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Original Novel
NODOAME Presents



歌姫


第6話

改めて、神楽祐一



 刹那とは、実際どの程度の時間のことを言うのだろう。
 光の速さか。ゼロに限りなく近い間隔か。脳が神経に送る信号くらいの速度か。
 だが、限界まで短縮された時間は、時として一秒を上回ることがある。なぜなら、人はそれを知覚できないから。
 そして今、私はその瞬間の中にいた。

 突き飛ばそうと思えば、それこそ刹那の間に突き飛ばせるはずだった。
 その気になれば、消し飛ばすことだってできる……ただ強くイメージするだけで、それは実現できた。
 世界の中心である私に、壊せないものなど『無い』はずだった。
 なのに私は……連続する刹那の空間の中で、身動きできずにいた。
 神楽に、キスをされたままで。
「これが……君だよ」
 神楽の声が、彼と私の唇の隙間から漏れる。その吐息が顔をくすぐって、こそばゆかった。
 ……肌が、ぴりぴりしていた。耳の奥では風が唸っている。足に力が入らない。胸が悲鳴を上げていた。
「気持ちのいいことには抗えない……どこにでもいる、普通の女の子さ」
 やがて神楽は唇を離すと、私の身体に手を這わせてきた。ひび割れたガラス細工の陶器を撫でるように柔らかく、いやらしく、繊細に。
「んっ……!」
 私は、自分でも信じられないくらい切ない声をこぼしていた……全身に、神楽を感じたような気がして。
「そのために……僕たち、男がいるんだ。女が快楽を求めた結果が、僕たちなんだよ」
 それは……『痛み』よ。愛に飢えた獣の、最後に感じた『苦痛』……
「つまり、これは復讐なのさ……愛の足りない男たちの」
 それは……『原初』にも等しい。始まりが定めた、一握の『運命』……
「優しさなんかじゃないんだ……僕も、君も」
 それは……『心』と『ココロ』の拒絶よ。自分は、ひとりしかいないから……

「だから、僕を感じて」
 ……再び、神楽が口づけを求めてくる……キス、したいの? キス、するの?
 私は……
「それが……君だよ」
 ……私は。

「……嫌……っ!」
 つぶやく。と、その瞬間……どの一瞬なのか自分でもよく分からなかったが……私は、全ての感覚が解放されたのを自覚していた。
 まだ唇に、神楽のそれの感触はない。彼の手の温もりは、私の足を這い上がろうかというところで止まっている。
 まさに、刹那。その一瞬を理解するより早く、私は神楽の顔に平手を放っていた。
 ぱぁん……と、教室中に軽快に響く。
 神楽は全ての動作を制止させ、しばし床に視線を落としていた。驚いているというわけではなく、何かを確認しているように思えた。
 そして……狂ったように、笑い出す。
「くっ……く……はぁっはっはっはっ! ははっ、は、はははははははははっ!」
 身をよじらせながら神楽は後ろに下がり、真後ろにあった机の角に腰をぶつけて倒れそうになって、ようやく彼は笑いを止めた。
「そうだよ、それがお前だ。分かるだろ? 羽鳥優歌」
 先程までとは打って変わった口調で告げながら、神楽は私の顔を指さしてきた。そうだ……分からないと言えば、嘘になる。
 彼は上着の襟元を正して、今度は親指で自分を指し示してみせた。
「そして、これが俺だ。神楽祐一だよ」
「……詐欺師ね」
「お前だって、ただのひねくれたガキじゃねえか」
 鋭い笑みを浮かべ、言い返す神楽。その眼光がこちらを射抜いているように感じて、私は悪寒を抑えられずに震えた……
 ……と、そのとき、どこか別の教室の戸が開く音がした。亜弥子か……それともただ開けただけか。それはあまりに無意味な気がしたが。
「いずれ、またふたりきりになれるといいな?」
「次は、殺すわ」
「罪と過ちは同じところにあるが、同一じゃない。俺を殺すっていうのは、どちらに当てはまるんだろうな」
「……覚悟は、しているつもりだけれど」
 私と神楽の視線と言葉が、空間で絡まり合っているのが見える……視覚ではなく、むしろ痛覚がそれを捉えていた。
「まあ、いいさ」
 神楽はそうつぶやくと、いつもの穏やかな表情へと戻っていった……いや、もうひとりの『神楽祐一』の仮面を被ったのか……
「そろそろ帰るよ。羽鳥さんも、暗くならないうちに帰った方がいいよ。じゃあ、また明日ね」
 何事もなかったかのようにそう告げて、神楽は教室を出て行った。
 遠ざかる足音を聞きながら……あるいは聞いていたのではなく、その微かな振動を身体で感じていたのかもしれないが……
 なんにしろ私は、膝を折って、その場に座り込んでしまっていた。異常なほど、息づかいが荒くなっている……
 胸元が、むせかえるように激しく波打っている。そして、痛い……どこが痛むのか、自分でもよく分からない痛み。
 それは、疲労にも似ていた。
「ごめん、お待たせ優歌っ!……って、あれ? 優歌? ちょっと、まさか先に帰っちゃったんじゃないでしょうね!?」
 廊下で、亜弥子が喚いている。これで本当に私が先に帰ったんだとしたら、彼女はひとりで喚き続けたのだろうか。
「大体、よく考えてみたら、悪いのは優歌じゃないのよ。あの連射式毒舌女、明日覚えときなさ……あ、神楽君。優歌、見なかった?」
「そこの教室にいるよ。なんだか気分が優れないんだってさ。保坂さん、悪いんだけど、彼女を頼めるかな?」
「そうなの? 教えてくれてありがとね、神楽君」
 などという軽い会話の後、亜弥子が私のいる教室に入ってくる。さすがに心配なのか、彼女は慌てて駆け寄ってきた……
「優歌っ!? どうしたのよ、どっか痛いの!? 例えば生理痛とか盲腸とか内臓破裂とか何の前触れもなく全身の骨が折れたとかっ!?」
 後半、有り得ないことばかり並べ立てている。せめて風邪とか貧血とか、そういう可愛らしいのは言えないのか、この女は。
 けど……亜弥子がここまで取り乱しているってことは、私は相当青い顔……あるいは赤い顔でうずくまっていたんだろう。
 それを踏まえた上で心配してくれているなら感謝この上ないが、どうにもそうは思えないところが、亜弥子の人徳の無さを物語っている。
「何でもないわ……ただ、前に亜弥子に刺された横腹の古傷が疼いただけよ……」
「いつ刺したってのよ誰がっ!? それにあんた、そんな皮肉言うためにわざわざ苦しがってる演技してるようには見えないわよ!?」
 とりあえず最初に突っ込みを入れるのは忘れずに、亜弥子は私の額やら頬やらに触れてきた。
 私は彼女の手をのけて立ち上がり……立ち眩みで視界が揺れたが……、ゆっくりと歩き出した。よろけた拍子に、肩が壁にぶつかったりもした。
「あ! 待ちなさいよ、優歌っ! 大丈夫なの!? 鞄取ってきてあげるから、もう少し休んで……」
「……ありがと」
「そうそう、人の親切にはそうやって素直に感謝しとくのが常識っていうか法則っていうか……て……え?」
 と、亜弥子が絶句するのが聞こえた。私は振り返らずに、そのまま教室を後にした。
 ……人の親切にはそうやって素直に感謝しとく……
 ま、確かにね。

 翌日、神楽はいつも通りに学校に来ていた。
「おはよう、羽鳥さん」
 相変わらずの爽やかな笑顔で、そう話しかけてくるその男。それとは正反対の素顔を仮面で覆っているその男。
 神楽祐一、その男は。
 ……私と、同じ目をしていた。

           ≪つづく≫



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