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Nothing Original Novel





by nothing




『空』

 涼やかに晴れ渡る秋空の日だった。かすれたような雲がゆったりと行き来していて、その隙間から陽光が優しく地上を照らしていた。私の心情とは似ても似つかないが、門出を祝福してくれていると、見えないこともなかった。
 看護婦から呼び出された私は無感動に、返事をすることもなく院長室に通された。味気ない療養着は院長の白衣といつもいい勝負だった。
「凪、今日で退院だ。長かっただろう?これからは自由に暮らすんだ」
 院長の言葉を黙って聞いていた。うっすらと暗い感情が心の中に広がっていく。どうにもならない未来への不安だけがあった。希望のない病院から出て希望のない外の世界へ行くこと、決していつまでも病院に居続けられるわけではないということがわかっていても、あの小窓から忙しそうな外を眺めていられる身分を剥奪されてしまうのは惜しかった。
「病院の方から援助として餞別が出る。少ないが、持って行け」
 私は世話になった看護婦達に挨拶をすると、一緒だった他の患者達とも別れを済ませた。もちろん彼らは話など聞いていないし、喋ることができる者もあまりいない。だが私と時間を共有してくれていたことだけは事実である彼らにはやはり情が残っていた。
 自分の持ち物であったわずかな本と服を持つと、最後に病院を大きく見上げて私は門の外へ踏み出した。垣根である壁に沿って進む。暖かな陽光が迎えてくれたが、今の私には眩しすぎた。どうせなら冬の冷たい風と雪でも欲しいところだったが、天気に逆らうわけにはいかない。病院の、あの小さい個室とベッドに戻りたい気持ちを振り切りながら歩を進めた。
 まず向かったのは我が家だった。病院から聞かされていた自分の家。もちろん今の私に自分の家だという実感はまったくなかったが。とりあえずそこに向かうしかなかった。その近所にやって来ると、途中ですれ違う人々の視線がなんとなく痛い。自分はかつてここで生活していたはずなのに、今ではその記憶もなかった。医者の話だと少しずつ思い出すはずだと言われていたが、いまだその兆候はなかった。
 たどり着いた我が家は、ただの空き地になっていた。あちこちに焼けた廃材が転がっている。そして中央には大きく「売り地」という看板が立てられていた。私はそこに立ち入って、あちこち調べてみた。廃材の中にはなぜか生活用品と思しきものがいくつか転がっていた。その中から銀色のスプーンと焦げた目覚まし時計を見つけると、本と一緒に縛って持ち歩くことにした。こんなものどうしようというのか、それは私にもわからなかった。
 それからどこへ行けばいいのかわからなかった。取りあえず、やはりこれも病院の方から預かっていた私の親戚と思しき人達に電話をかけてみたが、どこも名前を言っただけで
すぐ切られた。よくわからないが、歓迎されていないようだった。
 どこかに泊まるほど金は持っていなかった。私は暗くなるまで街をふらふらと歩き、大きな工事現場を見つけたところで腰を落ち着けることにした。幾重にも積み重ねられた土管の一つに潜り込み、寒さをしのいだ。
 どうやら先客がいたらしい、土管の中には小さな、だが鋭い目つきをした猫が体を丸めていた。最初は威嚇するように爪をたてていたが、私がごく自然に土管の中で横になると警戒をやめてしまった。私は猫を抱いて、次第に厳しくなる寒さからどうにか体温を守った。
「猫さん、あんたどこから来たんだい」
 ふと、猫に尋ねてみた。猫はかすれたような鳴き声で私に返事をした。
「わかるのかい?そりゃあよかった。私はね、わからないんだよ・・・」
 その夜は、ずっと猫を相手に話を続けた。精神病院での入院生活のこと、どんな人間に会って、どんな治療を受けたかとか、その間にどんな本を読んだかとか、他人にはどうでもいい話ばかりだった。だが、猫は飽きることなくそれを聞いてくれた。
「聖書も読んだ。昔の偉い人が、神様から啓示を受けて書いた本だ」
 書いたのはモーセという人だ。古代エジプトのイスラエル人達の指導者。聖書を半分も理解できなかった私にはモーセの学術的な本質などわからない。ただ、神の言葉だけを信じて多くの人を導いた、勇気ある人だということだけしかわからなかった。
「モーセの前には数多くの奇跡が起こって、彼とそれに従う人々を助けてくれた。きっと私が救われないのは、神様を信じていないからだろう・・・」
 土管の中では完全に寒さをしのぐことなどできるはずもなく、私の体には容赦なく寒さが襲いかかってきた。私は体を丸め、なんとか体温が逃げるのを防ごうとした。一日歩き続けたせいで疲れたのか、あるいは歩くことに慣れていなかったから疲れたのか、これだけ寒いのに次第に眠気が襲ってきた。この状態で眠ってしまったら翌朝凍死体になって発見される羽目になるのではないかと思ったが、それもいいと思いながら眠った。
「寒いなぁ・・・」
 それを最後の言葉にして、私はまぶたを閉じた。私が体全体で抱えるようにしているあの切れ目の猫はすでにすうすうと寝息をたてていた。

 夢を見た。
 私は一人で、周囲は燃えさかっていた。
 炎の中で一人だけで、他には誰もいない。
 だが私はどこかに、自分のために涙を流してくれた人がいたことを知っていた。
 その人のことを思い出したいと思っても思い出せない。
 一人ということから逃れることはできないのだ。炎が間近に迫ってきた。
 私は目を閉じた。一筋の涙が流れ、もう流れることはなかった。

 目覚めた時、朝日が照っていたのに驚いた。ああ生きていたんだなと、呑気な感慨にふけった。のそのそと土管から這い出ると、猫も一緒についてくる。一瞬戸惑ったが、追い払うことはしなかった。どうせ失うものなど何もない。道連れにはちょうどいいだろう。
 その日は前日のような快晴とは違い、やや曇り気味だった。今にも雨が降り出しそうな空の下を、のろのろと鈍い足取りで歩いた。足下をひょこひょこと猫がついてくる。
 どこへ行けばいいのだろう。病院へは戻れない。かといって他に頼れるような場所も人もいない。とりあえず腹が減ったので、私の足は自然と郊外から離れて駅近くの繁華街へと向かった。
 八年間も世間から隔離されていたせいか、なにもかもが私を疎外しているように思えた。
元はここが生活の拠点であったはずなのだが、私にはほとんど記憶が残っていなかった。
一瞬、八年前の私の姿が歩道に浮かび上がった。幻影だ。入院したての頃はたびたび幻覚や幻聴に悩まされていたが、今ではすっかり回復したはずだった。だが現れている。八年前の私は何か制服のようなものを着ている。確か、八年前の私はまだ高校生だったはずだ。だがそれが本当に八年前の私の姿なのかどうか判断することはできない。記憶は失われているからだ。だがその姿で現れてはならないような根拠もない。必然的な現象として幻影は現れる。それは本当に失われたはずの記憶の底にある残照なのか、それとも私が関係ない材料をかき集めて作り出した幻なのか。
 私は幻影とすれ違うと、また歩き出した。様々な場所に私の影が焼き付いているはずだったが、どこにもそれは見つからなかった。もしかしたら全てが偽りで私の故郷はここではないのではないか、そんな疑いまで抱いてしまう。
歩き疲れ、街路の隅に腰を下ろした。通り過ぎていく人々の顔は冷たくて、まるで私の存在を否定しているようだった。腹が減ったので、なにか買って食べようと思ったら財布がなかった。落としたのかそれとも盗まれたのかわからない。ふと猫に目をやってみたが、いつもと変わらない鳴き声を返すだけだった。
 私も猫も腹が減っている。猫はゴミでも漁ればいいかも知れないが、私はそういうわけにはいかない。慈悲に訴えて食料を譲ってもらえるものかどうか考えてみたが、絶対に無理だという結論に達した。どうしようもないとわかると余計に腹が減ってくる。よく考えたら昨日からなにも食べていないのだ。何か食べなければこれ以上歩くこともできそうにない。だが金はない。金がなければなにもできないというのが、つくづく悲しかった。
 街頭販売されていたパンを一掴みして、金を払うことなく逃げた。スピーカーから流れる耳をつんざくような誰かの歌が無性にうっとうしかった。
 ここまで来ればもう追ってはこれまい、というところまで逃げた。もう繁華街の中心からかなり外れてしまっている。私は歩道橋の下に日陰を見つけると、そこに腰を下ろした。
 猫は、しっかりとついて来ていた。私がアスファルトの上に腰を下ろすと、足下で何かを待つようにちょこんと座を占めた。私が食べ物を拝借したことをわかっているのだろうか。
持ち逃げした二袋のパンは両手に持って余るほどだった。これなら今日一日ぐらいしのげるかもしれない。私は袋からクロワッサンを取りだしてちぎり、半分を自分に、半分を猫に分けてやった。猫はアスファルトの上に放られたクロワッサンを爪で押さえると、豪快に口を突っ込んで食べ始めた。私も同じように適当な大きさにちぎったりすることはせずに、そのままかじりついた。やれやれ、これでは私も猫みたいではないか。
 そのまま猫と二人で、黙々と食べ続けていた。なにせ食事をとるのが一日ぶりなので、一旦食べ始めると空腹が一気に実感されて止まらなくなるのだ。飲み物がほしいなと思ったが、さすがにそこまで贅沢は言えない。後で公園にでも寄って水を飲めばいいだろう。
「ん、もう少し食べるか?お前、小さいくせによく食うなぁ・・・」
 私はクロワッサンをさらにちぎると猫に与えてやった。よく考えてみたら貴重な食料を
分け与えてやる必要などないのだが、自然と戸惑うことなく私は猫と食料を分け合っていた。もしかしたら私は道連れを必要としていたのかもしれない。
「さて、これからどこに行こうかな・・・」
 なんとはなしに思いを巡らす。結局、どこにも居場所はないようだし、歓迎する人もいない。これからは一人で生きていくのだ。今のように、小さな犯罪を犯しながら浅ましく日々の糧を得ていくのだ。
 先のことなど何もわからなかった。何かが一変するようなことがあるとはとても考えられなかったし、せいぜい今日の寝床の見当がつくくらいだった。
「腹も膨れたし、行くか」
 私は立ち上がると、再び歩き出した。食べたおかげでなんとなく足取りにも力がある。
「寝る場所を見つけないとな・・・」
 まだ、それほど寒い時期ではなかったが、夜は冷える。うっかりすると凍死してしまうかもしれない。人間にとって寝る場所というのはかくも大切なことなのだ。
 私は駅まで向かうと、構内に入った。同じようなホームレスがぽつぽつとつつましい住居を建てている。私も同じように段ボールを拾ってくると、即席の住居を作り、そこに潜り込んだ。ついでに拾ってきた新聞紙を毛布代わりにひっかける。
「そういえば、今は何年なんだろう・・・」
 だが、入院した当時が何年だったか知らない自分がそんなことを知ってもどうしようもないと思った。そもそも、世の中の動きなどもう自分には関係がないのかもしれない。
 病院が懐かしかった。上等のベッドで眠れた。だがいつまでも安穏と暮らせるわけがない。いつかは居心地のいい場所を離れて世間と向き合わなければならないのだ。そして私が世間と向き合った結果はこれだ。金もなければ住むところもない。どうやったらここまで落ちることができるのか不思議だったが、実に簡単に落ちることができた。おそらく社会は自然発生的に我々のような宿無しを生み出すのだろう。
 冷たい夜風にさらされながら、もっと重度の精神障害を負えばよかったと何度も思った。
そうすれば苦痛も恐怖も、何も味あわずに済んだろう。
 八年前の自分は果たして幸せだったのだろうか?家族と共に時間を過ごして、分かり合える友がいて、もしかすると愛する人もいたかもしれない。だが、自分の今の状態を考えてみると、とても八年前が正常であったとは考えられない。事件を起こす直前の私は、きっと家族からも異端視され、友人もおらず、偏執的な愛情を何者かに注いでいたのだろう。
 だが事件を起こして精神病院に入り、浮浪者に成り下がる前に誰か止めてくれなかったのだろうか。誰かが近くにいたことは確かなのだ。
 運命とでも呼ぶしかなかったのかもしれない。今、私がこうしているのはおそらく、逆らいがたい何かによる強制的な力のゆえなのだ。
 ずっとこうして一人で暮らしていくのだろう。誰にも愛されることなく、誰からも手を差しのべられることなく、いつか老いて体に異常をきたすか、それとも今夜にでも寒さに震えて死ぬか。どちらにしろ捨て猫のような最期を迎えるに違いない。だが記憶を失っていてよかった。もしも以前に、誰かに愛された経験があるのなら、今の状況をもっと苦しく感じたことだろう。豊かな生活を送った記憶があったら、餓えている今の状況を惨めに思ったことだろう。だがそんな苦しみはない。過去も未来も関係なく、刹那的に生きる程度の障害はあったのだ。それを神様に感謝しないといけないだろう。
 いろいろと考えを巡らすうちに、まぶたが重くなってきた。住居のおかげで昨日よりは温かい。私は目の前ですでに寝こけている猫を見ると、抵抗することもなく眠りに落ちていった。

 人気のない公園。季節は春の始めあたりで、陽光に優しく照らされていたのを覚えている。そこで彼女と二人、他愛のない話をしながら空しく時を過ごしていた。
 学校に行かなくなる日が続き、次第に精神が蝕まれていることがわかっていた。どうしようもなくなってしまう前に、大好きな人とだけ残された時間を過ごしたいと思った。少なくとも自分が存在したという証を世界に残しておきたかったのだ。
 彼女はいつでも傍らにいてくれた。出会ったのは気が遠くなるほど昔の事。いつも無茶苦茶な行動を起こし、日常会話でも彼女にため息ばかりつかせていたのに、彼女は離れることなく側にいてくれた。友達から恋人へ代わり、その存在はかけがえのないものになった。愛されることを知り、愛することを教えてくれた彼女。
 鳥のさえずりが聞こえていた。世界は二人を取り残して進んでいた。二人がいたのはどこか遠い場所。終わりが近づいているからこそ願った、二人だけの時間と場所。彼女は幸せだったろうか?終わりを迎えた少年は思う。別の世界へ旅立ってしまった自分のことを、怒っているのではないだろか?確かめたかった。もう一度この腕に抱いて、彼女の口から直接言葉を聞きたかった。だがそれはもう叶わない。自分はすでに果てしなく遠いところまで来てしまった。すでに彼女との記憶はない。それはかすかな幸せの感触として心の奥底に眠っているだけだ。だが忘れてはいない。もう一度、彼女に抱きしめられれば自分を取り戻せるだろうか?崩壊してしまった心のかけらが元通りに。
 それは夢だった。遠くはかない記憶が呼び起こした夢だった。

 目覚めると同時に強い日差しが私の目を刺した。駅はそれぞれの役職について働く人々の波で満たされている。私と同じく浮浪者の面々は、それぞれ朝の食事を調達しようと寝床から這い出ていった。私も何か食べようと思ったが、果たしてどこへ行ったものか。金はないし、当てもない。しかし食べなければ死んでしまう。人間は十日間ぐらいなにも食べないでも死なないらしいが、入院していた時にまったくものが食べられなくなるという症状に何度か見舞われた私には、食べないということがどれだけ危険なことかよくわかっていた。一日なにも食べないと前後不覚、目まいがしてくる。二日になると立ち上がるのも困難になる。たしかに死にはしないが、活動停止状態になったら同じ事だった。それでも病院の中だったらいつ倒れても安全だが、外に出るとそうはいかない。食べるということは実に切実な問題なのだ。
「どうする、猫。食べるものがないぞ・・・」
 猫は顎を撫でてやると気持ちよさそうに床の上で転がった。
 こいつと一緒にゴミでも漁るしかないのだろうか・・・一瞬、本気で決意しそうになった。
「いやいや、それだけはだめだ」
 落ちるところまで落ちておいて変なプライドをもつのも妙な話だが、それだけはやってはならないような気がした。本当に死んだ方がましだと思った。
「おい!」
 私が段ボールの小屋の中でおかしな葛藤と戦っている最中に、誰かが外から段ボールを蹴った。警察が来たのかと思ったがそうではなかった。まるで何かがつっかえているようなしゃがれた声で現れたのは、髭も髪の毛も伸び放題になっている、薄汚れた、どこから見ても浮浪者そのものの男だった。まだ夏が過ぎたばかりだというのに男は厚いコートを着込んでいて、そのせいで体長が実際の1.5倍は大きく見えた。
「なにもんだ」
「いや・・・それは私の方が聞きたい」
「新入りなら挨拶に来るのが筋ってもんだろうが」
「そうなのか?私は凪(なぎ)と言う。昨日、ここへ来たばかりなんだ」
「そうか・・・まだ若いな、年は?」
「詳しくはわからないが20代半ばだと思う」
「そうか。じゃあどうして来た。刑務所を出てきたのか?」
「一昨日まで精神病院にいたんだ」
「ああ、そうかそうか」
 男は何か納得したように仏頂面のまま首を縦に振った。
「俺の名前は柿崎だ。何か困ったことがあったら聞け」
「ありがとう。食べ物に困っているんだが、何か当てはないだろうか?」
「今日は夕方になったら近所の修道院から炊き出しが来る。それまで我慢するんだな」
「・・・体重が減りそうだ」
「仕事は自分で見つけるんだな。ああそうそう、他の仲間には俺から紹介しておいてやる。知り合いがいるかもしれないぞ。お前みたいに刑務所や精神病院を往復しているやつばかりだからな」
 刑務所に入ったことはないのだけれど、と言おうとしたところで柿崎は行ってしまった。
歩き方がどことなくぎこちない。まるで不具の人間みたいだ。
 柿崎が行ってしまうと、私はまた段ボールの中に戻った。そしてこれからのことに、足りない頭でいろいろと考えた。
「どうしよう。金を稼ぐあてなんてないものな」
 どうしようもなく、その日は一日中段ボールの中でじっとしていた。猫はその間もずっと私の足下にいた。不思議なものだ、餌も満足に与えてやれないというのに、この猫は私から離れない。
「もしかしたら、お前は昔の私と会ったことがあるのかな」
 猫は何も答えなかった。それを確かめる術はない。
 夕方になってようやく修道院からの炊き出しがやってきた。私と同じ浮浪者達が列をつくって並ぶ。神の御加護ありますようにと、食事を与えてくれた修道女が言っていた。現実に神の加護も希望もないのは、きっと神を信じていないことへの天罰だろう。
 トウモロコシ入りのスープだった。湯気がたっていて、一日中なにも食べていなかった私にはありがたすぎるものだ。私は紙の容器に入れられたそれを自分の段ボールまで持って帰ると、熱いのも構わずさっそくすすった。温かくて、体が芯から温まるようだった。トウモロコシの匂いが強くて、かすかに牛乳の味がした。
 私は自分の中で何かを思い出しかけた。それは温かい物への記憶だったのか、それともトウモロコシへの記憶だったのかわからない。ただ頭の奥で何かがぐるぐると回り、そして答えは出なかった。
 ぷつりと、思考が渦巻くのをやめた。それまで感じていた違和感は消え、代わりにそれまで聞こえていたはずの雑踏が耳に入る。私はつい気を乱してしまい、段ボールの床にスープをこぼしてしまった。しまったと思ったが、すぐに残念な気もおさまった。こぼしたスープを猫が舐め始めたのだ。
「・・・あれ」
 私はしばし、呆然としていた。頭の中は何かに掻き回されたせいでまだぐらぐらと揺れている。軽い目まいを覚えた。それでもなんとか正気を保っていた。足下で、こぼれたスープを舐め終えてしまった猫が物欲しげにこちらを眺め上げていた。私はスープを一気に半分ほどすすると、残りはすべて猫にくれてやった。
 口の中に牛乳の味が残る。もう一度、大きく頭脳が揺さぶられる。
 たとえ何かが訴えたとしても、それを思い出すことはできないだろう。そうでなくても今の自分には、やって来るものがすべて苦しみだと思わずにはいられなかった。幸せからも楽しみからも、私は裸足で逃げ出したのだ。
 猫が残りのスープを全て飲み終えた。私は段ボールの中から広すぎる外の世界を見て、一体八年前の自分は何者だったのだろうと思いを馳せた。今では私を繋ぎとめるものなど何もない。手元にあるのは段ボールの住居と野良猫だ。それ以外なにもない。記憶を失っていなかったら人が恋しくて悲しみに暮れていたかもしれない。
 ずっとこのまま過ぎていくのだろうか。日々の糧も満足に得られず、いつも腹を空かせているのだろうか。だが、それでもいいと思った。私はすべてを喪失していた。悲しくもなかった。ただ空虚だった。空洞を埋めるものはなにもない。その夜、少し泣いた。
 翌日、目が覚めたら雨が降っていた。昼間だというのにまるで夜のように薄暗かった。昨夜は眠る前にいろいろと考えたはずだったが、今は食べ物のこと以外は頭になかった。人間、食わずに生きていけたら便利なんだがなぁ・・・とどうしようもない願望を抱きながら、段ボールの小屋の低すぎる天井を見つめてしばらくぼうっとしていた。
「あれ?」
 気がついたら、猫がどこかに行ってしまっていた。もしかすると見切りをつけて去っていったのかなと思った。薄情だとも思えるが、猫にしてみれば当然のことだ。私は取りあえず一時的に出ていったものと解釈して段ボールの中から這い出ると、猫を探してあちこち見て回った。
「柿崎、私の猫がいなくなったんだが、知らないか?」
「お前、猫など飼っていたのか。てめえの食いぶちも困るくらいなのに余計なものを飼うんじゃねぇよ・・・」
 その後も柿崎は長々と説教をたれていたが、私はほとんど聞いていなかった。それで結局、柿崎も猫は見ていないということだった。
 しかたなく他のホームレスの所も回って猫が潜り込んできていないかどうか尋ねてみた。だがどこにも見つけることはできなかった。しかも腹が減るから余計な手間をとらせるんじゃないと、殴られたりもした。
 私が頬を押さえながら自分の小屋に戻ってみると、猫はすでに戻ってきていた。どこへ行ってたんだと問いつめようと思ったが、猫がくわえているハンバーガーらしきものを見て私の言葉が止まってしまった。猫が自慢げに喉を鳴らす。どうやら私よりも手際よく食料を調達してきたようだ。が、そのハンバーガーをよくみるとかじった跡があった。どうやら誰かが捨てたものを拾ってきたようだ。
「私はそれだけはしないと心に誓ったんだがなぁ・・・」
 しばらく考えていたが、背に腹は変えられない。明日の太陽を見たかったら、他人のおこぼれでも腹におさめるしかないのだ。
「惨めだ・・・」
 私は猫とかじりかけのハンバーガーを分け合って食べた。本当に落ちるところまで落ちたんだなぁと、今更ながらしみじみと思った。
 その日はずっと雨が降っていた。私と猫は間抜け面で段ボールの小屋の中から雨の降る外の光景を眺めていた。道行く人は皆、上等な服を着て傘をさして歩いていた。誰も彼もそれぞれの人生に向かって歩いている。駅にたむろするホームレスの我々は、死が訪れるのを黙って待つだけだ。かつての自分は、道行く人々のように何かに向かって歩いていたのだろうか。たった八年前のことなのに、大昔の出来事のように思い出せない。
 自分の手元にあるのは汚い猫と、歪んだ段ボールの住居だけだった。今は失うものなどなにもないが、かつての自分は何を持ち、どんな希望を抱いていたのだろう。懐かしむような過去もない。悲しい代わりに空しかった。
 どこか遠い空の下で、私と交わった人達は生きているのだろう。私だけがこうして屍同然にまで落ち込んでしまっている。不思議だった。何が間違って私はこうなったのだろう。それを知る手がかりなどなにもないのだが。
 
 だんだんとホームレスの生活にも慣れていった。先輩のホームレスに尋ねたりして食料調達の方法もいろいろと学んだし、段ボールの小屋は改良したり増設したりして住みやすいように作りかえた。時には犯罪を犯すこともあったが、警察のやっかいになることはなかった。あまりにも程度が低いので相手にしていられなかったのだろう。
 何の希望も持たず、ただその日その日を食いつないでいくだけの日々。だが、それでもいいと思った。
 仲間のホームレスからいろいろと身の上話を聞いたが、彼らの人生は不幸と惨めさに満ちていた。幼い頃から満足に愛情を注がれることもなく、暴力や差別の対象になり、精神に異常をきたしてくるとそれが全て当人の責任であるかのように責め立てられ、侮辱された。どこへ行って何をやってもうまくいかず、絶望と挫折を繰り返すばかりだった。ついに怒りが爆発して法の裁きを受けることになると、手元に残されていたわずかな宝物も根こそぎ奪われた。希望をすべて断たれ、自分と違い才能にも環境にも恵まれた人々を見ると、なぜ自分は生まれてきたのだろうと疑問に思ったという。生きることに意味を見いだせなくなり、気がつけば駅のホームに転がっていた。
 彼らはそれでもいいと言ったし、私も別に構わなかった。生きていても不幸なだけなのだ。生きようとすればするほど裏目に出る。こうしてなんの希望も抱かず転がっていれば、少なくともこれ以上の不幸を味あわずに済むのだ。無理をして幸せになろうとする人間の末路はいつだって同じ、自殺して終わりなのだ。
 私は自分が不幸な目にあったのを覚えていない。だが10代で精神病院にぶち込まれるほどだからろくなものではなかっただろう。残念だがこの世には絶対的な幸福の星に生まれる人間と、不幸の星に生まれる人間というのが確実に存在する。仲間を見てみればそれがすぐにわかる。社会や幸福な人々は不幸な人々に対してもっと努力しろとか希望を持てとかいろいろ言うが、不幸な人間はそれがどれだけ無益なものであるか知っている。だが知っていても反論することはできない。自分が不幸の星の元に生まれているということは決して証明できないからだ。
 こうやってかろうじて生き長らえながら、気がつかないうちに死んでいくのだろう。私は呑気に、身も心も浮浪者になりきってそう考えていた。
 ずっとこうやって生きて、気が付かないうちに死んでしまえばいいと、そう思っていた。それは私達にとって唯一の、神様や世間に対する復讐だったのかも知れない。
 だが、異変はある日突然に起こった。まだ始発電車も来ないような早朝、いきなりの轟音に目を覚ましてみると、盾と散弾銃を構えた機動隊が鼠一匹通さないような列をひいてホームに乗り込んできたのだ。散弾銃の弾はもちろん実弾ではなく暴徒鎮圧用のゴム製だが、段ボールの住居を蹴散らすには十分な威力をもっていた。私の住居は彼らが突進してきた反対側に位置していたので、攻撃されるまえに接近を知ることができたが、反対側のホームにいた者達はすでに争いの渦中にあった。全てを奪っておいて安住の地すら奪う気かと、仲間達は手に手に武器をもって、もしくは素手で機動隊に向かっていった。だが戦力が違った。仲間達は盾の前に阻まれ、束になった敵に囲まれて警棒で気を失うまで殴られた。
「凪、逃げろぉー!!」
 柿崎だった。柿崎は何か液体の入った瓶を持っている。それに火をつけると、機動隊の戦列に投げつけた。受け止め損ない、頭に直撃した機動隊の一人が炎に包まれる。火炎瓶だった。
「死ね、死ね、死ねーー!!」
 柿崎は持っていた五つほどの瓶を全て投げ終えると、鉄パイプを持って突進した。
 止めようとしたが、遅かった。柿崎は散弾銃の直撃を頭に受け、吹っ飛ばされた。駆け寄った時、柿崎は息をしていなかった。
「しっかりしろ!」
 柿崎を抱き起こしたが、首が妙な方向にねじれている。首の骨が折れていた。死んでしまったのだ。
「うぅ・・・」
 可哀想な柿崎!数々の苦しみを舐め全てを失い、もう命しか残されたものはなかったというのに、動物のように撃たれて死んだ。人間としての幸せを何も得られないまま。
「くそ・・・くそぉぉぉ!!」
 私は柿崎の持っていた鉄パイプを取ると、機動隊に突進した。散弾銃が脇腹をかすめたが、止まらなかった。機動隊の盾にむかって鉄パイプを振り下ろす。盾にはひび一つ入らなかった。それでもやめなかった。何度も何度も盾に向かって殴りつけた。
 私の攻撃は数秒で終わった。盾に弾き飛ばされて倒れると、すぐさま取り囲まれて警棒でめった打ちにされた。腕といわず腹といわず、徹底的にぶちのめされた。あばら骨が折れる音が聞こえた。頭への一撃を受けて血を吹くと、ようやく意識を失った。最後に、誰かの泣き叫ぶ声が聞こえ、それがいつまでも耳に残っていた。
 
 目を覚ました時、真っ黒に汚れた天井が目に入った。真っ白だった精神病院の天井を思いだしたが、そこは病院ではなかった。
「よう、目が覚めたか」
 誰かが声をかけた。起きあがってみるとそこは檻の中だった。周りに見知った仲間達がいる。みんな顔中血だらけ、体中はあざだらけで、服もぼろぼろだった。
「ここは?」
「馬鹿、留置場だ」
「留置場?」
 それに関して私は、とりあえず罪を犯した人間が放り込まれる場所、という知識しかなかった。
「どうして我々がこんなところに?」
「どうして?馬鹿言ってんじゃねぇ」
「先に手を出したのは向こうなんだ。こんな一方的な話があるか」
「あのなぁ・・・法律ってのはそういうものなんだよ」
「なんて理不尽な」
「泣き言なんて聞きたくねぇぞ!諦めろ!」
 やりきれない思いだった。柿崎は殺されてしまったのだ。他にも死んでしまった者がいるかもしれない。そして生き残った者は檻の中だ。これでは動物ではないか。人間のすることではない。額に受けた傷がずきりと痛んだ。
「我々はこれからどうなるんだ?」
「ブタ箱行きだ」
「刑務所?我々は何か悪いことをしたか?」
「うるせぇぞ!それが法律ってものなんだよ!」
「ちくしょう!」
 壁を殴りつけた。鈍い音がしただけでびくともしない。手が痛いだけだった。
 しかしどうしてこんなことになったのか。一体、誰に迷惑をかけていたというのだろう? 全てを諦めてただ静かに暮らしていただけではないか。駅の一部を占有していたのは、他に住むところがなかったからしょうがなかったのだ。その程度のことも見過ごせないほど、土地に不自由していたというのか?そんなことがあるはずはない。治安の維持などどんな大義名分を掲げても、これはれっきとした迫害だ。我々を害虫と見なして駆除したのだ。血も涙もない。これが社会の、人のすることなのか。
「一ヶ月ほどここにいるんだ。その後に公判がある」
「その後は?」
「さっきも言っただろう・・・」
 私はどうにもならない未来に絶望し、ただ涙するだけだった。死んでいった柿崎の顔と声が、いつまでも胸に残っている。
 その後、私は留置場の中で切々と、社会に対して恨みをつのらせていった。腹が減って飢え死にしそうな時にも寒さで凍え死にしそうな時にも何もしてくれず、邪魔となったら害虫のように駆除して殺して閉じこめるのが社会のすることなのだ。社会に貢献できない負け犬や落ちこぼれには、人権すらまともに認められないのだ。それは社会がどんなに進歩しても消えない本性だった。
 仲間と話すこともなくなった。話しても悲しくなるだけだったからだ。
 時々、柿崎のことを思いだした。撃ち殺された柿崎。痩せて錆びついたような顔をしていたが、目にはいつもどこか高貴な雰囲気が漂っていた。浮浪者にまで落ちこぼれても、プライドを捨てきらない誇り高い男だった。機械のような気持ち悪い薄笑いしかしないそこらの金持ち共よりも、よっぽど気品のある人間だった。それが動物のように撃たれて死んだ。
 人を人とも思わぬ行為だった。復讐してやりたかった。だがそんな力はない。この檻の中で何ができるというのか。悲しみや憂いの心なんて何の役にも立たない。私は怒りの拳を振り上げた。だが振り下ろす先はどこにもない。
 何日か経った。公判を終えた仲間達が次々と下獄していき、仲間も残り少なくなっていた。もうそろそろ自分の番だと、頭の隅で考えていた。一方的に裁かれることは目に見えていた。我々には人権など認められないのだ。友の無念をはらすことも、理不尽を受けた事実を訴えることもできない。保健所で処理される犬や猫とまったく同じだ。たとえ下獄して虫けらのように殺されることになろうとも、忘れまいぞ、この恨みは忘れまいぞ。たとえ殺されることになったとしても、必ず復讐を果たしてやる。私はその念を心の奥深く刻み込んだ。
 ついに同じ監房の中には仲間が一人もいなくなった。文字通りもう後がない。
 ちょうど、昼食を終えた頃だった。看守が廊下を歩いてくる音が聞こえた。すでに日常的になっていたその音も、その時はやけに耳についた。規則正しく踵を上げて足を廊下に叩きつける。足音の主はまるで突然現れたかのように私の視界に入ってきた。どこへ行くのかと見ていたら、ちょうど私の監房の前で足を止めた。
 とうとう来たか、私は無感動にそう考えると短くため息をついた。
「凪、釈放だ」
「はぁ?」
 私は顔を上げると、看守と目を合わせた。そのまま、事態が理解できずに間抜け面を看守と突き合わせていた。
「保釈金が支払われたんだ」
「な、なんだと」
「身元引受人も来ている」
「引受人だと?」
「ともかく釈放だ。出ろ」
 私はやはり事態が理解できずに、半信半疑で監房を出た。まさか警察が冗談を言うとは思えないが、一体どういうことなのか。私の知り合いはあの浮浪者達だけだ。他にも入院以前に縁のあった人達と接触をはかったが、どれも拒絶されている。だからこの状況で私を檻から出そうなどと考える人間は存在しないはずなのだ。
 監房連を出ると、手錠を外された。長い廊下を歩くとそこは警察署のロビーで、制服以外にも何人か堅気の人々が何かしらの用でやってきていた。
 身元引受人とは誰だ?看守に問いただそうとするとすでに姿はなかった。私は途方にくれた。なんとなく天井に目を向けると、二階まで吹き抜けになった天井についた照明に目を奪われた。警察署のわりに洒落た作りだな・・・と思った。
 私がどうでもいい感傷にふけっていると、急に何かに体当たりされた。思わず転びそうになったが、二・三歩後退してなんとか踏みとどまった。だが背後の壁にしたたか頭を打ちつけて痛かった。何が起こったのだろうと思って目を向けて見ると、髪の長い女性が私の胸に顔をうずめて泣いていた。
「あ・・・あの」
 私は事態が理解できず、おずおずと声を出した。だが女性は泣きやまない。署内の視線を一身に受けてしまっていた。注目されることなど初めてなので、雰囲気をごまかそうと私はぎこちない笑いを浮かべて頭を掻いた。
「あ、あの、泣かないでください」
 私がとりあえずそう言うと、女性はなんとか泣くのをこらえようとしてくれた。だが嗚咽はなかなか止まらず、しゃくりあげる度に喉が鳴ってなんだか悲しい気持ちになってしまった。
「大丈夫ですか?」
 私はなんとか慰めようとあれこれ口にした。女性はその度に反応してようやく泣くのをやめてくれた。私の服はすでに涙でびしょ濡れになっていたが、すっかり汚れているこの服をこのさい気にすることはないだろう。
「凪・・・どうして敬語なんて使うの?」
 女性が顔を上げて、やっと出した一言はそれだった。さんざん泣いたせいで喉がかれたようになっていたが、まるで少女のように柔らかな声だった。それに女性に会ったのが初めての私が言うのも少し説得力に欠けるが、その女性はかなりの美人で私はものすごく緊張してしまった。
「えっと、あの・・・」
「五年ぶり?八年ぶりかな・・・もうずっと会えなかったから、数えるのも忘れちゃったよ・・・」
「そうじゃなくて・・・」
「でも、もういいよ。これからはずっと一緒だからね。大丈夫、私が守ってあげるから・・・」
「あの・・・」
 彼女の中で一方的に話が展開していくので、もちろん私はついていけなかった。何を言っていいのかわからず、慌てるだけだった。
「さ、帰ろ?辛かったでしょ・・・留置場なんかに入れられて」
 そう言いながら、彼女は私の手を優しく握った。血や埃でまみれた私の手が、彼女の傷一つない綺麗な手を汚すのではないかと不安だった。
 私のぎこちない動作を見て、彼女が怪訝な視線を私に向けた。
「凪、どうしたの?さっきから黙ってるし。私の名前、呼んでよ」
「う・・・」
 彼女が何者なのかはわからない。だが、話しぶりからしてかなり親しい間柄であるというのはわかった。きっと彼女は私に会えるのを心待ちにしていたのだろう。もちろん、私がすべてを捨てたという事実は知らずに。
「凪?」
「・・・わからないんだ」
 ようやく、その言葉だけ絞り出した。彼女が落胆するのを見ていられずに、私は目を伏せた。
「わからない?わからないってどういうこと?」
「もう何もかもわからないんだ」
 彼女が息を飲んだ。
「・・・どこから、どこから覚えてないの?」
「私が生まれたのは精神病院の中だ。私の記憶は病院での八年間と退院してからこれまでの記憶、それだけだ」
 彼女の顔を見ないように顔を伏せていたが、無駄だった。彼女は私の手を握ったまま足下に崩れ落ちた。嫌でも私と目があう。信じられないと、瞳が語っていた。
「そんな・・・」
「すまない。きっと、あなたは大切な人だったんだろう」
 私は慰めるように言ったつもりだったが、彼女は震えていた。今度は泣きだしさえしなかった。愕然とするあまり涙も出ないのか、この場合はいっそ泣いてくれた方がよかった。
「保釈金はいつか返すよ。わざわざ来てもらってすまなかった」
 もちろん返す当てなどない。彼女は答えずに、ずっと黙って私の手を握ったままだ。
「それじゃあ、私は行くよ・・・」
 歩きだそうとしたところで、彼女が強く手を握った。私は空いている手で振りほどこうとしたが、離さない。私は立ち往生してしまった。
「・・・さようなら」
 その一言で、彼女の手は力を失った。まるで糸が切れたように床に落ちた。私は一度振り返って彼女を見たが、俯いてその表情は知れなかった。後ろ髪を引かれる思いだったが、
私は出て行くしかなかった。
「はぁ・・・」
 外に出ると途端に寒かった。吐く息が白い。私は一度大きく身震いした。
「さぁ・・・どこへ行こうかなぁ」
 歩き出したものの、私は途方にくれていた。もうあの駅に戻ることはできない。だが行き場所がないからあの駅に行ったのであって、追い出されて行き場所があるわけがなかった。
「下手をすると明日の朝日が拝めないな」
 立ち止まって空に輝く三日月を見上げた。以前、仲間に聞いたが三日月は不吉の象徴だという。だが、いいや新月だ。違う満月だ。と、途端にそこら中の仲間と言い合いになって最終的には殴り合いになってしまい、結局どの月が不吉でどの月がそうでないのかわからなくなってしまった。どうでもいいことを思いだして、私は一人笑った。もうなくなってしまった楽園の思い出だった。
 そこに、懐かしい声が聞こえてきた。
「ん・・・?」
 足下にいたのは、あの猫だった。澄まし顔で私の顔を見ている。あの騒ぎでてっきり逃げてしまったと思っていたのに、こんなところで巡り会うとは。一体、どうやって私の居場所を突き止めたのだろう?
「・・・家族からも見放されたというのに、お前は見放さないんだな」
 私は猫を抱き上げて月に掲げた。月に照らされた猫は笑うように目を細めて小さく鳴いた。
「どこへ行こうか?私もお前も宿無しだ・・・」
 猫がするりと私の手の中を抜け出した。くるっと回転して見事に着地すると、それまで見たこともなかったような速さで走り出した。
「おい、待ってくれ」
 私は走り出した。猫は追いつくこともできないほど速く、私は視界から見失わないだけで精一杯だった。留置場で三度の飯をちゃんと食べていなかったら間違いなく倒れているだろう。それぐらい全力で走らされた。
「はぁはぁ・・・」
 繁華街はすでに走り過ぎてしまった。すでに郊外の住宅地に来ていた。そこで猫を見失ってしまった。私は肩を落として呼吸を整えると、猫を探した。だが寂しく光る外灯が目につくだけで、まったく発見できなかった。
「おーい・・・」
 精一杯叫んだつもりだったが、息が切れているせいで尻すぼみだった。もちろん応答もなかった。
「どこに行ったんだよ」
 私は当てもなくあちこち彷徨った。だがどこにもいない。それでもそのまま歩き続け、もう諦めようかと思ったところで、かすかに猫の鳴き声をとらえることができた。
「どこだ〜」
 あちこちをふらふらと歩き、ようやく猫を発見できた。マンションらしき建物のゴミ捨て場に座るとまるでこちらを招くように尻尾を振っていた。
「お前なぁ・・・こんなところで寝ろって言うのか。いつかの土管の中の方がまだましだぞ」
 猫はいつもと変わらない呑気な鳴き声を返すだけだった。私は脱力して、苦笑した。
「それに今日は冷えるぞ・・・こんなところで寝たら、凍え死んじまうじゃないか」
 私は非難がましい目を向けたが、猫は動かなかった。やがて私は諦めたように決心した。
「まあいいか、それでも・・・」
 私は猫と共にゴミ捨て場に腰を下ろした。猫は私の決意を察したのか、早々と横で丸くなっている。
「さらば・・・短い人生だったけれど・・・」
 最後に、私はもう一度月を見上げた。
「結局、どれが不吉な月なんだろうな?」
 私は笑って目を閉じた。空には鮮やかな三日月が変わることなく輝き続けていた。

 目が覚めた時、真っ白い天井が見えた。私は最初、それまで起こった何もかもが夢で精神病院のベッドに眠っていたのではないかと思った。だが額に受けた傷がまだ痛み、全てが現実であったことを物語った。ふっと頭の中に、死んだ柿崎の自嘲するような苦笑いがよぎった。
 上体を起こしてみると、そこは病院のような無機質な部屋ではなかった。窓にはレースのカーテンがかかっていて、床はフローリングだった。回転式の衣装ダンスが置いてある。寝せられていたベッドも普通のではなくソファーベッドだった。どうやらワンルームの家のようだ。一人暮らしには丁度いいところである。私はなんとなく以前の段ボールの住居を思いだした。
「目が覚めた?」
 そう言って部屋に入って来たのは忘れもしない、警察署で泣き崩れた、私の身元引受人になってくれた彼女だった。腕にはあの猫が抱かれている。かすかに部屋に入り込む朝日に照らされた彼女は、キリストを抱く聖母のように優しく見えた。
「びっくりしたよ。ゴミ捨て場で寝てたのを見つけた時は」
 そう言って彼女はベッドの縁に腰掛けた。猫が呑気な鳴き声をあげる。
「どうしてあなたが?」
「だから、下のゴミ捨て場で寝てたんだよ。この季節に外で寝たりしたら死んじゃうよ」
 もう死んでもよかったんだ、という言葉をどうにか飲み込んだ。助けてくれた彼女に対してあまりにも不実だと思ったからだ。
「ありがとう・・・たびたび、すまない」
「気にしなくていいよ。それにこのコ、私の猫だしね」
「・・・その猫が?」
「うん。何日か前にいなくなっちゃったんだけど、あなたと一緒に寝てるんだもん。びっくりしたよ」
「そうか。あなたの猫だったのか・・・名前は?」
「あなたはなんて呼んでたの?」
「いや、猫とだけ」
「じゃあ名前つけてあげないと」
「君の飼い猫だろう?」
「でも、あなたと一緒にいたんでしょ?」
「だが・・・名前なんて、考えつかないよ」
「じゃあ、護ってつけようか」
「護?」
「あなたの親友だった人の名前だよ」
 私の背に悪寒が走った。なぜかはわからないが本能的に過去を拒絶しようとしたのだ。心臓が打撃を受けたように鳴り、頭脳が大きく揺さぶられた。
「昔の話はしないでくれ!」
 とっさに叫んでしまった。彼女は驚いて身をびくりと震わせた。私を見る目が怯えたようなものに変わる。
「ご、ごめんなさい・・・」
「いや、いや、いいんだ。すまない。驚かせてしまった」
「私は大丈夫だよ」
「いや、もういいんだ」
 私は急いでベッドから起きあがった。今気づいたが、私が着ていたのは病院から支給された服でも留置場で与えられた薄布でもなかった。グレー色のたっぷりした寝間着だった。どうりで寝心地がよかったわけだ。
「これは?」
「あ、着替えさせたんだよ。あの格好じゃ寝にくいでしょ?」
「元の服を返してくれ・・・それより、他に誰かいるのか?」
「え・・・どうして?」
「君のサイズじゃないだろう。配偶者がいるのなら、男の私を連れ込んだりするのは正気の沙汰じゃない」
「あ、違うんだよ。他には誰もいないよ」
「じゃあ、なんで使いもしない服があるんだ・・・」
「えっと、その、安かったからつい」
「変な人だ。ああ、それより私の服は?」
「あるけど」
「返してくれ!」
「それを着て、どうするの?」
「ここから出ていく」
「だめだよ!」
 彼女が猫を離して私の肩に両手を置いた。押しとどめるように力を込める。猫は器用に着地すると、私の足下をうろうろした。
「出ていったって、行き場所なんてないんでしょ!?」
「ないさ!だけどここだって私の居場所じゃないんだ!」
 彼女の目に涙が浮かんだ。
「ここはあなたの場所だよ!出ていって、また恐い目にあったらどうするの!?」
「そんなのは平気なんだ!死ぬことだって恐くない!それより私に干渉しないでくれ!」
 彼女の腕を力任せに振りほどいた。勢いで床に倒してしまう。
「あ・・・」
 しまった。やけになってやりすぎた。しばらくなんて声をかければいいかわからずに呆然としていたが、彼女から嗚咽が聞こえ始めると黙っていられなくなった。
「す、すまない。泣かないでくれ・・・」
 とは言ったものの、なかなか泣きやんでくれなかった。
「泣かないでくれ。あなたが泣くと悲しいんだ」
 しばらくあれこれ口にして慰めようとしたが、効果はないようだった。
 私は彼女を抱きしめた。落ちつくかと思ったからだ。効果は、あった。彼女は次第に泣きやんで私にしがみついてきた。ふんわりと鼻に押しつけられた髪からとてもいい匂いがした。
「髪の匂い・・・」
「え?」
「匂いを覚えているような気がする」
「ほんとう?」
「ああ、なんとなくだが」
 彼女が私の首筋に顔をうめた。
「瑞佳」
「え?」
「瑞佳、私の名前」
「名前は覚えてないんだ」
「今から覚えて」
「わ、わかった。瑞佳・・・さん」
「そうじゃなくて、瑞佳。名前で呼んで」
「それはちょっと・・・」
「泣くよ?」
「わかった。み、みず・・カ・・・」
「ちゃんと呼んで」
「み、みずか」
「もう一度」
「瑞佳」
「そう、それでいいんだよ。凪」
 もう一度泣かれても困るので、彼女の気が済むまで私達は抱き合ったままだった。私は少し居心地が悪かったが、彼女の体はとても柔らかくて心地よかった。彼女の匂いも、なぜか私を落ちつかせた。
 どれくらいそうしていたろうか。猫、いや護が構ってもらえないのを寂しがるように鳴いた。彼女はそれで気がついたように、ようやく私から離れた。私も抱きしめていた腕から力を抜く。
「凪の匂いも変わってないよ」
 彼女がどこか夢見るような目をしながら言った。
「そ、そうか・・・」
 私は女性と抱き合ったりしたことなどもちろん初めてだったので、思考が混乱してしばらく何を言ったらいいのかわからなかった。本心はさっさと元の服に着替えてここを出ていきたかったのだが、そうするとまた彼女を泣かせてしまうだろう。
「凪、お風呂」
「え?」
「汚れてるよ、お風呂に入った方がいいよ」
「いや、すまないがもう私は・・・」
「いいから!そのことについては後から決めたらいいよ。汚れてるんだからきれいにしなきゃ、ね?」
「だが・・・」
「わかった?」
 彼女が少し怒ったような顔つきになった。
「わ、わかった」
 無言の圧力に押されてしまった。機動隊の戦列に鉄パイプ一本で突進したあの度胸はどこへいったのだろう。
 彼女に案内されて風呂に通された。病院にも風呂はあったので勝手はわかっている。湯を浴びて体を洗うのだ。
「こっちがシャンプーだよ。リンスは使う?」
「シャンプー?リンス?」
 彼女が外国語のような言葉を使うので私は驚いてしまった。一瞬、彼女は日本人ではないのだろかと本気で思った。
「凪、シャンプーわからないの?」
「病院には石鹸しかなかったんだ」
「・・・シャンプーっていうのはね、髪を洗うのに使うんだよ。リンスは、いっか。男の人が使うっていうの聞いたことないから」
「ああ、それだけで十分だよ」
「じゃ、ゆっくりしてね。ちゃんと洗うんだよ」
 そう言って、彼女は出ていった。私はとりあえず服を脱いで浴室の外に放り出した。浴室はなにか壁紙のようなものが貼ってあって、コンクリートが剥き出しになっていた病院の浴場と比べるとずいぶん洒落た感じだ。
 私はコックをひねって湯を出すと、タオルに石鹸をつけて体を洗い始めた。体を通過した湯はどれも黒く染まっている。どれだけ汚れていたか伺えるというものだ。私は夢中になって体を磨いた。すると今度はタオルが雑巾のように汚れてしまったのでそちらも必死で洗わなければならなくなった。瑞佳に教えてもらったシャンプーを髪につけて頭を洗ってみる。不思議なほど泡が出るので最初は驚いたが、こちらもすっかり汚れが落ちた。
 すっかりさっぱりして浴室を出ると、脇にタオルと着替えが用意してあった。タオルはいいんだが、どうして彼女の家には私の体格にぴったりの服がこうも都合良く揃っているのだろうか?不思議だったが、まあお金に余裕のある人はそういう場合があるのだろう。よくわからないが。
 私は新しい服に着替えて部屋に戻った。まるで生まれ変わったように気分がよかった。
「さっぱりした?」
「ああ、でもこの服は?」
「よく似合ってるよ」
「・・・そうか」
「じゃあ、今度は傷の手当てしないとね」
 彼女の手元には救急箱があった。
「傷?これくらい放っておけば治るよ」
「だめだよ!特にその額のおっきな傷、ばい菌でも入ったらどうするの?」
 ばい菌が入るのならこれまでの不潔な生活でとっくに入っていると思うが、そう言おうとしたのだが彼女に手をひかれて床の上に座らせられると何も言えなくなってしまった。彼女が勝手に手当てを始める。
「ちゃんと消毒しないとね」
「痛!」
「我慢しなさい」
「すごく痛い・・・うう」
 消毒液と傷薬を塗ってついでにガーゼまで当ててくれた。瓶やガラスの破片で怪我をしても舐めることしか治療手段がなかった昔を思いだした。皆はどうしているのだろう。
 顔も体も痣だらけの傷だらけで、全て手当てするのにずいぶんかかってしまった。それでも彼女はちっとも嫌そうなそぶりは見せなかった。むしろ嬉しそうだった。
「凪、足は大丈夫?」
「えあ、大丈夫だよ」
「・・・脱がすよ」
「ちょっと待て!」
「うわ・・・何これ、ひどい傷!色が変わっちゃてるじゃない!」
 火炎瓶の破片でえぐられたんだ、とは言わなかった。きっと余計な心配をするだろう。
「病院に行った方がいいかな」
「それだけは勘弁してくれ」
「ふぅ・・・大丈夫かな」
 傷は足の付け根あたりについていた。彼女がそれまでと同じように手当てをしようと、その部分に手を這わせた。その途端に私の中でそれまで感じたことのないような感覚が駆けめぐった。ぞくぞくするような快感だ。
「わ!」
「え!?」
 私は本能的に叫んで飛び退いた。心臓が早鐘のようになっているが、それよりも自分の中にわき起こった感情がわからなかった。あたふたと体や顔に手をやる。
「いや・・・なんでもない」
「どうしたの?傷をふさがないといけないよ」
「もうこの傷はいい・・・」
「だめ。ほら、じっとして」
 私は正体不明の感覚に怯えながら、その時間が早く過ぎるのを待った。恐怖とも空虚とも違う感情の正体は今でもわからない。
「はい、終わったよ。ズボンはいて」
「ああ」
 私は急いで服を着た。体のあちこち、特に下腹部に違和感があったが黙っていた。言ってどうにかなることでもないだろうと思った。
 私は自分の体に疑問を残していたが、傷の手当ても終わって一段落ついてみるとさっきまで朝日が差しこんでいた窓からは昼のやや強い日差しが射しこんできていた。
「あ、そういえば何も食べてなかったね。凪、お腹すいたでしょ?」
「ああ、そういえば・・・」
「今何か作るから待ってて」
 そう言うと彼女はぱたぱと台所に行ってしまった。代わりにそれまで忘れていた猫の護が私の膝の辺りに乗ってじゃれつき始めた。私が立ち上がると、護も一緒について来た。
「一つ聞きたいんだが、君の仕事は?」
 私が台所に顔を出してみると、瑞佳は何かを炒めているところだった。隣のコンロでは何かが音をたててゆでられている。
「近所の保育園に勤めてるの。今日は無理を言って休ませてもらったんだよ」
「無理に休まなくてもよかったのに」
「放っておいたら凪が逃げちゃうじゃない」
 私は言葉がなくなってそのまま引き下がった。護は何が嬉しいのか私の足下でぴょんぴょん飛び跳ねている。ソファーに座って護と戯れていると、なぜか無性に悲しくなった。
 しかしなにが悲しいというのだろう。こうして上等の服を着て、体も洗って清潔だ。いるのは粗末な段ボールの住居などではなくきちんとした家だし、すぐ近くで女性が私のために食事を作ってくれている。
 悲しいのはそんな表面的なところからくるのではなかった。もっと心の奥底からくるのだ。段ボールの住居に住んでゴミを漁っていたあの頃の私は貧しかったが、気楽だった。それは自分が何者でもなかったからだ。だが今の私は過去の自分を知っている人と出会い、何者かになろうとしている。それが恐ろしいのだ。生きることにも死ぬことにも責任を取らなければならなくなる。
「あそこで・・・何も知らずに死んでいれば・・・」
 消えてしまった楽園を思い出す。あそこにいた時、私はただの名もない浮浪者だった。一旦そうでなくなれば、私は何者かにならなければならない。だが私は何者だというのだ。金も地位も、肩書きすらない。何者かであるには私はあまりにも脆弱すぎるのだ。
「凪、お待たせ」
 瑞佳が二人分の料理を盆に乗せて部屋に入ってきた。今になってようやく気づいたが、部屋には美味しそうな匂いが満ちている。私は空腹だった。
「そこにあるテーブル、出してくれる?」
 瑞佳が目で壁に立てかけてあるテーブルを差した。私は無言でそれを持つと、部屋の中央に据えた。瑞佳がその上に盆を乗せる。何か麺料理のようだったが、見たことがなかった。
「これ、なんだ?」
「スパゲティだよ?」
「初めて見た」
 二人でテーブルの前に腰掛けた。
「凪、病院ではどんなもの食べてたの?」
「魚料理が多かった。というか魚ばかりだった。種類がひどく少ないんだ。三日もすれば
同じものが出てくる」
「ふーん」
「むしろ外に出てからの方がいろんなものを食べたな。何がなんだかわからないものも多かったが・・・」
「その話はいいよ。食べよ?」
「うん・・・」
 瑞佳がフォークを渡してくれた。だが、私は動かなかった。黙って湯気をたてるスパゲティを見つめている。
「どうしたの?」
「なあ・・・瑞佳。私はこれからどうしたらいいんだ?」
 私の神妙な様子に瑞佳も動きを止めてしまった。それまでの明るい雰囲気が吹き飛び、瑞佳は哀れむような目で私を見て、言葉を選ぶようにゆっくりと話す。
「それは、これからゆっくり考えればいいよ」
「考える?私は自分が誰だか知らないんだ。いや、誰でもないんだ。私は消えてしまった存在なんだ。それだというのに、これから世間を前にしてどんな風に生きていったらいいんだ?」
「凪・・・」
「君は生まれた時からの記憶をもっている!両親の顔も、幼い頃の体験も。どんな人々に会って、自分がどう変わってきたか知っている!だが私は知らないんだ。なにも知らずにたった一人で放り出されたんだ」
 私は頭を抱えてうずくまった。
「不安なんだ・・・押し潰されそうだ。私は一体何者なんだ?」
「凪」
 瑞佳が後ろから抱きしめてくれた。
「失ってしまったんなら、これから作っていけばいいよ。凪は凪だよ。今こうしている凪だよ。それにあなたは一人じゃないよ。私がいるから・・・」
 私は瑞佳の手を握った。
「君は・・・どうしてそんなに優しいんだ。どうして私を支えてくれる?」
「恋人同士だったんだよ」
「君と?」
「そう」
「けれど、君が愛していたのは私じゃない」
「凪は凪だよ。それは変わらないし、私は決めたんだよ。何があっても凪を愛そうって」
「私は君を愛していない」
「それでもいいよ。私は凪の力になりたいんだ」
 何と言ったらいいのかわからなかった。ただ瑞佳の手を握って、震えていた。涙を隠そうと私は顔を落とした。瑞佳はずっと私を抱きしめていてくれた。
 その後、ようやく落ちついた私は瑞佳と二人でスパゲティを食べた。冷めてしまったスパゲティはとても美味しかった。

 瑞佳は過去の私のことについて何も話さなかった。私が過去の自分を他人としてしか認識できないということを理解してくれていたのだ。彼女が愛していたのは間違いなく過去の私だというのに、それを無理に蘇らせようとすることもない。献身的な彼女の愛情は逃げだそうとしていた私の心を押しとどめ、現実に繋ぎとめていた。
 夜。私は床に寝ると言ったが、瑞佳はベッドで一緒に寝ると言って聞かなかった。離れて寝るのが不安だと言う。
「どこにも行かないと言ったのに」
「凪、目が泳いでたもん。迷ってる証拠だよ」
「う・・・」
「それに一緒に寝た方が温かいよ?」
 狭いベッドの中で、私達は寄り添いあうように寝ていた。彼女の頭が私の胸の上に乗っている。懐かしい匂いがした。なんだか遠い昔に同じ様なことをしていたような気がする。
「八年前もこうして君と?」
「あの頃はまだ両親がいたから、しょっちゅうってわけじゃなかったけど。たまにね」
「私の両親は?」
「あ・・・凪には、両親がいなかったんだよ」
「孤児だったのか?」
「そうじゃないけど・・・親戚の人と暮らしてたの。ほとんど私生活には干渉してなかったから」
「そうか・・・」
「凪、捨てられたわけじゃないんだよ。まだ幼い頃に大変なことがあって・・・」
「今の私にはもう関係のないことだ」
「・・・そうだね」
 彼女が少し悲しそうな顔をした。彼女の中にはまだ昔の私に未練があるに違いないのだ。しかしそれが私には恐かった。
「瑞佳。私の話をしよう」
「どんな?」
「仲間の話だ。一緒に暮らしていた」
「うん・・・」
「柿崎という男がいた。すごく痩せていたんだが目はいつも鋭く輝いていてな、伸ばしっぱなしになっている髭や髪の毛と相まって見た目は極悪人そのものだった」
「ふうん」
「でもな、そいつは悪人なんかじゃなかったよ。犯罪を犯したことは一度もなかったんだ。
ただ小さな頃から恵まれていなくて・・・働こうと思ってもいつもうまくいかなかったんだ」
「うん・・・」
「最終的にああいう暮らしをすることになったんだが、それでもあいつはどこか誇り高かった。決して地べたには寝ないんだ。人間としての尊厳を守るためとか・・・おかしなプライドを持っていた」
 私はずっと一人で喋り続けていた。それは自分の価値や存在を取り戻そうとしているようにも思えた。
「いや、実際にプライドの高い男だったんだ。落ちぶれるところまで落ちぶれても、決して誇りを失わなかった。あれだけ強い男がどうして世間に認められなかったのか、私には不思議だった」
 それまでの自分と、憧れていた人の死を話した。
「そしてやつは殺された・・・抹殺されたんだ。最後まで誰からも愛されず守られず、可哀想な男だったが、勇敢な最期だった。あいつはあいつで精一杯人生と戦ってきたんだ」
 私は話すのに夢中になっていて、瑞佳を見ていなかった。ふと気がついて瑞佳を見てみると、すでにすうすうと寝息をたてていた。彼女にまったく関係ない世界の話だったから、きっと退屈だったんだろう。
「ふう・・・」
 彼女の幸せそうな寝顔を抱いて、私も目を閉じた。安らかな気分だった。誰かに愛されるということが、ここまで安心することだと知らなかった。そして一瞬、それを失う恐怖に襲われた。それを繋ぎとめるにはどうしたらいいのか、その時の私にはわからなかった。

 次の日から私の仕事探しが始まった。もちろん学歴もない手に職もない私が選べる仕事は限られていたが、幸いなことに体だけは丈夫だったので必然的に力仕事になった。
「力仕事なら学歴不問だよ」
 だが私はどの仕事の内容もうまくつかめなかった。そもそも求人情報からして暗号の羅列だったし、どんな職業があるのかさえ知らなかった。こんなことで果たしてやっていけるのか不安だったが、ともかく何かを始めないわけにはいかなかった。
「きっと大丈夫だよ、凪。心配しないで」
 瑞佳は優しく励ましてくれた。ここまで世話になったのだから、なんとか私も瑞佳の期待に応えたかった。
 いろんな仕事があったが、どこも経験者や経歴のある人間の方が強くてつかまらず、結局人手不足の引っ越し業に落ちついた。力仕事の面接はすぐに終わる。もちろん経歴が必要だったが、瑞佳に言われた通り精神病院での入院の事実などは嘘で塗り固めて誤魔化した。嘘をついていいのかと瑞佳に尋ねたところ、これくらいなら大丈夫と苦笑いして答えた。面接はめでたく合格となり、基本的なテキストを渡されてその日は帰された。しばらくは研修として熟練社員の下で働くのだ。
「よかったね凪。頑張ってね」
 瑞佳の期待のこもった眼差しが、少し痛かった。
 翌日出社すると、私はなにか恐ろしい場所に来てしまったように思った。どうもここの人達は始終怒り狂って叫んでいないと気が済まないようなのだ。社内はまるで非合法の格闘技場のように怒号が飛び交っており、誰も彼もが青筋をたてて怒り狂っていた。何がそんなに腹立たしいのだろう。私達新入社員は制服に着替えさせられると一カ所に集められ、やはり怒り狂ったような先輩社員に何度も訓示を述べさせられた。声が小さいと言われ何度もやらされるのだ。戦うわけではあるまいし、なぜここでこんなそんなにエネルギーを使わなければならないのか?それから我々はそれぞれ熟練社員の下にわりふれられ、トラックに押し込まれた。現場につくと、まるで家畜を追いたてるようにトラックを降ろされた。
 労働が始まった。まず鉄の掟として、絶対に休んではならないのだ。仮に死んだとしても動くのをやめてはならないという無茶苦茶な命令が下されていた。私はせっせと荷物を運んだのだけれど、どうも他の新入社員と比べて要領が悪いらしかった。八年間も本ばかり読んで暮らしていたせいで頭の働きが鈍っているのかもしれない。そもそも私には慌ただしい仕事は向いていないのだ。
「誰が休んでいいと言った誰が!?」
 私が大きな荷物を運び終えて一息入れていたところに、いきなり先輩社員に後ろから殴られた。まったく手加減がない。後頭部を思い切り殴られて、一瞬視界が暗転した。倒れた私は起きあがるとすぐさま殴り返そうとしたが、瑞佳の期待のこもった眼差しが頭をよぎった。拳を固めただけで動きを止めた。
「何だその目は、こら!」
 さらに先輩社員が私の前頭部を上から殴りつけた。もう我慢できなかった!私は彼の頭を両手でつかむと顔面に思い切り頭突きをくらわせた。鼻から血を吹いてふらふらとよろけた先輩社員の腹を殴りつけると、腹をかばうように体を丸めた。そこを間髪入れずに両手で抱え上げると、二階から思い切り投げ飛ばした。蛙がつぶれるような音と声をたてて、先輩社員が地上に叩きつけられる。やってしまった後で、私はようやくしまったと思った。
 あえなく私はそこで社員全員に押さえつけられ、警察まで呼ばれた。相手に怪我を負わせてしまって傷害事件となったが、相手が先に暴力をふるったところを別の社員が見ていたため一晩留置場に放り込まれるだけで済んだ。だがもちろん即日退社となり、給料も払われなかった。一晩明けて留置場から出ると、瑞佳が迎えに来ていた。私はあわせる顔がなく、ずっと目をふせていた。
「大変だったね」
 瑞佳はその一言を言っただけで、後は何も言わなかった。
 私はその日一日、何もせずに瑞佳の家にこもっていたが、翌日からはまた仕事を探し始めた。
「凪のせいじゃないよ。きっと仕事が悪かったんだよ」
 瑞佳はまだ諦めずに私を励ましてくれた。私もどうにかやる気を奮い起こした。
 あの手この手でなんとか審査の網をくぐり、今度は清掃業の仕事についた。だがまた同じようなことがあった。掃除などしたこともない私にはほとんど勝手がわからなかったため、ワックスと洗剤の順序を逆にしてしまったのだ。モップで顔を殴られ、逆上した私は近くにあったバケツをひっつかんで思い切り頭から殴りつけてやった。相手が頭から血を吹いて倒れたところで、私はまたようやくしまったと思った。
 レストランでウェイターの仕事に就いたときは注文をまとめて覚えることができなくて苦労した。それでも職業柄、殴られたりすることはなかったのでなんとか数日続いた。だが、ある日高校生のグループを相手にした時に注文を何度も聞き返す私はひどい言葉で愚弄された。それでもなんとか我慢していたが、頭を下げたところに上から水をかけられてついに切れてしまった。私は笑顔で水をかけたやつを殴り飛ばすとガラスを破って店の外にまで吹っ飛ばした。その場で高校生全員を相手に大立ち回りを演じてしまい、相手を残らず起きあがれなくなるまで殴り倒すと、これは新聞にまで載ってしまった。
 何度目かの留置場暮らし、いい加減にしないとそろそろ刑務所行きになってしまうかも知れない。瑞佳にあわせる顔がなく、迎えに来ないでほしかった。だが瑞佳は迎えに来ていた。しかも笑顔で迎えてくれた。
 私は際限なく与えられる瑞佳からの愛情についに耐えきれなくなり、その場を逃げ出してしまった。
「凪!」
 彼女は追ってきたが、所詮は女の足だ。私はすぐさま姿をくらませると街の雑踏に消えていった。私もほとほと自分に愛想が尽きた。もういい。これ以上は彼女に迷惑をかけられないし、自分が社会に適応できない人間だということもわかりすぎるほどわかった。私は夕方になるのを待って瑞佳の家に戻ると、彼女が帰ってきていないのを確認して忍び込み、彼女からもらった服を脱ぎ捨てて元の病院から支給された服と留置場で与えられた薄布をまとって外に出た。
 瑞佳の温かかった家を出ると外の寒さが身にしみて感じられる。どこへも行く当てがない私は、以前と同じように寒さに震えながら街を彷徨った。
「結局もとの通りだな・・・いや、これでよかったんだ」
 私は未練を引きずりながら、街を歩き続けた。どうしても瑞佳のことが頭から離れない。抱きしめた時の包み込むような柔らかい感触。懐かしいような、安心させてくれる匂い。寄り添いあうように寝たあのベッドの寝心地のよさを思い出すと、段ボールにくるまって寝るのがたまらなく嫌だった。そもそも最初から私のことなど構ってくれなければ、最初から最後までただの浮浪者としてなんの不幸も苦悩も背負わずに死ぬことができたのだ。それでも瑞佳の澄んだ空のような笑顔を思い出すと彼女を責める気にはなれなかった。
 私は体力を無駄に消耗することも構わず、歩き続けた。これから嫌でも元のホームレスとして生活するしかないのだ。合理的に考えればすぐに寝床を見つけてさっさと横になり、無駄な体力を使うことは極力避けるべきなのだが、私はどうしても歩き続けて瑞佳のことを考えるのをやめることができなかった。
「凪!?」
 一瞬、瑞佳かと思った。だが振り返った先にいたのは、まだ顔に幼さが残る少女だった。
「凪だ!わぁ〜久しぶり!」
「・・・君は?」
「あれ、あんまり久しぶりだから忘れちゃった?あ、それとも私があんまり大人っぽくなったからわかんないかな〜」
「・・・子供がこんな夜中にうろついてちゃだめだ。家に帰りなさい」
「凪、私がいくつぐらいに見える?」
 私は少女の顔と体を舐めるように見た後、少し考えた。
「15歳くらいかな」
「はっずれ〜!20歳だよ20歳、もう大人だよ♪」
 少女はそう言うとウィンクして見せたが、かわいいだけで色気はまったくない。
「ねぇ、私のこと本当に忘れちゃったの?」
「悪いが覚えてないんだ」
 少女は動物のように私の周りを走り回った。まるで不思議なものでも見るような目で私のことを見ている。
「え〜!?私だよ、繭だよ。思い出さないとまたみゅーって言って困らせちゃうぞ〜!?」
「・・・・・・」
「なに、本当に忘れちゃったんだ・・・傷つくなぁ、私凪のことちょっと好きだったんだぞぉ」
「いや・・・記憶喪失なんだ」
 傷つく、という言葉に私は反応してしまった。あまり精神病の事実は公にしない方がいいと瑞佳に言われていたので黙っていたが、この子はどうやら本当に私と知り合いだったようだ。
「えぇー!?記憶喪失!?」
 少女はさらに信じられないというような目に変わった。ころころ表情が変るので見ていると疲れる。
「うそー!?全部忘れちゃったの!?」
「少なくとも君のことはまったく覚えてない」
「うわぁー、ショックだなぁ・・・それじゃ、今はどこで暮らしてるの?」
「ん・・・家はもうないんだ」
「そ、そうなんだ。可哀想だね。私の家に来る?」
「君は、いや繭。早く家に帰りなさい」
「だから私は大人だって言ってるでしょ。ねぇ、せっかく会ったんだからお話しようよ」
「お話?」
「ほら、そこのお店にでも入ろ?」
「私は文無しだが」
「じゃあ奢ってあげるよ」
 私と繭は近くの喫茶店に入ってあれこれ話し込んだ。繭が機関銃のように話しかけてくるので私はすっかり顎が疲れてしまった。
「へぇー、それじゃおねーちゃんのところから飛び出して来ちゃったんだね」
「ああ・・・なぁ、繭。君はもう家に帰った方がいいと思うんだが・・・」
「だから私は子供じゃないってば・・・」
 急に暗くなったように思えた。店が終わったのかと思ったが、そうではなかった。周りを取り囲まれていたのだ。気づいた時には、私と繭のテーブルの周りを六人ほどの少年達が取り囲んでいた。
「なによ、あんた達」
「おいおい、子供がこんな時間までうろついてちゃだめだろ」
「補導されたくなかったらちょっと付き合えよ」
「どいつもこいつも私を未成年扱いするな!」
「うるせぇな。さっさと来いよ!」
 少年の一人が繭の手を強引に掴んで引き寄せた。
「や・・・凪、助けて!」
「その子に手を出すな」
「なんだよ、おっさん。やるのか」
 少年の一人がナイフを抜いた。
「わ!凪、危ない!」
 私は素早くナイフを持った少年の手を掴んでねじり上げると、そのまま腕の骨を外した。
少年は悲鳴をあげて床にのたうちまわる。
「やりやがったな」
 すると一斉に少年達が飛びかかってきた。背後にいた一人が私を羽交い締めにすると、別の男が思いきり腹を蹴り上げてきた。これは効いたが、私は痛みを無視すると背後の男に足をからませ、飛び上がって激しく背中から床に墜落した。羽交い締めにしていた男が下敷きになって泡を吹く。倒れた私の脇腹を蹴ってきた男の足を掴んで引き倒すと、拳を思い切り鳩尾に振り下ろした。第二撃を顔面に見舞い、二人目が血を吹いて卒倒する。私が起きあがると、相手が悪いと思ったのか残りの二人は仲間を見捨てて逃げ出した。繭を捕らえていた少年だけが後に残される。
「いえーい!凪やっちゃえ〜!」
 捕らわれたままの繭が呑気な声援を送ってくれた。
「ちくしょう、動くんじゃねぇ」
「きゃ!」
 繭の声援がぴたりと止む。少年が繭の首筋にナイフを突きつけたのだ。
「動くんじゃねぇぞ・・・」
 少年がゆっくりと後ずさりする。そこを繭が一瞬の隙を突いて、男の腕に噛みついた。悲鳴をあげ、はずみで繭を離してしまった少年の顔面に今度は私が鉄拳を見舞った。少年は吹っ飛ばされたまま起きあがらなかった。
「やった♪私のお手柄だね♪」
「あんまり喜んでる場合じゃないぞ」
 私は抱きついてきた繭を引き離すと、手を掴んで店の外に出た。思った通り通報されていたらしく、道の向こうから赤ランプをつけたパトカーが駆けつけてきていた。
「逃げるぞ!」
「波瀾万丈だね♪」
 どこか楽しそうな繭の手を掴んで、私は通りと言わず路地と言わず猫にでもなったつもりで駆け抜けた。ようやくまいたかと思って立ち止まると、ちょうど駅の前だった。私も繭もすっかり息が切れていた。
「ここまで来れば大丈夫だろ」
「はぁふぅ・・・疲れたぁ・・・」
「さぁ、繭。危ない目にもあったことだし、もう帰るんだ。いいかい?」
「うん・・・危なかったけど、楽しかったよ。凪って強いんだね」
「こんな力があっても、なんの役にも立たないさ」
「そんなことないよ。私のこと守ってくれたじゃない」
「・・・・・」
「じゃあ私は帰るけど・・・その前にちょっといいかな?」
「なんだい?」
「手の中を見て」
 繭はそう言うと、両手で小さな袋を作って見せた。だが中に何があるのかは見えない。
「なんなんだ?」
 私は身を屈めてみたが、やはり手の中には何も見えなかった。
「そのまま目をつぶって」
「ん?ああ」
 私は目を閉じた。すると首に何か感触があった。私は少し驚いたが、目はつぶったままだった。繭は首に手を巻きつけて私にぶらさがるように抱きついてきた。それと同時に唇に何か柔らかいものが触れた。
「ん?」
 さすがに私は目を開けた。すると繭の顔が目の前にある。一体、何が起こっていたのか瞬時には判断がつかなかった。
「ふは・・・」
 繭が吐息をもらしながら私から唇を離した。繭は少し恥ずかしそうに俯いていたが、私は狐につままれたように目をぱちぱちさせていた。
「凪、ラッキーだよ。私のファーストキスだよ」
 そう言って、繭はきびすを返した。
「じゃあ、またね凪!」
 そのまま駆け去っていった。私は呆然としていて、別れの一言も言えなかった。しばらく立ちつくしていたが、ふと聞き覚えのある声を聞いて足下を見た。
「護?」
 見ると護が私の靴にじゃれついている。
「お前がいるということは・・・」
 私は迷子にでもなったようにきょろきょろと辺りを見回した。するとやはりいた。雑踏の中に紛れ込んでしまって気がつかなかったが、瑞佳が立って私の方を見ていた。こちらが気づいたのに分かると、瑞佳はゆっくりと私の方へ近づいて来た。
「この子、凪の居場所が絶対に分かるみたいなんだよね・・・」
 瑞佳はふっと視線を逸らした。
「ふ〜〜〜ん。落ち込んでると思ったら、繭に慰めてもらってたんだね」
「いや、あれはあの子が勝手に・・・」
「言い訳なんか聞きたくないよ」
「だから本当に・・・」
 瑞佳はしばらく目を逸らし続けていて私の言う事なんて聞いていないように見えたが、またふっとこちらに向き直ると、微笑していた。
「わかってるよ。繭のいたずらだってことぐらい」
「なんだよ。最初からそう言ってくれ」
 瑞佳はいたずらっぽく微笑んだ。
「逃げたからお仕置きだよ。さ、もう帰ろう、凪?」
 そう言うと瑞佳は私の手を優しく握った。さっきの格闘で血にまみれているのにもかかわらず、冷えた私の手を瑞佳は温めてくれた。しかし、私は瑞佳の手を振りほどくと顔を逸らした。
「帰れない。もう帰れないよ、瑞佳」
「まだ私を困らせるの?」
「そうじゃない。これ以上は君の世話になれない。私はやはり落伍者なんだ。まともに働くこともできない。それに君が愛していたのは前の私であって、別人なんだ。君は錯覚しているだけなんだ。短い間だけれど、楽しかったし、嬉しかった。愛されるってことがどれだけ幸せなことか気づかせてくれた。君の温もりは死ぬまで忘れない。さあ・・・私はただの浮浪者だ。君は元の生活に戻るんだ。行ってくれ・・・」
 去っていく音は、聞こえなかった。逆に瑞佳は近寄ってくると、ぱしんと私の頬を叩いた。そこでようやく私は顔を上げ、痛みでひりひりする頬に触れた。瑞佳の瞳が潤んでいる。
「約束・・・したんだ」
「約束?」
「うん。もうずっと前にね、もしも取り返しがつかないほど自分がおかしくなっても、お前は側にいてくれるかって凪が私に聞いたの。私、約束したんだよ。ずっと側にいるって・・・」
「別人なんかじゃないよ。凪は凪だよ。だから私は側にいるんだ。なのに・・・そんな悲しいこと言わないでよ・・・」
「瑞佳・・・」
「さ、帰ろ?私達の家に」
 その夜、二人で手をつないで家まで帰った。帰るべき場所があるというのは、とても幸せなことだ。何もなかった私に急にそれが与えられたせいで、私は少し恐かったのかもしれない。際限なく与えられる瑞佳の愛情、笑顔・・・こんな私を見放さないでいてくれる母のような優しさ。
 私は知らず知らずのうちに、瑞佳に惹かれていた。心の底では、逃げ出してしまった私を追いかけて、見つけてくれることを望んでいたのかもしれない。愛する人だからこそ、そう信じていたのかもしれない。瑞佳は私を見つけてくれた。そして家へ、彼女の元へ連れ戻してくれた。嬉しかった。だが何もできない、想いを口にすることすらできない自分が無性に悲しかった。

 瑞佳の家に戻ったものの、私は再び仕事を探す意欲を失っていた。何もせずにぼうっとしているしかないが、瑞佳は怒らないし責めもしない。
「元気が出ないなら、元気が出るまで待ってればいいよ」
 そんな瑞佳の優しさが今の私には辛かった。働けない、瑞佳の助けにもなれない。そもそも彼女の側にいる資格すら自分にはないのだと思いこみ、自己嫌悪の日々が続いた。私という荷物があるかぎり、瑞佳は他の異性と接触することすらできないだろう。それは女性としての幸せを失っているに等しい。彼女の助けになりたいと思っているのに、足枷にしかなっていない自分が恨めしくてしょうがなかった。
 思考は悪循環を続け、私は日に日に力を失っていった。働こうにも、私はすでに外の世界が恐くてしょうがなかった。しかし瑞佳の部屋にいても力が湧いてくるわけではない。瑞佳に優しくされればされるほど、脱出しようのない深い海の底へ沈んでいった。
「そうだ、凪。私の保育園に来てみない?」
 そんな私の心情を察してか、瑞佳がそんな提案をした。子供達と遊べば気分転換になると言うのだ。私は子供であっても人間であるには違いないと思い、きっとひどい目にあわされると思いこんでいた。だが瑞佳が子供達はそんなことをしたりしないと言ったので、信じることにした。
「ほら、ここだよ」
 そこは住宅街の一角にある小さな保育園だった。平館の作りで、何十人かの園児が預けられている。作りはとても貧相なのに、中からは楽しそうなはしゃぎ声が始終聞こえていた。私は子供のように瑞佳に手を引かれると、まずは園長の所に通されて一日だけ園児と一緒に遊ばせてほしいと頼まなければならなかった。私が記憶に障害があって、事実上生まれてから八年しか経っていないという事実もうち明けざるをえなかった。園長は私に同情したのか、一日だけなら構わないと承諾してくれた。
「よかったね、凪」
 私は瑞佳の担当しているクラスへ一緒に行き、今日はこのおじちゃんが一緒に遊んでくれますよと瑞佳に紹介された。子供達は口々に何か叫んでいて、何を言っているのかまったくわからなかったが、とりあえず拒絶はされていないようだった。
 それから、私は園児達と一緒に時間を忘れて遊んだ。最初は恐かったが、園児は屈託がなく、なにか失敗しても罵倒したり殴ったりしなかった。一緒に積み木を組み立て、ボールを蹴りあって遊んだ。子供達はともかくなんでもおもちゃにして遊ぶことができた。一枚の紙でも一本の棒でもともかくなんでも遊び道具に変えてしまう。私にはそんな柔軟性はなかったが、子供達を体中に巻き付けて走り回ってやるととても喜んだ。砂鉄に磁石を突っ込んだように、そこら中の子供達が私に引っ付いてきた。私と園児の楽しそうな様子に、瑞佳も嬉しそうだった。
 その日、ちょうど昼食が終わった後の時間に絵を描くことになった。私は瑞佳と一緒に
子供達を回って絵を誉めてあげるのだ。私は子供達の絵が上手だとは思えなかったが、上手だと言うと喜ぶので正直な感想は述べなかった。
「ねえ、おじちゃんもかいてみて」
 一人の女の子が私にクレパスを渡してそう言った。絵なんか描けないよと言っても聞いてもらえず、仕方がないので私は画用紙とクレパスを手に取った。
「何を描けばいいのかな?」
 私が尋ねてみると、女の子は園内にある大きなポプラの木を指さした。だからそれを描くことにした。最初はどうすればいいのかよくわからなかったが、子供達のように自由気ままに描けばいいのだと思い至り、ともかく頭に思い浮かぶ通りに描いた。クレパスの種類は限られていたが、私は少ない種類を使いこなして見事にポプラの木を描いてみせた。それだけでは寂しいので木を何本か増やして森に変えると、ついでに木こりの小人を何人か描き足して絵を完成させた。それを渡した時の女の子の喜びようときたらなかった。
 数分後、私のところに園児が殺到してきた。誰も彼もが私に絵を描いてと頼んでくる。
 絵を描かないといけないのは子供達じゃないのかと瑞佳に尋ねたが、別に構わないと言われたので私は園児達の注目の中で絵を描き続けた。
 いろんな絵を描いた。大荷物をしょっている蟻の絵や、女神が天空から風を吹かせている絵。巨大なトカゲがジャングルジムを占領している絵を描いた時は、園児が何人か泣いてしまった。
「凪、絵が上手なんだね」
 瑞佳も感心したように見ていた。
「そうかい?」
 私は飽きることなく絵を描き続けた。結局その日は園児の人数分だけ絵を描きまくり、気づいた時には親が迎えに来る時間になっていた。子供達は私の描いた絵を掲げて親の元へ走っていった。
「凪に絵が描けるなんて私知らなかったよ」
「絵なんてもんじゃないさ。ただの落書きだよ。それより瑞佳、ここにあるクレパスと画用紙を少しもらっていっていいかい?」
「いいよ。気に入ったの?」
「ああ、とてもね」
 それから私はぼうっとする代わりに絵を描くことになった。なんの解決にもなっていないかもしれないが、少なくとも絵を描いているときだけは嫌なことを考えずにすんだ。いいかげんに瑞佳に愛想をつかされるのではないかとか、瑞佳に迷惑ばかりかけて自分は最低の人間だとか、考えてみると瑞佳のことばかりだが、少なくともそれらの思考を頭から払いのけることができた。
 画用紙の表に描き終わったら裏を使い、一度描いた面にもう一度上から描くこともあった。画用紙は保育園にいくらでもあるので不自由しなかったが、それでも切れて描くものが無くなった時に、壁に巨大な絵を描いてしまった時はさすがに瑞佳も怒った。
 そんな日が幾日と続き、最初に描いた時よりも私の画力は格段に上達していた。これがなにかの役に立たないかなと考え、私は路上で絵を売ってみることにした。かつて、絵の上手な仲間が路上で絵を売っていたのを思いだしたからだ。
 人通りの多い場所を選び、私は自信作と思えるものだけ並べて絵を売ってみた。だが、時々目をくれるだけでまったく絵は売れなかった。中には馬鹿にして絵を踏みつけられ、ひどい言葉で愚弄されたこともあった。瑞佳に迷惑をかけまいと何もやりかえさなかったが、ひどく惨めだった。
 絵を売り始めて何日か経った。絵はまったく売れなかった。私は瑞佳に買ってもらった画板を使って絵を売っている最中も絵を描いていた。できれば綺麗な風景がモデルにほしかったのだが、贅沢は言えない。その日も私は売れない絵を前にして絵を描いていた。
「ちょっと失礼するが・・・」
 描くことに夢中になっていて気づかなかった。見ると、古ぼけたスーツに身を包んだ老人が絵の前に座り込んでいた。老人は身なりを整えていたが、伸ばしっぱなしになっている白髪と髭は下手をすれば浮浪者のようだし、顔つきもみすぼらしくて敗退の人生を歩んできたことを悲しく物語っているようだった。
「この絵、あなたが描いたのかね?」
「ええ、そうですが」
「よかったら少し売ってくださらんか?」
「買ってくれるんですか!?」
 私は狂喜した。このさい買ってくれるなら老人でも子供でもなんでもよかった。私は特に自信のあるものを三枚ほど勧め、老人は三枚とも買っていった。一枚五百円で合計千五百円の収入だった。クレパスと画板の代金を考えるとまだ赤字だが、夢にまで見た収入だ。
私は嬉しくて、その日は早めに切り上げると家へ飛んで帰った。
「絵が売れたんだ。よかったね」
 瑞佳も一緒になって喜んでくれた。私はようやく得た収入が嬉しくて、瑞佳を抱きかかえると部屋中を跳ね回った。
「わー!凪、無茶しないでよ〜」
 下の階から苦情がきてさすがにはしゃぐのはやめたが、私はその後もずっと底抜けに上機嫌だった。
 それからまた数日が過ぎたが、期待と違って絵は再び売れることはなかった。またあの老人が来て買ってくれないだろうかと考えながら、画用紙にクレパスを走らせていた。
「もし、私のことを覚えているかね?」
 聞き覚えのある声がした。どこか自信なさげのしゃがれ声。私はもしやと思ったが、画用紙から目を上げるとまたあの老人が絵の前に立っていた。
「また、絵を買いに来てくれたんですか?」
「いや、ちょっと今日は別の用事でしてな・・・」
 老人は今日は一人ではなかった。連れのまだ初老の男性は老人とは対照的にずいぶん上等そうなコートを羽織り、勝利の人生を歩んできたことを物語るような自信に満ちあふれた顔をしていた。
 初老の男性は老人より一歩後ろに立っており、私と私の絵を品定めするように見ていた。老人が一歩前に出ると、懐から何か紙切れを取りだした。
「私、こういう者なんだが」
 それは名刺だった。だが上質紙の感触がする普通の名刺とは違い、まるで和紙のような
古い感じの名刺だった。
「画商・・・二葉源五郎?」
「ああ、これでも私は画商なんだ。もっとも見てわかるかもしれないが、これまで画商として大きな成功をおさめたことはないがね」
「そちらの人は?」
「こちらは君の絵を買い上げてくださった好事家の渡部という方だ。今日はこの方が君に用があると言って、私が案内した次第だよ」
 渡部と呼ばれた人が私に近寄ってくると、手を差しのべた。私も反射的に手を伸ばすと、握手を交わした。太くて力強い手で、握手にも力がこもっていた。
「よろしく。君の名前は?」
「凪と申しますが」
「そうか、凪くん。私が渡部だ。どうかよろしく」
「はあ、どうもよろしく」
 私は気のない返事を返した。どうも話がうまくつかめないのだ。この人は一体なんの用があって私を訪ねてきたのだろう。
「さて、渡部氏は君の絵をかなり気に入っていらっしゃってね」
「どうだろう?私がアトリエを提供するから、私のところへ来て絵を描いてみないかね?」
「アトリエ?あなたのところでですか?」
「そうだ。ぜひ君に絵を描いてもらいたいんだ」
「しかし、私には身内の者がおりますし・・・」
 二葉氏がずいっと私に詰め寄って来た。
「いいか、君。これは君のような無名の画家には二度と巡ってこないようなチャンスなんだ。身内だろうが家族だろうが捨ててこの人の言うとおりにしなさい。何も誘拐するわけではないんだから、一段落ついたら家に戻ればいい。そうだろう?」
「は、はあ・・・」
 二葉氏にそう説得され、私は何が何だかわからないまま渡部氏の元で絵を描くことになってしまった。しかもこれからは二葉氏を通して絵を流通させるという契約まで結ばされた。契約金としてお金が支払われたが、それは全て瑞佳の元へ送ってくれるように頼んだ。
 連れてこられた渡部氏の家は、まるで要塞のような豪邸だった。私はあっけにとられてしまい、呆然としていたが、たくさんの使用人に追い立てられるように中へと通された。渡部氏の家はまるで遊園地のように大きく、家一つで小さな町のようになっていた。私はその敷地内にある別邸に通されて、ここで絵を描くように言われた。敷地内には絵のモデルになるものがいくらでもあるから不自由しないだろうと渡部氏は言っていたが、その通りだった。何か足りないものがあれば新しく造るからなんでも言ってくれとも言った。まるで魔法使いのような人だった。
 なんだかよくわからないまま連れてこられてしまったが、これがチャンスだという二葉氏の言葉が耳に焼き付いていた。取りあえず渡部氏は私の絵を買ってくれるようなのだし、絵が描けるのだったら文句はない。私はそれだけの認識で絵を描き始めた。
 何十種類ものクレパスが用意され、私はそれまでとは次元が違うほどの色彩を絵に表現することができた。一つの大きな作品に取りかかっている最中、眠くなったので仮眠をとっていると、夢の中に別のイメージが表出されて飛び起きてそれを描き始めるということもあった。ともかく何種類もの絵を同時に本能の赴くまま描きまくり、私は何十種類もの作品を仕上げた。
 何日か経って、瑞佳に連絡していなかったことをようやく思いだした私は渡部氏に頼んで電話を貸してもらった。電話に出た時の瑞佳の慌てようときたらなかった。
「凪!どうしたの、急にいなくなっちゃうんだもん。私すごく心配してたんだよ!」
 私は事の真相を話すのにとても苦労した。なにしろ私自身、何が起こっているのかよく理解していなかったからだ。ともかく心配ないということと、今はともかく絵を描いているから一段落したら必ず帰ると約束して電話を切った。瑞佳に心配をかけるのはよくないが、二葉氏の言うとおり今の私には二度とないチャンスというのが巡ってきているのだろう。だとしたらそれを離したくはなかった。
 再び絵を描く日が続き、私は何かに取り憑かれたように絵を描きまくっていた。小さな画用紙から巨大なカンバスまでともかくありとあらゆる絵を描いた。中には無意識のうちに描いてしまった絵もあり、本当に何かが取り憑いているのではないかと心配したりもした。
 別邸にこもり、食わず眠らず絵を描き続けていた私は、ある日ついに倒れた。私は渡部氏の本邸に運ばれ、医者が呼ばれた。ただの疲労だから心配ないということだった。しばらくすると私が休んでいる部屋に渡部氏が訪れ、続いて二葉氏もやって来た。
「凪くん、君の仕事は素晴らしい。私はすっかり君に魅せられてしまったよ」
「は、はあ・・・それは光栄です」
「しかし君もそろそろ限界のようだな。一旦、家に帰った方がいいかもしれん」
 渡部氏はそう言うと、私の絵の処遇についてあれこれ話し始めた。ほとんどの絵は買い取るが、何枚かは私のためにも絵画界に流通させるということだった。それはもちろん二葉氏の采配で行われる。私は絵の売り方などわからなかったので、何もかも二人に任せてしまった。とりあえず絵がお金になればなんだっていいのだ。
 そしてついに渡部邸を去る日が来ると、二葉氏が一緒になって近くまで送ると言ってきてくれた。断る理由もないので私は二葉氏の同行を承諾すると、渡部氏の手配してくれたカーブを曲がるときに後部が角に激突するのではないかと心配なくらい大きい車に乗り、一緒に渡部邸を出た。
「二葉さん。一体、私の絵はどのくらいで売れたのですか?」
「数え切れんほどの絵を世界中のマーケットで売りさばいたからな、五億円は稼いでいるんじゃないか?」
「はぁ、五億円・・・それは大金なんですか?」
「そりゃ君、芸術家としては大成功だよ。巨万の富とは言わないが一生暮らすには不自由しない金だ」
「そうですか・・・」
「私もこの年までいい素材に巡り会えずに貧しい生活を送ってきたが、君のおかげでこれからの生活も安泰だ。君が路上で絵を売っていたのを見つけたのは本当に幸運だった。君には実に感謝しているよ」
 二葉氏の顔から敗退の色が消えていた。血色がよくなり、どこか渡部氏に似てきたかもしれない。私は家の近くで車を降ろされると、二葉氏と一緒に銀行に向かった。
「銀行になんの用があるのだね?」
「ええ、金をおろしてほしいんです」
「そんなこと自分でやりたまえ」
「すいませんが、私にはそういうことがわからないんですよ。お願いできますか?」
「そんなことを人に頼むとはずいぶん不用心なことだ」
「あなたのことを信用します」
「まあ、君のおかげで私も稼がせてもらったからやましいことなどしないが、一体どのくらいの金が必要なのかね?」
「ええとそうですね。とりあえず全額お願いします」
 二葉氏がひっくり返った。
「馬鹿を言ってはいかん!君の貯金を全額おろすだけでも都内の銀行から金を集めるのに
一週間はかかるだろう。それにたとえおろせたとしても、それを君に渡したら潰されて死ぬぞ」
「それじゃあ、この銀行にあるだけの金でいいです」
「それだって君には持ちきれん!まあ、なんとなく君の意図はわかった。私に任せなさい」
「恩に着ます」
 二葉氏は銀行のカウンターであれこれ交渉し始めた。カウンターの女性が何やら驚いていたが、しばらくすると店の支配人という人がやってきて私にかなり時間がかかるということを告げた。私はそれでも構わないというと、2時間ほど待たされてようやく金が用意された。
「三千万円ある。気をつけて帰りたまえよ」
 二葉氏は忠告をすると去っていった。私は二葉氏に礼を言うと、近くの店で大きなスポーツバッグを手に入れてそれに金を詰め込むとまずこの近くで最も大きな宝石店に向かった。 宝石店に入ると、ぴちっとしたスーツに身を包んだ店員達はクレパスですっかり汚れた私の姿を見てまったく場違いだと言わんばかりの態度を見せて接客にすら応じなかった。だが私がカウンターにバッグを置いて札束を見せると態度が急変した。
「これはいらっしゃいませ。ど、どのような品をお求めでしょうか?」
 私はとにかく高い順から宝石を買いまくった。店中の店員があちこち走り回って私に宝石の説明や案内をしてくれた。お金を半分ほど使い切ったところで私は店を出た。
 今度は外国製のバッグや服を扱う洋品店に足を運んだ。こちらでの扱いはさっきよりもっとひどく、私が店に足を踏み入れただけで店員がやって来て私の行く手をふさいだ。
「申し訳ありませんが、当店ではお客様のような方のご入店は・・・」
 だが、私が金を見せるとやはり態度が変わった。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ店の中へ」
 私はやはり高い順からバッグや服を買い漁った。店中の店員が他の客を放り出して私の元へ集まり、あれはどうかこれはどうかと私に勧めた。私は勧められたままにひたすら買った。もうさすがに持ちきれないというところまで買うと、私はようやく店を出た。
 私は大荷物を持ってよたよたと家へ戻った。これほどの大荷物だと階段を登るのも一苦労だったが、なんとか階段を登り切って瑞佳の部屋にたどり着いた。インターホンをならして応答するとすぐさま瑞佳が出てきた。
「おかえり凪!どこ行ってたの?心配したんだよ!」
「ただいま、いいから家の中に入れてくれ」
「どうしたの、この荷物」
 私は不覚にも家の前で倒れてしまい、家の中まで到達できなかった。瑞佳に手伝ってもらって荷物を家の中に運ぶと、ようやく私も家へ入ることができた。
「ふぅ・・・」
「わ、凪・・・」
 入ってドアを閉めるなり、私は瑞佳に抱きついた。瑞佳は驚いていたが、逃げたりせずにいつもと同じように私を抱きしめてくれた。久しぶりに味わう瑞佳の柔らかさと匂いは、私をようやく家へ帰ってきたのだと実感させた。
「ふぅ・・・気持ちいい。一日でも瑞佳を抱かないと不安でしかたないんだ・・・」
「ばか。それなら早く帰ってくればよかったのに」
 瑞佳は優しく私の頭を撫でてくれた。ずっとそうしていたかったが、私は買ってきたものを早く瑞佳に見せたかったので、惜しいと思いながらも瑞佳から離れると、荷物を開封し始めた。
「それ、なんなの?」
「いいから。きっと喜ぶぞ」
 私は宝石を腕に抱えて取り出すと、片っ端から箱を開けて床に並べ始めた。
「わー!どうしたの、これ!?」
「まだあるんだ」
 バッグや服を取り出すと、これは瑞佳に直接着せてみた。宝石の前で高価な服を着ている瑞佳は、まるで絵本のお姫様のようだった。
「君のために買ってきたんだ」
「買ってきたって・・・凪、お金もってないでしょ?」
 私はスポーツバッグを逆さに持つと札束をどさどさと床に落とした。私の予想に反して、瑞佳は何か恐ろしいものでも見るような目で札束を見ていた。
「ど、どうしたのこれ・・・まさか、何か悪いことでもしたんじゃ・・・」
「悪いことなんかしてないさ。たくさん絵を描いて、それが売れたんだ。私には金の価値なんてよくわからないが、ともかく金持ちになったんだよ」
「絵が売れたって、本当?」
「本当さ」
「信じられない・・・そのお金を全部使ってこれ買ってきたの?」
「いや、お金の一部だ。銀行には五億円の貯金があるとか言ってた」
「ご、五億円・・・?」
 瑞佳は目を丸くした。まるで信じられないといった目つきだ。
「そんなことはどうだっていいんだよ。それより、君が喜ぶと思って買ってきたんだ。嬉しくないのかい?」
「えっと・・・嬉しいけど・・・」
 瑞佳はそう言ったが、私の目には困惑しているだけでまったく嬉しそうには見えなかった。
「君が喜ぶと思ったのに。他に何か欲しいものがあるのかい?なんでも言ってくれ、買ってきてあげるから」
「凪の気持ちは嬉しいけど、私はなんにもいらないよ」
「そんな、君に恩返しがしたいんだよ。君にはいろいろと迷惑をかけたし、余計な金も使わせてしまった。このままでは私の気が済まない」
「私、迷惑だなんて思ったことないよ。凪のためにお金を使ったこともあるけど、いつか返してもらおうなんて思ったことないよ」
「そんな。じゃあ、どうしたら君は喜んでくれる?」
「私は、凪が帰ってきてくれたことが一番嬉しいよ」
 瑞佳は満面の笑みを浮かべながらそう言った。私はすっかり脱力して、床にふさぎ込んでしまった。瑞佳が喜ぶと思って私なりに知恵をしぼったのだ。だが、私は彼女の気持ちをまったくわかっていなかった。決して短くはない時間を共に過ごしてきたというのに。
「ほら、凪。お風呂でも入ってきなよ。汚れてるみたいだし」
「あ、ああ・・・」
「ご飯の用意しておくから。お腹空いてるでしょ?」
 私は瑞佳に言われた通りクレパスや画材用具で汚れた体を風呂できれいに洗い、それまで着ていた服とは別の、瑞佳が用意してくれた部屋着に着替えた。部屋に戻る頃には、テーブルの上に夕食が湯気をたてていた。エプロンをつけた瑞佳が台所からぱたぱたと出てくる。
「私もまだだから、一緒に食べよ?」
「ああ・・・」
 瑞佳と一緒に食卓を囲んだ。瑞佳は嬉しそうだった。私も嬉しくないはずがなかった。だが、何かが引っかかっていて私は笑顔になれずにいた。瑞佳はそんな私を見ても、どうかしたのかとか尋ねたりしない。いつも通りの包み込むような笑顔を見せてくれるだけだ。
 夕食をほぼ食べ終えたところで、私はようやく口を開いた。
「なぁ、瑞佳」
「なに?」
「私は、お前を幸せにしてやりたいよ」
「え?」
「あの日・・・留置場を出てからずっと世話になってきた。その恩返しがしたい。でもそれだけじゃないんだ。私は、もう君を他人とは思えない。ずっと昔から一緒だったような気がするんだ。できることなら、これからもずっと君の側にいたいんだ」
「凪・・・」
「金さえあれば幸せになれると思った。けれど、君は金で手に入る幸せは幸せじゃないと言う。一体どうすれば、君を幸せにしてやれる?君を私に繋ぎとめることができる?」
「それはね、凪」
 瑞佳が近くに来て、私の手を握ってくれた。柔らかい感触は最初に出会ったときから変わらない。
「手に入れるものじゃないんだよ」
「え?」
「私はね、凪のことが好きだよ」
 瑞佳は目を閉じて続けた。
「ずっと、一緒にいたいって思ってるよ。凪とおんなじにね。二人がそうやって互いのことを思いやってれば、不思議な力が二人を助けてくれるから・・・」
 ふっと顔を上げて私の目を見る。
「だから、想ってるだけでいいんだ。それだけで私は凪の側にいるし、幸せだよ。それ以外はなんにもいらないから・・・」
「不思議な力?」
 私は瑞佳の手を握り返した。
「そうだよ。八年前もそうだった・・・」
「八年前も?」
「そうだよ。大変なこともあったけど、最後にはちゃんと二人の心が通じ合った。神様が二人のことを結びつけてくれたんだよ」
「神様が・・・?」
「そうだよ。だから凪もお願いして、ずっと一緒にいられますように・・・って」
「私は神など信じないが、瑞佳の言うことなら信じる。本当にそれだけでいいのか?」
「そうだよ。そうすれば、神様が二人のことを守ってくれるからね。ずっと一緒にいさせてくれるから」
 私は瑞佳を抱きしめた。
「それなら、願う。いくらでも願う。君は側にいてくれるかい?」
「いるよ。ずっと凪の側にいるよ・・・」
 そのまま瑞佳を押し倒すと、触れる程度の軽い口づけを交わした。ずいぶん長い間そうしていた。唇を離すと、瑞佳が私の服を脱がせ始めた。脱がせてしまうと、瑞佳は自分の服を脱がせてほしいと言った。だから私は瑞佳の服をすっかり脱がせてしまった。恥ずかしそうに横たわる瑞佳の体に触れていった。
「どうすればいいのか、よくわからないんだ」
「凪の好きにすればいいんだよ」
 ずいぶん長いこと愛撫をしていたと思う。触っても触っても飽きなかった。舌も使うんだよと瑞佳に教わったので、私は瑞佳の体中を舐めまわした。その度に私は体がとろけるような感覚を味わった。自分の体が自分のものでなくなっていくような感覚だ。
 私がひとしきり瑞佳の体を味わい尽くしてしまうと、今度は瑞佳が私に触れた。瑞佳はいろんなことをやってのけた。特に私の性器を口にふくんだときには、私は快感に気を失うかと思った。
「凪・・・もういいかな?」
「あ・・・ちょっと待ってくれ、ゴムを使うとかどうとか仲間が言ってたんだが」
「私達の場合は必要ないんだよ」
 瑞佳はそう言うと、私の上に馬乗りになった。私の性器を自分の下腹部にあてがう。そして体重をかけていった。
「はあ、はあ・・・」
 瑞佳が私にしがみついてきた。私は瑞佳を抱きしめると、重なった二人の部分へ動きをくわえていった。動く度に瑞佳から甘い声がもれる。私はそれに聞き惚れながら、腰を動かすことをやめなかった。
「凪、私、もう・・・」
「瑞佳・・・」
 目の前が真っ白になった。私は濁流となって瑞佳の中に流れていった。そしてそれが終わったとき、私も瑞佳も放心したようにただ抱き合っていた。
 夜が明けるまで、私達は愛し合っていた。朝には二人とも疲労ですっかり寝こけていた。太陽が真上にくる頃になって、私はようやく目を覚ました。隣には一糸まとわぬ姿で瑞佳が寝ている。同じベッドで寝るのはもちろんこれが初めてではないが、その時には妙な感覚があった。私と瑞佳は一つになったのだ。失った記憶は戻らないが、空白を瑞佳が埋めてくれる。空しかった私の心には、もう瑞佳がいるのだ。自らの半身となった瑞佳を、私はもう一度強く抱きしめた。

☆☆☆

 私の物語は終わりを迎えようとしていた。この独白を誰が聞いていてくれるのだろうか?世間も社会も、人の中からも忘れられる私と瑞佳の物語。星と空だけが聞き続けていてくれる物語だ。この独白を、果たして誰が聞いているのだろう?
「さようなら、瑞佳・・・」
 墓標の前で一人、私はつぶやいた。
「君は言ったな、不思議な力が二人を助けてくれると」
 すぐ横には、幻影が立っている。これが私の生涯で最後に見た幻影の姿だった。
「助けてはくれなかった・・・いや、すでに助けてくていたのだろうか?」
 幻影は最後まで何も言わず、黙ったままだった。私と同じように、少年の姿の幻影は瑞佳の墓標を見つめている。
「君は還っていったんだ。君の元いたところへ」
 小さな花が添えられた墓標に、私は手を触れた。
「君は天使だった。本物の天使だった。私のところへ来てくれた、神様からの贈り物だった。私の使命もここで終わる。君と旅した道の終わりが、私の使命の終わりだったのだ。
そしてここは私の終着点だ。そして君は還っていった。君の元いたところへ・・・」
 風が吹いた。冬の、冷たい北国の風だった。私は墓標を抱きしめた。
「さあ、私は元の私に戻らなければならない。君とはお別れだ。楽しかった。最良の日々だった。君といた季節を、私は決して忘れない・・・」
 私は立ち上がった。
「何度目かの人生で、君にもう一度会えればいい。その時は、君に言えなかった言葉を言うよ・・・」
 私は去っていった。幻影がまだ消えていないことに気づいていたが、振り返らなかった。幻影は最後まで何も言わなかった。
 そして幻影は消えていった。もう二度と現れることはなかった。そして私も消えていった。どこか世界への彼方へ・・・
 「天空の画家」こと凪の失踪は絵画界に大きな波紋を投げかけた。凪と契約していた画商の二葉源五郎とパトロンであった渡部圭一は血眼になって彼を捜したが、発見できなかった。文字通り蒸発してしまい、跡形もなく姿を消してしまっていた。莫大な財産を抱えた画家の失踪は世間でも大きな話題となったが、それもいずれ情報の渦中に消えていってしまった。
 彼の莫大な財産は他でもない彼の手によってあるキリスト教系の孤児院に寄付された。院長が修道女を引き連れて礼に訪れたものの、やはり発見できず、かろうじて彼と接触できた修道女に彼は「他の多くの柿崎のために」という謎の言葉を残している。
 凪の伝説はそこで終わりだった。絵画界でも彼は過去の人となり、世間では新しい情報がまるで市場取引のように入れ替わって報道され、失踪した画家のニュースなど見向きもされなくなった。ついに彼の捜索は打ち切られ、彼は彼の伝説と共に闇へ消えていった。

☆☆☆

 瑞佳が目を覚ました時、私はすでに目覚めていた。私を上目遣いで見て、少し恥ずかしそうな顔を見せる彼女がたまらなくかわいかった。私の女神は私の手の中で、一糸まとわぬ姿を横たえている。それは神秘的であり、どこか現実味にかける光景だった。体を重ねるというのは、よくよく考えてみれば不思議なことだった。男と女、片方だけでは意味をなさないそれが一つになったとき、それは一種の奇跡である。まるで、ずっとこうなることが約束されていたように感じる。ずっと以前に失われてしまった半身を取り戻したような、そんな気分だった。
 瑞佳は服を着ようとベッドから出る前に、恥ずかしいから見ないでと釘をさした。私は
言われた通りに目を背けていた。だが瑞佳が服を着るという行為はどうしても私を欲情させた。体が勝手に反応してしまう。かすかな自己嫌悪を感じながら、瑞佳が着替え終えると私も服を着た。朝食の準備が整うまで、私達は無言だった。
「凪・・・今日からまたしばらく留守にするの?」
「ああ、恩人にもう一度戻ると約束したからな。またしばらく戻れないと思う」
「そう・・・」
「心配しないでくれ。今度はもっと稼いで帰ってくる」
「・・・・・・」
「今度は家が買えるくらいの金を持ち帰ってくるから・・・」
「凪、私は新しい家なんていらないよ」
「そ、そうだったな・・・」
 いつもとなにも変わらないはずなのに、何かが違っていた。体を交えたという事実が、二人の関係をまったく違うものに変えていた。今まではただの同居人だった。恋人同士だったのは昔の話だ。それが今では違う。瑞佳はもう私の中では他人でありえない。それはこれからどんなに長い年月が経っても、もしも二人の間の愛情がついえてしまったとしても、変わらない事実だった。瑞佳の中でもおそらくそうだろうと思う。いや、瑞佳は昔の私と交わったから、今までずっと寂しい思いをしてきたに違いない。長い年月の間を、変わらず愛し続けてくれた瑞佳。私と、消えてしまった昔の凪も、瑞佳に感謝しなければならなかった。瑞佳の健気な愛情があったからこそ、今こうして二人の間の絆は蘇ることができたのである。
「私、待ってるからね」
「すまないな・・・だがわかってほしい。君の側にいたいのは当然のことだが、今の私は絵を描かなければならないんだ。それでも私は、いつでも瑞佳のことを想っている。どんな時でもだ」
「うん・・・私もいつも凪のことを想ってるよ」
「一段落ついたら・・・結婚してくれるかい?」
 瑞佳の顔色が変わった。少し驚いているようだった。
「瑞佳が嫌なら、いいんだ」
「ううん。そんなことないよ。ありがとう凪・・・私、凪のお嫁さんになるよ。約束する」
「ありがとう、瑞佳・・・」
 二人はそれ以上なにも話さなかった。とっさに口をついて出てしまった言葉だが、瑞佳は受けとめてくれた。二人は神の前で誓いをたてるのだ。生涯愛する、と。それは気が遠くなるような昔から行われてきた聖なる儀式。二人の男と女が、神に祝福されて互いの伴侶となる。変わらない愛を捧げあう。今なんとなく、幸せは金で買えないと言った瑞佳の言葉がわかったような気がした。
「いってらっしゃい、凪」
「ああ、いってくる」
 私は画材道具を抱えると、二人の家を後にした。
 渡部氏は連絡さえくれればいつでも車で私を送迎してくれと言っていたが、それは少し私のプライドに関わるので、私は電車を乗り継いで渡部氏の邸宅に向かっていた。いつ見ても渡部氏の邸宅は巨大だ。私が以前住んでいた段ボールの邸宅の何倍だろうなぁなどと、果てしなくどうでもいい推測にふけったりした。
 残念なことに、その日の渡部氏は留守だった。これだけの金持ちが忙しくないはずはないのだろう。きっと想像もつかないような大人物達と会っているに違いない。渡部氏はいなかったが、使用人達が言づけを受けていたらしく。私をあの別邸にまで案内してくれた。別邸は私が壁や床に走り描きしたものがそのまま残っていた。塵一つないほど掃除するはずなのだろうが、きっと渡部氏の配慮だろう。私も走り描きは消してほしくなかった。後から思いもよらないところで作品の雛形になるからだ。
 私は再び、絵を描く日々に戻った。
 何日も食わず眠らず描き続ける。体に悪そうだが、危険な状態であればあるほど作品はおもしろくなるのだ。特に幻覚が訪れるくらいになると、これは描く手を休めてはいけない。肉体が限界に達したとき、天使が降りてきて絵を描かせてくれるのだ。こんなことを言ったら瑞佳は笑うだろうか。いや、きっと心配して絵を描くのをやめさせるに違いない。自分でもこの行為が激しく寿命を縮めているということはわかっているのだが、長く生きるよりも一枚でも多くの絵を残すことの方が大切だった。
 だが、最初の頃よりは少し描くペースが落ちついたような気がする。もちろん、憑くものが憑いたときには阿修羅のように筆を動かすが、それ以外の時はなにもせずに風景を眺めていることが多くなった。同じ風景でも瞬間ごとにそれは違う。そして何よりも、風景には無数の物語が眠っている。封印された物語。私はそれを見ることができた。なにもせずにじっと風景を眺めていると、それらが浮かび上がってくる。それらは寓話のように抽象的なこともあれば、圧倒されるほど神秘的なこともある。ともかく、そこに眠る無数の物語の色や声、それを感じることができるようになっていた。ふっと気をそらせばすぐに消えてしまうが、それらは確かにそこに存在するのだ。
「凪くん、どうかね・・・調子は?」
 渡部氏が別邸を尋ねてきた。相変わらず勝ち誇ったような顔と威圧するような声は、私とはまったく違う世界で生きてきたことを語っていた。
「ええ・・・快調ですよ」
「ふむ、しかしペースが落ちてきているようだな。ここの風景だけでは不満かね?」
「ええ。あ、いやそんなことは」
「本音が出たな。気にすることはない、芸術家はみんなそうだ。どこの風景が見たいのかね?」
 私は筆を置くと、遠い空を見つめながら言った。
「多くの芸術家達が見てきた風景を・・・こんな作り物ではなく、生きた風景が見たい」
「そうかそうか。そう思うなら、君の好きにするといい」
 渡部氏は豪快に笑いながら、その大きな掌で私の背を叩いた。
 私は数週間過ごした渡部邸を後にした。車で送ると言った彼の親切を断って、私は気の遠くなるような道のりを歩いて帰った。
 どこへ行けばいいのだろう?私の魂が欲している風景は、どこへ行けばあるのだろう。私は、見慣れた今の生活から脱したいと思う念に取り憑かれていた。自然を否定した街で、私の魂は生きていけない。もっと遠くへ行きたがっている。だが、どこだろう、それは?
 たくさんの場所を通り過ぎたと思う。鴉が鳴く声が空しく響く田んぼ道を歩いていたと思ったら、急に高速道路にぶつかったりした。汽車の走る鉄橋の上を歩きながら、遠くに沈む夕日を見た。誰もいない忘れ去られたバス停留所、なんだか自分を見ているようで悲しく、だが数分間そこから離れられなかった。そこから歩き出すと今度は、先の見えない暗闇の中に身を投じなければならなかった。人の声も動物の声も、人為的な音も自然の音もまったく聞こえない。私は暗闇の中を歩き続け、久しぶりに高校生の姿をした自分の幻影を見た。その私はやはり高校生と思しき制服を着ていて、私には目もくれずどこか遠くを見つめていた。渡り鳥を眺めて、その行く先をなんの知識もない頭で想像するような目で。私は幻影を数秒見つめた後、通り過ぎた。そのままずっと歩き続けた。もう幻影は見えなかった。
 私は画材用具を背負ったままそんな調子で歩き続け、気づいたときにはどこだかわからない場所に迷い込んでしまっていた。帰り道がわからず、私はしかたなく夜営をすることに決めた。野宿は久しぶりだ。その夜、私は名前も知らない町の公園に入り、木造の遊具の下に潜り込んで寝た。屋根があるとなぜか落ちつくのだ。これはホームレスをやっていたころから不思議だったが、本当に屋根があるのとないのとではまったく違う。とはいうものの、地べたに寝転がるのはあまり気持ちがいいとは言えなかった。家へ帰りたい・・・と、その時心の底から思った。
 翌朝、私は目を覚ますと取りあえず考えることは中断することに決めた。あちこちふらふらと歩き回り、ようやく駅を発見して現在位置を確認すると私は隣の県にまで飛び出してしまっていたことを知った。もちろん金は持ち合わせていたので、その後はちゃんと電車を使って帰った。帰り際に見かけた路上の浮浪者達の中に、柿崎が混じっていないかどうか私は無意識のうちに探していた。
 ようやく家に帰り着くと、疲労困憊した私は家に入るなりぶっ倒れた。意識はあったが、立ち上がる気力が失せていた。瑞佳が帰ってきたとき、彼女は扉がなかなか開かないことを不審に思ったことだろう。私が障害物になっているとは思いもしなかったに違いない。
「おかえり・・・」
「おかえりじゃないよ、凪!」
 彼女は私を担ぎ上げると、ベッドまで引きずって行ってくれた。
 私は久々に寝心地のいいベッドに横になると、死んだように眠ってしまった。目が覚めたとき、夜中だったが瑞佳は傍らで私が起きるのを待っていてくれた。
「おはよ、凪。疲れてたんだね」
「うん・・・」
「お夕飯の用意するから待ってて」
 瑞佳は私が目を覚ますまで待っていたらしい。確かに寝ている私の隣で一人食事をするのは空しいだろう。私は瑞佳の気持ちに感謝しつつ、のろのろと寝床から起きあがった。そのままこの部屋に一つしかない窓まで行くと、思い切り開けはなった。温かい部屋の中に一気に冷たい空気が充満する。私は夜空の光を浴びるように月を見上げると、あの月の下にはどんな世界が広がっているのかと思いを馳せた。
「凪、どうしたの?窓なんか開けて・・・寒いよ」
 私はベランダに出ると、窓を閉めた。
「凪、風邪ひいちゃうよ!」
 だがすぐに瑞佳に引き戻された。冷えた私の体を瑞佳が抱きしめて温めてくれた。
「瑞佳の体は・・・温かいし、柔らかいな」
「え?」
「ずっと、ここにいたい気がする・・・」
「何言ってるんだよ。ずっとここにいていいに決まってるじゃない」
「・・・なぁ、瑞佳」
「なに?」
「私は、旅に出ようと思う」
 瑞佳の動きが止まった。代わりに急激に振動し始めた心臓の鼓動が体を通して伝わってくる。
「どこ・・・行くの?」
「私の知らない場所」
「凪、ずっと私の側にいたいって・・・」
「いたい・・・だが、絵を描くことは私の使命なんだ」
「男の人ってみんなそうなのかな。自分の信じることのために、家族を置いていっちゃうのかな・・・」
「旅に出る前に、神の前で君への愛を誓うよ」
「結婚、してくれるの?」
「ああ」
 数日後、私達は小さな教会で結婚式を挙げた。
 だがそこにいたのは二人と神父の三人だけだ。私は親族を呼ぶ気にはなれなかった。私の名声をどこからか聞きつけて、本物の親族から偽物の親族まで急に私にすり寄ろうとしてきたからだ。人間というのは金に汚い生き物だと、わかっていることながら私は深く失望させられた。そしてそれでは私の立場がないと瑞佳が気を使ってくれ、彼女も親族を一人も呼ばなかった。
 静まり返った教会の中、荘厳に佇む聖母の像の前で、私達は永遠の愛を誓い合った。
 二人の名前が刻まれた指輪をはめ、私は瑞佳を抱き上げて教会から飛び出ると、街中を走り回った。もちろん瑞佳はウェディングドレス姿なので、どこに行っても人目を引いた。ほとんどの人は呆れたような顔をしていたが、ユーモアある人々は拍手して私達を祝福してくれた。瑞佳は恥ずかしそうだったが、嬉しそうだった。私は瑞佳に今日を決して忘れないような記念日にしてやろうと、痺れる腕を限界まで酷使して、瑞佳と子供のように延々とはしゃぎ続けていた。私と同じように瑞佳も、この日を永遠に胸に抱き続けていただろう。それくらいその日は楽しくて、幸せだった。
 新婚旅行にも連れていってやることができなかったが、瑞佳はやはり不満を口にすることはなかった。私が旅立つ日、笑顔で見送ってくれた。この時の瑞佳の笑顔を、私は死ぬまで忘れなかった。二人が平和に過ごした日々の、最後の笑顔だったからだ。
 私は北へ向かった。ここよりもずっと寒い地方だ。南へ下ってもいいような気がしたが、なぜか私は吐く息の白い、凍てついた世界に魅了されていた。冷たい空気の方が熱い空気よりも浄化されているように感じたからだろうか?いや、凍てついた世界への憧れは、もっと根本的なところからきていた。それが何かはわからないが。
 まず最初に向かったのは北海道だった。日本で最も開拓の進んでいない場所だ。そこには様々な物語が生きていた。ヴァン・ゴッホもこのような風景を見ていたのだろうか?彼は温かい地方に住んでいたはずだが、雰囲気ぐらいは似ているかもしれない。彼の絵にもちろん私は遠くおよばないが、少なくとも一人の描き手である。内在する物語を表出させようとする参入者であることに変わりはなかった。
 どんな風景でも絵になった。モデルを探している暇はなかった。どこへ行っても私は何かが乗り移ったように絵を描いた。
 時が止まったように静かな田園、凍りついて流れが止まった彫刻のような滝、動物達が住み着きまるでそれ自体が息づいているような深い森林。少しぼうっとしていると、思索に耽っている宮沢賢治が現れてきそうだった。そのすぐ近くでゴッホが、もの凄い勢いでカンバスに筆を走らせている。
 私はあらゆる場所を放浪して思うがままに絵を描いた。神秘的な体験は絵を描くごとに訪れ、その回数を増していった。自然は語ることがない、だが全てを知っている。人類の歴史も、運命も、そして宇宙の真理すら。私はそれらを少しわけてもらって、絵として表出するのだ。それが自分の使命だと感じるとき、私はひどい孤独感に襲われる。誰も私と同じ地表に立つ者はない。一人きりで、使命と格闘しなければならない。倒れそうになった時、頭をよぎるのは瑞佳の笑顔だった。私の女神。私の希望であり、良心そのものだった。すぐに宇宙の果てに飛んでいきそうな私の意識を世界に繋ぎとめる。それが瑞佳の存在だった。私達はなぜ出会い、愛し合ったのか、考えてみればとても不思議だった。果てしなく低い確率で出会った私達を結びつけた力は、運命としか考えられなかった。私の最愛の人、この世の何物にも代え難い存在。瑞佳は、この同じ空の下で何を思っているのだろうか?
 そんな生活が何年も続いた。私は描いた絵を片っ端から二葉氏の元へ送っていた。おそらく絵は私の知らない場所で売られている。どんな額なのかはわからないが、私の資産はおそらく相当たまっているはずだった。預金通帳も何もかも、資産に関わるものは瑞佳に預けていた。私には金の価値も使い道もわからなかったからだ。だが瑞佳もあれだけの額の金をどう使えばいいかはわからないかもしれない。渡部氏は株を買わないかとアドバイスしてくれたが、私には興味がなかった。
 だがついに、終わりの日がやってきた。その日、私は山に登って広大な雪景色を前にカンバスに筆を走らせていた。すでに人里を離れており、熟練の登山者でも滅多に近づかない場所まで来てしまっていた。だが絵を描くことに夢中だった私はその危機的状況に気が付かず、しまったと思ったときにはすでに手遅れだった。来たときの足跡も雪にかき消され、道を見失ってしまった。吹雪がきたとき、ああ、もう終わりだとあっさり諦めた。それでも最後の抵抗をと思って、小さなかまくらを作ってその中に潜り込んだ。寒かった。体が芯から冷えるようだった。ホームレス時代に感じた寒さの比ではない。寒いという感覚すら忘れてしまうような寒さだった。
 極限的な寒さの中で、私はついに眠くなってきた。ここで眠れば確実に死ぬ。だが、もう助かる術はなかった。私は瑞佳が泣いて私の遺体にすがりつく様を想像しながら、瞼を閉じた。

 真っ白い光の中にいた。側に誰かいて、私を抱きしめてくれている。天使・・・いや、
母親?それはひどく安心させてくれる存在だった。ずっとそこにいたい気がした。だが追い立てる者がいた。悪魔ではない。それは私だった。少年の私だ。幻影となって幾度となく現れた、少年のままの私だった。彼は何も喋らない。だが、ここにいてはいけないという意識を私の中に流し込んでくる。なぜ、ここにいてはいけないのか。答えてはくれない。
 だが私はなぜかその時、少年の私を信じる気になった。ここにいてはならないのだ。帰らなければならないのだ。私の元いたところへ。
 目が覚めた時、私はベッドに寝かされていた。すぐ横で、瑞佳が私の手を握ってくれている。
「目が覚めた?」
 体がうまく動かなかった。瑞佳の手を握り返すこともできない。
「凪、ずっと眠ったままだったんだよ。助かったのは奇跡だって、お医者さんが言ってた。地理も確認しないで雪山に入るなんて、向こう見ずなところは変わってないんだね」
 私は何も話すことができなかった。瑞佳の言うことを黙って聞いていた。
「もう少し遅れたら危なかったって・・・凪、このコに感謝しなきゃだめだよ」
 私が全身の力を込めて首と目を少し動かすと、瑞佳の足下でじゃれついている護の姿が目に入った。
「よく考えたら、凪を一人で送り出したことが間違ってたんだよ。凪、これからは私が側にいるからね」
「・・・え?」
「保育園。辞めて来ちゃったんだ」
「・・・瑞佳」
「凪と一緒に行くから、もう決めたから、止めたって無駄だよ」
 その時の瑞佳の少し悲しそうな表情を、私は読みとることができなかった。ただ、過酷な旅についてくると言った瑞佳の気持ちが嬉しかった。私は言葉もなく、うなだれていた。もっと安全な職業についていれば瑞佳にこんな苦労をさせることもなかっただろうにと、私は自分を責めていた。
 病院には丸一ヶ月ほどいた。まともに歩くことも出来なかった私を、瑞佳は献身的に看病してくれた。思えば、この一ヶ月だけが二人にとって最後の平和な日々だった。何も心配することなく、空しく時を過ごしていた。側には最愛の人がいてくれる。それだけで十分だった。私はこの後、何度もこの日々を回想することになる。かけがえのない時間だった。
 追われることも、恐れることもなく、愛する人と時間を共にしていた。いっそ時が止まってくれればいい・・・私はそんなことすら考えた。だが時間は無情にも過ぎていく。私を未来へ送り出すために。
 入院が終わると、私はまた絵を描く日々に戻った。だが今度は一人ではない。瑞佳が側にいてくれる。取りあえず、元の生活に戻った方がいいと瑞佳に念を押してはみたが、彼女の決意は揺るがなかった。なにか後がないような言い方だったが、その時の私は何も気が付かなかった。
 瑞佳と共にいろいろな場所を回った。一人きりの時は寂しさに打ち震えたりしていたが、
今はそんなことはない。側で瑞佳が笑いかけてくれる。寒さに震えることもなかった。瑞佳が私を温めてくれる。
 たとえこの世の果てであろうと、二人で行けば大丈夫だと思えた。消えてしまったかつての私も、同じような思いを抱いて彼女と時を共にしていたのだろうか。たとえ消滅してしまったとしても、彼女の中に自分は生き続ける。それは永遠不滅の想い。愛し合っていたからこそ現実する、残酷な愛の形。かつての私は、どんな思いを抱いてこの世を後にしたのだろうか。後悔と悔しさにあふれていたのだろうか。そうではないと私は信じている。
 安らかな最期だったに違いない。そしてその時、彼女は側にいてくれたはずだ。今と同じように。
 だが、命の火が消えようとしていたのは、今度は私ではなく彼女だった。数年の旅の間、
私は瑞佳の体調の変化に気が付かなかった。普通ではない咳をしていた時、私はもちろん大丈夫かと声をかけたが、彼女はなんともないと返事を返すだけだった。医者に診てもらった方がいいと何度も言ったが、瑞佳は聞かなかった。私はなんとなくわかっていたのかも知れない、瑞佳に後がないということを。だったら瑞佳の希望を叶えてやりたかった。もしも立場が逆だったとしたら、私も瑞佳と同じ道を選んだだろう。
「ベッドの上で待つよりは、凪と一緒に歩いていたかったんだ」
 二人でいろんな場所を回り、いろいろな人と出会った。その度に瑞佳は幸せそうだった。それはいつか思い出すことがあるとしたら、二人にとってかけがえのない思い出になることだろう。私は絵を描いていた。傍らにはいつも瑞佳がいてくれた。季節の移ろいと共に、いろいろな場所を回り、私は最高と思える絵をいくつも仕上げていった。
「凪と見た風景、どれも綺麗だった。私、一つも忘れてない」
 何度となく野宿することになった。夜空の下で寄り添いあって寝た。瑞佳の体はどんな高級なベッドよりも温かくて、柔らかで、私はすぐに熟睡してしまった。瑞佳はそんな私を幸せそうに眺めていた。
「覚えてる?凪・・・」
 大きな街に立ち寄った時、私は瑞佳に服を買ってやった。いろんな服を試着して見せてくれたが、どんなものを着ても似合っていた。真面目に見ているのかと、瑞佳は少し怒ったが、どれも正直な感想だった。一番気に入った服を選んで店を出た時、瑞佳は花のような笑顔を見せてくれた。私もその後、ぼろぼろになった服を新調しなければならなかった。私はこのままでいいと言ったが、瑞佳は聞かなかった。いくら芸術家でも身なりぐらいはちゃんとしなさいと、瑞佳は母親のように私に言って聞かせた。
「おかしいよね・・・」
 異変は、ある日突然に起こった。いつものように列車を降りようとしたところで、私が荷物を抱えて立ち上がった時、瑞佳が立ち上がれなかった。大丈夫かと声をかけたが、瑞佳はやはり何でもないと言って無理に笑顔を作って見せた。だが、荷物を持とうとしたところで吐血し、私は荷物も何もかも放り出して瑞佳を抱えると病院に走り込んだ。
 診察を聞いても、私は動じなかった。新生の肺結核。対抗できる抗生物質はまだ開発されておらず、不治の病だった。瑞佳はもちろん、私もなんとなくわかっていた。泣いたのは私ではなく、瑞佳の方だった。もっと私と旅を続けたいと、痛む喉で必死に泣いて私にすがった。私は彼女を抱きしめて、この世で最後の涙を流した。
 もう、一ヶ月ももたないだろうと医者に告げられた。新鮮な空気を吸うといいと言うので、私は小高い大地の上に車椅子をこぎ出して、瑞佳を連れていった。
「そう言えば、星の数ほど絵を描いたというのに君のために絵を描いたことはなかった」
「描いてくれるの?」
「ああ・・・そうだな、空を描こうか」
「きっと素敵な絵になるよ」
「生涯最高の出来にしてみせるさ」
 私は再び筆を取った。そして二人で見たおそらく最後の風景、町外れの丘から見える空を描いた。鮮やかな空。どこにでもある風景だが、無数の物語が眠っている。それは瑞佳と私の物語。私はそれを描きだした。
「凪、ゆっくり描いていいんだよ」
「ああ・・・」
 カンバスに筆を走らせる。瑞佳は私が描く様子を、幸せそうに見つめていた。死が間近に迫ってもなお、瑞佳は静かにそれを待つだけだった。今までは必死に私と一緒に生きようと努力してきたが、それが限界にきてしまえば、もう待つことしかできない。瑞佳はそれをしっかりと受け止めていたた。そして私と残った時間を過ごすことを選んでくれた。私がそれに応えないはずがなかった。
「凪、覚えてる?」
「何を?」
「私達の家。もうずっと帰ってないね」
「ああ、そうだな」
「お掃除しないといけないかもね」
「ああ、私も手伝うよ」
「辛いときも、そうじゃないときも、あそこで二人で頑張ったよね」
「ああ、瑞佳には苦労をかけっぱなしだった」
「懐かしいね・・・」
「ああ、懐かしいな」
 私は瑞佳の横に眠って、いつも彼女より早く眼を覚ました。そして彼女が起きた時に、愛の言葉と共に笑いかけてやった。彼女はとても嬉しそうで、幸せそうだった。これまでのどの瞬間よりも幸せそうな表情で微笑むのだ。
 そして昼は、丘の上に車椅子をこぎ出して、瑞佳のために絵を描いた。この世でたった一枚、瑞佳のためだけの絵だった。愛することの素晴らしさを教えてくれた瑞佳。希望と生きる喜びをもたらしてくれた瑞佳。そんなこの世でただ一人、かけがえのない人の命が消えようとしている。その彼女のために描く絵は、何物にも代え難いものだった。そして彼女と過ごす時間も。幸せはお金で買えないという、彼女の言葉が今ならはっきりとわかる。鮮やかに輝く空の下で、私は絵を描き続けた。
 夜、瑞佳は眠るのを怖がった。眠ってしまったらもう二度と眼が覚めないのではないかと言うのだ。私がちゃんと起こしてあげるから心配するな、と諭してあげた。そして瑞佳が寝つくまで、あの時どんな言葉で励ましてくれたとか、瑞佳の作ったどんな料理が美味しかったとか、他愛もないことを話していた。
 そうして数週間が過ぎた。その日も私は丘の上に車椅子をこぎ出して、丘に瑞佳を連れていった。
「天使のモデルがほしいんだ」
「天使?」
「そうだ。君にやってほしい」
「私が天使?」
「そうだよ。嫌かい?」
「そんなことないけど、私なんかでいいの?」
「十分さ。楽にしていていいからな」
 私は瑞佳を前にして女神の絵を描き始めた。澄んだ青空をバックに座る彼女の姿はとても美しかった。もしかしたら瑞佳は本当の天使なのではないのだろうか。私は本気でそう考えていた。
 絵は着実に完成へと近づいていった。そして瑞佳の死期も。だが瑞佳は気丈に、泣き言一つ吐かなかった。恐いのなら泣いてもいいと言ったが、彼女は泣かなかった。
「これから凪の中に生き続ける私の顔が、泣き顔じゃ寂しいでしょ?」
 彼女は潤んだ瞳でそう言った。

 ある夜、瑞佳は絵を見せてほしいと言った。私はカンバスを取りだして瑞佳に絵を見せた。絵はほとんど完成している状態だった。
「すごいね・・・もう完成なの?」
「まだ仕上げが残ってる」
「そう・・・ねぇ、凪」
「なんだ?」
「私、凪の絵が大好きだよ。きっと凪には私に見えないものが見えるんだね。小さな風景でも、まるで命が吹き込まれたみたいに綺麗だった」
「私が絵を描けるのは、君のおかげさ」
「そんな絵のモデルになれるなんて、すごく幸せなことだよ」
「うん・・・」
「きっとこの絵も、綺麗な仕上がりになるんだろうね・・・」
「言ったろ?生涯最高の出来にしてみせるって」
「そうだね・・・」
 瑞佳が、絵から目を離して私を見つめた。
「凪、お願いがあるの」
「なんだ?」
「一緒に寝てほしいんだ。私達の家でそうしてたみたいに・・・」
「ああ、もちろんいいさ」
 私は瑞佳のベッドに潜り込むと、いつかの夜のように胸の上に瑞佳の頭をのせて、抱き上げるように寄り添った。
「凪」
「ん?」
「大好き」
「はは・・・私もだ」
 その言葉を最後に、瑞佳は眼を閉じた。規則正しい寝息が聞こえ始めると、私もそのまま眠った。そして、瑞佳は二度と眼を開かなかった。

 これが二人の物語。そして凪の伝説。伝説はいつか歴史と情報の渦の中にかき消え、名声も別の誰かが新たに勝ち得、消滅してしまう。だが二人が共有した物語は永遠に消えることがない。それは神様からの贈り物だった。瑞佳が天使であったように、私自身も神によってこの世に使わされた。私は絵を描いて、少しでもこの世に何かを残せたと思っている。だが最後の一枚は彼女のためだった。彼女の最期を、私は彼女のために生きた。私が彼女にしてやれたことは過去を振り返っても、ただ一度それきりだった。不実な伴侶だと、自分でも思う。しかし、それが私の精一杯だった。そして彼女は還っていった、私との物語を胸に抱いて。私もいつかは還っていく、彼女との物語を胸に抱きながら。
 最後まで、君のことだけを想っている。いつかもう一度出会えることを信じながら、言い忘れた言葉を胸に抱いて。

<終わり>





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