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Original Novel
NODOAME Presents



歌姫


第19話

そして楽園の扉を叩く



「おっはよぉう! 今朝も破壊的に、肌刺す冷気現役稼働中っ! っぅいねぇ! 冬って要するに殺人的! 思うのよ最近!」
「勝手に思ってろ」

 …………と、まあ三秒で朝の挨拶は終わったわけだが。

「ああ、寒い……もう少しかまってよー。寝床を共にした仲なんだからさー」
 と、寂しさすら含んだ甘えた声で……いまいち分からないが、とにかくそんな感じで……、亜弥子が制服に着替えながら言ってくる。
 私はと言えば、既に着替え終わっていた。寝不足で、脳にまだ白濁したフィルムがかかっているようだったが、我慢できない程ではない。
「今にして思えば……そう、後悔しているわ……亜弥子がまさか、あそこまで寝言の多い奴だったなんて……」
「えっ!? 嘘っ!? 私、なんか言ってたっ!?」
「嘘よ、馬鹿。猿並み程度には、物事を疑うって知恵はあるでしょうに」
「……ふっ、危うく、忘れるとこだったわ……あんたってそういう奴よ……ふふ……」
 妙に悟ったふうに……というよりは、人生に疲れたといったような声で、亜弥子がつぶやいたのが聞こえた。
 確かに彼女の言うように、朝の空気は冷たかった……人間の身体は気温以上の熱があるはずなのに、どうして寒さを覚えるのか。考えたことがなかったわけではなかったが、いずれにしても馬鹿馬鹿しい疑問ではある。重力はなぜ、柔らかいものを押し潰さないのかと言っている
のと同義だった……いや、むしろそちらの方が愚問か。
 私は机の上の鞄を取り、部屋を出た。「待ってよー」と、亜弥子が慌てて追いかけてくるのが気配で知れる。
 ……人は、どうして寒さを覚えるのか……
 階段を降りながら、私は先の問いを繰り返していた。思わず、苦笑が漏れる。愚かな問いだ。そう、愚かな……
「そんなのはただの偶然よ」
「……何が?」
 後ろから亜弥子が訊き返してくるが、私は構わずに階段を降り続けた。

 リビングには、父と母がいた。食卓の上には、朝食が並べられている……漂う芳香に、内臓が蠢くのを感じる。
「おはよう、優歌」
「あら……お友達が来ていたのね。道理で珍しく騒がしいと思ったわ」
 二人はほぼ同時に声をかけてきた……が、実際に頭に残ったのは母の言葉だけだった。
 既に席についている父は、読んでいた新聞を閉じて、目の前の食事に着手した。彼のこういうところは、尊敬できた。
 エプロンで濡れた手を拭きながら、母がこちらへ……正確には亜弥子の方へと向かい出す。
「おはようございます、すみませんでした、昨晩は勝手にお邪魔してしまいまして……」
 亜弥子はそう恭しい口調で挨拶し、すっ……と優雅な仕草で頭を下げて見せた。
 ……まあ、私は気づいていなかったわけではないのだが。
 母は亜弥子の挨拶に軽く笑顔で返すと、彼女の胸元に手を伸ばした。
 亜弥子は内心、困惑していただろうが、あくまでも『お嬢様』の姿勢を崩さない。
 そして……母が、告げる。
「優歌も、少しは待ってあげればいいのにね」
「……は?」
 間抜けな声で訊き返す亜弥子。導かれるように、母の手元に視線を落とし……
 次の瞬間、『お嬢様』が脆くも崩れ去った。
 ばっくりと豪快に解放されたブラウスの前面。胸元どころではなく、下着までも露出してしまっている。
 母は丁寧な手つきでブラウスのボタンをとめてあげながら、小首を傾げて微笑んだ。
「女の子なんだから、こういうことは気を付けていかなくっちゃ。ね?」
「はっ……はいっ……」
 まるでのぼせたように顔を真っ赤にして、亜弥子はうなずいた……横目でこちらを恨みがましく睨んできていたが、無視する。
 大体にしてからが、スカートから穿いたりする奴が悪いんだ。上から着ていけば、いくら急いでたってそんなことはあり得ないのに。
「じゃあ、もう一人分、用意しないとね……えっと……」
「あ、保坂です。保坂亜弥子……」
「保坂さん、今からだと卵焼きくらいしかできないけれど、食べていく?」
「はい、ありがとうございます」
 と、空いた席に座る亜弥子。私も、密かにため息など漏らしてから、自分の席につく。
「ふふ……でも、なんだか嬉しいわね。優歌がお友達を連れてくるなんて」
 ボールに卵を割って中身を落としながら、母が独白めいた口調でそうつぶやいたのが聞こえた。
「女の子の親って、色々大変だろうと覚悟してたんだけどね……ほら、優歌って見かけによらずしっかりしてるでしょ?」
 見かけによらずってなんだ、コラ。
 ……というような口が利けるはずもなく、私は黙々と目の前の食事に取りかかっていた。
「でも……いつも寂しそうだったから。それだけが心配だったのよ」
「寂しそう……ですか」
 亜弥子が確認するように繰り返しながらこちらの顔を一瞥してくる。
 ……貴様……
 口の中のものを一気に飲み下し、横目で思い切り亜弥子を睨んでやる。すると彼女はすぐさま、母の方へと向き直った。
「お父さんとね、話してたのよ……私たちが死ぬまで、できる限りこの子の力になってあげたいなって」
 じゃっ!
 ……というその音は、熱したフライパンに油を注いだ音だった。水気を帯びた破裂音。そして誰かの呼吸する音。
「いつか、この子を救ってあげたいなって」
 沈黙に耐えられなくなったわけではないだろう……むしろ感慨に後押しされたように、母がつぶやく。
「ね? お父さん」
「……うむ」
 母の同意を求める声に、父が返した返事はそれだけだった。後は、ただ食事に没頭する……
「ほんと、あなたって昔から照れ屋さんなんだから……ごめんね、保坂さん。こんな話しちゃって……」
 と、微笑みかける母に、亜弥子は少し恐縮するような笑顔でうなずき返した……いや、あるいはこれもただの照れ笑いか……
 なんにしろ……会話は、そこで途切れた。
 油の弾く音……箸が茶碗にぶつかる音……呼吸音……椅子が軋む音……沈黙の音……無いに決まっている音。
 これは……報いなのかもしれないわね。
 ……それを思い浮かべて、ようやく苦笑できる。
 ここにいることが罪。世界に私を維持し続けることが罪。
 贖罪など……できはしないのだ。
 そして沈黙は、母の独り言で終焉を迎える。
「……いつか、ね」

 
 
 雪でも降りそうな雲模様だった。
 冬の風は充分に凶器となり得る。耳と指先に耐え難い痛みを覚えながら、私たちは学校へと向かう。
 ……と、思い出したように亜弥子がつぶやく。
「狂気の沙汰よねー」
 確かに。
 胸中で私は同意しながら、唇の端を歪めた……そりゃ、笑みだって洩れるさ。
 敵の巣窟にわざわざ制服を着て通い続けるというのも、構図だけを取って見てみれば、むしろ笑えるものがある。
 だが、こちらとしても目的はあった。
 あくまでも生徒として学校に通い続け、隙を見て『弓』を奪回する。または、『彼女』の居場所を突き止める。そのためにはもうしばらく
あの学校の生徒でいる必要があった。
 さすがに白昼堂々と仕掛けてはこないだろう。それはこちらにとっての強みでもあった。
「連中を出し抜くには、これしかないわ。敵が私と同じ力を操る以上、まともに相手にするわけにはいかない……」
「『弓』を探して、教頭先生たちより早く『彼女』を射る……てわけね?」
 ……刹那の躊躇。
 正確な解答が脳裏を駆け回り、言い訳が白い布に色水を浸したように答えを浸食していく。
 結局、口から出たのは嘘だった。
「……そう。連中より先に、私が主にならなきゃならない……この世界に神は必要ないのよ」
 後ろめたさが胸を締め付ける……同時に、それは恐怖でもあった。
 ……バレたら、どうすればいいの?……
「大丈夫。亜弥子には……危険な目に、遭わせるようなことは……」
 失敗した……と、私は胸中で自分の言動を呪った。
 さすがに見抜いただろう。亜弥子は深く息をつくと、
「なーに難しい顔してんのよー。似合わないぞっ?」
 たっ、と私の前に飛び出して、くの字に腰を折った姿勢でこちらの顔を覗き込んでくる。いや、それこそ似合わんと思うが……
「私のことなんて関係ないでしょ? 優歌は今まで、そのために頑張ってきたんだから」
 と、人差し指でこちらの顎下を突いてくる。その指先が、冷たかった。
「やりたいようにやればいいのよ。ね?」
 ……私は。
 ただ笑うしかなかった。

 
 
「おはよー」
「あ、おはよー」
 教室に入ると、いつもの朝の挨拶が飛び交った。みんなの笑顔は屈託ない。みんなの言葉に罪はない。 ……これを奇跡と呼ぶのかどうか分からないが。
 昨夜の悲劇がまるで本当に何かの演劇であったかのように、校内はいつも通りの様相を見せていた。
 少なくとも……外面上は。
「なーんだ、いたってふつーじゃない。この分じゃ、今日は平穏に終われそーね」
 気楽に、鞄を持ったまま頭の後ろで手を組み、亜弥子がつぶやく。
 私はその言葉に適当にうなずいたりして見せながら、自分の席に座った……鞄を机の上に置きながら、横目で隣を見やる。
 結賀さん……やっぱり来てない。
 それはそうだ。正体を明かしてしまった今、ただの生徒を装ったところで意味がない。
「ねぇ、羽鳥さん」
 と……不意に背後から声をかけられて、私はぎょっとして、思わず身をすくめてしまった。
 ゆっくりと、振り返る。
「今日、羽鳥さんが日直だったよね?」
 ……クラスメイトの一人だった。名前は覚えていない……だが、顔には見覚えがあった。確証はないが。
「早く学級日誌取って来なきゃ……もうすぐ先生、来ちゃうよ?」
「ええ……分かったわ」
 微笑んで……うまく笑えたか自信はないが……私は、席を立って教室の外へ向かう。
 ちょうど、亜弥子が自分の机に鞄を置いて、こちらに向かってきていたところだった。すれ違いざま、私は彼女の耳元で告げた……
「もし、何かあったら……いいわね?」
「オッケ。私だって死にたいわけじゃないもの」
「そのときは、駅前で待ち合わせましょう……じゃ」
 そして、教室を後にする。

 
 
 理論上から言って。
 一度死んだ人間が生き返ることなど、有り得はしない。
 それからもう一つ、これも理論上から言って……
 一度生じた事象を、なかったことにすることも決して出来ることではない。
 だが今、この世界に、それらの事実は存在していない。
 廊下の窓から、空を見渡す。
 雲。その隙間から差し込む、光の槍。その果てに空虚。その中にも世界。
 根を下ろす大地もなく、仰ぐべき空もなく……ただ見下ろす自分の足下。
 だが、そこには何もないのだ。
 それを、有ったことにできる奴がいる……有りもしない存在に、概念を与えられる奴が……
「アリス=リアルライズ……」
 思わず、口にしたその名前。
 あの少女が、人間が生み出した神なのかどうか分からないが……ただ一つ、はっきりしていることがある。
「あの少女は……」
「神には、なれなかったのだよ」
 唐突な……あまりに突拍子もないその声に、私は心臓が爆発しかけたのを、比喩ではなく、本当にそう感じたことを自覚していた。
 視線を、正面に戻す……動かした眼球が空気に触れる痛みを感じたような気がした。
「戌井……教頭」
 老紳士が、廊下の行く手に立ちはだかっていた……当人に障害となる意志など無かったにせよ、私にとっては意味のないことだ。
 他には誰もいない。私と、この男だけ……
「皆、神にはなれなかった……あれとて例外ではない。朽ちた命は時の数だけあると言えよう」
「ただの殺人を、神聖視して言わないでくれる?」
「それを言うなら、君こそそうだろうな。堕落した神の使徒……かの天使が魔王と呼ばれたように、魔女と苛まれた哀れな君だ」
「…………」
 言い返そうした言葉が、反芻するように再び肺の中へ戻っていく。そうだ、事実に言い返すことなど出来ない……
 戌井が、怜悧に細めた眼差しを遠くへと向ける……夢想でも描いているのか、そんな遠い目を。
「アノニマリス=ヴァルキュリア。人間で最初に世界の真実を知った女の名だ」
「……アリスの幻影に出てきた、あの女ね」
「見た、のか」
「ええ。否応なしにね。あんたが、その女の意志を引き継ぐ者だってことも」
 瞼は細めず、眼光だけを鋭くして、私は言い放った。頭の中では、いつでもこの男を消し飛ばせるだけのイメージを浮かべておく……
「人間を神へと人為的に進化させる、ヴァルキュリア計画。馬鹿げた話よ……はっきり言ってあげるわ。そんなことは不可能よ」
「私もそう思っていたよ。十八年前……あれを見つけるまでは」
 戌井の視線がこちらへと収束する。そしてなめらかな挙動で、口元の髭に指を添える。別に気持ち悪かったわけではないだろうが。
「神を見つけたのだと……当時の私は歓喜の声を上げていた。だが、違うのだよ。あれは、違う……」
「アリスね……あれは、一体何だというの……」
「つまり、我々も君も、神という存在を誤認していたということだよ」
「世界のシステムは創造主である『彼女』が定めたものよ。人間はどの世界にも存在した……生物は確かに滅びまでの時を歩んできた!」
 無意識に激昂してきた私は腕を振り、一歩前に足を踏み出していた。靴の裏が床を叩く音が、不気味なほど廊下に響き渡った。
「物質だってそう!『彼女』がその存在を創造しなければ、この世界には存在しなかった!」
「……だろうね」
 あっさりと……呆気なく、戌井がうなずく。
「それがこの世界の全てだ。ユミルの夢……オナニズムの極みだよ」
「楽園の主は『彼女』一人! 私もあんたたちも、『彼女』に願われなければ生まれて来なかった……」「では、誰がユミルを生んだのだ」
 身体の脈動が、ぴたりと止まったのを自覚する。死すらも連想させる危険な悪寒が、迅速に体温を奪っていく。
 私の腕が、だらん、と両脇に落ちる。膝が震えているのに対して、足の指先は異常なまでに緊張していた。身体が揺れているわけでもない
のに、頭がブレているような気がする……唇が水分を欲しがっていた。
 ……誰? 何、が?
 しばしの沈黙の後、きびすを返してこちらに背を向けながら、戌井が口を開く。
「君もたまには概念を崩して物事を考えてみたまえ……それで得られるものは少なくない」
「あんたはっ!」
 戌井の背中に向かって、私は激しく叫んでいた。
「あんたは……『彼女』を殺してどうするつもりなの」
「知っているかね。願いというのは、時として愛さえも破綻させてしまうものなのだよ」
 こちらを振り返らず、答えだけを残して……彼は去って行った。
 私はその場に立ちつくし、必死で全身の緊張を解いていった。意識的にそうすることは決して容易ではなかったが……
「……神……」
 独りごちる。言葉だけ取ってみれば、それは確かに絶対的ではあった……だがいずれにせよ、馬鹿馬鹿しい。
 有るはずがない……有るはずがないわ。

 キンコンカンコーン……

 ……やがて、始業のチャイムが鳴る。耳に響き、身体を伝わり、彼方へと消えていく……
 ふと。
 私は違和感を覚えて、顔を上げた。何か、足りない……いつもと、何かが違う。
 ……て、足りない?
 足りないって、今、確かに思ったわよね?
 そうだ、足りない!
 生徒たちが、起立するときの音が!
「始まったのね……!」
 私は思うが早いか、廊下を駆け出していた。

 
 
 教室の戸を開くと無数の槍が……
 視線の槍が、こちらを突き刺していた。
 まるで全員が起立した瞬間に時間が制止したかのように、各々の席の横に立つ生徒たち。その虚ろな眼差しが、こちらを向いている……
「記憶……操作」
 愕然と……いや、むしろ呆けたような心持ちで、私はつぶやいていた。
 どの生徒の顔にも、感情はない。人形の方が余程、喜怒哀楽が表現できているのではないかと思わせるほどの、無気力な表情。
 恐らく、こんな状況になっているのはここだけではないはずだ……少なくとも、学校内の特定の人物を除く全員が。
 集団をまとめて記憶操作するというのは、決して不可能ではない。だが、可能でもないのだ。
 それを、これだけの人数……約千五百人ほどの人間を一気に操るとなると、可能とか不可能とか、そういう次元の問題ではない。
 つまり、『有り得てはならない』。
「亜弥子っ!」
 その名を呼んでも、返事はない……敵の術中にかかっているとすればそれは当然だろうが、教室の中に彼女の姿は見あたらない。
 逃げた……と考えていいのね?
 私は胸中で、自分に言い聞かせるように確認すると、きびすを返して教室を出ようとした。
 と……行く手に、無数の生徒が立ちはだかっていた。恐らく、全校生徒。私を逃がさないためだろう。「……邪魔よ」
 私のその声が届いているはずもなく、少女たちはふらふらと……だが毅然とした足取りで、こちらへと歩み寄ってくる。
「柱……柱ぁぁぁぁ……」
「殺して……殺して……殺して……」
「ああああ」
 後ろからも前からも。昨夜もつぶやいていたような言葉を発している。
実は先程から、彼女らに施された記憶操作を解除しようとしているのだが、一向に回復の兆しは見えなかった。
 考えられる原因は二つ。私よりも強い力で操作されているのか……あるいは、本人らの意志か。
 ……いずれにしても。
「どけぇっ!」
 脳裏で描いたイメージを、一瞬で世界に具現化させる!
 ばんっ!
 鼓膜の奥に唸りを残すほどの爆音と共に、正面……廊下側の生徒がその音に弾かれたように後方へと吹き飛ぶ。
 私は即座に廊下へ飛び出すと、一気に廊下を駆け抜けた。生徒たちが追撃してくるが、かまっているわけにはいかない……
 これは時間稼ぎだ。
 私は何の根拠もなく勝手にそう決めつけていた。いや、半ば確信していた……ここで彼女らの相手をしてはいけない。
「亜弥子っ……」
 私は、学校を飛び出した。

 
 
 街は静かだった……
 静寂という定義があるとするならば、その全ての条件を満たした状態というのが、まさにこれであると言えた。
 誰もいないわけではない。駅前には人がいるし、交差点には何十台と車がある。ビルの外壁にはめ込まれた巨大なモニターでは、朝のテレ
ビ番組が流されていた。ついでに言えば、とても面白そうな内容ではなかったが。
 そう。少なくとも駅前は、賑やかだった。
 ただし、賑やかという定義があった場合、この状態は一つ以上の条件を満たしてはいないが。
 学校の生徒たちのように。
 ただ何をするわけでもなくその場に佇み、虚空を見据えるその眼差しで、私を射抜いてる人々。
 サラリーマン。OL。交通整理中の警官。これから遠足にでも行くのであろう、小学生たち。露店の店員……売り物のお好み焼きは焦げて
いるようだった。道路のいたるところで停車している車の、窓から覗く視線の群れ。電信柱の上の鳥。
 ……こちらを、見ている。
「記憶操作……ではないの?」
 今度こそ私は愕然と、冷や汗を拭いながらつぶやいた。
 日本中か、世界中か……少なくとも私の視界が届く範囲内の人間が、躁鬱状態に陥っている。こんなことは、理論的に有り得ない……
 やはり……本人たちの意志なのか?
 と……
 風の流れか空気の流れか。どちらでもいいが、ふとこの状況に似つかわしくないような違和感を覚えて、私は周囲を見回した。
 視線が止まったのは、ビルの外壁のテレビモニター。ワイドショーで、有名政治家の汚職疑惑がどうこうとかで、リポーターが一生懸命に
状況を伝えているといったような、そんな内容の番組だった……だが、そんなことはどうでもよかった。
 これは、生放送ではないのか?
 だとしたら、私は……
「……誘き出されたってわけね……」
「さすがにここまで来れば気づくと思ってたわ」
 人混みの中から……悠然とした足取りで姿を現したその女は、苦笑など漏らしながらそう告げてきた。
 結賀織依。
 右手に、昨夜も使っていた空間で作り上げた黒い長剣が携えられている。
「柱が完成したの。もうあと少しで、戌井先生の悲願が成就する……だから、羽鳥さんには学校には居て欲しくなかったの」
「ハッタリね」
「どうしてそう思うかなぁ?」
「まだ私が殺されていない」
 私のその指摘に満足したというわけではないだろうが……
 結賀さんは輝かせるように顔に微笑みを浮かべると、首を傾げて淡々と答えてきた。
「羽鳥さんはもういらないの。代わりが見つかったから」
「代わり……ですって?」
「確か羽鳥さん、学校の生徒名簿を見たんだったよねぇ? 生徒会室のパソコンで」
 唐突に関係ないことを言われて、私は戸惑った。嘘をつく必要もないので、とりあえずうなずいて見せる……
「生徒の名前の横に、アルファベットってなかった?」
 結賀さんの言葉と同時に、頭の中に鮮烈にそのときの光景が蘇ってくる。
 大海の中心で怒り狂う激流の渦の中から、巨大な岩が地震と共に浮上してくるように……
 思い出した情報は、そのとき実際に見たものと寸分違わぬ自身があった。
 そう、確かにあった……AとかBとか……私と神楽の横にだけ、なぜかZがあって……
 ふと。
 折角、浮上した岩石が雷に打たれて砕け散ったように。
 そして岩の中から死神が蘇ったかのように。
 危険な、苦い可能性を、絶対的な確信を以て思い浮かべていた。
「……候補者……」
 私は、吐息に近いうめき声を漏らした。結賀さんが、あっさりとうなずいたのが見えた……
「神楽君以来よ。きっと、羽鳥さんと長く一緒にいたせいね」
 結賀さんが、すっ、と姿勢を低くし、斜め下に刃を垂れ下げるといった形の構えを取って、鋭くこちらを見据えてくる。
「絶対とは言い切れないけど、戌井先生は確信しておられるようだわ……だから、もうあなたは必要ないの」
「へぇ、そうなの」
 軽く、気のない返事をして、それを吐息代わりに、私は思い切り前方に足を投げ出していた。
 踏み出し。足をスライドさせ、全身を動かすのではなく、移動させる感じで。
 踏み込んだ瞬間、さすがに私の唐突な行動に驚いたのか、結賀さんが慌てて剣をこちらの首筋を狙って跳ね上げてくる。
 最初の踏み込みはフェイント。私は素早くその足を後方に引いて、上体を後ろにそらした。眼前を、相手の剣の切っ先が通り過ぎていった
のが見えた。
 一度、かわされた武器は立て直しが難しい。私はその一瞬の間に、今度はちょうど結賀さんの足下に踏み込んだ。まだ、攻撃はしない。
 武器を構え直すために、結賀さんが斜め後ろに跳び退った。私はそれを追う形で、踏み込んだ足をさらに前方に滑らせ、結賀さんの右足の
内側に差し込んだ。そのままこちら側へと足を引き寄せ、相手の右足を刈る。
「わっ……!」
 結賀さんがうめくのが聞こえた。声を発したが最後、彼女の集中力はその瞬間、皆無に等しくなる。
 体勢崩して倒れかけたところを、結賀さんはなんとか踏みとどまったようだった。
 だが私は既に、身体を移動させて、彼女の胸にこちらの左肩を押し当てていた。
 そして、一瞬の力の破裂。
 私は左足で相手の左足を踏んで動きを封じてから、密接上体から彼女の脇腹を左拳で突いた。
 脇腹の痛みと、後方に倒れる自分の身体を支えられないことへの危機感が入り交じった表情が、結賀さんの顔に浮かぶ。
 成す術なく、背中から地面に倒れる結賀さん……彼女が地面と接触する寸前、私は右半身を前方へと反転させ、同時に振り上げた右足を、
彼女の胸に突き下ろした。
 ごきんっ……!
 骨が、へし折れた音。そして目を剥いて、今にも叫び声が出てきそうなほど大きく開けられる口。
「ぎ……いああああああああああああっ!」
 彼女は絶叫した。
 私は結賀さんの胸を踏みにじりながら、怜悧に細めた眼差しで彼女を見下ろしながら、つぶやく……
「悪いけどね」
 続いて彼女の右手を踏みつけ、手にしていた剣を放させる。苦悶に歪んだ彼女の表情が、さらにひきつる。
「あの馬鹿に何かあったときは、あんたら全員を殺すくらいの覚悟は決めてたのよ」
 実を言えば、ついさっき決めたのだが。
 なんにしろ……
 人を殺すのは、今日で最後だ。

                                               ≪つづく≫



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