R E V E R S A L



人間の生き方というのが、運命と偶然との二通りに分かれることは判る。
だけど、「どっちか」だと決め付けるのは、あまりよくないんじゃないか、と思う。
「運命を信じる」「偶然を信じる」━━なんて。
信じるも信じないもないじゃないか。
どっちにしたって未来はわからないんだし、どっちにしたって━━

来るときは、来る。



*



 僕は一人の女の子に惚れていた。笑うと左の頬にできるえくぼがなんとも云えず可愛い女の子。
 高校に入ったときから、ずっとだ。
 そして今年、高校最後の年、ようやく彼女と同じクラスになれた。
 女友達といえる人がいるかどうかは自信がない。だけど普通に女子とは話せる。だけど、彼女とは話せない。
 そんな複雑怪奇な、ある意味では単純明快な、僕と彼女の関係。
 ‥‥つまり、無関係。

 なぜ僕が彼女に惚れたのか、と聞かれても困る。
 だって、そういうものに理由なんてないだろう?
 不良だと思っていた奴が雨の中捨てられていた仔犬に餌をやっているのを見て惚れる、とか。
 ただ云えることは、僕はその子にバイタリティを感じた、ということだ。
 普通に日常を過ごしていながらなんとなくつまらないと感じていた僕が、精一杯に活力溢れる生き方をしている彼女に惚れるのはだから、ごく自然なことだと思う。
 そりゃ、周囲から見て必ずしも可愛いか、綺麗かと聞かれれば、首を傾げる人だっているかもしれない。けどそれは、彼女の魅力に気付いていないだけだ。
 女の子には、どんな子でも必ずいつかモテる瞬間があるんだ、と昔母さんが云っていた。
 もしそうなら、彼女の「それ」はまさに今、なのかもしれない。
 ただ、僕以外に彼女に惚れていた人間を見つけられなかったことが少し気にかかるんだけど。
 でもまぁそれは、僕以外に彼女の魅力に気付くまともな男がいなかったということだ。絶対そうだ。彼女が悪いわけじゃない。



*



 高校三年も半年以上過ぎ去った、十二月の寒い朝。
 一時間目からテニスの授業だった僕たちは、テニスコートでいつものようにテニスしていた。
 というのは名目で、僕たちはほとんどテニスそっちのけで、ラケットとボールを使ってホームラン競争をしていた。
 コートは全部で六面あって、横に三面並んでいるコートが二つある。
 その二つのコートの間は、約三メートルほどの高いネットで仕切られていた。
 コートの端からボールを打って、そのネットを越えられればホームラン。
 先生はほとんどいなかったから、僕たちは存分にそれを楽しんでいたんだ。

 ところで、もちろんクラスの授業だから、僕の「彼女」もそこにいる。
 その日は、彼女は僕とネットを挟んだ向かいのコートで楽しそうにテニスをしていた。
 ちなみに、僕が彼女を好きなことは、僕の友達はなぜかほとんど知っている。冷やかしの対象にもなる。
 そんな友達との掛け合いを楽しく、時に疎ましく感じながら、僕はそのままの━━告白とかしないままの、なあなあの━━状態を維持していた。
 今となっては、なぜだかわからない。
 「きっかけ」が必要、と人は云う。けど、本来それは「自然と現れる」ものではなく、自分から「創りだす」ものだと思う。
 きっかけがないからといってぼんやりしていて、そのままチャンスを逃すのは馬鹿のやることだ。誰の責任にも問えない。
 そして僕は馬鹿だったから、きっかけを「創りだす」ことができなかった。

 恐ろしいことに、テニスのスマッシュは野球の投球よりも速いスピードで飛ぶことがあるらしい。
 野球のボールと違ってゴムみたいに「跳ねる」ことをメインに作られているから、当たり前なのかもしれないけど。
 僕は野球部だったから、ラケットの振りには自信があった。ボールを投げる側に立つときは、時々シャレでカーブとかフォークとか投げた。
 そして‥‥。

 僕が打った僕史上最高のホームランボールは、高々とそびえるネットを越え、ドライブシュートのように直滑降。
 テニスを楽しんでいた彼女の脳天に直撃した。

 ずごっ、という、まるで形容できない異様な音と共に。



*



 何度死のうと思ったことか。
 彼女に何度も謝りはしたけど、会話などできるはずもない。

心無い友人いわく、「よかったじゃん、あの子と話せるなんて」

 いいわけないじゃないか。彼女は、それから一週間、ずっと謝り続けた僕と目を合わそうとしなかったんだから。
 しかしなぜか、それでも僕は何を思ったのか、冬休みに入る直前に彼女に告白しようと意気込んだ。
 今考えれば、ほんと馬鹿だと思う。このタイミングでわざわざ。
 だけど、冬休みに入ってしまえばもう受験だし、三学期なんかほとんど学校に来ない。これが最後だ、という気持ちがあった。
 少なくとも、彼女にボールをぶつけたことで僕の印象はあるはずだ。中身にはこの際、目をつぶる。
 万が一、偶然、てことがあるじゃないか。恋愛に偶然はつきものだ。と思う。

「付き合ってください」

「‥‥‥‥はい」

 運命とか、偶然とか、もうそんなことどうでもいい。
 彼女がOKしてくれた理由も、そのときはどうでもよかった。
 ただ僕は、僕の耳が信じられなかったのだから。



*



 高校最後のクリスマス。
 私立大学の受験を三日後に控えた僕と彼女は、午後6時に待ち合わせして、外でご飯を食べてから夜の公園に立ち寄った。
 本当は家がいいんだけど、家族もいるしそもそも今日は「予備校」といって出てきたのだ。帰れるはずがない。
 どうやら彼女も似たような理由らしく、特徴的なえくぼを覗かせて笑った。

「同じ大学、行けるといいね」

 僕も彼女も、国立大学の同じ学部を目指していた。学科は残念ながら違うけれど。
 だから、私立受験は上の空で、今はセンター試験とその先の二次試験に照準を合わせている。
 この受験だけは、失敗するわけにはいかないんだ。失敗しても彼女は僕を好いていてくれると思うけど、優しい彼女のことだから悪い虫がつかないとも限らない。
 これは戦争なんだ、愛する者を守るための聖戦なんだと自分に云い聞かせている。おかげで成績の伸びもいい。‥‥ここ二週間のことだけど。

「‥‥ねえ、聞いてもいいかな」
「なに?」

 小さく笑いながら首を傾げる彼女。可愛すぎる。

「なんで僕と付き合ってくれてるのかな、って」
「‥‥‥‥」

 きょとん。まさにそんな顔だ。目をぱちくりさせて、10秒くらい沈黙が続いた後、彼女は笑った。

「なに、いきなり」
「いや‥‥特に理由はないんだけど」

 ないはずはない。
 僕は気になっていたのだ。
 あのとき━━告白する一週間前。僕は彼女にひどいことをした。
 あれそのものは事故だし、確かに僕の責任はないかもしれない。むしろ、監督不行き届きで先生が厳罰を食らったという噂すら聞いた。
 つまりは、遊んでいた僕が悪いのだということなわけで、だから、悪いのは僕だ。
 そんな僕に一週間も口利いてくれなかった彼女が、どうしてあのとき‥‥。

「‥‥なんでかな。あたしもはっきりしたことは、よくわからない」
「そうなの?」

 でもそんなもんだよね、と僕が続けようとした。

「あ‥‥ただ、ひとつだけ原因、あるかな」
「━━え?」
「ほら、あたしボール当たっちゃったじゃない」

 じと、と僕をにらみつけてくる。これまた可愛い。僕は苦笑しながら困った顔をする。

「はは‥‥。ご、ごめん‥‥」
「ううん、いいの」

 にこり。後光が差すような。ひまわりのような笑顔だ。ああ、こんな形容しかできない自分が腹立たしい。

「だって、あのおかげできみの印象が変わったんだから」
「‥‥?」

 彼女は、ぽふ、と僕の肩に頭を預けてくる。心臓が高鳴る。頭の中で警鐘が鳴る。理性が、理性が。

「実はね、あのことがあるまであたし、きみのこと、あんまりよく見てなかったの」
「‥‥」

 ちょっとショック。これでも一年のときからずっと惚れていたんだけど。
 まあ‥‥そんなもんだよな。うん。

「けど、あれがあって‥‥なんというか、世界が変わった感じがした」
「世界が?」
「うん」

 彼女の吐息が耳をくすぐる。おいおい。

「きみがすごく魅力的に思えて、他のものなんか全然目に入らなくなって‥‥」
「‥‥‥‥」

 あのときは僕から告白したからともかく、告白されるっていうのはこういう気分なんだろうか。なんだかどきどきというより、ぞくぞくする。

「で、でも」

 無理やり声をひねり出す。裏返ってしまった。

「あのあと一週間、目、合わせてくれなかったよね」
「あ、それは‥‥」

 恥ずかしそうに口ごもる。胸が張り裂けそうだ。こういうときにこの表現が適切なのか、ちょっと不安だけど。

「恥ずかしくって‥‥」
「え?」
「好きな人の顔なんて、まじまじと見られないじゃない」

 もはや耳まで真っ赤にして俯いてしまった彼女の横で、僕は祝福の鐘が頭に鳴り響くのを確かに聞いた。
 幸せだ。幸福だ。これ以上ない、空前絶後とはまさにこのこと。

「‥‥なんだ、そうだったんだ」

 恥ずかしさを隠すようにつぶやくと、なぜか笑いが漏れてしまった。

「わ、笑わなくてもいいじゃない!」

 彼女が真っ赤なまま怒るのも、また可愛い。いや、もうこれは━━愛しい。愛しいんだ。
 たまらなくなって‥‥気付いたら、抱きしめていた。
 彼女は一瞬だけ「ひゃ」と息を呑んだが、そのまま僕に体を預けてくる。暖かい。人間のぬくもり。好きな人の、愛する人のぬくもり。

「やだなぁ、恥ずかしいよ‥‥」

 なんだか、声からすると彼女のほうが落ち着いているらしい。というか、僕の心臓が物凄い脈動をしているだけか。

「あんまり‥‥苦しい‥‥」
「あ、ご、ごめん」

 ぱ。
 慌てて手を離すと、彼女は名残惜しそうに僕の胸から体を離して、俯いた。

「大好き‥‥」

 彼女の言葉。
 僕も、好きだ。
 その言葉が、出なかった。
 喉が詰まって、からからになって、声が震えそうで。
 ただ、彼女の姿だけが、まるでこの世に降り立った美の女神のように僕の頭を支配した。



*



 それから。
 晴れて同じキャンパスに通うこととなった僕と彼女は、今でも恋人関係が続いている。
 学校が遠いから、二人とも下宿している。
 そのおかげかどうか、ほとんど毎日どちらかの家に泊まり、まるで同棲状態。
 人を愛するということが、こんなに楽しいことだとは思わなかった。
 ただ幸せなだけじゃなくて、毎日毎日、いろんな発見が僕たちを喜ばす。
 ヒトと一緒にいる、ということが、ただそれだけでとても暖かいのだということを、僕は実感していた。

「一緒に帰ろ?」

 学科が違うのに、カリキュラムをほとんど僕と並べてくれた彼女。
 必修授業とかもあるだろうに、いつも僕のそばにいてくれるような気がする。
 そして、時には微妙に距離をとって。一日中べったりより、そのほうが長く一緒にいられるから、と彼女が笑ったのを覚えている。

「うん」

 立ち上がり、かばんを手に取る。
 とりあえずキャンパスを出るまでは、手を繋ぐこともしないと決めた。
 あまりに恥ずかしいからと僕がお願いしたことなんだけど、そうじゃないとどこでも腕に絡み付いてくるのだ。
 僕はうれしいけど、まあ、ほら、周囲の寂しい人たちのことも考えてあげないと。

「いやみったらしいなぁ」

 彼女が笑う。僕も笑う。これだけでいい、何もいらない、そう感じた。
 そうして歩いて、しばらくすると僕の下宿先のアパートが見える。
 どちらかの家に泊まるとき、泊まられるほうが食事を振舞うのが僕たちのルールになっている。つまり、今日は僕が食事当番だ。
 冷蔵庫にある数少ない食品から適当に選びぬいた食材を使って、これまた適当にご飯を作る。
 適当すぎて我ながら何とも云えないけど、彼女は云う。

「毎日おいしい料理ばっかり食べてたら、バチがあたるから」

 ‥‥うるさいよ。



*



「ねぇ‥‥」

 今日学校で、気になったことがあった。
 入学してから一ヶ月、まともに授業も始まるようになって、友達との交流も増えてきた。
 そんな中、彼女と同じ学科の男が一人、僕の友達になった。彼女とも知り合いらしい。そいつから聞いた話だ。

「なに?」

 彼女はベッドに横になって、顔だけこちらを向けている。
 ちなみに、僕はちゃぶ台で明日の予習をしていた。この点、意外とまじめだ。いや、当たるからやっておかなきゃならないだけ。

「今日、君の学科の子と友達になった」
「へぇ、だれ?」
「名前‥‥忘れた」
「わ、さいてー」
「男の子だったけど」
「‥‥」

 彼女はううん、と唸って虚空を見つめ、しばらくして

「もしかして、妬いてる?」
「男友達ができただけで妬いたりしない」

 まあ、内心は複雑だけど、あまり云うと色々とまずいだろうし。

「そいつから聞いたんだけどさ」
「?」
「教室にゴキブリが出たんだって?」
「ああ‥‥うん、そうだね」

 彼女は笑っている。いつもと変わらない、僕が安心する笑顔。
 だけど僕は、そのときそれに不安を感じていた。

「‥‥嫌いじゃないの?」
「んー。嫌いじゃないな。むしろ、かわいい?」
「‥‥」

 さすがに驚いた。彼女がそんな感性だとは思わなかったからだ。

「ゴキブリ可愛いだなんて、昆虫類学者のヒトでもあんまり云わないんじゃない?」
「そうかもね。自分でヘンだと思うもん」

 あはは、と苦笑する彼女。僕も釣られて笑う。
 云われてみれば、付き合い始めたこの数ヶ月、不思議な嗜好があるのでは、ということには気付いていた。
 彼女自身が不思議な女の子だから、なかなか変わった趣味してるな、て済んでいたんだけど。
 たとえば彼女は、ドギツイ蛍光色のシャツなんかを好んで着ている。まるで笑いのネタにでもされたいかのように。
 また、彼女が自分で選んだ下宿先もまた、ヘンなところだった。
 確かに値段が安いのは認めるけど、誰も来ないだろこんな所というような入り組んだ先にあって、辺りは木々に囲まれ田んぼもあり、虫の沸く夏が不安でならない。
 つまり、彼女はおよそ普通の女性が好きになれないようなところに、好きで飛び込んでいくような性格だった。性格というか、性癖というか。

「昔から好きだったの?」
「なにが?」
「だから、ゴキブリとか」
「‥‥」

 しばし考えた後、黙って首を振る。

「嫌いだった?」
「たぶんね。この目で見たことあんまりなかったけど」

 にへへ、とやわらかく笑う。まあ、変な女と云われれば変かもしれないけど、それを含めて彼女なのだから、僕は別に‥‥。

「じゃあ、いつごろから?」

 ふと、気付いた。
 この質問を口に出して、気付いた。
 聞かなければよかった、と。

「‥‥‥‥」

 彼女は三度、考える表情になる。
 その横顔を見ながら、僕は無意識のうちにごくりと唾を飲み込む。
 聞くんじゃなかった。と思った。そして、答えるな、と思った。

「ああ、別にそんな考えなくても」
「いつごろだろ?」

 僕の親切な思考停止案を軽く捨て置き、彼女はまだ悩む。
 そして彼女が口を開くのを待つだけの僕は、まるで死刑執行を待つ囚人のような心境だった。

「‥‥‥‥あ」

 ぽん、と彼女が手を叩く。

「あれだ、きみにボールぶつけられたからだ」

 ━━死刑執行。

「そうそう、あのときから、なんか不思議なのよね。可愛いと思ってた人形とか全部嫌いになったし、苦手だったムシとかも大丈夫になったし。なんていうのかな、好きだったのが嫌いになって、嫌いなものが好きになって‥‥まるで反転したみたいだね。それに服とかの趣味も━━」

 目の前が反転したように思えた。
 彼女はまったく気にしていないふうに、頬にえくぼを浮かべつつ、続ける。

「好きでも嫌いでもないものは、何も変わらなかったと思うな。すごく好きだったものだけなぜか嫌いになって、その逆も‥‥。あ、そういえばクリスマスのとき、云ったよね。世界が変わったような、って。まさにそんな感じ」



*



 僕の世界が反転した。



<Closedown>