論になるのだろう。端的にすぎる結果など無意味極まる。やはり意味がない。
「うあああっ!!」
再度、一撃と呼べる拳が叩きつけられる。
それは、『叩く』という現象だけを目標もなく撒き散らした。拳は虚しく空を泳いだ、などという現象には至らず、空を叩いて思う存分、縦横無尽に衝撃が空を伝わる。
もはや破壊される者など残っていない場所で、空間という概念ばかりが乾いた木をへし折るような悲鳴を連続させた。
衝撃に揉まれたのは彼女も例外でない。
眉間から滴り落ちる血の熱さを、ひどく冷静に受け止めている部分があった。
冷静さを自覚することによって、避難していた理性が戻ってくる。それは己の不甲斐なさばかりを自責するもので、憤懣が哀惜にとって替わるきっかけを作ったにすぎなかった。
「…………私は、なにをしているんだ………こんなことをしていても……あいつは……」
戻ってこないのに。帰ってこないのに。見つからないのに。悲しんでくれるだろうけど、それを表に出したりはしないのだ。皮肉に換えて言い放ってくるに決まっている。
懐かしい。不意に思ったときには、彼女はすでに泣き崩れていた。
涙を流して嗚咽するなんて、何年……いや何十年、何百年ぶりだろう。
「……………………っ!」
言葉にならない声で、幾度となく同じ名を繰り返す。
彼女の背後で、光か空間か、そのいずれかが緩やかに歪んだ。そうと見えたときには、すでに歪みは一人の少女へと姿を変えている。少女はほっそりとした繊手を、そっと彼女の肩に置いた。
気づかないように泣き続ける彼女の首筋で、革の質感が光沢を映す。
憐憫を浮かべた表情の中で、少女の瞳は閉じられていた。



残酷とさえ思えるほど、それらの光景から離れた場所で。
ようやく序幕は開きかける。

「斐築! どこに行ったの!? 斐築!」
神社の境内に、耳通りのよい声が響く。
せいぜいが十歳前後。だが大人びた雰囲気に違和感のない少女であった。女の子と呼ぶのなら、その者の胆力が試される、柊寂夜(ひいらぎ じゃくや)はそれほどまでに清爽な少女だ。
何かの決まりになぞらえたかのように、まったく不自然にならず着こなしているのは朱袴の巫女装束。
時代錯誤な草鞋が石畳を踏みしめるたびに、腰まで伸ばされた艶やかな黒髪が揺れる。
年齢から考えればあるべきはずのない要素だというのに、その少女からは無理をしているとか気負いすぎているとか、何かしらの負荷を代償にしているところがなかった。
神才とも鬼童とも呼ばれる次代<剣の依女>として、最も相応しい姿だろう。
「おう、どうしたんだい寂夜」
実のところ、少女が弟を探して歩きまわるのは珍しくもないことなのだが、そこに声をかけることができる者となると数が限られる。
寂夜と比べるとずいぶん見劣りする青袴姿の、四十歳近い壮年の男。
やや白髪が目につき、体格は健康そうではあるが頑健と言えるほどではなく、落ち着いた感こそあるが聡明さに繋がってはいなさそうだ。
それらは彼の短所ではなく、油断や隙が見つからないのと同じように、秀でた得手とするものを悟らせない霞として完成されている。
箒など持っているところを見ると、これから境内の掃除を始めようとしていたらしいが。
「叔父様………また貴方がそのようなことを……」
壮年の男、柊重葦(ひいらぎ しげよし)は、苦笑に傾いているようにも見える笑い方をした。
「はは。習慣、いや性分だよ。昔からこれだけは欠かすことができない」
「もう……」
そのときに少女が浮かべた笑みは、敬意から来るものだった。呆れも含んではいたが、敬う者相手だから無条件に引き下がったのではなく、納得した上での笑顔だ。
「また斐築がいなくなったのかい?」
「ええ。姉であるわたしの監督不行き届きを露呈するようですが……また練術の修行をさぼって……」
「あの子は無理をしているよ。それを分かってあげてくれ」
「……はい」
その返事を自分がするのは、ひどい傲慢だ。
優秀な姉に引け目を感じて満足に力を発揮できない弟。よくある構図だと思う。どうにもできない自分がもどかしい。自分に何とかできる問題ではないというのに。
神童と呼ばれる姪の少女を優しい瞳で見下ろしてから、重葦は言った。
「鷹久殿を連れて、また裏山に行ったみたいだよ。外に出ることはないと思うが……多分、素振りをしているんだろう」
知りたかった答えを聞いて、それまでとは違う少女の顔で、相応の無邪気な笑顔が咲きほころんだ。
「はいっ。ありがとうございますっ」

対して、斐築(ひつき)というのは凡庸であった。
いかにも重そうな大振りの木刀を肩に担ぎ、危なっかしく山道を進む。
姉に比べてしまうのは無惨だと言うかもしれないが、それは客観的な事実だ。第三者は比較対象があってこそ正確な判断ができると信じ込んでいるのだから。
ほんの五歳にしかならない子供の顔には、目に見えずも隠しきれない傷と、負けないほどの意地という誇りと……誰もが取り去りたいと願うだろう、卑屈さの影がある。
子供だから。
肩肘を張った矜持を価値観の中心にしてしまうのは、当たり前かもしれない。
重圧に負けて押し流されまいと頑張った挙げ句が卑屈さなのは、当たり前かもしれない。
それらの全てを取り戻すことができるのは、紛れもない真実だ。そのための努力を惜しまずして、何のために先のある幼き生命か。
ぐい、と発作的にこぼれそうになる涙を拭って、斐築は歩を進める。
人の目につく場所で素振りをするのは嫌だった。
この隠れ里に住む老若男女、誰もが囁く。
立派なこと。
あのお歳で剣を振ろうとは。
あのお歳で、もう叢雲剣を継ごうと考えているとは。
立派なこと、姉上に追いつこうと、否、追い抜こうとは。
立派なこと、あのお歳で、あそこまで苛烈な修練に身を置こうとは。
……不遜なこと。
…………おお、末恐ろしいこと。
不遜なこと。決して寂夜様には敵うまいというのに。
いつだろう? いつなのだろう、姉に、父に、牙を剥くのは?
………………敵うはずもないというのにねぇ。
「畜生…っ!」
そうなればいい、という期待。誰もが享楽的な予想を抑えることができず、歪んだ笑みを漏らすのだ。仕方のないことだと達観するには、いくらなんでも斐築は幼すぎる。
この隠れ里に働くありとあらゆる人払いと封印、その霊枢であり、そうまでして護るべき物である二刀。
剣の名を、叢雲剣、布流剣という。
現在の守護役は姉弟の父。後継はすでに決まっている。斐築の姉、寂夜だ。姉が自分を気遣ってくれているのは知っている。心底から感謝しているし、彼女への敬意も紛うところのない本物だ。
だが、だからといって、彼女を越えることを修練の目的から外せはしない。
見返すため。
何を、誰をという矛先すら定まっていない、明らかに稚拙な感情だった。
間違っていると指摘するのは容易いかもしれないが、子供だからこその純粋な向上心に繋がっているそれを、誰が止めることができるだろうか。誰が、正面から間違いを諭す勇気を持てるだろうか。何人も失って久しい、正真の克己心を持った子供を。
恥ずべきものを持たず、煩わしいというだけの理由で、斐築は人目につかないよう修練を積んでいる。
自分への中傷は聞こえるか否かということが問題であって、内容はどうでもいい。
ふと、歩みを止めて。
斐築は辺りをぐるりと見回すや、声を張り上げた。
「鷹久! 鷹久! いるんだろう、出てこい!」
応えて。
木陰から姿を出すという冗談じみた出現をしたのは、十をいくつか過ぎたくらいの少年だ。地味な作務衣を着た、どことなく特徴が印象として残りにくい、それを逆に雰囲気として纏った少年。
鷹久(たかひさ)と呼ばれた少年は、太めの眉を少しだけ跳ね上げて驚愕を示してみせた。
「いつから気づいていたんだ? 隠伏に抜かりはなかったと思ったけどな」
「毎日見張られていれば、気配を隠している気配も分かるようになる」
「ふぅん……さすがは叢雲剣の跡取り」
非日常的な台詞をぽんぽんと応酬して、少年と子供はいささか不穏に視線を交錯させる。
語彙がいまひとつ貧相なのは、まあ子供、ということか。
「…………そんなに俺にくってかかるようなら、おまえが剣の後継になればいい。姉さんと同じくらい強いくせに、俺ばかり目の仇にするのは姉さんが恐いからか?」
強さ、と分かりやすい価値観を前面に押し出して、斐築は一蹴した。
寂夜に少女らしくもない威圧感があるのは周囲のすべてが認めるところだ。そもそも、身体能力としては決して優れていない、同い年の子供と比較して劣ることもある寂夜があそこまでの評価を得ている理由が明らかでない。
その評価が決して誤認でないのは確かなのに。
いちいち子供らしくもなく肩をすくめて、鷹久は取り合おうとはしなかった。
「まあいい。そんなことのために呼んだんじゃないんだ。おまえにも聞こえるな?」
「……何が?」
訳が分からない、といった様子の鷹久を胡乱そうに睨みつけると、斐築は一人で山道から逸れて横に進んだ。
「どこに行くんだ?」
「赤ん坊の泣き声が聞こえてくる方向にだ」
「だから、そんなもの聞こえやしないだろ」
「おまえ、そうやってとぼけて……」
怒色もあらわに斐築は振り向いて、 本当に不思議そうな顔をしている鷹久の表情を認めると、いきなり走り出した。
鷹久は、本当に聞こえていない。
それが分かったから、どうやら自分にだけ聞こえているらしいから、走り出した。
「おいっ、こんな山の中で迷いでもすれば、帰れなくなるぞ!」
「だったらおまえも来ればいい! 親父に言われて俺のお付きなんかやっているんだろ!」
「……ばれてたか」

赤ん坊はいた。
ただし、泣いてはいない。安らかな寝息を漏らしている。
たいして探すまでもなく、という訳ではない。見れば分かる、という程度ではあるが、山林の下生えに半分がたまで埋もれかけた赤子を苦もなく見つけたのは異常だった。
妙に古風な、しかし清潔なおくるみに包まれた、生後数ヶ月ほどの嬰児だ。
それを見つけるまでの道程も、斐築はまったく迷わずに進んできた。山道を逸れたのが昼過ぎ、今はもう陽は沈みかけている。
深呼吸ひとつだけで、斐築は乱れた息を整えた。迷うことなく赤ん坊を抱き上げる。
異常だ。
何から何までが異常だ。
鷹久の頬を汗が伝い落ちるのは、山の道なき道を進んできたためだけではない。指摘するのがいちいち面倒なほどに、この事態は異常すぎる。
もはや不思議とは言えない。不思議では済まされない。
「へえ…」
感心したように呟いただけの斐築の言葉にも、鷹久は身を竦ませた。
「見てみろよ、鷹久」
「……何を?」
「こいつを」
端的にばかり言う斐築に促されて、おくるみの中をのぞき込んでみた。
赤子の顔など、どれも似たようなものだが……それは絶対に他と間違えないという特徴があった。
乳児特有の薄い頭髪は、灰色がかったミルク色だ。色素が安定すれば、銀髪とでも呼べるような灰色に落ち着くのだろう。赤ん坊相手には少しばかり乱暴に押し開いた瞼の下、左眼の色は吸い込まれそうなほど深い、紫雲石のような深紫。
さらに右の瞼には、縫合された痕があった。
「抱いてる感触だと、右腕もないな。隻眼隻腕というわけだ」
絶句している鷹久に、いかにも面白そうに斐築は言ってのけた。
あまりにも扱いかねる拾い物だ。
「一軌」
「……なに?」
「こいつの名前だよ。男みたいだしな。ひとつの軌跡、軌道、と書いてカズキだ」
言葉の意味が浸透するのにしばしの時間。
「おい……」
「なんだよ?」
「事情を説明しろ。どうしてこの赤ん坊の居場所が分かった? 泣き声を頼りに、なんて言うなよ」
「そういえば、どうしてだろうな。いいじゃないか、こんな赤ん坊が放り出されたまま、なんてのよりはよっぽどましだ。偶然でも、そうでなくてもな」
「……で? そいつ、どうするつもりだ」
「親探しくらい叔父さんに頼むけど………見つからないだろうなぁ、多分」
なにも叔父、重葦が人探しを不得手にしているということではなく、まっとうに親とがいるとは思えない、という単純な予想だ。尋常でない発見のされかたをした子供が、親が見つかってめでたしめでたし、などという結末を迎えるとはとても思えない。
こんなに楽しそうな顔をしている斐築は初めてだ、と関係ないことを考えながら、どこかしら諦めにも近い感情が生まれてくるのを止められず、鷹久は絶句し続けた。
無邪気なまま聞こえてくる言葉をそのまま受け止める。
「きっと愉しいぞ、家族がひとり増えるみたいなもんだ。まず姉さんを説得するのが肝心だな。それが成功すれば、親父や叔父さんの説得なんて簡単なもんだ」
なんとなく、この時点でいろいろと顛末が知れてきて。
鷹久は諦観としか言えないような心境になり、しばらく自分はこのままなのだろう、と早々に見切りをつけてしまった。
かろうじて頭を振りながら、
「要するにあれか。新しい家族で、おまえの弟、というわけか?」
それを聞いて、斐築は呆気に取られた顔をしたが。
「そうだな。それがいい。よし、おまえは今日から、柊一軌だ」
心底から嬉しそうに笑って、そんなことを言ったのだった。


それらは、20年も前の遠景として置き去りになって。
……今の私には、たいして関係ないこと、だと思ってたんですがねえ。


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