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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



約束


第三章

衝撃


「いない?いないってどういう事ですか?」
 月曜日の午前中、館立大学付属病院は騒然となっていた。患者の一人が行方不明になっているのだ。行方不明者の名前は黒沢真理。同姓同名じゃない。あの黒沢さんだ。何でも昨日の夕方くらいから病室にいないらしい。

「警察の方でも捜しもらってるんだが…彼女は今自力じゃ動けないはずなんだ。それがいなくなるなんて…」
「それじゃ拉致って事ですか?」
 杉原先生も夕べから全然寝ていないらしい。無精ひげが少し目立つ。

 それにしても…たった二日か三日俺が来てない間に、そこまで衰弱してたなんて知らなかった。何でも考えていたよりも衰弱するのが早いらしい。俺が実家に帰った日の夜にはすでに自分で寝返りすらうてなくなっていたようだ。そしてその次の日にはほとんど意識が無くなっていたという。

「何にしても早く見つけないと。彼女は今ほんの少しの間でも点滴を無くすとすぐに衰弱死してしまうくらい弱ってるんだ。だから…」
 その言葉を遮るように病院のロビーから大声で誰かの声が聞こえた。はっきりと「古門晶良様はいらっしゃいませんか!?」と言っている。どうやら俺を呼んでいるようだ。だが、呼んでいる男に見覚えはない。誰なんだ?

「古門は俺ですけど、何か?」
「…古門晶良様ですね?私県警の石倉と申します。実は…その、大変申し上げにくいんですが……ご実家のご両親が亡くなられまして…」

「…………え?」

「あの、ですからご実家のご両親が…」
「冗談は後にしてください!ジョークにしては悪質すぎますよ」
「ですから冗談でもジョークでも嘘でもありません!今日の未明に亡くなられたんです!これがお嬢様からのメッセージです」
 綾音さんは実家近辺ではお嬢様と呼ばれているらしい。まあそれも家柄的に見て仕方ないか。

 石倉という男が差し出したノートに書かれた字は確かに綾音さんのものだ。そして…
「晶良さん、あなたのご両親が亡くなりました。すぐにこちらへ来てください」
 と書かれてある。心なしか筆跡が震えているようだ。だとすると…
「こちらにパトカーを用意してありますので…」
 俺の両親って言うと・・親父と母さんが?……死んだ?
「あの…胸中お察しします。ですが今は…」
「早く出してくれ!!早く!」
 大学に入って初めて声を荒げた。自分で言うのも変だが、普段の俺は実に温厚で声を荒げたり感情をむき出しにする事なんてほとんど無い。親しい奴から影で「羊の皮をかぶったアナコンダ」とか言われてるなんて聞いたこともあるな。

 車は電車よりも速く家に着いた。門の前には黒い服の行列が出来ている。そして看板のようなものが出されており、そこには間違いなく「古門隆久、千鶴告別式場」と書かれている。
 そういえば、車の中ではほとんど何も考えられなかったが綾音さん達は無事なのか?それにそもそもどうして親父と母さんは死んだんだ?つい昨日別れるまであんなに元気だったのに…

「綾音さん!」
 門をくぐるとすぐそこに目を真っ赤に泣き腫らした綾音さんが立っていた。その脇には同じく赤い目をした泉水が立っている。
「…晶良さん……」
 そこから先はほとんど言葉にならなかった。泉水は気丈にも涙を両目いっぱいに溜めながらも弔問客の応対をしていた。
「晶良、ここはいいから綾姉を家の中に連れて行って」
「でも泉水…」
「私は…私は大丈夫、だから綾姉と深雪をしばらくお願い」
 そう言いながらも時折涙が頬を伝って落ちる。近所に住む親しい人たちが手伝いに来てくれているようだ。そうでもなければ三人だけで何とかできるものではない。

 家に入るとようやく綾音さんがほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「綾音さん…何が……一体何があったの?」
「…ごめんなさい……晶良さん、ごめんなさい……」
 何を聞いてもただそう繰り返すだけだった。まだ動転しているようだ。
 そう言えば深雪ちゃんは…?深雪ちゃんの姿が見えないけど、どこにいるんだろう?
「綾音さん、深雪ちゃんは?」
「あの子は…今部屋で横になってます。あの子が伯父様達を見つけたんです」
「深雪ちゃんが…見つけた?見つけたってどういう事?」
「……伯父様と伯母様は…殺されたんです」

 震える声で「殺された」といわれた瞬間、俺まで気が遠くなった。
 殺された?どうして?誰が何のために…?
「夜中遅くに深雪が何か物音を聞いたらしくて…それで見にきたら…」
「そんな…そんなことが…」
 頭の中が混乱している。正常に物を考える事が出来ない。ただ綾音さんを目の前に立ち尽くしているだけだった。

「晶良さん、こちらに伯父様と伯母様が…」

 そう言われてはっと我に返る。彼女の後ろに着いて行くと、ひときわ広い部屋に二つの木の箱が置かれていた。棺だ。近づいて窓を開けてみると、確かにそこには見慣れた顔があった。間違いなく親父と母さんだ。だがもう目を開ける事はない。すでに少し硬くなっており、それに体温らしきものはまったく感じられない。…間違いなく死んでいた。
 桐で出来た木の棺に一つ、二つと雫が落ちる。視界が急にぼやけた。足の力が急に抜けて、その場に座り込んでしまった。
 初めて声を上げて泣いた。物心着いてから人前で泣く事すらほとんど無かった。それが数十人の弔問客を後ろに控えていながら、人目をはばかる余裕も無く声を上げて泣いた。


 綾音さんと深雪ちゃんはもう眠っている。通夜が終わり、告別式も終わった。親父と母さんの遺体はすでに火葬にしてある。俺がここに着いて三日ほど経ったが、その間何も考える暇も無かった。
「泉水、お前大丈夫なのか?」
「…うん、私はもう大丈夫…だと思う……」
 今茶の間には俺と泉水の二人だけしかいない。ほんの数日前、ここのテーブルを囲んで賑やかに食事をしていたのだが、とても同じ場所とは思えないほど静まり返っている。

 外は雪が降っていた。庭の木がうっすらと雪をかぶっている。多分明日の朝には少し積もっているだろう。こたつに足を突っ込んで目の前の湯飲みに手を伸ばす。
「晶良、あんたは大丈夫なの?」
 まだ腫れの引いていない目で俺を見る。声も少し鼻声だ。多分さっきまで泣いていたんだろう。
「…正直言って分からない。何も考える暇が無かったから…」
 少しだけ冷めたお茶を口に含むと、実に苦い味が広がる。おかげで目が覚めた。

「なあ、一体何があったんだ?どうして親父と母さんは…?」
「私も良く分からないよ…ただ深雪の悲鳴が聞こえて伯父さん達の寝室に行ったら…だから何があったかって言うのは…」
「そうか……」
「私はいいけど…綾姉と深雪が可哀相だよ。特に深雪なんか普段から気が小さいのに…綾姉も普段の仕事で疲れてるのに今回はお葬式とかでほとんど寝る暇も無かったみたい…。寝込むのも無理ないよ」

 綾音さんは葬儀などが一段落するとまるで崩れ落ちるように倒れてしまった。軽い過労と貧血らしいが、大事を取って今は寝かせてある。深雪ちゃんは葬式とかには辛うじて参列したもののずっと青白い顔をしたままだった。
「……これから…どうしよう………」

 それは俺も考えていた。ただ、親父の遺言によると綾音さんが古門製薬の次の社長になる、と書かれていた。順序からいってもそれは妥当だ。でもその他の事はほとんど何も決まっていない。
 とりあえず金はある。それだけが救いだ。
「晶良は…どうするの?」
「…四十九日まではここにいるつもりだよ。でもその後の事は考えてない…」
「それじゃあさ…これは私の個人的な考えなんだけど…一緒に暮らさない?四十九日までと言わずに、ずっとここで」
「…………」
「綾姉ってしっかりしてるように見えるけど…本当はすごく心細いのよ。いつもどこかで誰かにすがってないとだめなの。…はっきりと口には出さないけど、多分晶良に助けてもらいたいと思ってるみたいだから…だからお願い、綾姉を助けてあげて。助けてあげられるのって晶良しかいないのよ」

 なるほど、泉水も辛いんだろうな。こいつも多分綾音さんや深雪ちゃんを助けてあげたいんだろう。でも自分自身にそれだけの力量が無い事も自覚してる。それだけに複雑なんだろう。
「泉水はどうなんだ?」
「え?」
「泉水は…俺がここにいた方がいいと思うか?」
「当たり前じゃない!私だって…晶良がここにいてくれたらどれだけ心強いか…」

 前々からここに移り住む事は考えていた。ひょっとしたらきっかけが無かっただけかもしれない。しかし今、こうして泉水や深雪ちゃん、それに綾音さんから必要とされているとなると…
「わかった、ここに引っ越すよ。出来るだけ近いうちに。そうだな、少なくとも今週中には」
「本当に?ほんとに一緒に住んでくれるの?」
「ああ、一緒に暮らした方がお互いに要らん心配をしなくてもいいだろ?それに俺にもメリットがあるからね」
 こんな時にメリットやデメリットがどうのこうのという話をするのは不謹慎だとは思ったが、こうでも言っておかないとね。後でこの三人が気にしたらいけない。
「メリットって…?」
「健康な食生活が出来るし、それに広い家に住める。おまけに一人じゃないから寂しい事もないしね」
 一方泉水達にもメリットがあるという。
「だって…若い女だけになると夜とか不安じゃない。でも男が一人でもいてくれると安心できるから…」
 なるほど、確かにここの三人だけでこの広い屋敷に住むのは不安だろう。美人が三人もいるんだ。痴漢に狙われたりでもしたら大変だ。
「それじゃあ今週中なんてのんびりした事も言ってられないな。明日にでも荷物を取りにいったん帰るよ。で、向こうの家は業者に頼んで引き払おう。家具も全部処分する。どうせたいした物は無いんだし、パソコンとかだけ持って来ればいい」
「…それでいいの?」
「これでいいんだ。明日いったん向こうに戻って、遅くても明々後日には帰ってくる。大学の方にも色々報告しないといけないだろうしね」

 行動を起こすのは早い方がいい。大学の友達とかが遠くなるけど、この際あきらめよう。
今はそんな事考えてる暇はない。友達なんかはどこででもできるんだ。それにこれっきり会えなくなるって訳じゃない。どちらかというと女友達の方が多かったんだし、機会があれば家に来てもらってもいい。そうだ、この手があるじゃないか。


 翌日、さっそく東京へ戻った。深雪ちゃんが不安そうな顔をしていたみたいだし、出来るだけ早く帰ってやらないといけない。そう思って早朝の電車に乗った。この電車なら昼前には東京に着く。家には昼頃に着くだろう。業者に色々と頼むのはまた何日か後でもいい。とりあえず今は必要なものを荷造りして、それから大学の教授に色々と報告しなきゃ。

 電車を乗り継いで家の前に立った。が、家が無い。

「…何だよこれ……」

 そこには確かに家があったはずだ。いや、正確に言えば俺が住んでいたアパートが。しかし今はそこに何も無い。駐車していた車も焼けてしまったようだ。ただ焼けこげた真っ黒い木やコンクリートが無残な残骸をさらしているだけだ。
「古門君!良かった、無事だったんだな!」
「……先生?」

 この日はよほど運が良いのか、それとも最悪の運勢の日なのかわからない。後で会いに行こうと思っていた杉原先生がこちらにやってくるじゃないか。
「君の家が火事になったって聞いてね。それより来てくれ、黒沢君が見つかったんだ!」
 そうだ!黒沢さんの事をすっかり忘れてた!
「見つかったって、いつですか?」
「二日前だよ。病院のエレベーターの前でうずくまってた。それより急いで。時間がもうほとんど無いんだ」

 時間が無い?どういう事だ?……まさか…
「うわ言みたいに君の名前を呼んでる。とにかく彼女に会ってやってくれ」
「先生、時間が無いって……」
「……多分今日一日持たないだろう…だから早く会ってやって欲しいんだ。発見されたときからずっと君の名前を呼んでるんだ」

 すぐ近くでタクシーを拾い、出来るだけ急いでもらった。考えてみればほんの四日ほど前に病院の前から実家へ急行したばっかりだ。それなのにどういう訳か気分は妙に落ち着いている。疲れているのかどうかも分からない。ただ、精神的には異常なほど落ち着いている。

 病院のエレベーターを使って黒沢さんの待つ病室へと足を運んだ。だが、何かおかしい。何か変な匂いがする。まるで肉が腐ったような…
「…我慢して入ってくれ。もう…これが最後かもしれない」
 そう促されるままに病室に入る。そこには…
「く、黒沢さん…」
 以前にも増して骨と皮だけになってしまったかと思えるくらい痩せ細った彼女が横たわっていた。口だけが小さく動いている。耳を澄ましてみると確かに「フルカドクン」という言葉を繰り返しているようだ。

 病室には彼女の家族や数名の看護婦、それに医師がいる。どうやら完全に無菌状態になっているらしく、全員が白い服と白い帽子をかぶっていた。
「黒沢さん…分かる?古門だよ」
 そういうとゆっくりと視線をこちらに向けた。
「ふ…古門…君……?」
 体は全くと言っていいほど動いていない。ただ視線と口元だけが微妙に動いただけだ。だがその視線、その目も次第に色が曇っていく。
 不意に彼女の右手が飛んできた。

「…!」

 そう、文字どおり「飛んできた」のだ。少しベッドから離れたところにいる俺の腕をかすめて、黒沢さんの右手は壁に当たって落ちた。
 全員の目が黒沢さんに注がれる。
 彼女の右肩からは血も出ていない。ただ真っ黒くただれたような肉とひびの少し入った骨が見えていた。
「な……なんだこれは…?」
 彼女の目はすでに白い部分がなくなっていた。全体が真っ黒く濁っている。それに声も変わっている。以前のようなボーイソプラノの声ではなく、まるで地の底から響いてくるような声になってしまっていた。
 うめき声をあげながら少しずつ体を起こしてこちらへ近づいてくる。そうしている間にも黒沢さんの身体はあちこちがちぎれていった。引き千切られるような形じゃない。肉が腐り、骨が崩れて身体から腐り落ちていく。
 ゴリュッという嫌な音が部屋の中に響いた。そしてついに彼女の脊椎が背中の真ん中あたりで外れてしまった。そして真っ黒い目をこちらにむけて…

「ゴ…ゴメン…ネ…フルカド…クン……」

 そう言うと黒く濁った血の涙を流して黒沢さんは床に崩れ落ちた。そして、これが彼女の最後の言葉だった。


 黒沢さんの葬儀には参列しない事にした。彼女の家族からそう言われたからだ。どうしてかは分からない。だがそちらの方が俺にとっても気分的に負担が軽くなる。ただ大学の教室でいつも彼女が座っていた席に花を一輪だけ置いて手を合わせた。

 まるで今にもそこのドアを開けて
「おっはよう、早かったんだね、古門君」
 という、やたらと高い元気な声が聞こえてきそうな気がする。だが、彼女はもういない。あの後すぐに荼毘に付されてしまった。あんな姿でいさせるのは可哀相だ。

 窓の外では相変わらず雪がちらほらと降っている。クリスマスまであと一月を切った。だが、この一週間の中で立て続けにいろいろな事がありすぎた。気分的にクリスマスどころじゃない。立て続けに俺の大切な人が死んでいった。今までの二年間とちょっと住んでいた家が焼けてなくなった。通帳の類は実家に置いていたのが良かった。

 不意にドアが開いた。思わず振り返ってしまう。無駄な期待と知りながら、どうしても「ひょっとしたら」という気持ちを捨て切れない。だが、そこに立っていたのは俺の担当の教授だった。

「ここにいたのか。…色々大変だったそうだな」
「………はい。そのことなんですけど…」
 この教授は学校内でも話が分かるおっさんとして有名だ。とにかく今は俺の置かれている現状を説明して、希望を全部言うしかないだろう。
 事細かに説明するとまた気分が重くなる。出来るだけ要点のみを話した。それだけでも大まかには伝わるはずだ。
「……そうか、わかった。まあ君はもう単位は取ってしまったんだろう?あとはゼミ単位だけだがもう研究の分も作ったみたいだな。それじゃあそのプログラムを卒論にまわそう。これでゼミ単位も出そう」
「すみません、わがまま言って」
「ただし、来年の一月から二ヶ月に一回でいい。近況を電子メールか何かで報告してくれよ。宛先は私のアドレスでいい」
「ありがとうございます。…お世話になりました」
「…元気でやりなさい。もしここに来る事があったらいつでも教官室によりなさい、みんなで飲みにいこう」
「……はい」
 できるだけ早くに大学を離れた。誰か知り合いに会ったら離れづらくなるかもしれない、そう思ったからだ。
 これで用事は全て済んだ。手持ちの現金はそう多くはないが、郵便貯金のカードがある。この貯金から金を引き出して必要な服を買っていこう。もう明日の朝にでも向こうに戻ろう。出来る事なら一分でも早く東京から離れたい。ひたすらそう考えた。

「そうでしたか…」
 ようやく綾音さんも起き上がれるようになったらしい。俺が家に着いたら出迎えてくれた。それでもまだまだ顔色は悪い方だ。
 深雪ちゃんも茶の間に顔を出している。そんな病み上がりが二人もいるのに、東京でのショッキングな話はあまりにも刺激が強すぎる。出来るだけかいつまんで(必要なところは省いて)事の顛末を話した。
「でも良かった、お兄ちゃんがここで暮らしてくれるようになって」
「そうね。…晶良さん、これからもよろしくお願いします。色々と面倒をかけるかもしれませんけど……」
「いや、こっちこそ。俺の事も本当の姉弟だと思ってね」
「ええ、晶良さんも私たちの事は本当の姉と妹だと思ってください。遠慮はしないで下さいね」
 俺が東京にいたのはたった一泊だ。家が焼けていたので友人の家に泊めてもらった。その間で随分立ち直ったようだ。まだ無理をしているのだろうが、うっすらと微笑みを見せてくれるようになった。

「それより綾音さんも深雪ちゃんも、それに泉水も。出来るだけ無理はしないようにね」
「うん、そうする」
「綾姉もこの際だからしばらく休むといいよ。会社の事は副社長さんに任せておけば安心でしょ?正月明けまで休みなよ」

 古門製薬の副社長は、何でも古門の本家(つまりこの家)に大恩ある人らしい。祖父さんに世話になったんだそうだ。九年前の御家騒動のときも数少ない綾音さんサイドの味方だったし、今度の葬式のときも色々と助けてくれた。何かと頼りになる存在だ。
 その副社長さんが昨日ここに綾音さんに挨拶に来たのだそうだ。正式に古門製薬の社長としてがんばってくれ、という事らしい。
「私…社長なんてする自信ない……」
「経営自体はその副社長さんが前からやってたんだし、問題はないって。綾姉はどーんと構えてればいいのよ」
「でも……」

 そりゃそうだろうな。誰だって二十三歳という若さで社長の椅子に座らされたら戸惑うだろう。まあ綾音さんの場合は優秀かつ頼りになり信頼も出来る参謀が付いていてくれるからまだいいんだろうけど。
「仕事の話は後にしようよ。それより飯にしよう。もうすぐ昼だ」
「あ、そ、そうでしたね。それじゃ……どうしましょうか、どこかから出前でも取りましょうか?」
 それがいいだろう。この中で一番の料理上手は意外な事に深雪ちゃんだが、彼女はいま心身ともに疲れ切ってる。外から取った方が楽でいい。
「綾音お姉ちゃん、出前だったら……」
 ん?なんだろう?珍しいな、深雪ちゃんがこんなに積極的に喋るなんて。
「出前取るんだったらお寿司にしよう。…その…お兄ちゃんっていう家族が増えたんだからお祝いの意味で…」
「………そうね、そうしようか。それじゃあ泉水、電話とって来てくれる?」
「はーい」

 そうだな、今までずっと家の中が暗いムードだったから、深雪ちゃんもその事は気にしていたんだろう。それでわざわざ気を使って…なんていい子なんだ、この子は。
「もしもし、古門です。いつもお世話になっております…はい、お寿司の出前をお願いします。…… ええ、いつもの握りを六人前と、あと鉄火巻きとかっぱ巻きを二人前ずつ、それに茶碗蒸もお願いします。…はい、……ええ、出来次第で結構です。はい、それじゃお願いします」
 握り六人前、というのは決して多すぎる量じゃない。一般家庭にしてみれば多いのだろうが、ここには少なくとも約一名、人の三倍の量を軽く平らげる奴がいる。他ならぬ俺だ。
「晶良さん、三人前くらいは大丈夫ですよね?」
「うん…面目ない」
「お兄ちゃん、遠慮しちゃだめだよ。明日からご飯もたくさん作るからいっぱいお代わりしてね」
「明日からって…深雪、あんた大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫。ゴメンね、心配かけて」
「やめておきなさい、あなたまだ顔色が悪いわよ。もう少しゆっくりしてなさい。ご飯は私が作るから」
「何だったら私が…」
 泉水がそう言うと残り三人が一斉に首を横に振った。三人とも泉水の料理の恐ろしさを十分知っているからだ。
 泉水が作る料理はすでに食べ物じゃない。化学兵器並みの殺傷力を秘めている。甘すぎるのだ。何年か前にこいつの手料理を食べて脱水症状にも似た症状を起こしかけた事がある。それ以来、何があっても泉水の料理だけは食うまいと決めている。
「泉水お姉ちゃんの料理食べてたら一ヶ月で糖尿病になっちゃうよ」
 と深雪ちゃんに言わしめるほど強烈な味である。何しろこいつはおはぎに砂糖をかけて食べるほどの極端な甘党で、なぜかこいつが作ると辛いはずのカレーですら甘くなる。まずい事この上なかった。

「なによぉ、みんなしてそこまで言う事無いでしょ?」
「お前に作らせるくらいなら俺が作る。俺の方がまだ料理はうまいはずだ」

 何となくではあるが、すこしこの場の空気が軽くなったような気がした。いつもの他愛の無いやり取りが戻りつつある。
 そうだ、いつまでも暗いままじゃいられない。いつまでも落ち込んでいたらそれこそ親父に
「親が死んだくらいでいつまで落ちこんどるつもりだこのバカ息子!」
 とか夢で怒鳴られるかもしれない。
 その事を話すと綾音さんも深雪ちゃんも、もちろん泉水も笑ってくれた。久しぶりに見る笑顔だ。

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