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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



満月の夜に






「…ここは……?」
真っ暗な部屋の中で声が異常なほど反響する。
何も見えない。はるか上の方に、かすかに光を見る事が出来るが、自分の足元には何があるのかも見えない。
「何…? なんなの?」
まだ若い女性だ。
ブロンドの髪に真っ白い肌。それに鍾乳洞の湖を思わせる美しい蒼い眼。
彼女の表情にはありありと恐怖が浮かびあがっていた。
確かに自分はベッドの上で寝ていたはずだ。
それがどうしてこんな暗いところに?
「………どうなってるのよ……」
少し目が慣れてきた。ぼんやりとではあるが、すぐ近くのものなら見えるようになってきた。
彼女は自分の足を見て愕然とする。
鎖でつながれていた。
鉄の足枷をはめられ、その枷は長く太い鉄の鎖でどこかに縛りつけられていた。
重い。
満足に歩く事はおろか、立ち上がる事もままならない。
身動きするたびに、じゃらっという重く冷たい音が響く。
「誰か…誰か助けて……」
自分のこの境遇が夢である事を祈りながら、呟くような声を喉から絞り出した。
だが、誰も答えない。冷たい空気の中に、自分の声が反響するだけだ。
足が痛い。
鉄の枷が足首に食い込んでいる。
鎖が重い。
床は石で出来ているのだろうか、硬くて冷たい。
這いながら、壁を探した。
彼女は壁も何も見えないほど真っ暗なところにいるのだ。せめて、身を寄りかからせる事が出来る壁があれば、少しは楽になるかもしれない。
そう考えて、鎖を引いたときだ。
「あぐぅっ!!」
何かが彼女の足に繋がれた鎖を勢いよく引いた。
その拍子に、彼女は身体ごと5mほど引きずられてしまう。
「あ……ぁ…」
恐怖のあまり、声も出てこなかった。
ただ、引きずられた方向を見つめ、がたがたと鎖が音を立てるほど震えているだけだ。
少しだけ、足を手前に引いてみる。
鎖は相変わらず重かったが、特に何かに引っ張られているという感触はない。
再び、少しだけ足を手前に引いた。
「っひぃいっ!?」
今度は勢いよく、10mは引きずられただろうか。またも鎖を引いた。
石の床でこすれて、彼女の背中、太股、腕、そして頬からは血が出ていた。
普段は街ですれ違う男の視線を独占していたであろうその美しい顔も、今では恐怖のために涙と脂汗でぐしゃぐしゃになってしまっている。
また、鎖が引き込まれる。
何かがいた。
暗がりの奥、何かが彼女を力づくで引き寄せている。
「…………」
奇妙な音を立てて息を吸い込んだまま、彼女は動きを止めた。
影が、彼女の網膜に飛び込んでくる。
鎖はその影の「手」らしきものに溶け込むように同化している。
恐怖のあまり、彼女は失禁していた。だが、それすらお構い無しに、影は鎖を引き寄せる。
そして…
「…っ!?」
冷たい「影」が彼女の足を掴んだ。
 
 
 
実にさわやかな朝日が東向きの窓から差し込んで来ていた。
「んー……っ」
ベッドの中で大きく伸びをして、体を起こす。
「…あれ?」
隣を見ると、誰もいなかった。
確かに夕べはここで一緒に寝たはずなのだが…
と、そこまで思い出して、一人で顔を真っ赤にしてしまった。
何も着ていない。
裸のままで寝ていた上に、豪快に伸びをしてしまっていた。
「やだっ!」
慌てて毛布を身体に巻き付け、そのまま服を掴んでバスルームへと向かう。
間一髪だった。雪和がバスルームに入ったと同時に、部屋のドアが開いて聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あれ? 雪和ちゃん?」
「あ、お、おはようございますっ」
「あぁ、風呂?」
「いえ、その……とりあえず服を…」
「…あぁ、なるほどね。そろそろ朝飯食いに行こうと思うんだけど、どうする?」
「あっ、行きますー」
「じゃあ部屋の外で待ってるよ。着替え終わったら出てきて」
「はいっ」
服を着ながら、夕べの事を思い出してしまっていた。
昨日の夕食に出たワインが妙に口に合ったせいで、ついつい飲んだ事もない酒を飲んでしまった。
そのせいだろうか、アルに抱きかかえられてベッドに連れて行かれても、恐いとも何とも感じなかった。それどころか、奇妙なほど安堵感を憶えていた。
初めて抱かれるはずなのに、以前にも抱かれた事があるような、そんな軽いデジャ・ヴュまで感じてしまっていた。
「はぁ………」
鏡に映った自分の身体をしげしげと眺める。
自分でもそれほどプロポーションがいいとは思っていない。胸はそこそこ大きい方ではあるが、決定的に背が低い。中学生と間違えられてしまうくらいだ。事実、彼女の背は中学3年生の頃から全く伸びていない。
だが、夕べはこの小さな身体を抱いてくれた人がいる。
ドアを2つ開ければ、そこでその人が待っていてくれる。
いつでも待って…
「…いっけないっ!」
そのドアの向こうで、アルが待っていることを思い出したのか、大慌てで服を着だした。
「す、すみませんっ、お待たせしました!」
「…随分慌ててたみたいだね」
「は、はい…」
「シャツが裏表になってるよ」
「えっ?」
見てみると確かに裏表だ。
「ほら、着替えなおしておいで。慌てなくていいよ、朝飯は逃げたりしないからさ」
「は、はい」
朝食はごく普通のメニューだ。
パンにウィンナー、スクランブルエッグとコーヒーという、洋風の朝食のお手本のようだ。
「美味しいですね、このチーズ」
「そうだね。この辺は酪農もやってるらしいから」
「…あの、アルさん」
「ん?」
「夕べ……その………」
片手にフォークを持ったまま真っ赤な顔でもじもじしている。
どうやらまだ気にしているらしい。
「わ、私……ヘンじゃありませんでしたか?」
「いや。全然」
「そのぉ………し…志乃さんと比べて…」
「あははは、比べる事無いよ。志乃も小柄だったし、なんだか懐かしかったな」
「…は、はぁ……」
「心配しないでいい。すごく良かったよ」
「えっ!?」
ただでさえ赤い顔が、今度は首筋まで真っ赤になってしまった。
「はいはい、この話はもうお終い。それより今日はどこに行くのか考えておいた?」
「あ、は、はい」
アルは憎たらしいほどマイペースだ。
まぁ1200年も生きていれば、女性経験も豊富すぎるくらい豊富だろう。
「で、どこに行く?」
「えーと…昨日言ってた滝を見てみたいです」
「うん、じゃあ…そうだね、これ食ってしばらくそこら辺をふらふらしてから行こうか」
「はいっ」

 
バートリー・ロドル保安官の机の上の書類は4センチから6センチへと厚みを増していた。
「ったく……何が起きてんだよ…」
この日早くも11本目の煙草に火をつけて、ぼやき混じりに呟いた。
「おいおい、ちょっとペース速いんじゃないか? 最近吸い過ぎだぞ」
「ん…あぁ、気をつけるけどさ…」
さすがに自分でも吸いすぎたと思ったのか、この11本目はあまり吸わずに灰皿に置いたままだ。
「結局…5件目の被害者はまだ見つかってないし……」
「やっぱりあの大聖堂だと思うか?」
「…迷信を信じる気はあんまり無いけど……それしか考えられないな」
行方不明になったのは小学校の教師だ。
独身で、この近辺、特に鉱山で働く若い男達からは絶大な人気があった。
「あの大聖堂…なんだと思う?」
「あの大聖堂が何だって…?」
「普通さ、大聖堂って言ったらもっと人が集まる場所に建てるだろ? それを何でこんな所に?」
「ふーむ…」
「それにどうしてあの大聖堂には誰も近づかないんだ? 本当に何かが中にいるのか?」
「俺達が聞かされた話だと…悪魔が棲み付いてるって話だけどな」
「…どうなんだろうなぁ」
「こうもコトが続くと……信じたくないけど信じざるを得ないな」
大きくため息を吐いて、椅子にどっかりと腰掛ける。
ルイスの頭の中にはあの黒服の男の姿がこびりついている。
使徒騎士団と言っただろうか。
世間一般にはあまり知られていないが、この地方ではけっこう有名だ。
大昔、この地に住み着いていた悪魔を追い払ったとか言う逸話も残されている。
「なぁ、あの…リチャード・ホーキンスとかいうやつ、まだここにいるかな?」
「なんだよ、あの薄気味悪い男に協力でも頼むのか?」
「そうじゃないけどさ……でも4件目の被害者の居場所は一発で当てたんだろ?」
「…まぁな」
「じゃあ今回だって何とかなるかもしれないぜ?」
「………気が進まないが…まぁ仕方ないな」
顔を見合わせると、さっき火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、保安官事務所のドアを開いた。
黒尽くめというのはこの付近では結構目立ってしまう。
村の中心部を走る事わずか10分、リチャード・ホーキンスはすぐに見つかった。
「ミスター・ホーキンス、私はルイス・ボルドー保安官。捜査にご協力願えないかな?」
「…これも神のご意志でしょう。よろこんでご協力いたします」
最初は断られるかもしれない、と覚悟していたのだが、あまりにもあっさりと了承を得られてしまった。返って拍子抜けしてしまったくらいだ。
「助かります」
「それで、どうすれば解りますか?」
「あの大聖堂です」
ルイスとバートリーが顔を見合わせた。
やはりあの大聖堂か。
「まだ天に召されてはいません。ですがもう手遅れです」
「手遅れ!? どういうことだ?」
「……行けばおわかりになるでしょう」
普段から荒っぽいバートリーの運転が更に荒くなる。
そのお陰か、大聖堂までわずか30分で到着した。もちろん、何度となく舌を噛みそうになったが。
大聖堂は相変わらず、冷たく異様な雰囲気だった。
ドアが開けられた形跡はなく、また、付近に人が立ち入った形跡も無い。
いつもと何ら変らない大聖堂だった。
が、
「…おい……」
「…………」
リチャード・ホーキンスがしゃがみこむ。
その正面には、行方不明になっていた女性教師が座っていた。
うつろな目でくすくすと笑っている。
「…何てこった……」
生きてはいる。
だが、精神に異常をきたしていることは明らかだった。
「とりあえず病院だ。救急車を呼ばないと」
「あ、あぁ」
何があったというのだろう。
彼女が行方不明になったのは2日前。
この2日間で、彼女の精神を壊してしまうほどの「何か」があったはずだ。
「…何なんだよ一体……」
無線で救急車を手配し、ジープに戻ろうとしたときだ。
「……ルイス! 今の聞いたか!?」
「…やっぱり……聞こえたか?」
バートリーとルイスの2人の顔からは血の気が引いている。
何かが呼んだ。
いや、呼んだかどうかは解らない。何かが「聞こえた」。
2人揃って声の聞こえた方向へ視線を向ける。そこには…
「大聖堂の……悪魔…」
建物全体を蔦で覆われた大聖堂がある。
「ミスター・ホーキンス! 今のは!?」
「悪魔の声です」
いつも通り、リチャード・ホーキンスは冷静そのものを装ってはいたが、それでも若干声が震えている。
ロザリオを持つ手に力が入った。
「…この中にいるのか…?」
「そのようです。早くここを離れた方がいい」
「あ、あぁ。そうだな」
突如、女性教師が立ち上がった。
その表情は先ほどとは明らかに違っている。壊れてしまった精神ではなく、明らかに別の「何か」が宿っている。
バートリーもルイスも、この女性教師を以前見た事はある。話した事はないが、それでも今のこの表情がいつもの彼女の表情でない事だけは確かだ。
「な……」
「お二人とも下がって下さい。悪魔憑きです」
「…嘘だろ……?」
女性の口が禍禍しい形に歪む。まるで嘲笑っているかのようだ。
「悪魔よ!」
リチャード・ホーキンスがロザリオを彼女にむけて差し出す。
女性が一歩下がった。
「この方の身体から出て行くのです!」
リチャードが大股に一歩踏み出した。
正確に同じ距離だけ、彼女も退く。
「父と、子と、精霊の御名において!」
さらに一歩踏み出した。
彼の計算では、彼女はさらに一歩退くはずだった。
だが、それとは逆に彼女はリチャードとの距離を詰めた。
「…っ!?」
冷静で威厳に満ちたリチャードの表情が一気に崩れる。
彼女はロザリオを握ったままのリチャードの右手を掴んだ。
同時に異様な音を立てて、彼女の両手から煙が立ち始める。
「な…なんだよ……何が…?」
彼女は笑っていた。
いつもの清々しい笑みではなく、まるでリチャード・ホーキンスを嘲笑うかのような、禍禍しい笑みだ。
「は、離せっ!」
リチャードは手を引こうとする。
だが、彼女はそれを許さない。
二人の間から発生する煙は、その量を加速度的に増していた。
そして、
「………ミ…ミスター・ホーキンス!!」
彼女の身体から焔が噴き出した。
赤でもオレンジ色でもない、青白い焔。
その焔はあっという間にリチャード・ホーキンスの全身を飲み込んだ。
二人が真っ白い灰になるまでに要した時間は、たったの2分だった。
 
 
「きれいですねー」
「ここは本当に昔から変らないなぁ」
冷たい水飛沫が霧のように舞っている。
二人の前方約20mほどには、さほど大きくはない滝がある。
アル・アネクシオスが子供の頃よく訪れたところだという。
「この滝の水は一年中冷たくてね。それにほら、水きれいでしょ? 飲めるよ」
「えっ? 本当に飲めるんですか?」
岩の上にしゃがみこんで、水を手で掬い取る。
「…うん、1000年前と全然変らない。飲んでみる?」
「あ、はいっ」
雪和も同じようにしゃがんで水を飲んでみた。
冷たい。
都会の水道水か、コンビニで売っているペットボトルのミネラルウォーターくらいしか飲んだ事が無かった雪和にとっては新鮮な味だ。
水に味がある、という事自体初めてなのだ。
「すごい…水ってこんなに美味しいものなんですか?」
「まぁね。それにほら、ずっと歩いてたからのど渇いてたでしょ? それもあるよ」
「水筒か何か持ってくれば良かったなぁ」
「あはは、そうだね」
今の季節は秋。残念ながら、この滝壷で泳ごうという気にはなれない。
「あっ、アルさん、あそこお魚!」
「ん? あぁ、イワナみたいだね。ここは水がきれいだから、色んな魚がいるよ」
「すご〜い! こういう所なら住んでみたいです」
「雪和ちゃんはずっと都会育ちでしょ? だったら新鮮だろうね」
「はいっ、こんなきれいなところ……初めてです」
日差しが明るい。
木々の間からの木漏れ日が優しい。
自然というのはこんなにも美しいものだったのか、と今更のように考えてしまう。
「雪和ちゃん」
「はい?」
「そろそろ行こうか。もうすぐ昼だよ」
「あ、はいっ」
くるっと振り返ると、そこにも自然の風景が広がっている。
だが、その風景の中にどうしても溶け込めない物があった。
黒尽くめの服に黒い帽子、それに黒い髭。
「こんな所でお会いするとは、奇遇ですな。サー・アネクシオス」
「まったくだね。観光か?」
「そうであれば良かったのですが」
帽子を取ったその男には見覚えがある。
雪和がアルの背中に隠れるように身構えた。
ヨハン・ミュンヒハウゼンだ。
「で? 何の用だ?」
「とぼけないでいただこうか。つい先程、我々の同士が一名、天に召された」
「そうかい。お悔みを申し上げておこうかな」
「…あなたではないのか?」
「何の事だ? 俺は今日はずっとここにいたんだが」
「あなたでないとすれば、誰がやった?」
「さぁね。そんな事知るかよ。それに知ってても俺がアンタらに教えると思うか?」
「……なるほど…」
ヨハンの両手に力が入る。
この悪魔にはロザリオも聖水も、何も効かない。
だとしたら、隣にいる少女は?
彼女には効果があるのではないか?
ヨハンの右手が動いた。
ロザリオを雪和になげ渡す。
「あっ…」
とっさに彼女はそのロザリオを受け取った。
…何も起こらない。
雪和も何がどうなっているのか解らず、受け取った銀のロザリオをしげしげと眺めるだけだ。
長いため息。
「失礼した。それではこれで」
帽子をかぶりなおして、ヨハンはアルと雪和に背を向けた。
「ちょっと待った」
アルが急にヨハンを呼び止め、歩み寄る。
黒い服を纏ったまま、ヨハンが身構えた。
「あぁ、別に危害を加えようってワケじゃない。ちょっと聞きたい事があるだけだ」
「…私に?」
「そう。あんたらここで何してんだ?」
「……決まっている、神の御教えを説いている。ただそれだけだ」
「へぇ、その神の御教えを説くためには銃が必要なのか?」
とっさに懐に手を入れてしまった。
「昔はサーベルとか剣だったんだが…最近は随分と便利になったもんだな」
「…何故銃の事を…?」
「あれ? ホントに持ってたのか? 当てずっぽうだったんだけど」
みるみるヨハンの顔が怒りに支配されていく。
こんな若者におちょくられていることは我慢できなかった。
だが、見た目は若者でも、相手は1200年を生きた魔物だ。下手に手を出すとどういう事になるかわからない。
「こないだも言ったよな。俺達に関わるなって。これが最後の警告だと思えよ」
そういうと、アルは雪和を庇うように手を引いて歩き出す。
アルの手は暖かかった。
雪和の手のひらから、アルの体温が感じられる。
少しだけ冷たい空気の中、安らぎを感じるほど暖かい。
なぜこんなに暖かい手を持っている人が、悪魔などと呼ばれなければならないのだろう。
ただこの人は静かに暮らしていたいだけなのに。
ただ静かに、愛する人と一緒に静かに暮らしていたいだけなのに。
それをなぜこの騎士団という人達はかき乱すのだろう。
なぜこの人から次々と愛する人を奪っていったのだろう。
「アルさん…」
「……さ、そろそろ昼飯にしよう。ちょっと多めに食おうか」
「…はいっ」
雪和の声に振り返ったアルの表情は穏やかで優しかった。
小さな娘を見るような、慈愛に満ちたまなざしだ。
そのアルを、敵意と憎悪に満ちた眼差しで、ヨハン・ミュンヒハウゼンは見送っていた。
 
 
街は騒然としていた。
鉱山から大勢の男達が押し寄せ、保安官に詰め寄っている。
「落ち着け! みんな家に帰るんだ!」
「うるっせぇ!! もう黙ってなんかられねぇ! あの大聖堂ブっ壊してやる!!」
罵声と怒号が飛び交っている。
その罵声は、決して保安官に向けられたものではなかった。
彼らが先ほどまでいた、大聖堂に向けられたものだ。
「…大聖堂?」
その罵声を聞き止めた青年がいる。
小柄な少女を連れて歩いていた、恐らく観光客だろう。
「この辺に大聖堂があるんですか?」
「ん? …誰だアンタ」
「観光客ですけど…」
「あぁ、観光客なら近づかねぇ方がいいぜ。悪魔が棲んでるからな」
悪魔が棲む大聖堂。
この近隣の住人はそう呼んでいた。
いつからそこにあるのか。
なんのためにそこにあるのか。
誰が建てたのか。
何も解らない、謎だらけの大聖堂。
だが、なぜかその大聖堂は取り壊される事もなく、ひたすらそこに存在しつづけた。
「………大聖堂か…」
「え?」
「…いや、何でもないよ。それよりこれじゃ昼飯どころじゃないね。ホテルに戻ろうか」
「あ、はいっ」
さすがにホテルには喧燥はなかった。
相変わらず静かに、村の中心の大騒ぎが地球の裏側の出来事のように感じられるほど、それくらい静かだ。
ふと窓の外を見る。
よく晴れた空だ。多分今夜は満月だろう。
「今夜は部屋の中から月見でもしようか?」
「あ、いいですね〜。お団子とか欲しいですね」
「あははは、さすがに団子は売ってないだろうなぁ。紅茶とクッキーとかならあるかもよ?」
「うーん…それでもいいですけど…」
今から昼食を食べに行こう、というときに夜食の話をするあたり、この二人の緊張感の無さが十分すぎるほど伺える。
だが、それくらいでちょうど良かった。
もう何も恐れる事はない。
愛する者を失う事も、失って哀しむ事もない。
彼らには、もうお互い以外に失うものなど何もないのだから。
同時に、お互いを失う事など、もうありえないのだから。

 
鎖と何か硬い物が擦れる音がする。
その音はやたら高い天井で反響し、必要以上に耳障りな音になって帰ってくる。
何かが蠢いていた。
光も差し込まない暗闇の中で、「それ」はゆっくりとではあるが、確かに動いていた。
息をしている。
ゆっくりと、もどかしいくらいゆっくりと胸を上下させて、呼吸をしている。
スローモーションかと思えるほど、ゆっくりと身を起こした。
そして、数十メートル先にある入り口へ視線を移した。
ドアが破られようとしている。
「彼」の聖域へ進入しようとする、招かれざる客がやってこようとしている。
恐らく、「彼」の居場所は壊されるだろう。
だが、それは同時に「彼」を亡き者にする手段を永遠に失う事でもある。
「彼」の口元が緩んだ。
禍禍しくはない。むしろ、優しく微笑むような表情だ。
「彼」は立ち上がった。
何かが爆発するような音を立て、ドアが壊れた。
太陽の明かりが彼の聖域を照らす。
奥までは照らせない。入り口辺りを何とか明るくする程度だ。
「出てきやがれこの野郎!!」
野太い声が、高い天井と硬い壁に反射して、木霊のように何度も何度も反響する。
その声に答える者はいなかった。
「いるのは解ってんだ! ブっ殺してやる!!」
数十人の男達が次々に入ってきた。
不意に、明るい光が建物の内部を照らす。
内部には何も無かった。
ただあるのは、石の床と壁、それに天井。そして…
「……何だありゃぁ…」
男の一人が懐中電灯の灯かりをむけた先には、彼自身の姿が映っている。
鏡だ。それもかなり大きい。
「何でこんなとこに鏡が…?」
男達が集まってくる。
その鏡は相当な年月を経たものらしいが、なぜか表面には汚れも曇りもない。毎日誰かが磨きつづけたかのように、輝きを保っている。
「まぁこんなモノぁどうでもいいんだ。それよりさっさと悪魔見つけてふん縛ってやろうぜ」
と、ハンマーを持った男が鏡に手を触れたときだ。
「……お…おい!!」
男の大柄な体が、まるで吸い込まれるように鏡の中へと入って行った。
彼の姿は、鏡の中だけに映っている。
そして、「それ」は姿をあらわした。
「…ひっ……」
鏡のすぐ近くにいた男はツルハシを床に落としてしまった。
懐中電灯の灯かりが「それ」を照らす。
鏡の中にだけ見えるその姿は、一見したところどこにでもいそうな青年だ。
長い髪に涼しげな目元。それに、かすかに笑みを浮かべた優しい表情。
だが、決定的に違っていた。
彼は鏡の中にしかいない。いくら男が後ろを振り返っても、眼を擦ってもその姿はなかった。
「あ……悪魔…」
青年は優しそうな笑みを浮かべて、ただそこに立っているだけだ。
そして、鏡の中に入ってしまった男が、その青年に気付いた。
「いたぞ!!」
鏡の中から声が聞こえた。
その声に大勢の男達が一斉に振り返り、鏡の前へと駆け寄ってきた。
「こいつだ! こいつが…」
鏡の前に集まった男達を見て、ハンマーを持った男は愕然とする。
「な…なんだよ…? 何で皆鏡の中にいるんだ!?」
「何言ってる!? 鏡の中にいるのはお前だろうが!」
「何言ってやがる! 俺はこうしてちゃんと…」
と、何かを言いかけたところで青年がくるりと背中を向け、ハンマーを持った男の方を向いた。
一瞬で男の表情は恐怖という二文字に支配されている。
青年は相変わらず、まるでマリア象のような笑みを浮かべていた。
だが、それはマリア象の笑みとは異質のものだ。
「お、おい!! たた助けてくれ!!」
「早くこっち側に来い! 出てくるんだ!」
「出来るわけねェだろ! 何とかしてくれ!!」
青年が男を指差した。
全ては一瞬だった。
一瞬の内に、男の全身を青白い焔が包み、ものの数秒で真っ白い灰になってしまった。
そして、青年は振り返る。
「うぁああああああ!!」
一人の男がハンマーを振りかざした。
次の瞬間、鏡は粉々に砕け散っていた。
鋭利な破片が辺り一面に散らばる。
「…や……やったか?」
鏡はただの鏡になっていた。
覗き込んでみても、そこらの家においてある普通の鏡と同じく、自分の顔が見えるだけだ。
その中に悪魔はいなかった。
「やった……みたいだな…」
「…へっ、終わってみりゃあっけないもんだな」
「……これで…終わったんだよな?」
「終わった……よな」
あまりにもあっけない。
終わってみればこんな物なのだろうか?
あの青年は誰だったのだろう?
何故鏡の中にだけ存在したのだろうか?
疑問は数えてみれば山ほどある。
だが、これで終わったのだと考える事にした。誰が言い出したわけでもなく、各々が自分の中で決着をつけることに成功したようだ。
もちろん、今夜の彼らの安らかな睡眠のためには、聖書か度数の高いウィスキーが必要となるだろうが。
 
 
「彼」はソファに身を沈め、一人考えていた。
とうとう奴等は鏡を壊してしまった。
これで終わったと思っている。
もう「彼」が死んだと思っている。
彼はもう「そこ」から出る事は出来ない。それと同時に、「奴等」が「そこ」に入る事も出来ない。
鏡を壊されたのは予期せぬ出来事ではあったが、それはそれで構わない。
彼はその程度では死ぬ事はないのだから……
彼はもう、死ぬ事は永遠に出来ないのだから……
 
 
アルの頭の中にはずっと一つの疑問があった。
それは、彼にとっては至極当たり前に持つべき疑問で、もう長い間ずっと考えつづけてきた疑問だ。
「どうしたんですか?」
「ん?」
雪和が少し心配そうな顔をしている。
「頭痛いんですか…?」
「いや、ちょっと考え事」
「考え事…ですか」
「うん。どうして俺は死なないのかなー…ってね」
もう1200年経った。
普通なら、身体は腐り、肉は融けて水になり、骨も土に返るはずだ。
それがどうだろう? 彼の身体は20歳の頃と全く同じ姿を保っている。もちろん髪形を変えたりはしていたが、それでも1200年ほど前に彼と出会った者が見れば、一目でアル・アネクシオスだと気付くほどだ。
雪和は人魚の肉を食べて不死になった。どうして人魚の肉で不死になるのかは解らないが、とにかく死なない身体になった。
だとしたら自分は?
自分はどうして死ぬ事も老いる事も無いのか?
今の外見は20歳の時と全く変らない。
ということは、少なくとも彼の時間は20歳の頃までは普通に…かどうかは別にしても、一応進んでいたのだ。
ならばそれ以降は? なぜ彼の時間はそれ以降止まってしまったのか?
「20歳くらいの頃、何か大きな事件があったとか…?」
「20歳くらいかぁ……よく憶えてないけど…多分特に無かったと………!?」
思い出した。
いや、思い出してしまった。
今から1200年ほど前になるだろうか。
彼は「あの」大聖堂にいた。
幼い頃、姉がまだ生きていた頃に一度だけ行った事のある大聖堂。
確か天井には鏡と鎖の絵が描かれていたはずだ。
その大聖堂には大きな鏡があった。
そこで彼は、有り得ないものを見た。
鏡に自分が映っている。
確かにその姿は自分自身のものだ。だが、通常の鏡に映った自分ではなかった。
彼は驚きの表情を浮かべた。
だが、鏡の中の「彼」はうっすらと微笑んでいる。
アル・アネクシオスの姿ではあったが、それはアル・アネクシオスではなかった。
鏡の中の「彼」の口がゆっくりと開いた。
そして、「彼」はこう言ったはずだ。
『やぁ、アル・アネクシオス。久しぶりだね』
確かに彼は「久しぶりだね」と言った。
久しぶり?
なぜだ? 自分自身に出会ったことなど、今まで一度も無い。普通はあってはならない事だ。
それが何故「久しぶり」なのだろう?
そう考えた。
「その…何故? の答えが……」
「答えが…?」
「彼は……確か…」
恐る恐る、アルが鏡に触れる。
冷たい。
冷たく、硬質な感触が指先にあった。
普通の鏡であるはずだ。しかし、なぜこの鏡の中にはもう一人アル・アネクシオスがいるのだろう?
『僕は君の…』
「君の………」
「君の…?」
「……ダメだ。思い出せないよ」
「………仕方ないですよ。1200年も前の話なんですから。…それにほら、何も考えてないときに限って思い出したりするって、よくあるじゃないですか。気楽に考えましょうよ」
「…そうだね。そうしようか」
鏡と鎖の壁画。
その絵にどんな意味が隠されているのかは分からない。
だが、その大聖堂はもう無いはずだ。
1200年もそのまま残っている建物など、そうそう滅多にあるものではない。あれば遺跡か史跡として有名になっているはずだ。
もうその大聖堂がどこにあったのかも憶えていない。
それでもいいはずだ。
もう、大聖堂が存在するはずはない。
「考えてもムダなことは考えない…ってコトにしようかな」
「そうですよ、その方がいいですよ」
「…ふぅっ、とりあえず何か食いにいこうか? ちょっと小腹が空いてきちゃった」
「あ、それなら一階のレストランにいきませんか? ケーキセットがおいしそうだったんですよ〜」
ふっと気が緩んだ。
こういう所など、シスや志乃と同じだ。
アルが何か張り詰めているときには必ずこうして和ませてくれる。
この笑顔に何度救われた事だろう。
「……そうだな、ケーキもたまには良いか」
アル・アネクシオスと小早川雪和は、二人並んでホテル一階のレストランへと向かった。
 

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