Back/Index/Next
Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



満月の夜に






「仙道さん」
「ん?」
「……これ、誰ですか?」
雪和が祐のPCに接続されているプリンタから、一枚の紙を取り出した。
その紙には、4人の女性が描かれている。ホンモノの写真かと見紛うほどの精巧さだ。
「あぁ、それCGだよ。作ってみたんだ」
「…仙道さんが作ったんですか!?」
「そうだよ。どうかな?」
「……仙道さん、絶対にプロになるべきですよ!」
3DCGという技術を駆使して描いた4人の女性。
一人は長い亜麻色の髪にグレーの服。
一人は短く刈られた髪と、少しゆったりした綿の服を着ている。
一人は褐色の肌に真っ白な木綿のワンピースだ。
そしてもう一人は黒い髪と瞳、それに白い肌でメイド服を着ている。
「すごい……どうやったらこんな絵が…」
「あはは、まぁ慣れだよ。慣れちゃえば結構簡単にできるもんだよ?」
「…うーん……」
雪和が祐の家で暮らすようになって1ヶ月が過ぎた。
母の突然の死からも随分立ち直ったようだ。まだ完全に、とは言わないがひどく塞ぎ込んでいた時期から考えると、別人のように明るくなっている。
正確な表現をすると、元に戻りつつあるということだろう。
「この人達って…仙道さんの知り合いなんですか?」
「まぁね。知り合いというか…まぁ知り合いだねぇ」
どういうわけか、この4人の女性はどこか似ている。
顔かたちはそれほど似ているわけではないが、どことなく似ているような気がする。
「それより雪和ちゃん、あれからあの黒尽くめの男は見てない?」
「はい、あれ以来全然。あれって火事と何か関係あったんでしょうか…?」
「…どうかな……」
黒づくめの服というのはどうも好きになれなかった。
この4人の内3人は、黒尽くめの服の男に胸を刺されて死んでしまったのだから。
奇跡的に、このメイド服の女性だけはその運命をまぬがれた。だが、肺を患って早くに死んでしまった。
「……雪和ちゃん」
「はい?」
「雪和ちゃんは…胸に何か病気とか、それかケガとかはしたことある?」
「え? 胸…ですか? 肺とか心臓に?」
「そう」
「いえ、特にありませんけど……どうしてですか?」
「いや、何でもないよ。ただちょっと気になっただけだからさ」
ソファの背もたれに体重を預けて、のんびりとブラウン管に視線を移す。
ニュースが放送されている。
ヨハネ・パウロU世が訪日する、というニュースらしい。
そう言えば、「あれ」以来はずっと静かだった。
もしも七帥神社の火事が「奴等」の仕業だとすると、どうして今ごろになって…?
「仙道さん?」
「ん?」
「……どうしたんですか? どうしてそんな哀しい顔してるんですか?」
「あれ? 俺そんな顔してた?」
「はい。…あの、私でよければ話して下さい」
「…?」
「仙道さん、何か隠してます。私には解るんです」
なるほど、巫女というのは伊達じゃないらしい。
彼女はある意味で、ホンモノの巫女だ。自覚はないものの、どこか普通の人とは違ったものを持っているらしい。
しばらくの躊躇はあった。
話したところで、メリットは何もない。それどころか、彼自身の事を話す事で雪和が離れていってしまう事も十分考えられた。
すっと顔を上げ、雪和と視線を合わせる。
「……死にたい…」
「えっ!?」
「…でも…死ねないんだ」
ゆっくりと、祐は口を開いた。
その口からは、雪和が想像も出来なかった物語が語られ始める。
姉さんのこと、リリスの事、シスの事、それに志乃の事。
今まで彼が生きてきた軌跡が、言葉になって綴られていた。
雪和が今まで生きてきた軌跡を話そうとしても、これほど濃厚に、長くはならないだろう。
何しろ祐は1200年を生きてきたのだ。彼女の人生の80倍以上の物語が、そこにはあった。
全てを語り終えた頃には、時計の針は11時を指していた。
「もう……涙は枯れたと何度も思ったんだけどね…」
祐の両目からは涙が溢れていた。
雪和もまた泣いている。
「あはは、何でこんなこと……」
無理矢理笑っては見るものの、涙は止まらない。
こうして自分の長すぎる人生を話す相手など、今までいなかった。
姉にもリリスにも、シスにも話した事はない。志乃には話そうと思ったのだが、話す前に死んでしまった。
「仙道さん………」
「雪和ちゃんが泣く事ないんだよ。ほとんど…俺の独り言みたいなもんなんだから」
「…………」
ぐすっとすすり上げて、雪和もタオルで目頭を押さえる。
共感、というものだろうか。
彼女は話している相手の感情に、自分の感情をシンクロさせやすい性質なようだ。
「ほら、泣かないで」
「…仙道さん……私が…」
「ん?」
「これからは…これからは私が側にいます! ずっと、何があっても仙道さんの側にいます!」
シスの台詞と重なった。
何故だろう。
何故、こうして何度も同じ事を繰り返してしまうのだろう。
やがて別れが来るのなら、いっそのこと出会いなどない方が良い。そう思ったことも何度もある。何故、それでもこうして出会ってしまうのだろう。
「雪和ちゃん………」
「私じゃ役不足かもしれませんけど、でも…でもそばにいますから……だからそんな…死にたいなんて言わないで下さい!」
最後の方はほとんど言葉になっていなかった。泣きながら話していたせいだろう。
まるで小さな子供のように、すすり上げながら泣いている。
「…………解った。ゴメン。もうこんな事は…言わないよ」
小柄な雪和の身体をやさしく抱き寄せると、今度は雪和が声を上げて泣き出した。
こんな時、祐は必ず雪和の髪を優しく撫でてやる。
黙ったまま、ただ優しく彼女を抱いているだけだった。
 
 
「あのさ、雪和ちゃん」
「はい?」
「…こうして飯を作ってくれるのは凄くありがたいんだけど、学校に支障が出ない程度にしてね」
「はい、そうしてますよ」
ここ数週間、祐は最近では夢のような充実した食生活を送っている。
雪和が毎食、手作りの料理を作っているからだ。
もちろん、まだまだ上手ではないが、食べられない味でもない。美味くもなければまずくもない。まぁ飽きが来ない味、とでも表現すればいいだろうか。
「それにもともと朝は早く起きてましたから。特に負担にはなってないですよ」
「…ならいいんだけどね」
学校の制服にエプロン、というちょっとアンバランスな格好をして、台所で何かを作っている。卵焼きだろうか。
「あぁ、それと…ほら、PHS届いたよ」
「あっ、もう届いたんですか? もう使えます?」
「うん。充電も済ませてあるから。俺の方も同じ機種にしておいた」
一週間前、祐はPHSを契約した。
といっても、契約したときは雪和の名義を使った。戸籍など全くない、パスポートですらほとんど偽造の祐には契約というものは基本的に出来ないのだ。
やろうと思えばいくらでも手段はあるが、今はちょっと使う気になれないらしい。
「何かあったら、すぐ連絡するんだよ。それから、夜はあんまり出歩かないように。遅くなるときは必ず連絡する事。いいね?」
「はい」
別に雪和が狙われると決まったわけじゃない。
ここ百数十年、『神の使徒』とかの襲撃は全く途絶えている。
だが、それは祐、アル・アネクシオスに「大切な人」が居なかったからかもしれない。
だとすれば、今が一番危ない。
それも、身を守る術を何も持たない雪和が危険に晒されてしまう可能性は、今までの経験からして非常に高い。
だが、彼女も例の「黒尽くめの男」につけまわされたせいで、多少は警戒心も強くなったようだ。
「いい? くれぐれも気をつけて。もし誰かが後をつけてきてるようだったら、すぐ電話するんだよ」
「はい。そうします」
「さてと…それじゃそろそろ行こうか」
雪和がエプロンを外した頃合いを見計らって、祐も立ち上がる。
毎朝雪和が学校へ行く時間は、こうして駅まで送る事にしていた。
もちろん、帰りも祐が駅まで迎えに行く事にしている。雪和にとっては少し恥ずかしいらしいが、それでも危険を避ける、という意味では祐が一緒に居た方がいい。
「あの…仙道さん」
「ん?」
商店街をてくてくと並んで歩く。
こういう風景も、最近ではもう当たり前のようになってしまった。
「本当に私…仙道さんの家にいていいんですか?」
「あぁ、いいよ。一人だと退屈だし、それに…」
「それに…?」
「俺は雪和ちゃんのこと好きだからね」
優しい笑顔を雪和に向ける。
とたんに雪和の顔が真っ赤になってしまった。
「あっ…あの……えぇと…」
「あはは、ほらほら、そんなに硬くならないでいいって。自分の家だと思っていいんだからさ」
「はい……」
「雪和ちゃんは…絶対に守ってあげるからさ」
「……頼りにしてますよ、仙道さん」
「あぁ」
駅までは歩いて20分。少し遠く感じるが、ちょうどいい運動になる。
「さてと、それじゃ俺はここで。多分また図書館にいると思うから」
「はい。じゃあまた帰りに電話しますね」
駅から祐の家とは逆方向に歩く事約30分のところに、結構大きな図書館がある。県立図書館だ。
この図書館の蔵書はなかなかのもので、最新の推理小説から文学史の授業に出てくるような古い本まで置いてある。
最近の祐の日課は、この図書館に通う事だった。
この図書館で、彼は人魚に関する文献を読み漁っている。
かなり前、志乃が持っていた本で「人魚の肉を食べれば不老不死になれる」という部分を呼んだ事がある。
もしも事例があれば…?
その人魚の肉を食べて不老不死になった人間が現実にいればどうなる?
その人物なら、死ぬ方法を知っているのではないか?
もちろん、それが天文学的に低い確率である事は十分すぎるほど良く分かっている。
だが、文献の中に何か情報が載っていれば…
「失礼、アル・アネクシオス様でいらっしゃいますね?」
突然、後ろから声をかけられる。
この名前で呼ばれるのは実に久しぶりだ。
「……?」
怪訝そうな顔で声の主の顔を覗き込むと、そこには大柄な中年の男が立っていた。
どこかで見た顔だ。いつ、どこで見たのかは思い出せない。だが、どこかで見た事がある。
「私の曾祖父がアメリカであなたとお会いした事があります。私はヨハン・ミュンヒハウゼン四世です」
「……ひょっとして、あのワシントン・ホテルの…?」
「憶えておられましたか」
今から200年前、シスと出会う以前の話だ。
あの時の男の曾孫、ということになるのか。
「なるほど、あの時の……で? 何の用だ?」
「結論を伝えに参りました。その前に私と、私の曾祖父の事を話す必要があります」
「…そうだな、それじゃあその辺の店に入ろうか」
まだ朝は早い。マクドナルドなどのファーストフードの店がかろうじて開いているくらいだ。
「ジャンクフードは?」
「食べます」
「朝飯は済ませたかい?」
「いえ」
「んじゃあそこに入ろう。軽く何か食うといい。俺はもう済ませたから」
「…………」
ヨハンと名乗る男はモーニングAセットを注文し、トレイをもって戻ってきた。
「それでは改めて自己紹介させていただきましょう。私はヨハン・ミュンヒハウゼン四世。使徒騎士団の極東支部に所属しています」
「…使徒騎士団…か……」
「はい。私の父も、祖父も、そして曾祖父も使徒騎士団に所属していました」
使徒騎士団は、ヨーロッパに数ある「騎士団」の中でも最も古い部類に入る。
イスラム教が誕生した6〜7世紀にはすでに存在していたという。キリスト教至上主義の極右集団だ。
もっとも、その存在は公には明らかになっていない。
だが、祐は良く知っていた。
彼の両親、姉、そして娘、恋人全てを彼から奪ったのが、この使徒騎士団だ。
彼らは自らの事を「神の使徒」と呼び、神に背くものには容赦ない制裁を加えてきた。
「で、その使徒騎士団が俺に何の話があると? 以前のようにいきなり切り付けたりはしないのか?」
「死なないものに剣を振るうのがムダだと解るのに…実に多くの時間を費やし、多くの同胞が天に召されました」
「なるほど、ムダな事はしない…か」
「そのとおりです。我々も昔とは違う」
「だろうね。昔は剣だったのが、今では拳銃になってる」
ヨハンの顔が一瞬で青ざめる。
彼の懐には、確かに拳銃があった。純銀製の弾丸を打ち出すことができる、「神の祝福」を受けた拳銃だ。
「最初に一つ言っておくが…」
オレンジジュースを一口飲み込んで、祐が身を乗り出してきた。
「俺達に手を出すな。『池に石を投げれば波紋は自分にも返ってくる』ってことを良く憶えておくんだね」
「…………」
祐の目にはいつもの優しい光は宿っていない。
荒涼とした、氷のように冷たい光が、彼の瞳を支配している。
「さてと、そっちの話を聞こうか」
椅子の背もたれに体重を預け、尊大に構えた。
すでに祐のペースだ。ヨハンは大柄な身体全体から汗をかいている。
ひどく冷たい汗だった。
「…あなたは曾祖父に『殺す方法が分かったら教えてくれ』とおっしゃった。それに間違いは?」
「……あぁ、そんな事も言ったっけな」
「結論から申し上げます。方法はありません」
「…だと思ったよ」
苦笑混じりに、まるで吐き捨てるかのようにそう言い放つ。
祐が1200年捜し求め続けて、それで見つからなかったのだ。
たかだか100年や200年で見つかるわけがない。
「これで、俺を狙うのがムダだって解ったろう? もう俺には関わらないでくれ」
「…そうは行かない」
その言葉で、一瞬の内に空気が重くなる。
祐の視線が冷たい殺気を孕んできた。
「……同じ事を3度も聞けると思うな」
「あなたは『神の摂理』に背いている。我々の教義では神に背くものは皆悪魔だ。悪魔を許すわけには行かない」
「…ほう、大した教義だ。なら聞くが、神の摂理とは何だ?」
彼らの言葉は日本語からヘブライ語へとシフトしている。
誰も彼らの会話の内容を理解できない。ただ、その雰囲気から和やかに談笑をしている、という状況ではない事だけは理解できた。
「神はこの世のあらゆる物を造り給うた。命ある者を生み、命なき物を形作り、この世をお造りになられた」
「知ってるよ。聖書くらいなら読んだ事がある」
「命ある者はいつかは死ぬ。これは神が定めたもうた摂理だ。あなたはそれに背いている」
「ではまた聞くが…神とは誰だ? その摂理を定めたのは何者だ?」
「…そ…それは……」
ヨハンが知る教義では、「神は唯一絶対の存在で、決して冒してはならない。また、挑んでもならない」とある。だが、ただそれだけしかなかった。
神は何者なのか?
そんな事は考えた事もなかった。
「もう一つ聞こう。悪魔はなぜ悪魔なんだ?」
「…? 質問の意味がわからない」
「なら質問を変えよう。お前達にとっての『正義』とはなんだ?」
「神の御心だ」
「その神の御心で全ての物事が決められていると?」
「その通りだ」
「なら、ペストの大流行も、十字軍戦争で数十万のイスラム教徒を虐殺したのも、黒人差別も2度の世界大戦もその『神の御心』とやらによるものだな?」
「…そっ…それは……」
「『それは悪魔の仕業です』とは言わせんぞ。お前はたった今、『全ての物事は神の御心による』と言ったんだ。まさか嘘じゃあるまいな?」
「…………」
「神というのは虐殺をするものなのか? 自分に従わなかったという理由で、屍の山と血の河を作り出すほど残虐で冷酷なものなんだな?」
「ちっ…違う! 神は…」
男の手がぶるぶると震えてきた。
まさかこんな所で「神の正義」について論じるとは思っていなかった。
「この世を『正義』だけで説明しようとしてもつじつまは合わない。同じ事だ。お前らの考えだけが正義だと思ったら大間違いだ。俺にとっては、お前らを皆殺しにしてでも自分と大切な人を守るのが正義だからな」
「そっ…そんな事は神が許さんぞ!」
「なら神も殺すまでだ」
冷酷な声でそう言い放つと、アル・アネクシオス、仙道祐はゆっくりと立ち上がり、その場を後にした。
 
期待外れだった。
図書館にある文献には、彼が今の時点で持っている知識以上のものを与えてくれるものはなかった。
人魚の肉を食べれば不老不死になる、とは書いている。
だが、そのあとどうなるかは全く書いていない。
この「人魚の肉」もただの御伽噺だったのか。
そう言えば、古代中国、秦の始皇帝も不老不死にあこがれたという。
「…ロクなもんじゃないよ、こんなの……」
図書館の中庭でコーラを飲みながら、ポツリと呟いた。
今日でこの図書館にある「人魚」関連の文献は全て読んでしまった。
明日からはどうしようか?
他に何か興味をそそる本があったか?
まぁ無ければ無いでいい。またいつも通りのんびりと過ごすだけだ。
街をふらふらと歩いて、雪和からの電話を…
突如、ポケットの中のPHSがなった。
このPHSの番号を知っているのは雪和だけだ。つまり、これは雪和からの連絡という事になる。
「もしもし」
「あ、仙道さん、雪和です」
「あぁ雪和ちゃん。どうしたの?」
「学校、もう終わりましたけど…今図書館ですか?」
「うん。…あ、もう4時か…」
「はい。今から帰りますね」
「解った。じゃあ駅で待ってるよ」
わずか30秒の電話。
便利な世の中になったものだ。
これさえあれば、どこにいても連絡を取る事が出来る。
すぐに駆けつけてやる事は出来なくても、何かアドバイスをしてやる事は出来る。
これが1200年前にあったら…
「さてと…そろそろ行こうかな」
ここから駅までのんびり歩けば、ちょうど雪和が駅に着く頃に辿り着けるだろう。
空缶をくずかごに入れて、少し広すぎる図書館前の広場を歩き出した。
 
「…雪和ちゃん?」
「えっ?」
暗がりにいた人影が振り向いた。
電気を点けると、そこにはコップを持った雪和が座っている。
「何だ、雪和ちゃんだったのか。どうしたの? こんな時間に」
「え? あ、あの……何でもないですっ」
怪しい。
あからさまに慌てている。
どうみても「何でもない」という顔じゃない。
「…何かしてたの?」
「な、何にもしてないです!」
「じゃあその箱は?」
雪和の足元には、古ぼけた桐の箱があった。
確か、七帥神社が火事になったときにも奇跡的に無事だったという御神体だ。
「それ…何してるの?」
「……なっ…なんでも…」
ひょいっと桐の箱の蓋を取り上げると、そこにはやたらと読み取りづらい字で何かが書いてある。
「人………魚…肝……?」
人魚の…肝?
「まさか…まさか雪和ちゃん!!」
「……こうするしか…」
「何てことしたんだ! 早く吐き出して!!」
「もうダメなんです!! もう……もう遅いんです…」
「どうして!?」
「もう…全部飲んじゃったから…」
桐の箱の本体には、もう何も入っていなかった。
恐らく小さく削って水で飲んだのだろう。
「何でこんなことを……」
「だって……だって私も仙道さんの側にいたかったんです!」
夜中だけに、声が良く響いてしまう。
静かな台所に、雪和のきれいな声が反響して聞こえている。
「私がずっと仙道さんの側にいる事が出来れば…私も仙道さんももう辛い思いをしなくて済むから…」
「そんな事のために…雪和ちゃんは解ってないんだ! どれだけ辛い事になるか!」
「辛くなってもいい! 辛くてもいいから仙道さんと一緒にいたいの!!」
「後悔するぞ!」
「絶対にしません!!」
普段は物分かりのいい雪和が一歩も退かない。
よほどの決心をしたのだろう。
本当に効果があるのかは分からない。この人魚の肝というのも本物かどうかも確証は持てない。
それでも、かなりの無茶をした事に変りはない。なにしろ得体の知れない物体を飲み込んでしまったのだから。
「……明日、病院に行こう」
「イヤですっ! 絶対吐き出したり…」
「そうじゃない。変な病気にでもなったら大変だ。一応、血液検査とかをしてもらうだけだよ。本当だ」
「……じゃあ…」
「…そこまでの覚悟があるなら、俺には止める権利はないよ。ただし、今は良くても後で後悔するかもしれない。それはよく憶えておきなさい」
「……はい…」
翌日の検査では、特に異常は見られなかった。
血液中の成分もまったくの健康だ。どうやら、例の御神体を飲んだことで、健康に支障が出るということはないようだ。まだ様子を見る必要はあるが。
「七帥神社の御神体が人魚の肝だなんて…驚いたな」
「……本当はあの神社、学問の神様じゃないんです。治水の神様なんです」
七帥神社が建てられたのは西暦1200年ほど。
そのころ、この付近はまだ埋め立てられておらず、海に面していた。
漁師や海女が数多く済んでいて、極端に豊かな漁場というわけではないが、小さな漁村になっていた。
その浜辺に、一人の人魚が打ち上げられた。
息も絶え絶えで、ほとんど死にかけていた。
だが、その人魚を若い海女が家に連れ帰り、看病をしたが敢え無く死んでしまう。
その霊を弔うために建てた社が七帥神社の前身なのだそうだ。
七帥の名前は、その当時の村の名前だという。
「……なるほどね…」
「その社を建てて以来、ずっと大漁が続いたり、そこだけ台風が逸れたりしたんだそうです。それで、社を神社にして、人魚を祭ったんです」
「そういう事か…」
2人でゆっくりと歩き出す。
「あのさ、雪和ちゃん」
「はい」
「……俺と一緒に来る?」
「え?」
「その…高校卒業したら、俺と一緒に……色んな所を転々とすると思うんだけど、それでもついてくる?」
「………はい」
雪和にはもう身寄りはない。母が唯一の親類だったのだ。
さほど友人も多い方ではない。学校でも少し孤独な方かもしれない。
それなら、祐と一緒にいた方がいいのではないか。
日本にこだわる必要も無い。時間は有り余るほどあるのだから、言葉もいろいろと覚えられるだろう。とりあえず英語なら多少は解る。
「あの、私行きたいところがあるんです」
「…へぇ、どこ?」
「……志乃さん達のお墓です。私にもお墓参りさせて下さい」
「そうだね。そうしてやらなきゃ。志乃に教えてやらなきゃ行けないからなぁ」
「教えるって…?」
「約束したんだ。志乃が死ぬときに、『誰か大切な人を作ってくれ』っていわれてね。ようやく出来たから」
「……あ…」
雪和の頬が赤くなる。
今となっては、仙道祐にとって「大切な人」とは小早川雪和の事になっている。
「私は…本当にずっと仙道さんと一緒にいますからね」
「…………」
この先、恐らく2人で生きていく事になるだろう。
ひょっとしたら地獄を生きる事になるのかもしれないし、天国のような幸せを永遠に味わう事になるのかもしれない。
どちらかは解らない。
だが、一つ言える事は…
「もう…俺達はお互い以外のものを失ったんだ。それは憶えておいてね」
「…はい」
 

Back/Top/Next