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Original Novel
NODOAME Presents


 
 
 光が、熱が、刃が、波紋が。人を、夢を、物質を、世界さえも。
 苦痛の始まりは、おおむねそんな感じだった。

 
 
「アリス=リアルライズ。汝は、そう名乗るか」
 時は遡る。過去の果てに……時代の底に残る、記憶の澱み。
「人に神への進化を許さなかったのは、人が生まれたことへの罰なのか。我は……我は、汝が羨ましい」
 それは独白だったかもしれない。つぶやいている彼女自身にすら、判断ができないほど空虚なせりふだった。
 二人。広大な花園の上に佇んでいる。吹き抜ける風が草木の匂いを運んでくる。それは別に不快でも何でもなかったが。
 ただ気持ち悪かったのは、自分がそこにいるという事実だけだった。自覚しながら、彼女は続ける。
「いつか、汝のようになれるだろうか? 我も……皆も」
 独白はいつまでも続いた。言葉はいつか風に溶けて消えるが、今は永遠にこの花園に響き続ける。

 
 
  どこまでも遠くへ。
  歩き疲れるまで遠くへ。
  行きたいな、といつも考えていた。それは、ここにいたくない言い訳だったかもしれない。だが、遠くにはいつも憧れてい た。
  どこまで行けるのだろう。自分の力で。
  どこまで行けば幸せになれるのだろう。君と一緒に。

 
 
「ねぇ、織依ちゃん。今日、一緒に帰らない?」
 鞄の中に教科書を詰めていると、ぱたぱたと小気味よい足音を鳴らしながら、クラスの女子たちが寄ってきた。
 ……三月の青空は好きだ。穏やかな陽光が教室に差し込んできている。風の匂いも、どこか未知な香りを感じさせてくれる。 ついで言えば、テストも好きだった。午前中で学校が終わるからだ。そうしたら、何の気兼ねもなく青空の下を歩ける。
 どこか空虚に、すっぽりと抜けたこの心の空白も、満たされる……
「うん、いいよ。どこか行くの?」
 織依は鞄を閉じると、寄ってきた女子たちを見上げながら尋ねた。
「こないだ、卒業旅行の話したよね? あれの行き先がまたふりだしに戻ちゃってさー」
「ん……北海道に決まったんじゃなかったっけ?」
「それがさー、海外って話も出てるのよー。ほら、みいちゃんのお父さんがソレ系の仕事してるでしょ? 安くなるからどうか、っていうのよ」
「海外かぁ……私は国内のがいいけど……」
 織依ははにかんだように苦笑して見せると、鞄を持って席を立った。教室の外へと向かうと、話しかけてきた女子たちもついてくる。
「今のとこ五分五分なのよー。だからみんなで話し合おうと思ってね」
「まあいいけど。それで、どこで話し合うの?」
「えっとねー、カラオケなんかいいんじゃないかなぁ」
「冴ったら、結局それが目的ねー?」
「あはは、てゆーかそれしかないっしょ」
 ……笑い声に包まれながら、廊下を歩く。人に囲まれて歩く。常に誰かの声を聞きながら、それに答えながら歩く。
 ……ここは。
 ここは、どこだ?
 自分がここにいるという保証。ここにいなければならない約束。ここにいてもいいという言葉。
 どれも得てはいないというのに、自分は今……ここにいる。
 考えてみるに、いてはいけない世界など、どこにも無いのかもしれない。
(ただ……不安なだけだったのかな)
 ふと……天井を見上げる。学校の天井。もう見ることはないだろうと、覚悟していた天井。
 空は見えなかった。当たり前だが。
「……で、なのよー。って……織依ちゃん?」
 背中に冷や水を垂らされたように、織依はびくっ、と震えて、周りの友達たちを見回した。
 その中の一人が怪訝そうに……というより、心配そうに、顔を覗き込んでくる。
「織依ちゃん、どしたの? だいじょぶ?」
「あ……うん、平気。何でもないの」
 答えて、笑顔を作る。
 どうしようもないくらい強引で、不自然な笑顔だと自分でも思ったが……
 それでも今、自分が笑えていることに。
(感謝すべきですか?)
 ……繰り返される時間。繰り返されない命。繰り返すことを忘れた運命たち。どうしようもないこの世界で。
 さぁ、笑ってみようか。

 
 
 どこに行っても追いかけてくる悪夢。
 誰かを呼んでも来てくれない。叫んでも誰も聞いてくれない。泣いても、誰も慰めてくれない。
 聞きたいのは優しい言葉。心に触れて来ない言葉。裏の無い言葉。自分の言葉……
 いつか終わると信じている。そう、夢はいつか終わるのだと……いつか、無に還るのだと。
 そうすればこの世界も、救われるのに。

「そう考えて、あなたはこの世界に降り立った」
 花園。風に舞う無数の花びらが、周囲を多彩色に染め上げている。
 どこまでも空虚で……果てしなく殺伐とした、曖昧な空間。目に見える華やかさ以上の虚無の中、彼女たちは対峙していた。「いつか終わる? そりゃ終わるでしょうよ。終わらない世界なんてどこにもない。ないのよ」
 揶揄するようにそうまくし立てる女は、そこまで告げてから、ふと胸中で自虐的にうめいた。
(……馬鹿みたい)
 こんな当たり前のことを告げている自分が?
(そうね……馬鹿は私なのかも)
 今度ははっきりと、彼女は自虐的に胸中でうめいた。
「さて……どうするの? クリスミスティ=キャロル……いえ」
 彼女はその名を呼んで……ふと思い出したように言葉を切ると、ゆっくりと言い直した。
「どうするの? 羽鳥優歌」

 
 
  考えることは簡単だった。ついでに、頭の中で整理することも。
  要は、間違えなければいいだけだ。
  進むべき道を。無数の分岐点を。見据えるべき未来を。
  慎重に選ぶ必要はない。必死になって進む必要はない。
  今、その瞬間に思った通りに動け。
  どこまでも、どこまでも、どこまでも……遠くへ。

 
 
「そうか。汝はそれを願って……」
 全てを理解して……アノニマリスは空を見上げた。
 花びらの舞う空には、どんよりとした雲がかかっていた。今にも雨が降り出すかもしれない。そんな空の下で。
(何故……泣くのだ……)
 不意に頬を伝った涙に自分で驚き、彼女は身じろぎした。眼前の少女に見られていることを恥に思って、すぐさまそれを拭い去る。
 いや……泣くことは恥ではなかった。そんなものは断じて恥ではない。
 ただ、恥ずかしかったのは……
「我には……何もできぬ。汝に、何もしてやれぬ……」
 それだけが……苦痛だった。
 この苦痛だらけの世界で、ただひとつ、それだけが苦痛だった。

 苦痛の果てに、決意したことは。

「この世界には神が必要だ」
 アノニマリスは……少女の細い肩を腕に収めながら、耳元で囁いた。
「神がいれば汝の願いが叶う……叶うのだ……アリス」

 
 
  それだけで良かった。
  祈りは必要なかったのだ。他には何もいらない……ただ……
  そう。ただ……触れるだけで。

 
 
「出来損ないの神に用はない。殺せ」
 淡々と……だが、確かな意志をそこに秘めて発言するアノニマリス。
 傍聴者は世界。人々。この場にいる全ての生命。
 聞け。我が声を。
「……この不浄の地に、新たな神を。このアノニマリス=ヴァルキュリアの名の元に」

 
 
「ヴァルキュリア計画……それが全ての間違いであったのか……私の人生の」
 戌井龍也は学校の屋上で、静かにつぶやいていた。
 風の流れはどこまでも穏やか。陽光も穏やか。ただ穏やかではないのは、彼の心だけかもしれない。
 そんな詩的な気分に彼は苦笑しながら、遠くの風景に視線を向けた。立ち並ぶビルの群れ。その中で生活する人々。
 命の塊たち。
「思えば、どうでもよかったのかもしれない……神だとか、世界だとか……そんなのは……そう、どうでもよかったのだ」
 自分に言い聞かせるように……思い込ませるように独白して、彼は自分の手を見下ろした。
 年老いた手。皺が刻まれた、後は朽ちることしか残されていない手。
 もう、愛されることのない手……
「私は……お前に……」
 そして振り返る。
 色素が抜けきって、真っ白になった髪の毛。肌には皺とはまた違う、窪みのような痕が深く刻まれている。
 ……まるでそこにはいない、どこか遠くにいるような印象を持った女が立っていた。
 灰色の瞳。儚い、儚い瞳で見つめられている。
 彼はそっと彼女に近づき……その肌に触れた。
 つぶやきは、今度ははっきりと彼女に向けられた。
「君に恋をしていたのだ……有菜」

 
 
  永遠に終わることのない悪夢。
  繰り返される希望。果たされることのない約束。
  どれもこれも、悲しいことばかりだけど……
  でも、歩いていけるよね?
  ねぇ?

 
 
 わたしはゆめをみていました。
 いつもいつも、ゆめをみていました。
 おうじさまもおひめさまもとうじょうしないけど、とってもたのしいゆめでした。
 でも、ときどきどこかでおかあさんがなくこえがきこえるの。
 でも、ときどきどこかでおとうさんがなくこえがきこえるの。
 でも、わたしのこえはきこえないの。
 なにがそんなにかなしいの?
 わたしはげんきだよ。
 ほら、ここにはおはなばたけがあるし、おそらはいつもはれわたってる。
 いっぱいおもしろいおはなしもきかせてくれるんだよ。
 そしてわらうんだ。
 だから、ねぇ? わたしはげんきだよ。
 しんぱいしないで。
 わたしはげんきだから……

「ずっと……そこにいたかったんだよぅ……」
 白い……白い……白い……部屋。
 清潔な印象と、病的な雰囲気の両方を併せ持つ部屋。
 そこは病室だった。
「なんで起こしたの……?」
 ベッドの白いシーツの上で、毛布にくるまりながら枕に顔を伏せて泣き続けている少女。
 少女……の顔は、枯れた草木のように。
「こんなところには……もういたくないの……」
 ベッドの脇の小さなテーブルには、薬の袋が置かれていた。コップに入った水には、埃が少し浮いていた。
「もうやだ……やだ……やだ……やだ……」
 ……薬の袋には。
『201号室 宮代加奈子』

 ……いつか、彼女も再び輝きだす。

 
 
  人間ではないことへの憧憬。
  私ではないことへの苦痛。
  ……私は私でいたい。
  だから、あなたはあなたでいて。
  私もあなたも……いつかきっと、輝くことができるから。

 
 
 花園は楽園ではない。
 それは単純な約束のようなものだった。花園には始まりがあり、終わりがある……時として、続くこともある。
 続いたまま終わらないこともある。それは極希な話であるが。
 ここにもそろそろそれが訪れたらしい。
 花園よ。聖者たちよ。神よ……人よ。
「終われ」

 花びらの舞う花園。佇む二人の女。
 会話はまだ続いていた。
「さて……どうするの? クリスミスティ=キャロル……いえ……どうするの? 羽鳥優歌」
 彼女の問いに。
 少女は決然と答えた。
「私はここにいたい」
 言葉が紡がれると同時に、周囲の風景が……世界が、ガラスが粉々に砕け散ったように霧散していく。
 それは色彩の乱舞だった。踊り乱れる壊れた世界。終わり行く時間……結末する物語。
 少女のその答えに、彼女は伏し目がちに小さくかぶりを振ってみせた。
「そう……なら、もうこれでお別れね」
「あなたの中には私がいる。私はまた形を変えて、あなたの世界に登場するわ」
「ふふ……言うじゃない。そうね、確かにあなたはわたしのお気に入りよ。だから、あなたはこの世界にいる」
「……私を生んでくれてありがとう。感謝してるわ」
 少女はぎこちなく微笑みながらそう告げて、そちらに背を向けた。
 背後から、声。彼女の、最後の言葉。
「さようなら、歌姫。良き終わりがあなたに訪れますように」
 皮肉に聞こえなかったわけではない。少女は苦笑してそれを受け流し、肩越しに振り返って告げ返した。
「さよなら……母と呼べる人」

 さよなら……あの日の私。

 
 
 光が、熱が、刃が、波紋が。人を、夢を、物質を、世界さえも。
 苦痛の始まりは、おおむねそんな感じだった。

 草原を、列車が駆け抜ける。時に雄々しく咆哮しながら、果てへと一心不乱に走り抜けていく。
 青い風。陽の光は水晶型の残像を残して。雲は列車に追いつかんとばかりに空を流れる。
 草木の匂いが胸に満ちて、とても気持ち良い……日差しの暑さが気にならなくなるくらい気持ちが良かった。
 ……初夏。
 蝉の鳴き声は、残念ながらここでは聞こえない。聞こえたところで、かえって鬱陶しいだけだが。
 彼女は……優歌は、列車の最後尾に立ち、手摺りに肘を載せながら、流れ行く風景を見つめた。
 このままどこへ行くのだろう。どこへ行き着くのだろう。
 着いた先に……何があるのだろう。
 考えるのも億劫だった。ただ風景を眺める。時折、空に思いを馳せては、また景色に視線を戻す。
 気楽な旅だ。いつ終わってもいい、そんなどうでもいい旅……
  
  どこまでも遠くへ。
  歩き疲れるまで遠くへ。
  どこまで行けるのだろう。自分の力で。
  どこまで行けば幸せになれるのだろう。君と一緒に。

「ママ」
 不意に声をかけられて……優歌はぎょっとしながら振り返った。
 が、そこには誰もいない……と思われたが、声の主があまりに背が低すぎて見えなかっただけらしい。
 こちらの足下に寄り添うようにして、黒髪の女の子がそこにいた。
 可愛らしい淡いピンクのワンピースに身を包んだ、とても綺麗な顔立ちの女の子……
「なぁに? どうしたの?」
 優歌は甘く囁きながら、少女を抱き上げた。鼻と鼻が当たりそうなほど顔を近づけて、わざと困ったような顔をして見せてみる。
 だが少女は別にこちらの意地悪を気にしたふうでもなく、小首を傾げてこちらの顔を覗き込んできた。
「ママ、ぼーっとしてる」
 言われて初めて、優歌は自分がぼーっとしていたことに気付いた。
 ……別に、そんなつもりではなかったのだが。
「ん……別にそんなつもりではなかったんだけどね」
 思ったことをそのまま口に出し、彼女は手摺りから離れた。間違って腕の中の少女を落としてしまったら大変だからだ。
「へんなの」
 きょとんとしながら……しかしどこか楽しげに、少女が見つめてくる。
 優歌は、今度は少女に思いを馳せた……
 もう、どのくらい一緒にいるだろう。楽園に最も近い場所から帰還したあの時からか。
 いや、違う……
 私たちは……もっと前から一緒にいた。

  どこまでも遠くへ。
  遠くへ。

「遠くへ、か……」
 つぶやいたのは風に向かってか……それとも少女に向かってか。
 自分でもよくわからなかったが、とりあえずその言葉は風に流れて消えていった。
「まったく、我ながら呆れるくらい考え無しな行動よね」
 こちらがぶつぶつと独りごちていると、少女はわけがわからないといったふうに眉をしかめた。
 まあわからなくても無理はなかろうが。
 優歌は少女の髪を撫でながら、列車の壁にもたれて風を楽しんだ。
 ……草原を、列車が駆け抜ける。時に雄々しく咆哮しながら、果てへと一心不乱に走り抜けていく。
(ま、所詮は終わりのない夢よ)
 世界が楽園から見放されても……世界は続くし、自分たちも終わらない。
 終わるのが時間だけだとするなら、そこは永遠と呼べるかもしれない。
 なんにしろ、果てにあるのは常に未来だけだ。それ以外は気にしなくていい。
 彼女は空を見上げ、穏やかな風に身を委ねるような気持ちで。
 うとうとと眠りかけている腕の中の少女に、そっと囁いた。
「いつまでも私のこと、好きでいてね」
 
 


歌姫


第26話

Kanon



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