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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



約束


第四章

疑惑 後編


 翌朝、相変わらず騒がしくも賑やかな朝食の後に外出の準備をする。…が、どうもおかしい。少し頭痛がする。体もほんの少しではあるがだるい。風邪ひいたのかな?でも約束してしまった以上、いまさら出かけないわけにも行かない。

「綾音さん、準備できた?」
「あ、開けちゃだめです!もうちょっと待っててください」
 おっと、まだ着替えの最中だったんだ。危ない危ない。
「それより晶良さん、大丈夫なんですか?少し顔色が悪かったみたいですけど」
「大丈夫。さっき風邪薬飲んだし、それに大した事無いから」
「無理はしちゃだめですよ。気分が悪くなったらいつでも言ってくださいね」
 それほど気分が悪いわけじゃない。あんまり気にならない程度だから大丈夫だろう。上着を少し厚手のものにして一枚余計に服を着てるから、多分外に出ても平気だ。それに今日は昨日ほど寒くない。雪も降っていないし、何よりもいい天気だ。こんな天気のいい日に家の中にいたんじゃもったいない。

「お待たせしました。それじゃあそろそろ行きましょうか」
「うん、その前に一応戸締まりを…」
 昨日の予定では昼からの予定だったのだが、買い物をするという以上、綾音さんの性格を考えると昼からだと遅すぎるのだ。
 何しろ綾音さんは凝り性なんだ。ケーキもクッキーもデザインに凝るし、何よりも買い物にはものすごく慎重になる。ちょっとでも気に入らない点があったら買わないのだ。そして気に入るものが見つかるまで何時間でも探す、という事も珍しい話じゃない。多分俺の机を買うといっても主導権は綾音さんにあるだろう。だとすると昼から行ったんじゃ確実に帰りは夜になる。
「一応お薬持っていった方がいいみたいですね。お昼の後に飲まなきゃいけませんから」
「そうだね。それじゃこれで忘れ物はないな」
 薬はもちろん古門製薬のものだ。手前味噌ながら結構よく効くので重宝している。

 二人並んで門をくぐった。門にも鍵をかける。ここから繁華街までは電車で三十分ほどかかるが、今日は平日だし、それほどかからないだろう。
 時計を見ると現在時刻は十時ちょうど。うん、ちょうどいい時間だな。
「あ、その時計…」
「覚えてる?」
「ええ、私が晶良さんの十八歳の誕生日にあげたものですよね」
 こうして俺の誕生日をちゃんと祝ってくれるのも綾音さん達くらいだ。親父と母さんは俺の誕生日にも何もしない。もう十五歳くらいから何も期待しなくなったが、三人姉妹は必ず誕生日には何かくれるのだ。もちろん俺も誰かの誕生日には必ずプレゼントをやるようにしている。そう言えば俺の二十一の誕生日ももうすぐだよな。あと二ヶ月くらいってところか。

「ちゃんと動いてます?」
「そりゃあもう。全然狂わないしね、重宝してるよ」
「そう言ってくれると嬉しいですね。今年は何がいいですか?」
「今年は……そうだな、とりあえずは思いつかないや」
 白い息を吐きながら空を見ると、実にいい天気だ。雲一つない。こりゃあ夜は冷え込むぞ。雪は降らないだろうが、確実に明日の朝には霜が降りてる。
「…どうしたんですか?」
「ちょっとね、今日の夜は寒いだろうなって思ってさ」
「ちゃんとお布団かぶって寝てくださいね。晶良さん小さい頃からよくお布団蹴ってましたから」
「そうだっけ?」
「そうですよ。晶良さんが中学二年生のときなんか、それで結構ひどい風邪ひいたじゃありませんか」
 ずいぶん昔の事まで覚えてるんだな。本人が忘れてるってのに。あんまりにも手がかかるから忘れようにも忘れられないってところか。

 駅のプラットホームにも人影はまばらだった。それもそうだ。水曜日のこんな時間にうろうろしてるなんて大学生くらいのものだろう。…あ、そうか、俺はいいのか。一応大学生なんだし。
「あ、そうだ、ちょっと頼みがあるんだけど…」
「どんなですか?」
「大学にちょくちょくメール出さなきゃ行けないんだ。それで俺専用の電話回線が欲しいんだけど…」
「電話回線ですか?……あ、パソコン通信に使うんですね」
「そう。……そう言えばパソコンも燃えちゃったんだっけ」
「そしたらパソコンも今日買いましょうか?」

 何とも豪快なお話だ。普通パソコンを「今日買おうか?」など、言いたくても言えないものなのに実にあっさりと言ってのける。
「カード持ってきて良かったです。ついでにほかの必要なものも揃えちゃいましょう。この際ですからほかのタンスとかも…」
「い、いや、それはまた次の機会でいいよ。あんまり一気に買ったら時間も足りないだろうから」
「…そうですね、そしたら今日はパソコンと机と椅子だけにしましょう」
 それだけでもものすごくでかい買い物だ。ひょっとして綾音さんって、俺と金銭感覚が一桁くらいずれてるんじゃないか?

 電車に揺られる事約二十分。思ったより早く着いた。ここの繁華街は泉水が時々学校の帰りに寄って来るらしく、やたらと詳しい。おかげで俺まで多少の店なら解るようになった。特に甘いものを出す店は…
「でも私パソコンの事は解りませんから…手伝ってあげられるのは机くらいですね」
「それだけでも随分助かるよ」
「…コンピューターって難しくありませんか?会社にある事はあるんですけど、何だか壊しそうで恐いんです」
「そんな事無いよ、慣れれば」

 アーケードの下を歩きながら二人でのんびりと話をしていると、すれ違う男どもがこちらに視線を投げかけてくる。大半は綾音さんを見ているが、中には俺の事を見ている奴もいるようだ。何となく腹が立つな。
「それにしても晶良さんって…」
「……なに?」
「何着ても似合いますね。その…すごくきれいですし……」
「俺ももうちょっと男らしい顔に生まれればよかったなぁ。…やっぱり髪切ろうかな?」
「でもその髪型も似合ってますよ。何だかモデルさんみたいです」

 こうして二人で並んで歩いてても「仲のいいカップル」じゃなくて「仲のいい姉妹」に見えるんだろうな。ちくしょう、どうしてこんな顔に生まれてきたんだ。
 従姉弟にしては珍しく、俺と綾音さんは顔立ちが結構似ている。顔の作りを全体的に見たら泉水の方に似ているかもしれないが、目の形が多少違う。俺と綾音さんはやや垂れ目。泉水はほんの少し釣り目で、深雪ちゃんはちょうどいい形、とでも言っておこう。
「晶良さん、三つ編みでもしてあげましょうか?」
「いいよ、そんなことしたらそれこそ「姉妹」になっちゃうよ」
「……でも…何となく手がうずうずして…」
 綾音さんの今の髪型が三つ編みなのだ。俺はというと、単に髪を後ろで一つに束ねてだけの実にシンプルかつ合理的なものだ。下手に綾音さんに髪をいじらせると、それこそ三十分は放してくれない。少しでも気に入らないと最初からやり直し、なんて事になるかもしれないしね。
「さてと、最初に何探そうか?」
「そうですね、この近くにいい家具屋さんがありますから、机からにしましょう」


「思ったより早く片付いたね」
「そうですね、すぐにいいものが見つかりましたから」
 現在午後三時。綾音さんの買い物にしてはずいぶんペースが早かった。五時くらいまでかかるかな、と思ってたんだけど…
「それにしても晶良さん、大丈夫ですか?何だか顔色、ひどくなったみたいですけど」
「うん、大丈夫だよ。…でもこれ食べたら帰ろうか。ちょっと早いけど」
「ええ、無理はしない方がいいですからね」
 昼飯を食ったあたりから心なしか頭痛がひどくなったようだ。ちゃんと薬は飲んだのに。
やれやれ、やっぱり風邪だったか。帰って大人しく横になった方がいいな。
「今日の晩御飯はお粥かおじやにしますけど、どっちがいいですか?」
「おじやの方がいいな。お粥は何だか味がなさそうだから」
「それじゃ今日は鶏おじやにしますね。あと今日は何もしないで寝ててください」
「うん、そうさせてもらうよ」

 下手にこじらせて心配させるよりは大人しくしてた方がいい。もし明日になってひどくなったら病院にでも行けばいいんだ。
「家の近くにどこか病院あったっけ?」 「ええ、すぐ近くに杉原病院がありますよ。私たちの係り付けのお医者さんがいるんです」
 杉原病院…?杉原……か、ひょっとしてあの杉原先生…な訳ないか。杉原先生は館立大学病院で勤務してるんだ。いや、でも実家が開業してるって可能性もあるな。今度聞いてみなきゃ。

 その日の夜だった。ちゃんと薬も飲んだし、綾音さんが作ったおじやも残さず食べた。なのにどういう訳か頭痛と体のだるさは治まるどころかますますひどくなっていく。布団の中で横になったが、今度は起き上がる事すらきつくて出来ない。
「…お兄ちゃん、大丈夫?」
「…………うん…」
 向かいの部屋にいた深雪ちゃんが心配して覗きに来てくれた。が、正直言って全然大丈夫じゃない。横になってしばらくしたあたりから、あまりの頭の痛さに目を開ける事すら出来ない。今だって声で深雪ちゃんだという事が分かったくらいだ。

「お医者さん呼ぼうか?」
「………いや…大丈夫……だと思う……」
「…お兄ちゃん、ちょっと待っててね」
 足音が聞こえる。どうやら深雪ちゃんが部屋から出たようだ。そしてその直後、三人分の足音がこちらへ向かってきた。
「晶良さん、具合どうですか?」
「…………うん…」
 小さくそう答えるのが精一杯だ。それくらいのひどい頭痛が続いている。この痛さは今までの二十年間でダントツのトップだろう。体のだるさもまた同じだ。
「…深雪、救急車を呼んできて。泉水は体温計持ってきて」
 綾音さんが手早く指示を出す。やっぱりいざというときに頼りになるのはこの人だ。

 それにしても失態だな。一緒に暮らし始めて早々寝込むなんて。しかも救急車を呼ぶ騒ぎを起こすなんて、俺も疲れてるのかな。
「晶良、ほら口開けて」
 いわれるままに口を開けて体温計(らしき物)を咥える。すぐに電子音がなって計測終了を告げた。
「……晶良、あんたこれでよく我慢できたね。三十九度もあるよ」
 表面上は眉一つ動かしてないが、実はかなりびっくりしている。表に出せないだけだ。
「綾音お姉ちゃん、救急車すぐ来てくれるって」
「ありがとう。…晶良さん、起き上がれますか?」
 黙って少しだけ首を横に振る。首を動かすだけでも辛いのに、起き上がるなんてとんでもない。
「困ったわ…」
「大丈夫よ、救急車まで連れってくれるだろうから」
「…そうね。晶良さん、もう少し我慢しててくださいね」
 何となくではあるが周りの音がフィルターか何かを通して聞いているような、そんな聞こえ方になってきた。しかも音量がどんどん小さくなっていく。そして最後には何も聞こえなくなった。


 目を覚ますと真っ白い天井が見えた。周りも白とアイボリーの壁で囲まれている。ふと横を見ると深雪ちゃんが座っている。
「あ、お兄ちゃん、起こしちゃった?」
 どうやらリンゴの皮をむいていてくれたようだ。それにしてもここは…
「具合はどう?まだ頭痛い?」
「…いや、ずいぶん良くなったみたいだけど…ここは?」
「杉原病院。昨日の夜に救急車で運んでもらったの。綾音お姉ちゃんと泉水お姉ちゃんはお兄ちゃんの分の着替え取りに行ってるから、もうちょっとしたら来るよ」
 そうか、昨日の夜急に頭痛がひどくなって、それで運ばれたのか。でも救急車に乗った記憶なんて全然無いな。
「だってお兄ちゃん、救急車が来たときにはもう気を失ってたみたいだったよ。呼んでも全然返事も無かったし」
「そうだったの?…そうか、そんなにひどかったのか」
 今も少し頭痛は残っているが、夕べよりはひどくない。体のだるさはほとんど取れているようだ。
「心配かけたね、ゴメン」
「ううん、それより早く良くなってね。綾音お姉ちゃん心配で全然眠れなかったんだよ」
「……そうだったんだ」
 こりゃあ本格的に悪いことしちゃったな。後で謝らなきゃ。

「あら、目が覚めたみたいね」
 突然ドアの方から声がした。声の主を見ると…
「良かったわね、深雪ちゃん」
「はい、具合も少し良くなったみたいですよ」
 妖艶な雰囲気を漂わせたアダルトな美女だ。綾音さんとはまた違った意味での美人だな。
「それにしてもびっくりしたわよ。最初婦人科の方に連れて行こうかと思ったら…」
「………よく言われます」
 病院によっては服を脱いだとたんに看護婦がわざわざ胸を見に来る事もある。男の胸なんか見ても面白くも何ともなかろうに。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は水野裕子。ここの医師よ。あと深雪ちゃんたちの主治医もしてるから」

 そうだったのか、それじゃこの人が綾音さん達の係り付けの医者って事になるんだろう。 こんなきれいな人に診察してもらえるんなら入院も悪くないかな。…この退屈さだけはどうも我慢できないけど。
「そんな事言う元気があるなら一安心ね。まあそれはいいとして体温計らせてちょうだい。夕べここに運ばれてきたときは四十一度あったのよ」
「四十一度?」
「一晩で良くここまで持ち直したわ。でもとりあえず今日と明日くらい入院していきなさい。色々あって疲れてるんでしょうしね」
 多分そうだろうな。でもいくら疲れてるにしても四十度台の熱を出すなんて…
「精神的なショックってのは馬鹿にならないわよ。結構身体に大きな作用をもたらす事もあるんだから」
 なるほど、それで大事を取って入院ってわけか。

 しばらくしてもう一人の医師が入ってきた。良く知った顔だ。
「杉原先生?」
「やっぱり君だったか。古門晶良っていう人が入院したって聞いてね」
「どうしてここに?大学病院は?」
「あれ?言わなかったか?医局を抜けて今月から実家を手伝う事になったんだ」
 そうか、やっぱりここは杉原先生の実家だったんだ。
「さてと、それはいいけどとりあえず今日のうちに精密検査を済ませてしまわないとね」
「精密検査?いいじゃないですかそんなの」
「まあたいした事はないだろうけど、念の為にね」
 そうだな。どうせただの風邪なんだろうけど、ひょっとしたら何かの病気かも…

 急激に頭から血の気がひいた。そうだ、思い出した。これってあの黒沢さんの症状とほとんど同じじゃないか。
 突然の高熱と激しい頭痛。単なる偶然かもしれないが、ひょっとしたらという事もある。
「まあ今すぐじゃなくてもいい。もうすぐ昼だし、昼を食べてからにしよう」
 杉原先生たちは出ていった。残されたのは俺と深雪ちゃんだけだ。
 体が震えている。寒いわけじゃない。恐いんだ。黒沢さんのあの姿がありありと思い出されてしまう。あまりにもおぞましく、出来るだけ忘れようとしていたあの姿が鮮明に蘇えってくる。
「お、お兄ちゃん、大丈夫?」
「…あ、ああ、大丈夫だよ」
 何てことだ。もし俺が黒沢さんと同じ病気だとすると……何も手立てが無いまま全身が腐って死んでいくのか? 「お兄ちゃん、顔色が……看護婦さん呼んでくるね」
「ま、待って深雪ちゃん!」

 今一人にされたら恐怖で気が狂いそうだ。情けない話だが今は深雪ちゃんにすがっているしかない。
 綾音さんはまだ帰ってこないのか?泉水は?そう考えているうちにも震えはどんどん大きくなってくる。その内自分でも押さえ切れないほどひどくなる。
「お兄ちゃん、しっかりして!」
 見かねた深雪ちゃんがナースコールを押してくれたようだ。すぐに数人の看護婦が駆けつけてくる。にわかに杉原病院は慌ただしくなった。

 精密検査はすぐに行われた。が、その結果は意外なものだった。
「インフルエンザね」
「……インフルエンザ?」
「そう。ちょうど今流行してるのよ。予防接種してないでしょ?」
「してないです」
「間違いなくインフルエンザよ。ウイルスが検出されたから。でも心配ないわ、しばらく安静にしてれば治る程度のものよ」
 そうか、インフルエンザだったのか。良かった。
「薬もちゃんと出すから、入院してる間くらいは安静にするのよ」
「わかりました。それじゃ失礼します」
 診察室を出てのんびりと病室へと向かう。
 ただのインフルエンザだと解っただけでもずいぶん気が楽になる。水野先生の話だと、きちんと薬を飲んで安静にしていれば二日程度で退院できるらしい。これでも大事を取って長めの入院だという。

 病室へ戻ると綾音さんが迎えてくれた。
「どうでした?」
「インフルエンザだって。心配ないって言ってたよ。明後日くらいには退院できるって」
「そうですか、よかったぁ」
 実にほっとした顔つきだ。心配させたんだろうな。よく見ると少し目が赤い。まさか泣いてたのか?
「いいえ、そんな事ありませんよ。ちょっと目にごみが入っただけです」
「ほんとに?」
「…ちょ、ちょっと泣いちゃいましたけど…」
「…ごめん、心配かけて。それより綾音さん、綾音さんも伝染らないように気をつけてね。ものすごい頭痛がするから」
「ええ、気をつけます」
 病名が分かるのと解らないのでは不安さが全然違う。まして目の前で原因不明の奇病で死んだ人間がいるとなるとなおさらだ。まあ明後日の退院だったら今日と明日の二日間我慢すればいいんだ。ちょっとの間大人しくしてるか。

「晶良さん、一人で大丈夫ですか?」
「え?」
「あの…病院で一人で、心細くないですか?」
「い、いや別に…」
「私、今日と明日ここに泊まりましょうか?何だか心配ですから…」
 とんでもない!そんなことしたら綾音さんに身の危険が…あ、危険なのは俺がいるからなのか。個室だから鍵かけるなりして、俺が大人しくしてりゃそれでいいんだ。
「……いいよ、大丈夫。二日くらいだったら何ともないよ」
 でもここは断っておこう。これ以上綾音さんの手を煩わせるわけには行かない。
「心配しないで。何かあったら看護婦さん呼べばいいんだし」
「……だから心配なんですよ…」
「え?何か言った?」
「いいえ。…解りました、それじゃあ今日は晩御飯まで一緒にいますね。明日も朝からきますから」


 久しぶりに外に出る事が出来た。空気が冷たいが、病院の中の消毒され切った雰囲気よりも肌に合ってる。
「お兄ちゃん、寒くない?」
「ああ、大丈夫。深雪ちゃんは?」
「私も大丈夫だよ。結構重ね着してるから」
 ようやく退院できた。まあたった二日とはいえ、暇な入院生活は拷問にも似ている。なにしろ何もする事がない。
ただひたすら寝ているだけという、俺にとっては耐え難い生活だった。
 しかし、それからもようやく解放された。おまけにこうして深雪ちゃんが迎えに来てくれている。天気もいい。いやぁ、まさしく退院日和だ。
「しかし悪いね、わざわざ来てもらって」
「ううん。ほんとは綾音お姉ちゃんが来たかったみたいだけど、今日はお仕事に行かなきゃいけない日だったから」
 そうか、綾音さん今日は会社に行ってるんだ。
「泉水は?」
「泉水お姉ちゃんは図書館で友達と待ち合わせしてるんだって」
 なるほど、それでただ一人暇な深雪ちゃんがこうしてきてくれたってわけか。ありがたい事だ。

 病院のすぐ前からタクシーに乗って家へ向かう。その間、どういうわけか深雪ちゃんは俯いて黙ったままだ。表情も暗い。何かあったのかな?
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「…………やっぱりいい、家に帰ってから話すね」
 この子にしては珍しく含みのある言い方だ。何か言いにくい事なのか。まあこの子ももう十五歳だ。何か言いづらい事の一つや二つや三つや四つ、あっても全然不思議じゃない。
むしろあった方が自然といえるだろう。いつまでも子供のままじゃないんだ。
 家の庭には雪が積もっている。二日間ずっと雪だったからそれもしょうがないな。滑らないように気をつけて玄関までたどり着いた。たった二日だが、ずいぶん久しぶりに帰って来たような気がする。
「お兄ちゃん、あとで私の部屋に来てくれる?」
 荷物をとりあえず茶の間において、まるで思い詰めたような顔で深雪ちゃんが呟いた。今にも泣き出しそうな表情だ。
「いいよ。何だったら今からでもいいけど」

 深雪ちゃんの部屋に入るのは久しぶりかもしれない。普段は茶の間で話をしてるし、こうして部屋に入る機会自体が少ないからね。
「…入って」
 俺が入ると、どういう訳か深雪ちゃんが内側から鍵をかけた。どうしたんだろう…
「お兄ちゃん、今から話す事誰にも言わないでね」
「綾音さんや泉水にも?」
「……うん…」
「わかった、誰にも話さないよ」
 かわいらしいクッションのすぐ近くに腰を下ろす。深雪ちゃんはベッドに腰掛けた。
 しばらくは沈黙が続いた。時間にして五分くらい。そしてようやく深雪ちゃんの口が開いた。

「私…本当は見てたの……」
「見てた…って何を?」
「………伯父さんと伯母さんが…殺されるところ…」
 ……何?親父と母さんが…?
「深雪ちゃん、それ……」
「ごめんなさい…私……私…何にも出来なかった…」
 はっと気が付いた。
 そうか、それでずっと表情の中に暗いところが残ってたんだ。犯人が親父と母さんを殺すところに居合わせて、何も出来なかった自分を責めてたんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい…」
「…いいんだ、いいんだよ深雪ちゃん。そんなに自分を責めちゃだめだ」
「……でも…」
「深雪ちゃんは悪くない。…かわいそうに、恐かったんだね?」
 小さくこくり、とうなずく。両目からはぽろぽろと涙があふれている。
「深雪ちゃんは…悪くないよ」
 もう一度繰り返して優しく抱きしめる。そのとたん、堰を切ったように声を上げて泣き出した。

 可哀相に、よほど恐かったんだろう。よほど自分を責めていたんだろう。
 考えてみればこの子はまだ中学生だ。俺だって殺人事件の現場に居合わせたりしたら恐くて何も出来ないだろう。それがこんなに非力で小柄な女の子だったらなおさらだ。誰も深雪ちゃんを責められやしない。その場に居合わせてこうして今生きてる事自体、誉めてもいいくらいだ。
「今は好きなだけ泣いていいよ。綾音さんも泉水もいないから」
 返事はない。その代わり、とばかりにしゃくりあげながら泣きつづけた。

 落ち着きを取り戻したのはたっぷり三十分ほど泣いた後だった。ずっと頭を撫でていたので、さすがに腕が疲れた。
「…あの日、図書館で借りた本を読んでたら夜遅くなって…」
「それで物音を聞いた…と?」
「…うん。それで音が聞こえた方に行ったら伯父さん達の部屋だったの。それで中を見たら……その………」
「無理して話さなくていいよ。覚えてるところで、話せそうな部分だけでいい」
「…伯父さんが血まみれになって倒れてたの。伯母さんは…何かに胸を刺されてた…」
 小刻みに膝が震えている。思い出すだけでも恐い光景だったんだろうな。
「犯人は見たの?」
「……うん…」
「今の話は警察にした?」
「…してない」
「じゃどうして俺に?」
「お兄ちゃんだったら…信じてくれそうだから」
 信じてくれそうって、それじゃ信じられないようなものでも見たのかな?
「…続けて」
「……私、ずっとドアの後ろに隠れて見てたんだけど……見た事もないようなものが立ってた。こう…まるで鬼みたいなのが……」

 鬼…か、そりゃあ確かに警察に話しても「一時的な錯乱」で片づけられるだろうな。
 でも今は俺の事を信用して話してくれてるんだ。それにこの子はこういう状況で悪質な嘘なんか絶対に言う子じゃない。
 信じよう。この子が話してるのは全部真実だ。
「どうして鬼だって思ったの?」
「…角みたいなのが生えてたから……伯母さんを刺してたのは指みたいだった。それで、その指から何か外して外に投げたところまでは見たけど…その後は分からない」
「……ありがとう、よく話してくれたね」
「私…役に立った?」
「ああ、すごく役に立ったよ。よくやった、よく頑張ったよ」
 少なくとも警察だって何も解ってないみたいだ。ひょっとしたら何か手がかりを掴んでいてそれを隠してるだけかもしれない。が、どちらにせよあんまり当てには出来ないな。何しろ警察は俺の事も疑ってるんだから。
「深雪ちゃん、それだけきちんと見て覚えてたんだ。それだけでもすごい事だよ。だからもう自分を責めちゃだめだ。いいね?」
「…うん」
「母さんだって深雪ちゃんがいつまでも自分を責めてたりしたら安心できないだろ?」
「…うん、そうだね」

 よかった、ようやく笑ってくれた。やっぱりこの子は思い詰めた顔より笑った顔の方がよく似合う。
 日も完全に沈んだ頃、綾音さんと泉水が帰ってきた。何とかそれまでには深雪ちゃんもいつもの調子を取り戻していたようだ。ここでこの二人(特に泉水)に半泣きの顔の深雪ちゃんを見られようものなら何をされるか解ったもんじゃない。よくて晩飯抜きだろう。悪くて…出来ればこれは考えたくないな。


 退院から一週間ほどたった頃、時期外れな弔問客が訪れた。なんと女バーテンダーの石川さんだ。どうやってここが解ったんだろう…
「いや、真理ちゃんの事とか色々あったから…それで教授さんが店に来てあなたの事とか真理ちゃんの事とか色々教えてくれたのよ。それでね」
 なるほど、教授もあの店の常連だったのか。
「全然関わりはなかったけど、何となく気になっちゃって…お焼香させてくれる?」
「どうぞどうぞ、美人に焼香してもらえるんだから親父も喜びますよ」
 彼女が仏壇の前にいる間、泉水に「誰なの、あの人」と詰め寄られて説明するのに一苦労だった。まあ最後には納得してもらえたみたいだからいいけどね。
「寂しくなったわ、お店の常連が二人も減っちゃったから。特に真理ちゃんは週に一回は来てくれてたのに…」
「そうですね。カクテルの類が大好きだったから」
「入院してる間に一回お見舞いに行ったのよ。その時は結構元気だったんだけどね。新しく買ったって言う指輪も見せてくれたりして」

「指輪?」
「あれ?見たことなかった?真珠石って言う珍しい石が乗ってたのよ。彼氏が出来たから今度は指輪自分で買うんじゃなくて買ってもらうんだって言ってたけど…」

 真珠石の指輪…?まさか…
「それって珍しいんですか?」
「ええ、少なくとも私はその時初めて見たわね。客商売だからいろいろな人を見るけど、その指輪してる人に会った事もないし」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 あわてて警察にもらった例の指輪の写真を取ってきた。まさかとは思うが…
「その指輪ってこれじゃないですか?」
「……そうそう。これよ、この指輪。どうしてこの写真持ってるの?」
「間違いないですか?よーく見て下さい」
「ええ、間違いないわよ。台が銀で、裏側に店の名前が彫ってるやつでしょ?うん、これに間違いない」
 しきりにうんうんと肯く。どうやらこれに間違いなさそうだ。そう言えば黒沢さんが旅行に行ったのは…大浜というところだった。
 それじゃこの指輪は黒沢さんがしていたものなのか?でもどうしてこれがこの家に…?
「そう言えば真理ちゃん、一回病院からいなくなったんでしょ?あれってどこに行ってたのかしら?」
「いなくなった…」

 そう言えば彼女がいなくなったのは俺が実家から帰ったその日か前日の夜。親父が死んだのもその日の真夜中。そしてこの家には黒沢さんの指輪が落ちていた。
 おまけに深雪ちゃんの目撃では「犯人が何かを指から外して投げた」とある。まさか…
 いや、そんな訳ないじゃないか。どうやったら自分で動けない黒沢さんが電車もない時間帯にここまで来れるんだ。それに深雪ちゃんが見たというのは「鬼みたいな」やつだ。いくら状況証拠が揃ってても黒沢さんが犯人な訳ないよ。
「さてと古門君、もしまた東京に来る事があったら店によってね。一杯くらいならサービスするから」
「あれ?もう帰るんですか?」
「夕方からまた店に出なきゃ行けないのよ。ゴメンね、突然」
「いえ、ありがとうございました」
 ひょっとしたら居辛かったのかもしれない。そそくさと帰ってしまった。でも意外な話を聞けたな。まさか黒沢さんがあの指輪と同じ物を持ってたなんて。

「お兄ちゃん、あの人帰っちゃったの?」
「ん?ああ、夕方から仕事なんだって」
 ふーん、という顔をする。何となくこちらを見る視線が気になるな。
「…お兄ちゃん、あの人お兄ちゃんとどういう…」
「飲み屋のバーテンさん。ただそれだけだよ」
「本当に?」
「う、うん、本当に。…どうしたの?何か気になる事でも?」
「…ううん、彼女じゃないんだね?」
「違うよ。俺には彼女とかいないんだから」
「……それならいいんだ」

 なんだよ、どうしてそんな事を…深雪ちゃんも最近ずいぶんと含みのある言い方をするようになったじゃないか。

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