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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



満月の夜に






何かが彼の服の裾を掴んだ。
雑踏の中で、薄汚れた格好の少女が、彼の外套の裾を握っている。
「……どうしたんだ?」
「…た……助…け……」
か細い、本当に消え入りそうな声でそう呟いた。
必死に彼の外套を掴むその少女の額には、脂汗がべっとりと滲み出ていた。
「熱があるのか…?」
その額に手を当ててみる。
熱い。
かなりの高熱だ。意識がかなり朦朧としているのだろう。さっきから囁くような声で「助けて」を繰り返している。
青年はその少女を抱えあげ、ここ数日泊まっている宿へと向かった。
「気がついたかい?」
「……ぇ?」
目を開けた少女は、起き上がる事も出来ずにただぼーっと天井から壁へと視線を移した。
「もう大丈夫だ。薬を飲ませたからね」
「……あ…あの……ここは……」
「俺が泊まってる部屋だよ。大丈夫、何もしやしない」
まだ頭がはっきりしないのか、呆けたような目で青年の顔をまじまじと見詰めた。
きれいな瞳だ。この近辺、少なくともヨーロッパではこれほどきれいな黒い瞳は珍しい。それに褐色の肌も。
「とりあえず……」
コップには暖めたミルクが入っている。それをその少女に手渡した。
「これでも飲むといい。栄養があるから」
「……あ、はい…」
少しおどおどした様子でコップを受け取ると、少しずつ飲み始めた。
「ずっと何も食べてなかったのか?」
「…はい……4日くらい…」
そこへあの高熱だ。まぁ食べないせいで体が弱っていたのかもしれないし、高熱で体が弱ったのかもしれない。どっちが先かはこの際どうでもいい事だ。
「家はどこなんだ?」
「……ありません」
「…ない? じゃあ家族は?」
「いません…」
「……ひょっとして君は…奴隷だったのか?」
「…………」
悲しそうな目をして小さく肯く。どうやら図星らしい。
考えてみればこの奴隷というのも哀れなものだ。買われれば何とか食べていく事は出来る。だが自由はない。
買われなければ、食も住も得る事は出来ない。つまり、あとは野垂れ死ぬしかない。
ふと、昔の事が思い出された。
戦場に一人取り残された、自分の歳も名前もわからないほど小さな子供。
あの時も確かこんな出会いだった。その子供には、彼が名前をつけた。出会った日を誕生日にして、彼が親となってその子供を育てた。
今、彼は退屈していた。
両親を失い、姉を失い、娘を失い、ただ一人で旅をするのにもそろそろ飽きてきたところだ。
「…もし良かったら…俺と一緒に来るか? とりあえず食べるものは不自由しない。まぁ住むところは決まってないけど…」
「え?」
「どこも行くところがないなら、俺と一緒にくるといいよ。どうする?」
「で…でも私……奴隷ですよ…?」
「そうみたいだね。だからと言ってどうってことはない。来るか来ないかだけだよ」
しばらく呆気に取られていたその少女は意を決したかのようにしっかりと、小さく肯いた。
「名前は?」
「シス…です」
「シスか…。じゃあとりあえずここで休んでるといい。それと、服も何とかしなきゃな」
青年はこの少女を寝かせて、街へ出ていった。
とりあえずは何か食べるものを調達する必要がある。それに、彼女に着せるものも。
金には不自由していなかった。彼のポケットには金が常に入っている。錬金術と俗に呼ばれるものだ。
彼自身、どういう理屈で砂を砂金に変えているかは、具体的には解らない。ただ、小さい頃から出来た芸当だという事は覚えている。
4日経った。シスの体力もかなり回復したらしく、今では部屋の中を歩く事も出来るようになっている。
服とパン、それに干し肉を買って帰ってくると、シスは大人しくベッドに横たわっていた。
出かける時に「ちゃんと横になっていなさい」という言い付けを律義に守っているようだ。
「ほら、ミルク飲むか?」
「…はい……」
身体が弱りきっているときにいきなり肉を食べさせると返って良くない。
こういう時はまず暖めたミルクか何かを飲ませて、ある程度回復させてからの方がいい。
「…ふぅ……」
「ちょっとは落ち着いた?」
「はい。ありがとうございます…」
にっこりと笑った笑顔。
その笑顔を見た瞬間、青年はまるで心臓を鷲づかみにされたような衝撃を覚えた。
見覚えがある。
遠い昔、この笑顔に出会った事がある。
どういうことだ? このシスという少女とは4日前まで、一度も会った事などないはずだ。
顔立ちも違う、姿形もまるで似ても似つかない。でも、この笑顔は見覚えがある。
心当たりは2つあった。
1つは、まだ幼かった彼を育ててくれた最愛の姉。
もう1つは、戦場で両親を殺され、彼が親となって育てた愛娘。
2人とも現在は生きてはいない。だが、彼の脳裏には彼女たちの笑顔が嫌になるくらい鮮明に残っていた。
その笑顔と、たった今シスが見せた笑顔が重なった。
「……どうしたんですか…?」
「…い、いや……なんでもないよ」
「あの……まだお名前を伺ってませんでしたが……」
「あぁ、俺の名前は…アル・アネクシオス。アルでいい」
「アル様…」
「様なんてつけなくていい。普通にアルでいいよ」
「いえ。アル様は私を拾って下さった上に、こうして助けてくれたんです。ですから…今からアル様が私のご主人様です」
「……まぁいいや。好きにするといい」
シスはコップに残ったミルクを飲み干すと、少し汚れのついた顔のまま、うっすらと微笑んだ。
「シスの……生まれ故郷はどこだ?」
「え? 私の…? 私の故郷は……ずっと東の方です。ユーフラテス河のもっと東にいったところです」
「遠いな…でもちょうどいい。この街も飽きたしね。そこに行ってみよう」
「えっ? あ、歩いてですか?」
「まさか。船を使うよ。とりあえず、カイロまで船で行こう。フィレンツェかジェノヴァから出てるはずだ。カイロまで行ったら、そこから紅海に出て、そこからまた船だ」
「……アル様は…何でも知ってるんですね…」
「伊達に長生きしてないよ。…とりあえず、もうしばらくここで休んで、体力が回復してから出発だな」
「はい」
シスの故郷は小さな村だった。
その村は第9回十字軍の遠征の際にいとも簡単に制圧され、そのときまだ11歳だったシスは奴隷としてヨーロッパに連れてこられた。
その時に、すでに故郷はなくなってしまったのだという。建物は完膚なきまでに破壊され、両親、兄弟、友人全て殺された。ただ一人、彼女だけがどういう訳か死を免れた。奴隷商人に二束三文で売り飛ばされ、すぐにヨーロッパで奴隷として売られていった。
そして6年後、熱病にかかったせいで奴隷として住んでいた家を追われ、今にいたる。
「シス」
「は、はい?」
「………何も心配しないでいいからな」
「え? ……は、はい……」
アルには彼女の過去が分かった。
どういう理屈かは分からないが、彼女の目を見ていると、それまでシスが辿ってきた道が見えたのだ。
この娘も「神」に蹂躪されてきたのだ。
「さて、俺はこれ食うけど…食えるか?」
シスの目の前にパンを差し出した。
ごくり、と喉がなる。
「ほら」
「…え? あ、で、でも…」
「いいから。腹減ってるんだろ?」
「……いいんですか?」
「あぁ。まだあるから食べるといい。あと干し肉もあるけど…これまもうちょっと体力が回復してからだな」
「あっ…ありがとうございます!」
突然、大きな声で礼を言うと、それまでの大人しさからは想像も出来ないほどの勢いでパンにかじりついた。
一応、パンにチーズを挟んだだけのものなのだが、こういったものも食べる事は滅多になかったらしい。
「…美味いか?」
「はいっ、美味しいです!」
あっという間に1つ平らげる。
「…ほら、好きなだけ食べなさい」
「は、はいっ」
木の皿に置いたパンを3つほど食べて、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
「随分元気になってきたな。もう熱も下がったみたいだし」
「はい、かなり楽になりました。もう大丈夫です」
「…もうちょっと休んでなさい。病み上がりっていうのは結構危ないんだ」
「…………」
「ん? どうかした?」
「……どうしてアル様は…私にそんなに優しいんですか?」
本当に不思議そうな顔でシスが尋ねてくる。
今まで彼女はこんな風に、普通に接してもらった事がないのだろう。奴隷として扱われてきたのだから、それもそうかもしれない。
「病み上がりの女の子に優しくするのは当然だろ? 元気になったら働いてもらうから、今は休みなさい」
「………は、はい…」
なぜか少し顔を赤らめて、またベッドに横たわる。
窓を開けると、少し冷たい風が入り込んできた。
もうすぐ秋になるのだろう。窓の外の木々の葉は少しずつではあるが色づき始めている。
旅を始めるには少し厳しい季節かもしれない。
ここからカイロ行きの船が出るジェノヴァまでは陸路で1ヶ月。
ジェノヴァからカイロまでは船で2週間。
カイロから陸路で紅海へ出て、そこから船でまた2ヶ月ほど旅をする事になる。
余裕を見て、だいたい半年ほどの旅になるだろうか。今のシスの体力では到底絶えられそうにない。今の内にゆっくりと休んで、体力を貯えておいた方がいい。
「それじゃあ俺はこっちで寝るから。具合が悪くなったらすぐ言うんだよ」
「はい…」
開け放した窓の外には、きれいな銀色の満月が浮かんでいた。
 
「きれいな月ですねー」
「そうだね」
祐と雪和の視線の先には、満月が浮かんでいる。
中秋の名月とは時期がずれてしまっているが、それでも満月というのは美しい。
「あの…今日も楽しかったです。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。悪いね、単なる買い物に付き合ってもらっちゃってさ」
「いいえ、私の方から一緒に行きたいって言ったんですから」
もうこれで何度目のデートになるか、二人とも覚えていなかった。
こうして週末になるたびに二人でどこかへ出かけるのが、もう当たり前のようになっている。金曜日の夜には、かならず祐から雪和へ電話する事になっていた。
「仙道さんってパソコンにも詳しいんですね」
「うーん、まぁ詳しいってほどでもないよ。毎日使ってれば誰でも俺程度にはなるんじゃないかな」
「そうですか? 私、機械オンチだからパソコン使える人って尊敬しちゃいます」
「そうかなぁ?」
「今度俺んちに来るといいよ。インターネットも出来るから」
「ホントですか!? そんな事言ったら私ホントに行っちゃいますよ?」
「あぁ、ホントに来ていいよ」
苦笑しながら雪和の頭をなでる。
髪が冷たい。冬特有の澄んだ空気でずいぶんと冷やされてしまったようだ。
「雪和ちゃん、寒い?」
「え? いえ、大丈夫です」
といいながらも少し寒そうだ。一応厚着をしてはいるものの、この寒さだ。大丈夫という事はないだろう。
「どうしようか? とりあえず軽く何か食っていく?」
「うーん……あのぉ…」
「…?」
「…えーとですねぇ……その……」
「どうしたの? この後何か予定が入ってるとか?」
「い、いえっ、そういう訳じゃないんです。…その……」
夕食の話題が出たとたん、雪和の顔が妙に赤くなった。しかもどこかもじもじしている。
「あの…今日、仙道さんはこの後何か予定ありますか?」
「ん? いや、別にないけど」
「そ、そしたら……あの…良かったら私の家で…」
「……雪和ちゃんちで?」
こくっ、と少し大き目にうなずく。
「あっ、あのっ、お母さんからいわれてたんです。『一回くらい仙道さんを家に招待しなさい』って。それで、今日は私が晩御飯作る事になってて、それで……どうかなぁ…って…」
語尾が少しずつ小さくなっていった。
どうやら、祐を夕食に招待したかったらしい。
「あっ、でも期待はしないで下さいね。私の料理ってまだまだ下手で、お母さんに見ててもらわないとまともに作れなくって、それで…」
「いいね、俺も雪和ちゃんの料理食ってみたいよ」
雪和の言葉を遮って、祐が彼女の冷えた髪を撫でる。
雪和はこうして頭を撫でられるのが好きらしい。何となく幸せな気分になれるのだそうだ。
「よし、じゃあ今日はご馳走になろうかな」
「は、はいっ」
本当に嬉しそうな顔で雪和が大きくうなずく。
それを合図にするように、二人並んで神社へと歩き出した。
 
「うわぁ……」
黒い、しなやかな髪が海風で揺れている。
「見て下さいアル様」
シスが褐色の指を伸ばした先には、イルカの群れがいた。どうやら船と競争でもしているつもりらしい。
さすがに海の上まで追ってくるものはいなかった。
この船に揺られ始めて今日で6日目になる。
もちろん、ずっとどこの港にもよらない、というわけではない。途中、4日に一度ほどの割合で近くの港による事になる。食料や真水、それに航海に必要な物資を買う必要もある。
「アル様はずっとこんな風に旅をしてたんですか?」
「まぁそうだね。もう随分長い間、旅ばっかりしてる」
「ご家族とかは…?」
「いないよ。まぁ強いて言えば…今はシスが家族かな」
「えっ? わ…私がですか?」
一気に顔が真っ赤になる。
どうもかなりの恥ずかしがり屋らしい。
「一緒に暮らしてるからね。家族みたいなもんでしょ?」
「は……はい…」
「もう……」
甲板のロープに掴まって遠くを見る。
もうどれくらい来ただろうか。 いろいろな所を旅してきた。
故郷を出てから地中海の周り、ヨーロッパを一周した。そして十字軍戦争の頃はイスラムの都市、アンカラで暮らした事もある。
再びヨーロッパに戻ると、黒死病が大流行していた。ルーマニアで訪れた村では、生きている人間にほとんど出会う事はなかった。出会ったとしても、その日の内に死人の仲間入りをするような連中だ。
フィレンツェへたどり着くまでにどれくらいの時間を費やしたのかはもう覚えていない。
フィレンツェの小さな街、そこでシスと出会った。
今はそのシスと、再び東を目指して旅をしている。特に行き先が決まっているわけでも、最終的な目的地があるわけでもない。ただ、足の向く方向へ進んでいるだけだ。
「アル様?」
「ん?」
「……あの…ずっと前から聞きたかった事があるんですが…」
「何だ?」
「アル様って……歳はどれくらいなんですか?」
「…どれくらいに見える?」
「……うーん……20歳…くらいですか?」
「じゃあ20歳って事にしよう。歳は俺も覚えてないんだ」
「えっ?」
「細かくはね。まぁいいさ。今日から俺は20歳だ」
「…………」
実際のところ、アルはもうすでに自分の年齢などどうでも良くなっていた。
ずっとこの外見のまま変らない。
生まれたのがずっと昔だ、という事くらいしか覚えていなかった。
この時点で、すでに生まれてから700年以上が過ぎていたのだが、彼は死ぬ事も老いる事もなく、ただずっと20歳前後の外見を保ちつづけている。
どういう理由でこうなっているのかは、彼自身にも解らない。
だが、解っている事はいくつかある。
彼は「死ぬ事」と「老いる事」が出来ない、ということだ。
「シス…」
「はい?」
「………シスはどれくらい俺と一緒にいてくれるんだろうな…」
「え?」
「俺がまだ生きてる間にシスが死んだら…多分また泣くんだろうな」
「…アル様……」
死ぬ事が出来ない。
何度死にたいと思ったかすら、もう覚えていない。
姉さんと呼ぶ女性が死んだとき、自分が育てた娘が殺されたときも、死のうと思ったはずだ。
彼が生きている間に、シスが死んでしまうであろう事は確実だ。
明日の事かもしれないし、ひょっとしたら何十年も先の話かもしれない。
それでも、いつかはそういう日はやってくる。
残酷なものだ。
どんなに大切に想っていようと、相手の方が先に死んでしまう。そして、相手が死んでも自分は生きている。死ぬ事すら出来ない。
何故こんな身体に生まれたのか…
「そ、そんな事言わないでください!」
「……」
「私、ずっとアル様の側にいますから! 何があっても絶対に一緒にいますから!」
「…そうだな……悪かった。ちょっと…ね」
「………アル様…」
冬とはいえ、この日は波もほとんどなく穏やかな海だ。空も晴れている。
こうして日向にいる分にはそれほど寒くはない。
後ろから風が吹いてきた。
それを合図にするように、帆がいっぱいに張られ、船は推進力を増して行く。
その真横では、まるでじゃれ付くようにイルカが群れで泳ぎつづけていた。
 
電話のベルが鳴った。
と言っても、本当にベルが鳴るような大時代的な代物ではない。電子的な呼び出し音だ。
「はい、仙道です」
「あ、あの……小早川です…」
「あれ? 雪和ちゃん?」
雪和の声だ。
だが、いつもとは何か違う。
何かに脅えているような、何かを警戒しているような声だ。
「どうしたの?」
「あの……仙道さん、今から駅まで出てこれませんか?」
「駅まで? うん、大丈夫だけど…どうしたの?」
「黒尽くめの服着た変な人達が学校からずっとついてきてるんです。恐くて…」
「…雪和ちゃん、今いるところは、人気が多い?」
「はい、駅の構内です」
「じゃあ電気も点いてて明るいな。いい? そこから絶対に動いちゃダメだよ。俺がいくまでそこにいて。今すぐ行くから」
「…はい、すみません……」
受話器を置くと同時に玄関から飛び出した。
黒尽くめの服には嫌な思い出しかない。
過去、彼にとっての「大切な人」は、この「黒尽くめの服」を着た者に奪われた。
今また雪和にもその毒牙が伸びていると言うのか。
彼の家から駅まで、全速力で走れば大体10分程度だ。
「雪和ちゃん」
「あっ、仙道さん」
不安げに俯いていた雪和の顔がぱっと明るくなる。
周囲を見渡すと、確かに黒尽くめの服に黒い帽子をかぶった男が4人、こちらをみていた。
「ふぅ…もう大丈夫。俺が家まで送って行くよ」
「はいっ。…すみません、いきなり……」
「いや、いいよ。それより行こうか」
ごく自然に、雪和の肩に手を置いて歩き出す。
「あっ…」
「ん? …あぁ、ゴメン」
雪和が顔を少し赤くしているのに気付いたのか、祐も慌てて手を放した。
二人並んで駅から出たときだ。
目の前をものすごい勢いで消防車が走って行く。
「…火事かな?」
「そうみたいですね」
一応消防車を見ている振りをしながらも、周囲に対する警戒は怠らない。
どうやらあの4人組みはもうついてきてはいないようだ。
だが、彼らをさらに残酷な事態が待っていた。
「雪和ちゃん!!」
神社まであと歩いて5分というところまで来たときだ。
中年の女性が雪和を呼び止める。どこかひどく憔悴しきった表情だ。
「良かった!! 雪和ちゃん無事だったのね!」
「え? …無事…?」
「神社が火事になって……」
鞄が雪和の手から落ちる。
表情が消えた。
何が何だか解らない内に、彼女は走り出していた。
「雪和ちゃん!」
祐も慌てて鞄を拾い上げ、雪和を追いかける。
石段を登った雪和と祐の目の前に広がる光景、それは今まさに炎に包まれている七帥神社だった。
「…………」
震えていた。
何が起きているのか解らない、という表情で、雪和はその場にしゃがみこむ。
「…おかあさん……」
ぽつりと呟いた言葉で気がついたのか、急に立ちあがった。
「お母さん! お母さんは!?」
周囲にいる人垣から母の姿を探してみる。
だが、雪和の母の姿はなかった。
「お母さん!! お母さん!!」
必死の形相で母を探す。
だが見つからない。
無意味に時間が過ぎて行った。
そして、神社の火は消し止められ、雪和は母と対面する事になる。
煙にまかれ、すでに呼吸も止まってしまった、変わり果てた姿の母と。
 
「何を言っているのか…意味が分かりません」
シスの目付きはいつになく鋭かった。
彼女と、彼女の主人でもあるアル・アネクシオスは再びヨーロッパに戻っていた。現在彼らはスペインで暮らしている。
もう24歳になったシスを、黒装束の男が4人で取り囲んでいる。
「娘よ……オマエはあの悪魔と共に暮らしているのだな?」
「悪魔なんて知りません。それよりそこをどいて下さい」
毅然とした態度でそう答え、無理矢理男達の包囲から抜け出そうとする。
だが、彼女の眼前に鋭いナイフが突き付けられた。
「オマエも悪魔の手先となってしまったか…哀れな娘だ……」
「なっ…何をするんですかっ!」
「悪魔はこの世にいてはいけない……悪魔は手先もろとも抹殺する必要がある…」
男の目は本気だった。決してシャレや冗談を言っている目ではない。
その男の肩の向こうに、白皙の青年の姿が見えた。アルだ。
「ア…アル様! アル様ぁ!!」
「ちぃっ!」
ナイフの刃が褐色の肌に埋もれる。
それとほぼ同時に、シスの口から大量の血が溢れた。
「シス!!」
青年が絶叫して駆け寄ってくる。その行く手を4人の内3人が阻もうとした。
阻もうとはしたが、彼の手が触れた瞬間に、彼らは体中の水分を抜き取られてしまった。
「シス!」
青年がシスの体を抱きかかえる。
その瞬間に解ってしまった。
致命傷だ。
助ける事は出来ない。
「ア……アル様……ぁ…」
ごぼっ、と濁った音と共にまた大量の血が口から溢れ出る。
「死ぬな! 死なないでくれ!! シス!!」
「わた……私………」
「喋っちゃダメだ! 今すぐ医者に診せてやるから!!」
「アル…様と……一緒に…」
息を吐くたびに血が溢れる。恐らく傷は肺に達しているのだろう。
ぶるぶると震える手をアルの頬へ伸ばす。
また重なった。
リリスが殺された時の光景と同じだ。
胸を刺され、こうして自分の腕の中で死んでいった愛娘。
「一緒に………アル…」
腕の中の華奢な体が不意に重くなる。
目は閉じられていた。
つい10日前に買ってやった白い服が、真っ赤に染まっている。
「………シス……」
涙が出た。
もう100年ほど前に枯れたと思っていた涙が溢れてきた。
なぜだ?
何故シスもリリスも姉さんも殺されなければいけないんだ?
彼女たちが何をした?
どうして…?
「どうして……」
「悲しむ事はない。お前もすぐに後を追う事になる」
男のナイフが青年の首筋に突き付けられる。
ちくり、とかすかな痛みがあった。
「お前も……神の使徒か…」
「その通りだ、悪魔よ」
「…教えてくれ……シスが何をした…?」
「悪魔の下僕となったのだ。神のお怒りに触れても仕方あるまい?」
「……それだけか…? それだけでシスは殺されたのか?」
「魔女は裁かれねばならん」
アル・アネクシオスがゆっくりと立ち上がる。
両手を胸の上で組んだシスを抱え、そのまま歩き出した。
「どこへ行く! アル・アネクシオス!!」
「…………」
無言のまま、彼は真っ直ぐに街の出口を目指して歩きつづけた。
褐色の肌の女を抱きかかえて、ゆっくりとした歩調で歩いている。
不意に、彼の足に石が当たった。
子供が投げた石だ。
「あくま! さっさとでてけ!!」
その子供はもう一つ石を拾うと、今度は青年の頭をめがけて石を投げる。だが、その石は逸れてしまった。
街の出口に近づくに連れ、石の数はどんどん増えていった。
沿道を埋め尽くす人々が、道に落ちている石を我先にと投げつける。
ついには石はまるで雨のように青年に降り注ぎ始めた。
彼はその石を避けようともしない。
なぜか石は一つも彼に当たらなかった。全てが当たる直前で微妙に軌道を変えてしまうのだ。
「アル・アネクシオス!」
男が青年の前に立ちはだかった。
「お前は生きてこの街を出る事はない! その娘の後を追うがいい!!」
「…………」
青年の返事はなかった。
ただ彼の形相から、彼の心が怒りと憎しみ、それに悲しみに満ちている事だけは十分すぎるほど分かった。
男がナイフを振りかざした刹那。
彼はその姿勢から動けなくなった。
まるで彫像のように動かないその男をわき目に見て、青年は街から出ていった。
後に残されたのは、石となってしまった黒装束の男一人だ。
 
「雪和ちゃん、ほら、飲みなさい」
「…………」
祐が差し出したホットミルクを、真っ赤に腫らした目で見る。
昨夜、葬儀がすべて終わった。
雪和はたった一人の肉親でもある母を亡くしたことになる。
現在、彼女は着の身着のままで祐の家にいた。
「…気持ちは分かるけど……身体壊すよ?」
「……はい…」
すぐ側に座った祐からマグカップを受け取り、ほんの少しだけミルクを口に含む。
七帥神社は全焼だった。
雪和の母の遺体がほとんど焼けていなかったのは奇跡に近い状態だった。
神社も、そのすぐ近くにあった彼女の家も、全てが焼けてしまった。
「…仙道さん……」
「ん?」
「………せん…仙道…さん…」
大きな眼からぽろぽろと涙が零れた。
ここ数日、ずっとこんな調子だ。
寝ている時間以外のほとんどは泣いている。
ほとんど口も開かないし、ほとんど何も食べない。
よほどショックなのだろう。数日だけでも少し痩せたことがわかってしまう。
「…いいよ。我慢しないで。泣きたいときは思いっきり泣きなさい」
「…うっ……」
マグカップを置いて、祐の腕の中に飛び込んできた。
そのまま、まるで小さい子供のように声を上げて泣き出してしまった。
祐はただ、何も言わずに雪和を優しく抱いてなだめている。
こういう時に何か言われるよりも、ただこうして黙って泣かせる方が良い。
その事は祐も経験上よく知っていた。
時間が解決するのを待つしかない。自力で立ち上がれるようになるのを待つしかないのだ。
たっぷり30分は泣いただろうか。
泣き疲れていつのまにか眠ってしまったようだ。
恐らく不安なのだろう。
たった一人の肉親を亡くしたことのショック。
それに、将来に対する不安。
収入はない。当然、生活費も学費も何も当てが無い。
政府の保護は期待できない。かといって、アルバイトをしながら学校へ通いつづけるのも難しい。それに、アルバイト程度で稼げる金額では、学費と生活費をまかなう事は出来ない。
明日着るものも満足に無いような状態だ。
今のところ、祐の家にいるおかげで住環境は整っている。食べ物もある。
ただ、着替えが決定的に少ない。
下着の替えなどはまだ洗濯しながら使いまわせるくらいの数はあるが、これから寒くなる。
彼女が持っている分だけでは絶対に足りない。
「さて……」
祐は電話のすぐ側からメモ帳を取り出し、何かしら書いて、なるべく音を立てないように玄関から外へ出た。
『ちょっと銀行に行ってきます。すぐもどるから、お腹が空いていたら冷蔵庫のものを適当に食べてて良いよ』
という内容だ。
その通り、彼は銀行へと赴いた。
すぐ近くにATMがある。そこで現金を引き出した。
そして帰り道、夕食のおかずを買って帰る。
「すみません」
「はいいらっしゃ……あら…雪和ちゃんの具合、どう?」
「今は寝てます。ちょっと疲れてるみたいだから…しばらく学校も休ませようと思います」
「そうよねぇ、その方が良いわよねぇ」
初めて買い物をしたときに、雪和に案内してもらった惣菜屋のおばさんだ。
買い物を何度かしていたせいか、こうして普通に会話が出来るくらいに仲良くなっていた。
「あの子も可哀相にねぇ…あんなに真面目で優しくて良い子なのに…」
「……そうですよね…」
この店のおばさん、雪和が小さい頃から彼女を知っているらしい。
まぁ雪和は幼い頃から巫女服を着て、夏祭のときには神社のマスコット的な存在だったらしいからそれも不思議ではない。
「仙道さんみたいな方がいるのがせめてもの救いかしらねぇ。…あの子の事、よろしくね?」
「え? えぇ」
「それで、今日は何にする? おまけしとくわよ?」
「それじゃあ…アジのフライと、あと春雨のサラダと、ゴボウの金平にしようかな」
「はいはい。じゃあ…この肉団子、おまけしとくわね」
「ありがとう。それじゃ」
「それじゃあ。雪和ちゃんによろしくね」
良い匂いのする惣菜を持って、マンションへと向かう。
空を見ると、もう茜色から青紫へと移り変わっていた。
 

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