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Original Novel
NODOAME Presents



歌姫


第22話

どうか苦しまないで



 
 
 死にたい……
 死にたい……
 死にたい……
 死にたい……
 ……もう、嫌……
 助けてなんていらない……誰とも喋りたくない……誰にも触れられたくない……
 ……もう、嫌……
 死にたい……
 
 
 
 暗い廊下は、どこまでも続いているかのように思えた。
 この世界が物質で構成されている以上、そんなことは有り得ないのだが、錯覚はその瞬間時においてはどのような理論すらも覆す。
(歩くことは……決して苦痛ではないけれど)
 優歌は苦々しく、胸中でうめいた。
 そうだ。歩くのは苦痛ではない。進むことこそが苦痛なのだ。
 ただ確かなのは、この先に必ず何かがあるということだ。
 その確かなものが、今は苦痛に感じる……
(何故……そう思うのかしら)
 ……ただ漠然と数えるならば、彼女は幾多もの苦痛を味わってきた。
 身を叩かれる痛み。肌を焼かれる痛み。信頼を裏切られる痛み。言葉に心を刺し貫かれる痛み。見られる痛み。触れられる痛み。痛みに喘いでまた痛む痛み。そして……壊れる痛み。
 そこにある苦痛がどんな形のものか分からないが……
(それでも、私は見なきゃならない)
 たとえそれがどんな形であったとしても、結果であることに違いはないから。
 
 
 
 死にたい……
 もう嫌……もう嫌……もう、嫌……
 誰か……お願いだから、誰か……
 ……殺して……
 
 
 
「羽鳥優歌を……どこへ送ったの」
 あくまでも拳銃の照準を彼から逸らさずに、華苗はそう問うてきた。
 彼……神楽は右手に持っている空間の刃を握り直しながら、淡々と答えた。
「ユミルの部屋さ」
「……あそこにいるのは……偽物だ」
 毒づくようにそう言いながら、華苗は目を細めた。あまりに疲弊したその眼差しは、どちらかと言えば不気味さを漂わせていた。
「あれは、何なのさ? あんなものがユミルのはずがない……」
「さぁね。それを知っているのは戌井教頭だけさ」
「嘘だ! あんたたちのそういうところがむかつくんだよ!」
 唐突に激昂した華苗が、無造作に拳銃の引き金を引くのを、神楽は確かに捉えていた。
 反射的に筋肉を躍動させ、床に身を投げ出す。
 同時。
 ばんっ!
 響いた銃声が、身体の中さえも震わせる。神楽はどこにも痛みが走っていないことを確認してから、素早く立ち上がった。
「ボクは……誰よりも敬虔なはずなのに」
 華苗が、わずかに顔を伏せる……それでもその視線は、神楽を見据えていたが。
「それなのにっ……どうしてお前なんだぁぁぁっ!」
 叫び。そして、再度響く銃声。
 神楽は今度は避けなかった。わざと外したのか、それとも興奮のために狙いが狂っていたのか……銃口は最初から彼から逸れていた。
 はぁ、はぁ、と荒い息遣いで肩を上下させている華苗を、神楽は無表情で見ていた。
 正確には……表情のみで、何をどう表現すればいいのか分からなかったのだ。
 彼は、華苗という女のことを昔から知っていたわけではない。だが、彼女は違う……彼女は、自分のことを昔から知っている。
 神楽祐一のことを、知っている。
「……運命……」
 思い浮かべて……最初に頭の中に浮上してきたその単語を、神楽は思わず口に出していた。
 その言葉に糸を切られたように、華苗がぴたりと全身の動きを制止する。そして、ゆっくりと顔を上げた……
「華苗。お前は運命というのは一体、何だと思う?」
 神楽の問いに、華苗の眼差しが揺れた……戸惑ったわけではないだろう。ただ、それに対する答えを考えたためか……
 なんにしろ、彼女は口を開いた。
「……決して抗うことのできない……全てのヒトビトに用意されている未来だよ」
「未来は誰にも用意されていないし、抗えない明日なんて存在しない。運命っていうのは……」
 答えかけて……神楽は苦笑した。こんなことを今更話している自分がおかしかった……全て今更だ。生まれた瞬間から今更だ。
 今更な彼は、今更な答えを吐き出した……
「何も無い世界のことさ」
 
 
 
 何でもできると思っていた。
 やりたいことは、いつでもできると思っていた。
 願いは、必ず叶うものだと思っていた。
 ……いつかは、幸せになれると思っていた。
 
 でも、本当は……
 
 
 
「何……これ」
 優歌は唖然と、声を漏らした。有り得ないものが、そこにあった。
 長い通路の果てには、広間があった。礼拝堂とはまた違う意味で、そこは広かった……あそこの広さには少なくとも意味があったが、ここにはそれが無い。ただ単に空漠とした広さならば、それもよかっただろう……だが、ここは何かが違った。
 広くあっては欲しくない部屋。ちょうどそんな感じだった。
 明かりは正体不明の光源。何が光っているのか判然としないが、まさか松明のはずがない。通気口も何もなさそうなこの密閉された空間で火を明かりに使うのは、愚行以外の何物でもない。
 床から天井の高さは、礼拝堂ほどではないにしろ、かなりの高さがあった。風の流れのようなものは一切なく、ただ冷えた空気が部屋を満たしていた。壁は岩肌のようにごつごつとしているように見えたが、そうではないのは一目瞭然だった……
 ごつごつしているわけではない。何か異質な物体がへばりついているのだ。
 ともすれば、それは植物のようにも見えた。もっと非現実的な表現を用いれば、肉質の触手のような……
 それを認識した瞬間、気のせいかもしれないが、生臭い匂いが鼻腔を刺激していた。
(何なのよ……)
 そのとき身体が震えたのは、恐怖のせいであったのかもしれない。なんにしろ……
 それらは所詮、そんなものに過ぎなかった。
 彼女を本当に呆然とさせたのは、わけのわからない物体だった。
 群をなす背の高い動物のような……それでいてさらに天井と床が逆転してしまったかのような……
 それは、つまり十字架だった。
 広間を埋め尽くす、十字架の群。床から天井へ……あるいは天井から床へ伸びている無数の十字架。
 壁にへばりついている肉質の何かが、それにもまとわりついていた。それこそ長身の生物をプレスか何かで押し潰して作ったような感すら受ける、そんな物体。そして……
 そこに張り付けにされている、全裸の女性たち。
 身体には例の肉質の触手がまとわりついている……彼女たちの膝から下は既に触手と同化していて、ちょうど足から肉が生えているかのような感じだった。同じく、手首から先も肉質のそれと同化してしまっている……
 ただ痛々しかった。
 彼女たちは皆、菱洋学園の生徒のようだったが……中には女性の教師も混ざっているのが確認できた。
(……死体……?)
 そのあまりの静けさに、優歌はそう判断した……が、違う。彼女らは生きていた。
 口をぱくぱくさせて……だが声は出ない……、虚ろに瞳を揺れさせている。
 いや、声は出ている……声は出ている!
「……駄目よ……」
 我知らず、優歌はうめき声を上げていた。自分の両肩を抱いて、震え上がる……
 確かに見覚えのある顔。はっきりと思い出せないが、どこかで見たことのある顔。まったく知らない顔……
 涙に濡れた顔。それが乾いてぱりぱりになった顔。真っ赤な眼。苦痛!
 ……嫌だ。
「ああああああああああああああああああああああっ!」
 絶叫が、周囲にある全てを吹き飛ばしかねない力で放たれる。
 優歌は自分が気づかないうちに叫んでいると思っていたが、違う……叫んでいるのは、十字架に張り付けられている女たちだ。
 無数の……概算でも数百人もの人間たちが、いくら広いとはいえこの密閉された空間で同時に絶叫しているのだ。身体の中を引っ掻き回す
ような衝撃と鈍い痛みに、優歌は思わずその場にうずくまった。頭を抱えて、自分も叫び声を上げてしまう……
(嫌だ!)
 ここは痛い……痛い、痛い!
 肉体と精神、両方の激痛に耐えながら、優歌は胸中で祈りを捧げていた。
 その願いが届いたかどうか知らないが……彼女たちの悲鳴が、収まっていく。
 優歌は顔を上げ……いつの間にか流れ落ちていた涙を無造作に拭い去ると、ふらふらとした足取りでここから立ち去ろうとした。
 ここは嫌だ……壊される。壊される。壊される……
 と……再び、長い通路に足を踏み入れた時……
 背後、つまり広間の方から、自分を呼ぶ声を聞いたような気がして、彼女は足を止めた。
 冷や汗が猛烈な勢いで浮かんでいるのが分かる……優歌はそれを拭おうともせず、とりあえず肩越しに広間の方を振り返った。
 淡い輝きだけが唯一の明かりの広間……無数に立ち並ぶ、女性たちをその身に抱えた十字架たち……
 その中の、一本。
 
「……先……輩……」
 
 聞き覚えのあるその声が。聞き覚えのあるその呼び名が。聞き覚えのある記憶の中のその声と合致して。
 跳ねる胸が感情さえも弾けさせて、彼女は無意識の底に沈んでいった。
 
 
 
 死にたい……
 死にたい……
 死にたい……
 死にたい……
 
 それは祈りだったのかもしれない。言葉が音を帯びて他者の鼓膜震わせてその内容を伝えるように……
 叶わない願いほど、非現実的に思えるものだ。逆に既に叶った願いは、どこまでも果てしなく現実味を帯びている。
 ただ、分からないのは……
 人は一体、誰に祈りを捧げているというのだろう。
 
 死にたい……
 
 ここにいることが苦痛だと思ったことはなかった。
 いや、苦痛だと認識する以前に、全ての感情が虚無へと還ってしまうのか……
 いずれにしろ、ここにいる自分が誰よりも人間らしくないという事実だけが、頭の中も心の中も真実さえも満たしていた。
 ……それでは。
 何故、自分はここにいるのか?
 何故、自分はそうすることを受け入れているのか?
 何故、自分はこんなことになってしまったのだろう?
 何故?
 
 ただ単純に物事を理解しようと思ったならば。
 まず、整理することだ。とりあえず内容はどうでもいい。最も辻褄の合う順番に並び替えることが先決だ。
 
 あるひとつの論理で全て解明されてしまう自分。
 あるひとつの言葉で全て説明されてしまう自分。
 
 ……闇の底というのがどんなものなのか。
 視界の及ばぬ黒の深みの底は、本当はどんな色をしているのか。
 
 問いかけることは簡単だった。
 だからまた、問いかけてしまう。自分に。
 何故、自分はここにいるのか?
 何故…………
 
 死にたい……
 
 どんな世界を、貴女は望むというのだ? クリスミスティ=キャロル……
 
 
 
「……先輩……」
 あなたの顔を忘れたわけじゃない。
 声を、聞かせたいと祈っていたのも事実。
「加奈子……」
 こんな私を見て驚くあなたを、心から見てみたいと思わなかったわけじゃない。
「どうして……どうしてなの、加奈子……」
 答える言葉を持っていないわけじゃない。
 聞いて欲しいから言うの。
「昨日……から、ずっと……この部屋で……私……私……」
「昨日の、夜……ね。戌井に捕まったの……?」
「もうヤダ……痛いの……痛いの……」
 どうか見て下さい。
 こんなにも醜い私を、どうか見て下さい。
「嫌……嫌……嫌……」
 そしてどうか、
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 この苦しみを、あなたも受け取って下さい。
 このみんなの苦痛を、あなたも受け取って下さい。
「……くっ……! 加奈子っ! やめて! 加奈子っ!」
 あなたの苦しみを、どうか……
 どうか、永遠に抱き続けて下さい。
「かなこぉっ!」
 私を呼ばないで……
 こんな私を呼ばないで。
「……先輩……お願い……」
 だから、どうか……どうか、私を……
「私を……殺して……」
 
 
 
「かなこぉっ!」
 優歌は悲惨な思いで、その名を呼んでいた。再び絶叫が満ちた部屋から、彼女は今すぐにでも逃げ出したかったが、身体が動かない。
 彼女らの叫びに呼応しているかのように、激しく蠢く肉質の触手に足を取られそうになりながら、優歌はさらに加奈子の方へ近づいた。
 十字架にその身を抱かれて……苦痛に悲鳴を上げている加奈子。何が苦しいのか……
 その苦痛が、自分の身にも流れ込んで来ているような気がした……実際、流れ込んで来ているのだろうが。
「……先輩……お願い……」
 少女たちの絶叫が収まった頃……加奈子が、乾いた唇を懸命に動かして、言葉を紡いでくる。
 耳に届いたその声は、優歌の胸を締め上げた。
「私を……殺して……」
 その瞬間。
 彼女は、何かが自分の中で弾けたのを自覚していた。
 
 
 
「殺してやるっ……殺してやる、神楽ぁぁぁぁぁっ!」
 華苗が振り下ろした黒い短剣を、彼は右手に携えていた剣で弾いた。火花が弾け、互いの身体もそれぞれの方向に流される。
 体勢を立て直す必要はない。神楽はその勢いのまま身体を横に滑らせ、華苗の左側面に回り込む。
 同時に彼の左足は、彼女の左足の内側を強く弾いていた。
「っ……! この!」
 慌ててこちらの肩に掴み、体勢を維持しながら、華苗は左手の拳銃を振り上げた。
 撃つつもりはないだろう……銃の底でこめかみを狙っている、か?
 相手の手段を推測すれば、その対処法はいくらでも思いついた。対処できない攻撃など、有りはしない。
 神楽は左肘を犠牲にして、振り下ろされる拳銃に叩きつけた。肘の骨が軋んで悲鳴を上げるが、それを気にしていたら腕を犠牲にした意味がない。
 弾かれた拳銃は、華苗の手を放れて宙を舞う。彼女は一瞬、しまったというような顔で投げ出された拳銃を目で追った……
 それが、終わりの始まりだった。
 瞬時にイメージを浮かべ、眼前の世界と交換する。
 具現化したイメージは一気に膨れ上がり、巨大な蒼白の炎となって、華苗を包んだ。
 ごぅ……!
 衝撃波を伴った炎の膨張音が、彼の顔面を叩いた。その炎から逃れるように、素早く後ろに跳び退る……
 そして……炎の中から、平然とした華苗の声。
「馬鹿だね。ボクたちのこの身体に『核』の力は無力だってことは、知っているはずだろう!?」
 華苗の嘲笑が、燃え盛る炎さえも振動させる。
 そうだ。それは彼も知っている……
「悪いな」
 返した言葉はたったそれだけ。
 ありったけの哀れみをそのせりふに乗せて……
 彼は、横殴りに黒の輝きを彼女の顔面に叩きつけた。
 
 
 
「いたぞ! 羽鳥優歌だ!」
「捕縛しろ! 無理なら、殺しても構わん!」
 通路の方から、男たちの声が聞こえてくる……遠くから近くへと、足音が響いている。
 恐らく、あの戌井の取り巻きの少年たちだろう。彼が一体何なのか、はっきり言ってよく分からないが……
 そんなことはもう、どうでもよかった。
 深く、拳を握り込む。
「羽鳥優歌……いや、クリスミスティ=キャロル!」
「自ら捕まることを望むならそれもよかろう。だが、従わぬ場合は……」
 広間に到達した少年たちの声を背中に浴びながら、優歌はゆっくりとそちらを振り返った。
 ……もう何も考える必要はない。
 考えてなんかやるもんか!
「うわああああああああああああああああああっ!」
 彼女は咆哮して……地を蹴った。
 
 
 
  どんな世界を、貴女は望むの? クリスミスティ=キャロル……
  ……どんな世界なら、貴女は好きになれるの?……
 
  「ねぇ。あなたは、これで良かったと思ってる?」
  「ねぇ。あなたは、これで良かったと思ってる?」
  「ねぇ。あなたは、これで良かったと思ってる?」
  「ねぇ。あなたは……」
「先輩には分かりません……だって……」
 
「人間じゃないんですから」
 
 
 
「……優歌っ……」
 神楽は通路を疾走しながら、譫言のように幾度もその名を繰り返していた。
 ただ漠然と想像する。彼女はきっと今、この奥の部屋にいるはずだ……
 あの『柱』の間に。
「優歌……」
 もしかしたら耐えられないかもしれない。
 壊れてしまうかもしれない。
 だってあそこには、苦痛しかないから。
(耳をすませば……)
 耳をすませば、聞こえてくるような気がした……彼女の、悲鳴が。
(お願いだ)
 間に合ってくれ……!
 
 
 
 夕焼け。
 崩壊した街並み。道を転がる人間たち。かつて、人間だったモノたち。
 泣き声が聞こえてくる……子供だろうか。
 ……もうどうでもいい。
 私は虚ろな眼差しで……周囲を転がる死体の群れを見下ろしていた。
 見下ろしていた。
 
 ………………………ねぇ。
 
「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
 少年が……驚いた顔で、私の顔を覗き込んできていた。
 私は慌てて首を振り、手の甲で無造作に涙を拭った。
「やっぱり、怖い人じゃないよ」
 少年が続けてくる……それは恐らく、何の根拠もない言葉だったろう。
 ただし当人にとっては、根拠など必要なかったのかもしれない。
「怖い人じゃないよ……」
 
 …………ねぇ。
 
 
 
「うっ……うぇ……うあああ」
 泣いているのは、誰?
「ふぅっ……ああっ……ううっ……」
「うっ……うぇ……うあああ」
 泣いているのは、誰?
「ふぅっ……ああっ……ううっ……」
 何が、そんなに哀しいの?
「う……うあ……うあああああん……」
 ……………………ねぇ。
 
 血に濡れた手で、涙を拭く……
 足下に転がるのは、少年たちの死体の群れ。鮮血があちこちに飛び散っている……肉質の壁にも、十字架の女たちの顔にも。
 ……涙が、止まらない……胸の震えが心を揺さぶり、いくらでも血を流させる……感情の血を。
 痛いよ。
 痛いよ……
 痛いよぉっ……!
「うぇっ……うっ……ああああっ……!」
 ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭うことしかできず。
 十字架の上から見下ろしてくる少女たちの視線に見守られたまま。
 彼女は……ただ、泣き続けることしかできなかった。
 
                                             ≪つづく≫


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