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Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



約束


第六章

思い出と悪夢


 真っ暗な中に何かが蠢いている。何かは解らない。だが、「それ」は確かにそこにいる。こちらを見ている。

「…黒沢さん?どうして?どうしてこんなところに…」
 顔が見えた。やせ細る前の黒沢さんだ。でも彼女は死んだはず…そうか、これは夢なんだ。夢じゃなきゃここに彼女がいるはずがない。
「え?ごめんなさい?…なにが?どうして黒沢さんが俺に謝るの?」
 声は聞こえない。だが何かが頭の中に直接働きかけてきている。もしもテレパシーとか言うものが実際にあるのだとしたらこんな感じだろう。
「…俺の親のこと?…俺の親が何かしたの?」
 黒沢さんの口は動いていない。ただ悲しそうな目でこちらを見ていた。
「黒沢さん、どうして俺に…」

 突然視界が開けた。ふと横を見ると泉水が座っている。…そうか、目を覚ましたんだな。
「晶良…」
「よう…また入院したみたいだな」
 できるだけいつも通り振る舞ったつもりだ。寝起きであんまり頭がはっきりしてないが、それでも結構普段に近いやり取りなんじゃないかな。
 ゆっくりと上体を起こす。不思議と体は軽い。枕を腰の後ろに当てて座る。
「晶良…晶良……」
「…何だよ、どうしたんだ?」
 次第に泉水の顔がくしゃくしゃになっていき、大きな目から一気に涙が零れた。静かな病院に泉水の泣き声が響く。
「お、おい泉水」
 慌てて肩をゆするが、ただ泣きつづけるだけで何も会話が出来そうにない。どうしたんだ?どうしてこいつがこんなに泣いてるんだ?

 ドアが開いた。多分泉水の泣き声を聞きつけたんだろう。綾音さんと水野先生が入ってくる。その後ろから申し訳なさそうに深雪ちゃんも。
「よかった、ようやく目が覚めたのね」
「ようやく…?」
「晶良さん、あれから四日もずっと目を覚まさなかったんです」
「よ、四日ぁ?」
 そんなに寝てたのか?それじゃ今日は十二月十日…って、こんな事はどうでもいいんだ。それより泉水を何とかしないと。
「綾音さん、泉水どうしたの?」
「…何度も言って聞かせたんですけど…」

 いまだに落ち着かない泉水の代わりに綾音さんが説明してくれた。何でもこいつは俺が倒れた原因は泉水が俺の頭を叩いたことにある、と勘違いしたのだそうだ。しかも今回は俺が全然目を覚まさない。それで心配してたんだ、という。
「何だよ、あんな軽いツッコミで入院するわけないだろ?気にするなよ」
「だって…だって晶良、全然目を覚まさないし、それに…」
 それに?それに何だ?

 ふと泉水の頭を撫でた腕を見ると、やけに細い。血管が浮き出ていて、筋肉の筋もよく見える。おかしいな、俺こんなに痩せてたっけ?
 気になって自分の胸を見てみた。
「な…何だこりゃ…」
 肋骨が浮き出ている。おかしいぞ、四日前まではこんなに痩せてなかったはず。それにたったの四日間でここまで痩せるなんて…
「色々精密検査もしてみたわ。でも少なくともガンじゃない。ただ…インシュリン値が異常に高くなってるのよ。今点滴してるのはブドウ糖だから安心して」
「インシュリン……」
「副腎皮質から分泌されるホルモンの一つよ。血糖値をコントロールするんだけど…どういう訳かそれのバランスが崩れたみたいね。それにほかのホルモンもかなり異常が見られるわ」

 話によると、脳から分泌されるホルモンのうち、骨と筋肉の成長を促すホルモンが通常の十五倍、インシュリンは六倍に増えていると言う。
「それってひどいことなんですか?」
「ええ、十分すぎるくらいね。普通これだけホルモンのバランスが崩れれば…」
「崩れれば…?」
「死ぬわよ」
 ずいぶんとあっさり言ってくれる。おかげでせっかく目を覚ましたのにまた少しだけ気が遠くなった。


 部屋の中には俺と綾音さんの二人だけしかいない。泉水と深雪ちゃんは雪が降ってきたので早めに帰った。綾音さんはというと…
「本当に大丈夫だって。それより綾音さんも早く帰らないと…」
「だから今日は帰らないって言ってるじゃないですか。今日はここに泊まります。そのつもりでちゃんとパジャマも持って来たんですから」
 と言って一歩も譲ってくれそうにない。

 どういう訳か俺の身体の状態は非常に落ち着いていた。普通の人なら死んでいるだけの状況にありながら、なぜか自分で感じる分には全く異常がない。それどころかいつもより調子がいいくらいだ。
「やっぱり心配です。水野先生も『どうして今生きてるのか不思議だ』って言ってましたし、それにいつ何があるか解りませんから…」
「でも本当に何ともないんだ。今は頭も痛くないし、体も全然だるくない」
「でも……」

 こりゃあ一歩も譲ってくれそうにないな。綾音さんも変なところで頑固なんだから。もう既にパジャマに着替えて付き添い用の布団の用意もしてある。これじゃ帰れって言っても無駄だな。
「…後で看護婦さんに布団もう一枚借りよう。いくら暖房が効いてるって言ってもこれだけじゃ風邪ひいちゃうよ」
「はい、そうします。…それと晶良さん……」
「ん?なに?」
「………本当に…良かったんですか?」
「何が?」
「私たちと一緒に暮らす事です。もし…もし晶良さんの病気が私たちと一緒に暮らすストレスのせいなら…」
「そんな訳ないよ!俺だってずっと前から一緒に住む事は考えてたんだし、それに…」
「…それに…?」

 この後は「綾音さんと暮らすのがずっと楽しみだった」と続くのだが、これは今は言わないでおこう。
「そ、それに一緒にいるとすごく居心地がいいんだ。ストレスなんて前の方がひどかったくらいだ」
「…本当なんですか?」
「本当だよ。だからその事は心配しないで」
 一つ大きなため息。その直後頬を涙が伝って落ちた。
「あ、綾音さん…?」
「………あ…あきらさん…」

 いきなりパジャマ姿の綾音さんが抱き付いてきた。そのまま声を殺して震えて泣いてしまった。
 最初のうちは声を殺して、出来るだけ声を出さないようにしていた。それでも次第に口から声が漏れて、終いには泉水のように声を上げるようになった。
 声を上げて泣く綾音さんを見るのはこれが二度目だ。
 彼女は妹達の前では絶対に声を上げて泣かなかった。いついかなる時でも「古門家の長女」という重圧にさらされて、それこそ俺なんかでは想像も付かないような辛い思いもたくさんしてきたんだろう。旧家の長女としての重過ぎる責任を背負っても、それでもこの人は俺や泉水、それに深雪ちゃんには「甘すぎるんじゃないか」と思えるくらい優しくしてくれた。
 多分綾音さんは優しすぎるんだろう。もしも俺が「寒い」と一言でも言おうものなら、自分が震えていても上着を貸してくれる。そんな人だ。自分が凍える思いをしてでも、人にぬくもりを分け与えようとしてしまう。その結果一人で寒さに凍えて、人に気づかれないように泣いていたんだ。

「…綾音さん……辛かったんだね…」
 昔綾音さんが俺にしてくれたように、優しく両手で抱きしめる。柔らかさと暖かさが腕だけじゃなく俺の身体全体に広がっていく。
 これが俺が昔から甘えていた綾音さんなんだ。いつも優しくて、俺の心配ばっかりして、時には大ボケかましたりもするけど、それでもやっぱり暖かい綾音さん。ずっと俺にとっては「優しいお姉さん」だった綾音さんだけど、彼女だって人間だ。たまには泣きたい時だってあるだろう。それなら今くらいは好きなだけ泣かせてあげたい。
「私……」
 まるで呟くような声で綾音さんが口を開いた。涙声だ。
「私…伯父様と伯母様を失って……今度また晶良さんまで失うのかと思うと……」
「…………」
「死なないで…お願いです、死なないで下さい…晶良さんが死んだら私………どうやって生きて行けばいいか…」
「死なないよ。絶対に死なない。俺の身体がどうなってるのか解らないけど、絶対に生き延びてみせる。病気なんかに負けるほどやわな身体じゃない。……綾音さん達を残して死ぬわけないじゃないか。…大丈夫、必ず生きるよ」
 腕の中の小さ目の頭が肯いた。
 絶対に死ねない。綾音さんがこんなに俺の事を必要としてるんだ。死ぬわけには行かない。何としてでも生き延びなきゃ。
「……今日はもう寝よう。ね?」
「…はい」

 消灯は午後九時半。とてもじゃないが眠れる時間じゃない。が、無情にも電気が消されてしまった。
 すぐ隣、腕を伸ばせば届く距離に綾音さんがいる。身体が何ともなければ理性が吹っ飛んでただろう。結果論だけどこういう状況で良かったのかもしれないな。
「晶良さん…起きてますか?」
「うん、起きてるよ」
「…寒くありませんか?」
「大丈夫。暖かいよ。何だったらこっちに来る?」
 冗談のつもりだった。が、何と綾音さんが枕を持って俺のベッドの中に潜り込んできた。すぐ側に彼女の顔がある。ほとんど息がかかるくらいの距離だ。
「本当…暖かいですね」
「あ、綾音さん…」
「今日は…久しぶりに一緒に寝ませんか?昔みたいに…

 予想もしなかった事態になってしまった。いくらなんでもこんな風に同じベッドで寝るなんてことは…八年ぶりくらいかな。一回だけ綾音さんと一緒に風呂に入った事もある。まあ何分昔の事なので全然覚えてないけど。
「晶良さん」
「なに?」
「……いつの間にこんなに大きくなったんでしょうね」
「へ?」
「昔は背も私の方が高かったのに…」
 俺の身長が綾音さんを追い越したのは俺が中学一年のとき。綾音さんは当時高校一年生で、美人にますます磨きがかかってきてた。
 考えてみれば綾音さんとの思い出ってのも結構あるな。たいていは俺と泉水が何かやらかして綾音さんに叱られる、っていうパターンだったけど、それ以外のものもたくさんある。泉水達が知らないようなものも。
「晶良さん、覚えてますか?晶良さんが中学校で修学旅行に行ったときに…」
 ああ、あの話か。

 俺の中学生の頃の修学旅行は何と実家周辺だった。つまり今住んでるところに修学旅行に来たのだ。面白くも何ともない。おまけに当時は自由行動がほとんど認められてなかったせいか、みんなでぞろぞろとバスガイドさんの後ろを着いて回るだけのものだった。
「覚えてるよ。たまたま綾音さんと会ったときの事でしょ?」
 その途中、何と学校帰りの綾音さんとばったり会ってしまった。当時の館立女子高の制服は今と違いセーラー服だった。そんな目立たない服装でもやっぱりきれいな人は目立ってしまうものなんだな。旅館に着いてから友達に「あの人誰なんだよ、お前に手振ってただろ?」と質問攻めにされたっけ。
「あれ…本当は晶良さんのこと待ち伏せしてたんです」
「待ち伏せ?それじゃ俺があの辺通るって知ってたの?」
「いえ、知ってたわけじゃないんです。帰る途中でたまたま晶良さんの学校の人たちがいて、そこで待ってたら晶良さんが来るんじゃないかって…それにあそこは観光の名所でしたから」
 なるほど、そういう訳だったんだ。どうりで。
「ちょうどあの頃ですよね、晶良さんの背が私より高くなったの」
「うん、大体それくらいかな」
「…最初はちょっと悔しかったんです。でもすぐに嬉しくなりました」
「なんで?」
「………何となくです。どうしてかは解りませんけど…」

 そう言えばその頃からちょくちょく綾音さんに誘われて一緒に買い物に行ったりしたんだよな。並んで歩いてて結構いい気分だった。従姉妹のお姉さんとはいえ、きれいな人と一緒に街を歩けるのはいいものだ。
「あと…晶良さんが高校一年生の頃に……ほら、夏祭の日に」
「あ、あれは…その…ちょっとした偶然で…」
 まずいなぁ、あんな事まで覚えてるんだ。
 高校一年の頃、つまり綾音さんが大学一年生のころ、夏休みを使って遊びに来ていた。そのとき近くで夏祭があってて、それに四人で行こうという話になった。で、綾音さん達三人は浴衣に着替えていくという事になったんだけど、結果的に俺が綾音さんの着替えを覗いてしまったのだ。
 いや、別に悪意があったわけじゃない。本当に「偶然」なんだ。
 その時俺が泊まってた部屋が今の俺の部屋、つまり綾音さんの隣の部屋で、ドアの形も何から何まで一緒だった。おまけに廊下に幾つかの部屋のドアが並んでたんで、慣れてない俺にとってはどれがどの部屋のドアかがわかりにくかった。
 まあここまで言えば大体は解ってくれるだろう。何の気なしにドアを開けたら、その向こうに下着姿の綾音さんが立ってた、というわけだ。
「本当に偶然だったんだ。俺の部屋と間違えて…」
「…本当ですか?」
「本当だってば、絶対に覗こうなんてつもりで開けたわけじゃ…」
 その割にはその時着けてた綾音さんの下着の色まではっきり覚えてる。インパクトが強かったせいかな。

「あの時まで…私にとって晶良さんは「頼りになる弟」だったんですけど…」
「だった…って、それじゃ今は違うの?」
「…少し違います。普段はやっぱり「頼りになる弟」なんです。でも……何となく晶良さんの視線が恥ずかしくなったんです」
 それじゃ普段じゃないときはどうなるんだろう?例えば今みたいな状況じゃ…?
「晶良さん」
「は、はい?」
「…もっと私に甘えてください」
「……え?」
「…うちは女の子ばっかりでしょ?だから初めて晶良さんが家に来たときすごく嬉しかったんです。ずっと弟が欲しいって思ってましたから。もう晶良さんが可愛くて可愛くて仕方なかったんですよ。それに昔の晶良さん、よく私に甘えてきてくれましたよね」
「ま、まあね。時々は…」
 本当は時々なんてもんじゃない。よく宿題を手伝ってもらったり、おやつを作ってもらったりと本当に世話になった。でもそれも中学生の頃までだ。高校になるとどうしても綾音さんの事を「お姉さん」じゃなくて「きれいな女性」として見てしまう。今でもそうだ。そのせいで少しよそよそしくしてた時期もある。
「私は…今でも晶良さんに甘えて欲しい……ほかの男の人だと嫌ですけど、晶良さんにはもっとわがままを言って欲しいんです」
「で、でも………」
「晶良さんが大人になるたびに…恐かったんです。私の晶良さんがどこか遠い、手が届かないところに行っちゃいそうで…」

 まただ。また「私の」晶良さんっていうのが出てきた。どういう意味で言ってるんだろう。もしも俺が期待した通りの意味だとしたら…
 いや、これを考えるのは止めよう。この人は俺の従姉なんだ。綾音さんはあくまでも俺の「お姉さん」なんだ。綾音さんだって俺の事は弟みたいに思ってるはずなんだ。
 でも「ほかの男だと嫌だけど、俺はいい」って言ってくれてるし、それに何度も「私の晶良さん」っていうのが繰り返し出てくるところを見ると…ある程度は期待してもいいのかな。
「…少し……寒いですね」
「え?大丈夫なの?」
「…寒い……晶良さん…」
 訴えるような目で俺を見てる。そんな目で見られたら…
 いくら俺でも我慢には限界がある。…でもいざというときは理性を総動員させよう。
「晶良さん…私…」
「え?ちょ、ちょっと…」
「私を…暖めて……」
 布団の中でもぞもぞ動いたかと思うと、やせ細った俺の身体に抱き着いてきた。まだ骨と皮という段階じゃないが、前とは比べ物にならないくらいだ。しかし、それでもどういう訳か身体は温かい。熱を帯びてるといった方がいいかもしれない。
「あ……暖かいです…」
「綾音さん…」
「昔は…私が晶良さんにこうしてたのに…いつのまに大きくなっちゃったんでしょうね」

 いつもより温かい体に綾音さんの少しだけひんやりとした感触が伝わる。
「私、最近不思議な感じがするんです」
「…どんな?」
「まるでずっと昔から晶良さんを知ってるような…そんな気がするんです」
「そりゃそうでしょ。かれこれ十年以上の付き合いなんだから」
「そうじゃないんです。まるで…ずっと昔から晶良さんの事探してたような…」
 探してた?少なくとも小学三年生から迷子になった事なんてないぞ。
「晶良さんが初めて家に来てくれたときに…初めて見たときに『見つけた』って思ったんです。…変ですよね、私って」
 初めて会ったのに「見つけた」?…確かに変だな。デジャブ現象とか言うのかもしれない。…やっぱり綾音さんも疲れが残ってるのかな。
「それに…最近変な夢を見るんです。それも同じ内容のを何度も」
「変ってどんな?」
「小さい頃の晶良さんがいて……一人でうずくまって泣いてるんです」
 俺が…泣いてる?
「どこで?どんなところで泣いてるの?」
「どこかは解らないんです。ただ、森の中みたいなところで…」


 …あっちゃん、どうしたの?どうして泣いてるの?
「…………」
 あっちゃん、何がそんなに悲しいの?…良かったらお姉ちゃんに話してみて。
「…恐いよぉ」
 恐い…?どうして?誰かがいじめるの?
「追いかけてきてる…」
 追いかけてきてる…誰が?
「綾音姉ちゃん…綾音姉ちゃんの後ろからも来てる!」
 …誰も来てないよ。ほら、大丈夫だからお姉ちゃんと一緒に帰ろ。泉水も深雪も待ってるから、帰って一緒におやつ食べよう。
「やだ!恐いよ!」
 ……大丈夫。誰が来てもお姉ちゃんが守ってあげるから。
「…ほんとに?」
 お姉ちゃんがあっちゃんに嘘ついた事、一回でもあった?
「……ない…」
 ね?…大丈夫。何があってもお姉ちゃんが守ってあげる。あっちゃんの事、絶対に守ってあげるから。だからほら、もう泣かないで。男の子でしょ?
「…約束してくれる?」
 うん。それじゃ指切りしよ。……お姉ちゃんとあっちゃんの内緒の約束ね。あっちゃんが恐がるような事、絶対誰にもさせないから。


「必ずここで目が覚めるんです」

 確かに変な夢だな。実際にはそんなシチュエーションになった事なんて一度もない。しかもそれと同じ内容の夢を何度も見るなんて…
「最近になって見るようになったの?」
「いえ、昔からちょくちょく見てたんです。でも伯父様が亡くなられてから…最近は毎日のようにこの夢なんです。だから何か起こるんじゃないかと思って……」
 まあ確かにその予感は当たってる。実際起こりすぎるくらい色々起こってるわけだから、外れてはいないな。でもいちいち夢の事なんて気にしてたら眠れなくなってしまう。気にしないのが一番だ。
「綾音さん、今日はもう寝よう。いつまでも起きてたら看護婦さんに怒られるよ」
 こうして綾音さんと一緒にベッドの中にいる、という状況で見つかっても充分怒られそうなもんだな。
「退院したら…元気になって退院したら……」
「退院したら?」
「……とにかく今は元気になる事を考えてください。早く退院して、また一緒に暮らしましょう」
「……そうだね」
「今日はこのまま寝させてください。すごく暖かい…」
 杉原病院の335号室から話し声が消えたのは午後十時半だった。


「ちょ、ちょっと晶良何よこの部屋!」
 ドアを開けて入ってきた泉水と深雪ちゃんが驚いたような声を上げる。
「綾姉は?」
「たぶんトイレじゃないかな。で、この部屋がどうかした?」
「どうかした…って、あんた寒くないの?」
「いや、全然」
 なんだよ、確かに窓を開けてはいるけどちょうどいいぞ。さっきまで暑くて暑くて仕方なかったんだ。かといって綾音さんは窓開けてくれないし、でもあんまりにも暑くて気分が悪くなりそうだ。
「という訳で今は空気の入れ替え中。寒いか?」
「寒いなんてもんじゃないよ。早く窓閉めなきゃ。深雪、そっちの窓閉めて」
「うん」
 あーあ、閉めちゃったよこいつら。全く、人がせっかく冷たい空気を満喫してたってのに…これでまた暑くなっちゃうな。
「それどころじゃないよ。こんな寒いままにしてたらお兄ちゃんまた風邪ひいちゃうよ」
「そんなに寒い?」
「…お兄ちゃんまさか……」
 深雪ちゃんが小さな手を俺の額に当てる。何だ、ずいぶん外は寒かったんだな。手のひらが冷え切ってる。
「い、泉水お姉ちゃん!看護婦さん呼んできて!」
「え?どうしたの?」
「ひどい熱があるの!早く!」
 あれ?…熱?
「お兄ちゃん、どうしてこんなになるまで黙ってたの?綾音お姉ちゃんに言わなかったの?」
「え?だ、だって何ともないよ」
「すごい熱だよ。自分で気づかないの?」
 気付くも何も、とにかく今の体調は良すぎて恐いくらいなんだ。熱があるなんて感じなかったし、頭痛も寒気もまったくない。

 すぐに数人の看護婦に水野先生、綾音さんと泉水が戻ってきた。わらわらとベッドの周りを取り囲まれてしまう。
「古門君!あなたどうしてこんなになるまで我慢してたのよ!」
「いや、我慢って言っても…」
 我慢なんてしてない。意識ははっきりしてる。もしどこか痛んだりしたらすぐさま綾音さんに言ってるだろう。でも本当にどこも痛くないんだ。ちょっと背中と右腕がかゆいくらいで…
(そうか、ようやく準備が出来たか…)
「え?」
 不意に視線が俺に集まる。なんだ?みんな聞こえなかったのか?…いや、それ以前に今のは誰なんだ?
「どうしたんですか、晶良さん」
「い、いや…さっき誰かが準備がどうのこうのって…」
(そう、準備が出来た。長かったぞ)
「ほら!準備が出来たって…」
「…晶良、あんた何言ってるの?」
 どういう事だ?みんな聞こえてないのか?俺にはこんなにはっきり聞こえるのに。
(そう、お前以外には聞こえていない)
「お、おい…誰だ!誰なんだよ!」
「晶良さん!しっかりして!」
「高熱のせいで幻聴が聞こえるのね。鎮静剤の用意をして」
(ずいぶん長い間待ったぞ…ようやく見つけた。ようやく探し当てた…)

 その声はまるで地の底から聞こえてくるような、それくらい低い声だった。でも何を言ってるかははっきりと聞き取れる。
「誰だ!どこにいるんだよ!」
(まあそう焦るな。すぐに分かる)
 視界が真っ暗になった。白い天井もカーテンも、周りにいた深雪ちゃんも泉水も綾音さんも見えなくなる。身体から力が抜けていき、バランスを失った。

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