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Original Novel
NODOAME Presents



歌姫


第9話

宮代加奈子



 目の前にいる相手がどんな人間なのか分からないときは。
 他人の情報に頼るな。自分で考え、感じて、それから判断しろ。
 ……というのが、私の持論であったはずなのだが。
「羽鳥先輩っ! 慰謝料はまだかですぅっ!」
 分からん。こいつだけは、どんなに冷静に考え、感じたところで永遠に理解できないかもしれない。
 やはり時刻は、昨日と同じ昼下がり。冬の晴れ空を眺めながら食後のミルクティーをすすっていたときのこと。
「ここっ! ここですぅっ! 先輩のかかと落としでなんだか陥没したみたいになってるんですぅ!」
 教室の外で、教科書を丸めて作ったメガホンなど口に当てながらやたら非難がましく叫んでいる昨日の女の子。
 ぎりっ……
 というその音は、私が無意識に噛み締めた歯がストローを擦る音だった。
「もし脳内出血起こしてたらどーするですぅっ!? ましてそれで私が死んだとしたら、先輩は人殺しさんですぅ! 人殺しは嘘つきの始ま
りであるがゆえにこの桜吹雪が見えねえかが始まるから、どー足掻いても結論は慰謝料に至るですぅ! とゆーわけで慰謝料払えですぅっ!」
 考えるが早いか……
 私は、椅子を蹴って席を立っていた。まだ中身の残っているパックを床に投げ捨ててさらに踏み潰すと、そのまま教室の外へと足を向ける。
「あ、あの……羽鳥さん……っ?」
 弁当と箸を手にしたまま、結賀さんが無理に笑みなど含めた声でぎこちなく呼んできたが、無視。
「ようやく払う気になったですか? ちなみに利息は『といち』で加算されていくのでよろしくですぅ」
 女の子がそう言い終えたすぐ後に、私は彼女と対峙していた。
「やかましい」
 それが叫びであったのか、囁きであったのか……
 なんにしろ、そこからの私の行動は迅速だった。
 大きく前に踏み込み、体重の全てをそこに預ける。そしてそれを軸に私は身を翻し、同時にもう片足を振り上げる……この瞬間、踏み込みの足への荷重が拡散し、やがて一点へと収束する!
 ずばんっ!
 私の放った後ろ回し蹴りは、まともに女の子の顔面を打ち据えていた。
 悲鳴すら上げる間もなく、女の子は床に叩き付けられ、そのまま廊下の端まで吹っ飛んだ。何やら血痕らしきものがその軌跡を辿るように
して落ちていたが、それは血じゃない。もしそれを血だと言うような奴がいるとすれば、きっと色覚障害者に違いないだろう。
 私は素早く周囲を見回し……人気が少なかったことに安堵の息を漏らしつつ、
「この保坂亜弥子を誰だと思ってるの!? 保坂亜弥子よ! 今度こんな保坂亜弥子ナメた真似したら保坂亜弥子鼻っ柱砕く保坂亜弥子くらいじゃすまないわよ保坂亜弥子!」
 足早に私は床に転がっている女の子の元へ歩み寄りながら、とりあえずそう叫んだ。微妙に声を変えたりもしておく。
「さあ、とっとと心優しい羽鳥優歌さんに保健室に連れて行かれるがいいわ! そして二度とここには顔を出さないことね! いくら心優しい羽鳥優歌さんがやめてあげてそんなのかわいそうじゃない的に泣きながらお願いしようと今度来たら殺すわよ保坂亜弥子!」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇっ!」
 聞き慣れた絶叫が、私の鼓膜を震わす。だが気のせいだろう。
 私は女の子の襟首を掴むと、そのままダッシュで廊下を駆け出した。そして、適当な角に入り込む……と、ちょうどそのとき、
「保坂ぁぁぁっ! 貴様、とうとうここまでやるようになったかっ!?」
「はあうぅぅぅっ! 違いますぅぅぅっ! 悪いのはみんなあの天然テロリストくそ女なんですぅぅぅっ!」
 私の叫びを聞いて現場に到着した先生が、真犯人亜弥子に凄絶な怒声を浴びせるのが聞こえた。
 ……こんなとき信じてもらえないとは、なんて人望薄いんだろう。さようなら、亜弥子ちゃん。

「で?」
 顔面を凄惨なまでに赤く染めた女の子に、私は手摺りに背中を預けた姿勢で短くそう尋ねた。
 肌を刺す……というよりは、その内にあるものを奪おうとしているかのような冬の冷たい風が吹き抜ける屋上に、私たちはいた。
「その態度はないと思いますぅっ! 人のことを思い切り蹴り倒しといて自分は質問するだけなんて、慰謝料でもなければ許せませんっ!」
 ハンカチを持っていないのか、制服の袖口で顔を拭きながら女の子はそう喚いてきた。
 だが、私はもうそんなどうでもいい話に付き合うつもりなど毛頭なかった。再び、口を開く……今度は、低く抑えた声で。
「慰謝料がどうのこうの言えるんだったら、自分の名前を名乗るくらいの常識は知ってるわよね?」
「あーっ! それ、先輩にだけは言われたくないですぅっ! 初対面でいきなり私のこと騙そうとしたくせにぃっ!」
「初対面で騙したくなるよーな印象だったのよ!」
「それって限りなく遠回しに人権踏みにじってませんかっ!?」
「身も心も踏みにじられたくなかったらさっさと名乗れってのよ!」
 いつしか叫んでいた私は、さらにいつしか彼女の肩をがくがくと揺さぶっていた。彼女の首が前後に激しく振れるのが、見てて気持ち悪い。
「あううっ! な、名乗るりましる〜っ! みなひろかはこへぐっ! いあああああうあああっ!?」
 どうやら名乗っている最中に舌を噛んだらしく、彼女が涙を流しながら絶叫する。
 私がぱっと手を離してやると、彼女は自分の口元を押さえてうずくまり、う〜う〜、と唸った。
 うあ……ちょっとやりすぎたか……?
 と、私が心配していると……彼女はいきなりすっくと立ち上がり、口を押さえたまま、
「はふふるでふぅっ! ほひほへへわはひはひんははいひゃひょうひゃふひまへんひょっ!?」
「分からん分からん」
 憮然と、私は手をぶんぶん振って見せた。慰謝料がどうこう言っていたように聞こえたが、それは無視しておく。
 女の子は自分の舌に指先で触れつつ発声練習などしてから、改めて喋りだした。さすがに今のは自分でも無理あると思ったか。
「……二年十組、宮代加奈子ですぅ。友達からは、かなちゃんて呼ばれてますぅ」
「じゃあかなちゃん。次は、そもそも私に何の用事があったのか、短く分かりやすくダイレクトに説明してちょうだい」
「やっぱりごめんなさいお願いですから加奈子と呼んでください先輩だけはかなちゃんと呼ばないで」
 珍しくはきはきと、しかし棒読み口調で、女の子……かなちゃんこと加奈子は首を振って見せてきた。
「でも、先輩が用件を聞こうとしないで私をどつきまわすから話が変な方向にそれちゃったんですよぉ。慰謝料は別ですけど」
「まだ言うかっ!? はっきり言っとくわ。私はあんたみたいなわけわかんない奴とは付き合ってたくないの。だから早く用件だけ告げて、とっとと帰れってのよ」
「あ、そんなこと言って縁を切ろうったってそうはいきませんよぉ。慰謝料は人の縁よりも深いんですぅ☆」
「ああああああっ! この馬鹿はどーしてまともに会話できないのっ!?」
 業を煮やした私は力の限り絶叫しながら加奈子の髪を掴み寄せて、自分の姿勢を低くし、相手の胸元からその顔を睨め上げた。
「痛い痛い痛いっ!? はううっ! わかりましたぁっ! 用件っ! 用件話すですぅっ!」
 目尻に涙など浮かべながら、加奈子が必死の顔で言ってくる。
 今度は突き放すように解放してやると、彼女は乱れた髪を撫でつけながらぶつぶつとうらめしげにつぶやいた。
「……ヤクザでもここまでやらないですぅ。生物蹂躙兵器標準装備仕様暴漢……いや、暴婦ですぅ。略して殺戮ちゃん……」
「それが真実であったとしても、私は一向に構わないのよ」
「は、はいですぅっ! きっちりきっかり五秒以内に説明完了予定っ! げっとれでぃごーですぅっ!」
 壊れかけのオルゴールがいきなり高速回転を始めたかのようにそう言い放つと、加奈子は上着のポケットから一枚の紙を取り出した。
 いや……それは写真だった。大きさから察するにポラロイドだろう。
 とにかく彼女はそれを私の顔の前に突き出すと、何やら得意げに語り始めた。
「写真部のスクープメーカーとは私のことですぅ☆ 全校生徒はもちろん、先生や学校に携わる役員さんたちまで、ありとあらゆるスキャンダルが私の手腕によって暴かれてきたですぅ。これは伝説として語り継がれてしかるべきだと、現在生徒会と交渉中……」
 スクープ『メーカー』という部分に何か引っかかるものを感じたが、そんなことはどうでもいい。その説明が五秒を超過していたことも。
 彼女の言葉も、もはや私の耳には届いていない。
 空虚なものを見るような心持ちで……不快な熱さが胸にこみ上げてくる中で。
 目の前の写真に、映っているもの。
 私の目は、それだけを捕らえていた。

「僕が恋をしたのは、君だよ。羽鳥さん」
「だから、僕を感じて」
「いずれ、またふたりきりになれるといいな?」

 ……闇の底というのがどんなものなのか。
 視界の及ばぬ黒の深みの底は、本当はどんな色をしているのか。
 それを見てしまった罪に、裁かれるのを待つだけの囚人のような、そんなどうしようもない気分になって……

 私は、堕ちた。
                                               ≪つづく≫



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