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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



満月の夜に






夢を見ていた。
その青年はベッドに横たわり、心地よい振動を楽しんでいるかのようだった。
この鉄道はつい最近になって開通したばかりだ。
大英帝国から独立したばかりの合衆国で、初めて開通した鉄道。
その鉄道に特別に作られた寝台に、その青年は乗っていた。
彼の夢の中では、長い人生がまるで映画のように鮮明な映像となって浮かんでいる。
楽しい夢だ。
まだ小さい子供の頃、彼は姉に育てられた。
美しく、優しい姉だった。
いつも彼の事を庇ってくれて、いろいろな事を教えてくれた。彼はそんな優しい姉が大好きだった。
いつも側にくっついて、甘えては困らせていたものだ。
だが、その姉は殺されてしまった。
まだ小さかった彼にはその理由は分からなかったが、今なら分かる。
姉リリスが殺された理由は、自分自身であるという事。
自分を庇ったために、姉は殺されたのだ。
それ以来、彼はずっと放浪の生活を続けていた。
そんなときに役に立ったのが、姉が教えてくれた「錬金術」という技だった。
砂を砂金に変えてしまうという技術。
どういう訳か、これは彼とリリスにしか出来なかった。
リリスとアルの姉弟は不思議な点で共通するところが多かった。錬金術もその一つだが、彼ら2人で決定的に違っていた点がある。
姉は死んでしまった。だが、弟は「死ぬ事」が出来ないのだ。
何度も自殺を試みた。
首をつったり、毒を飲んだりもした。
だが、死ねない。
死ねない上に、老いる事もなかった。
どういう訳か、彼の容姿は20歳の頃から全く変らない。
今の姿になって、もうどれくらいの月日が過ぎただろうか。
確か彼が生まれた年は、今で言う西暦の782年。
もう1000年が過ぎている。
この1000年の間に、彼は愛するものを何度も亡くしてしまった。
姉、娘、恋人。
彼女たちは不思議な事に、姉リリスの面影を持っていた。
姿形、肌の色、瞳の色、髪の毛の色もすべて違う。
だが、面影や雰囲気は姉リリスのものと同じだった。
そして、姉リリスと同じく、彼女たちもまた彼の目の前で殺されてしまった。
『神の使徒』と名乗る者に、皆胸を刺されて死んでいった。
彼は疲れ切っていた。
死ぬ事が出来れば、彼女たちのもとへ行く事が出来るかもしれない。
死ぬ事さえ出来れば、この苦しみから解放される。
死ぬ事さえ出来れば……
「お客様、着きましたよ」
不意にドアの向こうから声がした。
その声で目が覚めたのか、青年はふらふらと身を起こす。
「お客様、終点ですよ」
「あぁ、降ります」
荷物を抱え、ドアを開けて外に出た。
なかなか大きな街だ。
英国からの移民が多く移り住む街だという。
上を見るとすでに空は薄暗い。もうそんな時間なのか。
『ワシントン・シティへようこそ!』という大きな看板が目に入った。
「ワシントン…か……」
確か独立戦争の指揮官がジョージ・ワシントンという名前だったか。その男の名前をつけた街、という事になる。
青年はさほど大きくはないバッグを抱えて、ゆっくりと歩き出した。
彼の目の前には、豪奢な造りのホテルがある。彼がこれからしばらく宿泊する予定のホテルだ。
ホテルのドアを開け、ロビーに入ると実に豪勢な内装が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「はい。アル・アネクシオスで予約しています」
「かしこまりました。アル・アネクシオス様でいらっしゃいますね」
ドアボーイが彼のバッグを受け取り、その場で待機する。
さっき声をかけてきた男がキーをもって戻ってきた。
「こちらへどうぞ」
どうやら部屋まで案内してくれるようだ。
こうした宿泊のための施設のサービスも随分変った。
昔はカウンターで金を払い、鍵を預かってそれっきり、という形だったのだが。
だが、これはこれで居心地は悪くない。だが、する事が無くなるというのは意外に退屈なものだ。
「ワシントン・シティへは観光で?」
「…まぁそんな所です」
「ここの他はどちらへ? ヨーロッパの方からいらっしゃったんでしょう?」
「特に予定はありませんよ。気が向いたら気が向いた方へ行くだけです」
「いやぁ、羨ましいですなぁ」
やたら背の高いドアボーイが屈託のない笑顔を向けた。
「私はずっとここで育ちましてね。他の土地へは行った事がないんですよ」
アル・アネクシオスが持ってきたバッグは決して重くはない。必要最小限の荷物しか入っていないのだから、重くなっては困る。
ドアボーイが鍵を取り出した。部屋の番号は306だ。
「はい、どうぞ。この部屋の鍵です。お出かけのときはフロントにこの鍵を預けていって下さい」
「どうも」
ポケットから1ドル札を差し出した。
チップとしてはかなり気前がいい方だ。ドアボーイはかなりの上機嫌で去っていく。
「…ふぅ……」
アメリカ合衆国は活気に満ち溢れていた。
独立したばかり、という事もあるのだろう。港に降り立ったときから、国中が活気で満ちている事がわかるくらいだった。
だが、そんな気運の中に身を置いても彼の心は疲れ切ったままだ。
ぼふっ、と音を立ててベッドに横になる。
ランプの灯かりが部屋をぼんやりと明るくしていた。
シスの事を考えていた。
褐色の肌に黒い瞳と髪の毛。
美しい娘だった。美しく素直で、優しかった。
彼女が死んでからもうどれくらい経っただろう?
彼女を亡くして以来、アルは一人だった。
もう誰も愛する事はないだろう。そう考えている。
愛したところでどうなる? また自分のせいで殺されてしまうのではないか?
殺されなかったとしても、また愛するものを失う悲しみを味わう事になる。
彼はもう疲れ切っていた。
しかし、同時に渇いていた。
1000年を生きてようやく、幼い頃に姉が言った言葉の意味が分かってきた。
『どんなに強い人でも、一人じゃ生きていけないの』
「一人で……生きてきたつもりなんだ……」
『姉さんね、アルの事が大好きなの。人を好きになるってすごくいい事なのよ』
「……姉さん…」
ベッドに仰向けに横たわったまま、天井をぼんやりと眺める。
さっきまで眠っていたせいか、眠気は全くない。だが、置きあがる気にはなれなかった。
『絶対に……離れないからね…』
『絶対に一緒にいますから!』
瞼の裏側に、リリスとシスの顔が浮かんできた。
彼女たちを失った時の心の痕はまだ癒えていないようだ。
彼女たちは確かに約束を守ってくれた。
だが、そんな彼女たちを守ってやる事は出来なかった。
「姉さん………姉さんの言った通りだ…」
視界がぐにゃりと歪んで、顔の側面に暖かい感触。
涙が自然と流れた。
「一人は……寂しいよ………」
もう今年で200年になる。
200年間、彼は一人でずっと旅を続けてきた。
200年の間、彼は誰も愛さずにいようと思いつづけてきた。そうすればあの哀しみからはまぬがれる事が出来る。
だが、その後に残ったのは、この例えようもない孤独と寂しさだけだった。
どうして?
どうして生きているんだ?
なぜこんな思いをしてまで生きてるんだ?
なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ?
どうして死ねないんだ?
死ねば楽になれる。神の使徒とかに殺される事が出来れば、それで楽になれる。
なのにどうして?
「……俺は……いつになったら…」
ドアがノックされた。
返事をする前にドアがゆっくり開く。
「アル・アネクシオス殿ですな」
初老の男が入って来る。
かなり大柄で、手にはサーベルを持っていた。
「だとしたらどうする?」
「貴殿に話がある」
「ここで構わない。座りなよ」
ゆっくりと身を起こして、男の顔を見る。
見覚えはなかった。
「…では失礼する」
大柄な男は椅子に腰掛け、アル・アネクシオスと正面から向き合った。
「で、話って?」
「単刀直入に聞こう。貴殿は悪魔か?」
「そうだろうな。多分」
聞く方も聞く方なら、答える方も答える方だ。
まったく躊躇いなどなく、ズバリと言ってのけた。
「なぜそう思われる?」
「…神を呪ってるからね」
「なぜ神を呪われる?」
「死にたいのに死ねない。だからさ」
「なぜ死を望まれる?」
「…愛する者のいない世界に生きていても……意味はないさ」
「……なるほど…」
初老の男は腕を組んで考え込む。
どうやら今までアルが出会ってきた「神の使徒」とは違うようだ。
今まではアル・アネクシオスの名を聞くだけで襲い掛かってきた。だが、この男はまず話を仕掛けてくる。
行く行くはそのサーベルを振るうつもりかもしれないが、それでもこうしてまともな会話をしたのは初めての事だ。
「さて、それではこれで失礼する。お邪魔して申し訳ない」
「…殺さないのか?」
「あなたは死なない。死なない者を殺そうとするほど、私は愚かではないつもりだ」
「なるほど、もう知ってるって訳か…」
「それでは」
「あぁ、ちょっと待って」
青年は初老の男の背中に言葉を投げかけた。
「俺を殺す方法が分かったら、俺にも教えてくれよ」
「……承知した」
静かに、ほんの少しの軋みを残してドアが閉まった。
 
 
「も、申し訳ございませんご主人様!」
広い屋敷の中には、たった2人しか住んでいない。
一人は色白の青年で、この付近の農場主だ。何でもこの大陸にやってくる際、大量の砂金を掘り当ててその金で土地を買ったらしい。
農場主にしては珍しく、農夫達を大事に使うという評判で、続々と農夫が集まってきているそうだ。
そんな若き農場主の館で働くメイド。それが彼女だ。
小柄な身体ではあるが、よく働く。まじめな性格だ。生真面目といった方が適切かもしれない。
「おやおや……気をつけなさい」
「は、はい……」
不思議と、彼女がどんな失敗をしようと農場主は怒ったりしなかった。
まるで小さな子供の失敗を軽くたしなめるような、そんな口調だった。
今年で15歳になるメイド、シノは日本とか言う国からやってきたのだという。
小さい頃にアメリカに移住し、それ以来ずっとアメリカで暮らしていたのだそうだ。
だが去年、突然両親を事故で亡くし、路頭に迷っていたところをアルに拾われた。
日本人はどうやら働き者の民族らしく、本当に志乃はよく働く。言い付けは守るし、何よりも頭がいい。
彼女を拾ったときは、本当に自分に呆れ返ったものだ。
過去に何度もこういう事を繰り返して、その度に哀しい結末を味わってきたじゃないか。
それなのに……
「……あ、あの…ご主人様…?」
「ん?」
「…すみません…」
「あぁ、別に怒ってないって。それより怪我は?」
「いえ、大丈夫です」
ちょっと申し訳なさそうな顔で、上目遣いにアルを見る。
こういう仕種なども良く似ている。
「それより志乃、あとで俺の部屋に紅茶を持ってきて。ミルクティーでいい」
「あ、はい、ご主人様」
実に聞き取りやすい声だ。
それでいて耳障りでもない。澄んだ鈴の音を連想させる。
まるでシスの声を思い出させるような、そんな声だ。
「……そろそろ…俺も寂しくなったのかな……」
階段を上りながら、ぽつりと呟いた。
志乃と暮らすようになってからというもの、彼の心の渇きは次第に潤っていった。
彼女が側にいるだけで、それだけで以前感じていた孤独感や空しさが消えていく。
不思議なものだ。
彼女もまた「似ている」のだから。
笑顔や仕種、それに言葉づかいが、彼の姉のリリス、そして戦災孤児だったリリス、そしてシスに良く似ている。全体的な雰囲気が似ているのだろう。
最近彼は一冊の本を読んだ。
それは東洋のチベットとかいう国の宗教について書かれたものだ。
人は死んでもまた別の人間としてこの世に生まれてくる。これを輪廻転生というのだそうだ。
もしこの理論が正しいとするならば、姉もリリスもシスも、そして今恐らく一階のキッチンで紅茶を入れている志乃も輪廻とかいうものを繰り返しているのだろうか…
だとしたら、死なない自分はどうなるのか?
自分に輪廻とかいうものはあるのだろうか?
と考え事を巡らしている最中に、ドアをノックする音が室内に響いた。
「ご主人様、お茶をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
「何か他にお持ちするものはありませんか?」
「…そうだな、クッキーか何かが欲しいけど…ある?」
「はい、今朝焼いたものが残ってます。それでよろしいですか?」
「あぁ。頼むよ」
紅茶を一口啜り、柔らかい椅子に身を沈める。
部屋は薄暗い。
ランプの灯かりだけが、この広い部屋を照らしていた。
ひょっとしたら志乃は、姉さんやリリス、それにシスが生まれ変わってきたのかもしれない。そんな突拍子もないことを考えてみた。
「ふぅ……」
天井を見上げると、ちょっとした絵が描いてある。
恐らく、そう芸術的な価値が高いものではないだろう。そこら辺の画家が描いたものらしい。
そう言えば、彼の子供の頃の記憶の中にも「天井の絵」がある。
どんな絵だっただろうか…確か鎖と鏡が描かれていたはずだ。
あの大聖堂はまだあるのだろうか?
「…ある訳ないか」
自嘲気味に苦笑して、もう一口紅茶を口に含む。
また、ドアがノックされた。
「ご主人様、クッキーお持ちしました」
「あぁ、ありがと。入っていいよ」
「失礼します」
メイド服に身を包んだ志乃が入って来る。
東洋人でもある志乃にメイド服が似合うかどうか、最初は不安だったのだが、どうやら無駄な心配だったようだ。
白いブラウスに紺のスカート。それと白いエプロンという、実にオーソドックスなスタイルだ。
この服装が意外なほど志乃にはよく似合っている。
「志乃も食べないか?」
「え? …よろしいんですか?」
「あぁ。一人で食うより2人の方がいい」
近くで良く見ると、まだ幼さが残る顔立ち。
本当に雰囲気がそっくりだ。
「本当に良く似てるな…」
「え? 似てる…って?」
「昔会った人にね。雰囲気がそっくりなんだ」
「は、はぁ…」
「……なぁ志乃、ここでの暮らしはどうだ?」
「楽しいですよ」
と、本当に楽しそうな笑顔で言ってのけた。
「だって本も好きなだけ読めますし、それに私、料理が大好きなんです。好きなだけ料理が出来て、「おいしい」って言って食べてくれる人が入るんですもの。凄く楽しいです」
「…そうか……」
こうして心が温かくなるのも随分久しぶりの事だ。
シスが死んで以来、こうして人と話しをしていて心が穏やかになる、ということはほとんどなかった。
心の底から安らげる、ということなど実に200年ぶりではなかろうか。
「…志乃が望むなら、ずっとここにいるといい。少なくとも衣食住は俺が保証するよ」
「はいっ、ありがとうございます」
にっこりと笑った笑顔。
思わず苦笑してしまうほど、よく似ていた。
彼の記憶に鮮明に残っている、姉リリスの笑顔だった。
またそれは同時に彼が育てた娘のリリス、そしてシスの笑顔でもある。
「さてと……今日の夕食は?」
「今日は…あの…私の故郷の料理を作ってみようと思うんですけど…」
「へぇ、ニッポンの料理か。面白そうだね。ぜひ頼むよ」
「はいっ」
 
「フロウフシ?」
「はい。日本の御伽噺であったんです」
志乃の話の中に、耳慣れない言葉があった。
フロウフシという言葉だったのだが…
「老いず死なずっていう意味なんです。人魚の肉を食べるとそうなるっていうふうに言われてるんですよ」
「老いず……死なず…か……」
これには少し驚いた。
まさしく自分の事ではないか。
老いる事も死ぬ事もない。だが、彼には人魚の肉など食べた覚えはない。今まで食べてきたのは、ごく普通の食べ物だけだ。
「でも、人魚なんて…いるわけないですよね」
「…そうだな」
志乃が持っていた御伽噺の本の中に、確かにこの話はあった。
日本語で書かれていたので、志乃に読んでもらったのだ。
その内、原文のまま自分で読んでみようと考え、彼自身も志乃から日本語を学んだ。
「……まったくその通りだ…」
原文を読んで、少なからず共感するところがあった。
この物語の主人公は、到底他人とは思えない。
永遠に生きなければいけない苦しみ。
死ぬ事が出来ない哀しみがそこに描かれている。
「ご主人様…?」
「志乃…もし俺がこの話の主人公みたいだったら…どうする?」
「え?」
大きな目をさらに丸く見開いて、驚きの表情を作る。
そう言えば、志乃がこの家で働くようになってからもう1年近く経つが、まだ彼女はアル・アネクシオスという人物の年齢を知らない。
どこの出身かも知らない。白い肌に鳶色の目と亜麻色の髪を持っているところから、おそらく東洋人ではないだろう。ヨーロッパの方の出身なのかもしれない。
ただ、不思議な部分は数多くあった。
大昔の出来事、例えば十字軍戦争やペストの流行、それにルネッサンス時代の事やメディチ家の話など、まるで自分の目で見てきたかのように生々しく話すことが出来るのだ。
もしもこの目の前の男が不老不死だったら?
人間の姿をしているが、人間でない生き物だったら?
「別に構いません」
「……?」
実にあっさりと言ってのけた。それも微笑みながら。
「ご主人様がどんな方であれ、今のままのご主人様でいて下さったら、私はそれでいいです」
「もし俺が悪魔だったらどうするんだい?」
「…アクマ…? あぁ、鬼の事ですね」
「……オニ?」
「私の故郷で言う鬼の事だと思います。鬼の中には優しい鬼もいる、って祖母から聞いた事があります。ご主人様が鬼だとしたら、きっと優しい鬼なんですよ」
にこにことした表情でそう話を続ける。
たとえこの場にいる男が鬼であろうと、今まで自分に対しても、それに彼の農場で働く農夫達に対しても優しく接してくれている。
彼は悪魔でも鬼でもない。志乃にとってはただの「優しいご主人様」なのだろう。
「志乃は…神っていうのを信じてるかい?」
「神様ですか……縁結びの神様とか学問の神様とか、あと大漁の神様なら信じてます」
「……?」
「…あ、日本ではたくさん神様がいるんですよ。八百万って言われるくらいたくさん」
「ヤオヨロズ……どんな意味だったっけ?」
「数え切れないほどたくさん、っていう意味です」
「………キリスト教とかとは違うんだな。東洋の宗教は」
「そうみたいですね。私もこっちに来てちょっとびっくりしました」
神が一人しかいない。
神の御業に間違いはない。
俗に言う「一神教」というものだ。この類の宗教は自然に発生する事はない。
自然発生する宗教は大抵、自然のありとあらゆる物事に神が宿っている、という考え方だ。
ギリシャ神話の神、ゼウスなどはどうだろう。
最高神という地位でありながら、妻のヘラには頭が上がらず、そのくせ女好きで浮気がバレてはヘラに癇癪を起こされる。何と人間臭い神だろうか。
考えてみれば、キリスト教が普及するにつれて土着宗教の「神」はキリスト教にとっての「悪魔」に姿を変えられてきた。
東洋では水の守り神とされているドラゴン。
龍神様といわれ、ニッポンでも豊かな水をもたらす神として崇められているという。だが、そのドラゴンがキリスト教ではどうだろう?
忌まわしい呪われた怪物として語り継がれ、ひたすら悪役の道を歩まされているようだ。
「東洋と西洋では根本的に考え方が違うんだね」
「…そうみたいです」
ユダヤ教のヤハヴェ神、キリスト教のイエス、イスラム教のアッラー。
これらはいずれも「唯一絶対の神」として扱われている。
東洋で普及している仏教、儒教、ヒンドゥー教では実に多くの神々がいる。その神は時に間違いも起こすし、人間臭さも持っている。
西洋社会ではまず考えられない。
「不思議なもんだな」
「えぇ……」
窓からは銀白色の光が優しく射し込んでいる。
満月だった。
 
館はきれいなオレンジ色の炎を上げていた。
暗い夜空が明るく染め上げられ、幻想的な雰囲気すら醸し出している。
「…大丈夫か?」
「はい……」
アルと志乃の2人は、館の入り口、門のところまで逃れていた。
玄関近くでは、彼の農場で働いていた農夫達が松明を持って何かを叫んでいる。
「……もう…ここにはいられないか」
「ご主人様…」
「志乃は好きなところへ行きなさい。もう俺に縛られる必要はない」
「えっ?」
「………俺はまたどこかに行くよ。当てのない旅になると思う。この砂金を持っていくと良い。当分食うには困らないだろうから」
「そ、そんな……どうして?」
館に火をつけたのは農夫達だった。
彼らの間では、ここ数日で急速にある噂が広まっていた。
農場主は悪魔だ、という噂が。
確信のない噂だったが、それでも噂は何度も何度も農夫達の間をぐるぐる回る事で、根拠のない信憑性を高めていった。
そして、彼らは火を放った。
火は悪魔を追い払う力があると思っていたのだろう。まだアルが館の中にいると思った彼らは、館のありとあらゆる所に火を放った。
木造の館が炎に包まれるまで、それほど長い時間は必要なかった。
「ほら、見つからない内に。見つかったら志乃もタダじゃすまない」
「……イヤです…」
「…?」
「私……アル様について行きます」
「……志乃…」
「私の居場所は…アル様の側だけなんです。他に行くところなんか……」
「…わかった。じゃあついてきなさい」
門をゆっくりと開け、馬車に乗り込む。
間一髪だった。
農夫達が馬の嘶きを聞きつけて駆けつけてくる。
彼らが門に辿り着いた頃には、アルと志乃はすでに馬車で走り出していた。
 
 
志乃は日向のソファで編み物をしていた。
もともと手先が器用だったせいか、毛糸を使った編み物もすぐに覚えたらしい。
特にこれといって変ったところのない、普通のマフラーだった。
「…うん、これで……」
窓の外では枯葉がかさかさと音を立てている。
もうすぐ本格的な冬になるだろう。マフラーの一本や二本、あっても困るものじゃない。
彼らはヨーロッパに戻っていた。
志乃にとっては初めてのヨーロッパなのだが、アルにとっては実に久しぶりのヨーロッパだ。
しばらく見ない内に随分変ってしまっていた。
道路は舗装され、街にはガス灯が点っている。
漆黒の闇に支配されていた夜の世界が、明るく照らされるようになっていた。
「ただいま、志乃」
「あ、お帰りなさいませ…」
ゆり椅子に座ったまま、にっこりと主人を迎える。
志乃はもうすぐ28歳になろうとしている。
彼女は病んでいた。
結核という、肺の病気に体を蝕まれていた。
「大丈夫か? 具合は?」
「今日は…だいぶ楽です。それほど寒くはありませんから」
「そうか…でも無理はするなよ」
「はい…」
誰も入ってこない部屋。
結核は空気感染する上に、治療法が見つかっていない、不治の病だ。
恐らく、このままでは志乃は死んでしまう。
だが、アルは不思議な安堵感を覚えていた。
今まで自分が愛したものは全て、『神の使徒』の手で刺殺されている。だが、 志乃は違った。
アルが背中をさすると、胸の痛みは不思議とやわらぐらしい。
こうして2人しかいない部屋で、志乃の背中をさすってやること。それがアルの日常だ。
「ご主人様は……ご病気にはならないんですね…」
「あぁ……イヤになるくらい身体は丈夫なんだ」
「…………」
何も言わずににっこりと微笑む。
随分痩せてしまった。
病気のせいだろう。ここ数日はあまり食べ物も喉を通らない。
「ご主人様…」
「ん?」
「私が……死んだら、誰か好きな女性を……大切な人を探して下さいね……」
「…志乃…?」
「だって…ご主人様、寂しがり屋なんですもの。誰かが一緒にいないと…私も安心できません」
「……あぁ、解った。時間はかかるかもしれないけど……そうするよ」
「…あ、でも……また私が生まれ変わって、ご主人様の側に行くかもしれませんね」
穏やかな笑顔だ。
アルには解っている。
もう死期がすぐそこまで迫っていた。
また愛するものを失ってしまう。
だが、志乃は笑顔のままだ。彼の記憶にある、苦痛と涙での別れではない。
静かな、穏やかな死がそこまで迫っている。
「あ、ご主人様」
「うん?」
「このマフラー……」
「…志乃が作ったのか?」
「はい。これから寒くなりますから…風邪を引かないように」
「…ありがとう。大切にするよ」
「…はい」
不意に志乃が咳き込む。
床に赤い滴が落ちた。
白く塗られていた床が真っ赤に染まる。すでに志乃の身体は限界だった。
アル・アネクシオスが優しく小さな背中をさする。そうすると不思議と痛みが消えていくのだそうだ。
「…すみません、ご主人様……」
「いや、いいんだ」
「……ご主人様…」
「…ん?」
「最後のお願い……聞いてくれますか…?」
「あぁ、何でも言ってごらん?」
「抱いて…下さい」
「……あぁ」
椅子に座っている志乃をそっと抱きかかえて、そのままベッドに腰掛けた。
軽い。
もともと小柄な身体がますます小さく、軽くなってしまった。
こうして抱きかかえている体には、力がまるで感じられない。
命の火がもうすぐ消えてしまうのだろう。
もうそれほど先の話ではない。おそらく、本当にもうすぐ彼女の命は尽きてしまう。
「……暖かい…」
「何も心配しなくていい。ゆっくりお休み」
「ご主人様…」
「ん?」
「最後に……キスして…下さい」
そっと志乃が目を閉じる。
顔を近づけると、本当にかすかにではあるが、呼吸が感じられた。
軽く閉じられた志乃の唇に、優しく自分の唇を重ねる。
志乃の目から、涙が一滴だけ零れた。
「……ご主人様…すごく……眠い…です」
「あぁ。心配しないでいいから。眠っていいんだよ」
「…………おやすみなさい…愛してます…ご主人様……」
「…おやすみ……」
うっすらと開けられた目が、再び閉じる。本当に眠るような、静かな別れだ。
志乃の目が開く事は、もう二度となかった。
 
 
世界大戦は終わりを告げた。
1945年、全世界を巻き込んだ大戦争は、ようやく終結した。
思えばこの戦争も、くだらないきっかけで始まったものだ。
志乃がこの世を去っておよそ150年が経っている。その間、彼はまた一人になっていた。
別に一人でいる事が苦痛に感じられるわけではない。
だが、やはり彼女が言っていた事は正しいようだ。
寂しい。
寂しさが次第に込み上げてくる。
それもそうだろう。150年間も孤独な放浪を続けていれば、誰だって寂しくなるはずだ。
彼の事を良く分かっていたのは、彼自身ではなく、彼と一緒に暮らしていた志乃だったのだ。
思わず苦笑してしまう。
1200年も生きていて、自分の事も分からないのか。
「…ふぅ……」
ふと空を見上げると、もう星がちらほらと見え始めている。
東の空にはひときわ明るい金星が見えていた。宵の明星というやつだ。
ここ数百年で街の風景はがらりと変ってしまった。
馬車は自動車に、松明の灯かりはガス灯から電灯に。
鉄の線路が引かれ、その上を電車が走る。
空は鳥だけのものではなくなってしまった。
船は太平洋を横断し、一度に大量の荷物を運ぶ事が出来るようになった。
電気の灯かりが夜を昼よりも明るく照らすようになった。
昔の、あの静かな夜はもう懐かしい昔話になってしまったようだ。
今ではこの場に居ながらにして、全世界の様子がわかる。
ラジオが音声を運び、新聞が文章でニュースを届けてくる。電話という便利な道具も出来た。これを使えば、手紙を出す事なく、ロンドンからニューヨークのホテルの予約が取れる。
テレビというものも出てきた。初めは驚いたものだ。今ではほとんど当たり前のように見ているが。
「ミスター・アネクシオス」
ドアがノックされた。
「ルームサービスをお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
チェーンキーをはずしてドアを開ける。
どちらかというと小柄なドアボーイが、サンドウィッチと濃い目のアールグレイの紅茶を差し出した。
「ミルクと砂糖は…?」
「両方使います。置いてって下さい」
「かしこまりました」
チップを渡すと、ドアボーイはさっさと出ていってしまった。
長年ホテルで暮らしていると、こういう事にも慣れてしまう。
窓から外を眺めると、ロンドンの町並みが一望できた。
今日はめずらしく天気が良かった。
ロンドンという街で今日のような抜けるような青空が広がる、という事はかなり珍しい。
たいていはどんよりと曇った天気になる。5時間後の天気が違う、というのもこのロンドンの特色の一つだろう。
「さて…と」
ハムサンドを3口で片づけて、ベッドに横になる。
明日から、彼はまたこのホテルを離れる事にした。
ここ数十年は「神の使徒」を名乗る者は現われない。さすがにあきらめたのだろうか。
昔に比べ、人々の信仰心は薄れているような印象を受ける。
そのせいだろうか。かつては悪魔と呼ばれた彼も、今ではごく普通の青年として生活できるようになった。
もっとも、彼には戸籍も何もない。ただ、あるのは砂金を売って得た天文学的な金額の預金だけだ。
 
墓地に一人の青年がたたずんでいる。
その手には抱えきれないほどのカスミソウの花束があった。
花束をそっと、墓標に添える。
その墓標は古く、苔が所々に生えていた。
かろうじてその墓の主の名が読み取れる。
「…リリス……」
墓の主は2人いる。
一人はこの青年の姉。
もう一人は青年の娘。
2人とも「リリス」という名前を持っていた。
そして2人とも、若くして死んでしまった。
「もう……どれくらい経ったのかな。俺もこんな服を着るようになったよ」
彼の姉の方のリリスの遺骨を見つけるのは大変だった。
かなり昔、彼の姉の墓は両親の墓ともども荒らされていた。
その場所を探して、ようやく骨の一部を見つける事が出来た。そして、姉は今この地に眠っている。
「姉さん……やっぱり姉さんの言った通りだったよ。一人じゃ寂しいね……」
もう姉が死んでからかなりの年月が経っている。だが、彼の脳裏には、まるで写真のように鮮明に、優しい顔が焼き付いていた。
「さてと…それじゃ行くよ。まだ行かなきゃいけないところがあるんだ」
青年はゆっくりと立ち上がる。
恐らく、この墓地を訪れる事は、この先しばらくないだろう。
彼は、故国デンマークでしばらく暮らす事にした。
「じゃあ。また何かあったら来るよ」
墓地のゲートをくぐり、青年はゆっくりと歩き去る。
古ぼけたマフラーが、秋の冷たい風に吹かれて少しだけはためく。
次に彼が訪れたのもまた墓地だ。
さっきの墓地からかなり離れたところにある。タクシーで1時間以上走っただろうか。途中、花屋に寄ってまた花束を2つ買った。
青年はそこでも、ある墓標の前で立ち止まる。
小さな墓標が2つ並んでいた。
「やぁ。久しぶりだね」
穏やかな笑顔を浮かべて、それぞれに一つずつ花束を一つずつ置いた。
これもカスミソウの花束だ。
「ちょっとここを離れる事にしたから……知らせに来たんだ」
墓標の一つは、それほど古くはない。といっても、その辺の墓標に比べると格段に古いが。
2つの内古いものは、もう200年か300年、あるいはそれ以上経っているように見える。
「2人とも…似た者同士だったからな。仲良くやってくれよ」
そう呟くと、青年は首に巻いたマフラーをはずし、新しい方の墓標にかけた。
「志乃……せっかく作ってくれたマフラーだけど…こんなにボロボロになったんだ。今度は志乃が使ってくれよ。……まぁ150年も使ったから…許してくれるかな」
しばらく墓標を懐かしそうに眺めて、また青年は立ち上がる。
「それじゃあ」
名残惜しそうに2度振り返ってから、墓地を後にする。
墓地の入り口ではタクシーが待っていた。
「ヒースロー空港まで」
「はい」
ポケットにはコペンハーゲン行きのチケットがある。
それと反対のポケットには、イギリス政府発行のパスポートも。もちろん不正な手段で手に入れたものだ。だが、戸籍も何もない彼にとっては「正当な手段」なのかもしれない。
タクシーはヒースロー空港へ向けて、静かに走り出した。
 

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