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Original Novel
NODOAME Presents



歌姫


第5話

重く、低く、鐘のように



 空は夕焼け。血のようで気持ち悪い、赤い空。赤は嫌いだ。あの頃から、ずっと……
 グラウンドを走っている陸上部員の掛け声が、校舎の中にまで響いている。それに混じって、ラケットがボールを打ち返す軽快な音も。
 吹奏楽部は上の階から、軽音楽部は下の階から、それぞれ特有の旋律を奏でている。たまに顧問の先生のものと思しき声も聞こえてきた。
 どの教室にも、人の姿はない。廊下で何人かの生徒とすれ違ったが、彼女らもこれから家路につくのだろう。
 放課後の学校は活気があるように見えて、それ以上に、何故か寂しい……
「まるで、私の心みたいね」
「……待たせて悪いのは分かってるけど……そうあてつけがましく憂鬱がられると、なんだか気味悪いわよ」
 廊下の窓枠に両腕を預けた姿勢でつぶやいた私に、亜弥子が少し向こうの方からこちらへと歩み寄りながらそう言ってくる。
「あと残り僅かの高校生活……一秒だって無駄なく謳歌したいというのに、馬鹿に付き合わされて放課後の誰もいない廊下でぼんやり佇む……虚しくならない方がおかしいわ」
「馬鹿って……いつになくダイレクトな……」
「馬鹿相手に皮肉るのも馬鹿馬鹿しいでしょうが。馬鹿でも馬鹿なりにそれくらい馬鹿っぽく分かるでしょ、馬鹿」
「いつかっ……いつか殺してやるっ……!」
 凄絶な表情で通りすがりの関係のない生徒の胸倉を締め上げながら、呪詛を紡ぐ亜弥子。ごめんね、生徒A。私のせいじゃないからね。
 ひっ……! と息を飲んで、生徒Aが亜弥子の手を引き剥がして逃げ去ったのとほぼ同時に、近くの教室の戸が開いて、若い男の先生が顔を出した。
「保坂っ! 馬鹿のひとつ覚えみたいにガラス割りまくっただけじゃ飽き足らず、この上さらに恐喝までしようってのか!?」
「はうぅぅぅっ! 今のは違うんですーっ! 悪いのは全てあそこの陰険女……っ!」
 ぱたん。
 閉ざされた教室の中から、先生の怒声と亜弥子の悲鳴にも似た泣き声が聞こえてくる。
 うむ。第四回さようなら亜弥子ちゃん計画も恙無く終了といったところか。ちなみに全二十回を予定。耐えられるか亜弥子ちゃん。
 でも、これじゃ帰る頃には日が落ちてそうね……まあいいかどーでも。先に帰ろう。
 一瞬で決意し、私はきびすを返して廊下を歩き出した。
 と……不意に、そこからふたつ隣の教室の中に人の姿があったのが見えて、私は反射的にそちらを覗き込んでいた。

 見てはいけなかった。私はいつまでも、夢を見ていなければならなかった。
 過去に戻って、全ての過ちを正したかった。
 それができるだけの権利が、このときの私にはあってもいいはずだった……
 
 そこにいたのは……

「神楽っ!」
 私は自分でも鼓膜に痛いくらいの声量で叫んで、戸を開け放って中に踏み込んでいた。
 夕日が差し込む教室。その窓際に、神楽はいた。ひとりの女生徒をその腕に抱きながら。
 熱烈な抱擁。絡み合う唇と舌。乱れた制服。紅潮した頬。潤んだ眼差し。
 それを阻止したのは、私の声。同時にこちらを振り向くふたり。女生徒の方は驚いていたようだったが、神楽は至って平然としていた。
「ま、またねっ、神楽君っ。あたし、門限あるから、そろそろ帰らなくっちゃ……」
 服の乱れを直し、しどろもどろに言い訳を並べ立てながら、女生徒は慌てて教室を出て行った。だが、私はそれを無視する。
 そして教室に残されたのは、私と神楽……神楽は、笑顔でこちらを見ている。
だがそれは、いつもの人のいいそれではなかった……
「言ったはずよね……あなたの行動は、私によって管理されてるって」
「どうするの? 先生に報告する?」
 しても無駄だと分かり切っていることを、神楽は揶揄するように言ってきた。
そう、無駄だ。そんなことは分かっている……
「飼われた犬は、おとなしく主人の言うことを聞くものよ」
「随分な言い方だね……たとえ首輪で繋がれていようと、最低限の自由はあるはずだよ」
「いいひと面して女の子を騙すことが? それを自由だと主張するなら、結婚詐欺も立派な商売になるわね」
「自由恋愛だよ。僕はあの子に恋をした。それとも、僕には人を好きになる自由すら与えられていないのかい?」
「嘘ね」
「どうして」
「今の自分の顔、鏡で見てみるといいわ。そんな顔してる奴の言うことなんか、誰が信じるっていうのよ」
「そう、嘘さ」
 あっさり認めて、神楽はこちらに近づいてきた。
 それに伴い、神楽の顔から笑みが消えていく……波打つ水面が静けさを取り戻すように。
 すると神楽は私の腕を掴んで、黒板の横にある掲示板に私を押し付けると、切なげな声で囁いてきた。
「僕が恋をしたのは、君だよ。羽鳥さん」
「月並みな言い逃れね。女は簡単に騙せるくせに、嘘が下手なんて話にもならないわ」
 唾棄するような口調でそう言って、私は神楽を睨む眼差しをさらに細めた。私を取り込もうなんて、それこそ無駄な行為だわ。
 だが……そう確信していたことが、私自身の油断を招く引き金となった。
 唐突に、神楽が力強く私の腕を外側へと引っ張る。その際に生じた腕の筋肉と関節の痛みを、私が感じたその瞬間……
「君も女だよ」
 神楽の声が、吐息に乗せて……
 その言葉を認識すると同時、私は、運動神経が脳からの指令を無視して勝手に活動したような錯覚を覚えていた。
 なんにしろ、私が反射的に神楽を突き放そうとしていたことに気づいたのは……
 神楽の唇が、私のそれに触れた後のことだった。

 刹那的に明滅する思考。集中する感覚。神経の痙攣と停滞。跳ねる心臓。
 だが、そんなことに意味はない。全て、どうでもいいことだ。

 …………キス、された。

 重く、低く、鐘のように……
 ただその事実だけが、頭の中で何度も弾け回っていた。

           ≪つづく≫



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