Back/Index/Next
Original Novel
Nobuyuki Morita Presents



約束


第九章

深淵


 夢を見てる。こうして夢の中で「これは夢だ」と自覚できることを明晰夢というらしいが、多分これがそうなんだろうな。

(そのとおりだ。…どうだ?感想は)
 感想…か…
(思い出したか?)
 ………何をだ?
(何?…貴様…本当に忘れたと言うのか?)
 何を忘れるって言うんだ。もともと俺には関係のない話だろうが。
(本当に忘れたのか?人間に囲まれてなす術も無く、愛する女と一緒に崖から身を躍らせたときのあの絶望と怒りを!)
 崖から…ああ、あの話か。どうしてあの話を俺が覚えてなきゃいけないんだ。俺が知るわけないだろう?
(なら教えてやる!お前はあの両腕を切り落とされた鬼だ!)
 ………馬鹿馬鹿しい、俺はこの通り人間だ。見て解らんのか?
(ああ、今は人間だ。だがお前は大昔は鬼だった)
 じゃあ何か?俺の前世が鬼だとでも言うつもりか?
(そのとおりだ)
 ますます馬鹿馬鹿しいな。生まれ変わりなんてものが現実にあるわけ無いだろうが。
(……ならばあの女はどう説明する?お前と共に死んだあの女は)
 …あの女がどうかしたのかよ。
(思い出してみるがいい、あの女が言った言葉を。綾音とかいう女が言った言葉もな)
 綾音さん…?たしか……

………もし生まれ変われるのなら、またあなたを探します。探し出して、今度は必ず守り抜いてみせます……
………初めて晶良さんに会ったときに『見つけた』って思ったんです…
………大丈夫、お姉ちゃんが絶対にあっちゃんの事守ってあげるから…

 そ、そんな……それじゃああの女は………綾音さん…?
(そのとおりだ。お前を抱いて俺に「静かに暮らしたいだけなのに」と言った。あの時に確信したよ。お前は間違いなくあの鬼の生まれ代わりだ。そして綾音とかいう女は…)
 そんな馬鹿な!そんな事が…生まれ変わりなんてものがあったなんて…そんな馬鹿な…
(これで解ったろう?お前は鬼だ)
 …………何が言いたい?俺が鬼だから何だって言うんだ!
(人間への復讐だ。お前は選ばれた。………あの黒沢とか言う女にもかすかに鬼のにおいがした。試しに「きっかけ」を与えてみたものの…案の定失敗だったな)
 なに…?黒沢さん…?
(まあ役には立った。お前の心に憎しみを植え付けると言う意味でな)
 ど、どういう意味だ!?
(体に無理がかかったが…所詮は使い捨ての駒。気にする事もないか)
 何を…黒沢さんに何をさせた!?
(本当は気付いているんじゃないのか?あれだけの状況証拠が揃っていたんだ)
 そんな…それじゃあ親父と母さんは…
(あの女が殺した。鬼になったあの女がな)
 ……貴様………
(お前ももうすぐだ。準備は全て終わった。お前はあの女とは違い純粋な鬼だ。…鬼は憎しみの心が強ければ強いほどいい。さぞ強い鬼になるだろうな)
 なに?お、俺が…鬼に?
(くくくくくく……もう全ては終わった…お前は鬼になる。俺に代わって人間への復讐を遂げるために…)
 待て!俺は・・俺はそんな事望んでない!元に戻せ!俺を元に戻してくれ!
(言ったろう?もう全ては終わったんだ。おそらく今度目を覚ましたときが人間としての最後の目覚めだろうな…もう誰にも止める事は出来ん。俺ももうすぐ消える…人間どもめ、せいぜい苦しむがいい。逃げ惑うがいい。恐怖に顔を引き攣らせるがいい……)
 まて!まだ俺の話は終わってない!待て!待ってくれ!


「待ってくれ!」
 上半身を起こした。全身からものすごい汗をかいている。
「…晶良さん、大丈夫ですか?」
 横を見ると綾音さんがいる。タオルを持って心配そうな顔をしていた。優しく顔の汗をぬぐってくれる。
「すごい汗…ほら、ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃいますよ」
 窓の外は真っ暗だ。時計を見るとすでに午前一時になっている。ひょっとしてずっと起きて俺の事を看ててくれたのか…
「……また恐い夢を見たんですね?」
「…うん……」
「晶良さん…何か私に出来る事はないんですか?私には…晶良さんを助けてあげられないんですか?」
 俺を助ける…か、あの鬼が言った事は本当なのかもしれないな。

 昔からどんな時でも綾音さんは俺の味方だった。親父や母さんから叱られてるときも、たった一人でも俺の事をかばってくれた。恐い夢を見る、と言ったときなんかは良く一緒に寝ようと誘ってくれたっけ。
「待ってくれ…って、誰に言ってたんですか?」
「……鬼だよ」
「え?」
「綾音さん、頼みがあるんだ。聞いてくれる?」
「は、はい…私に出来る事なら……」
「……今すぐ家に戻るんだ。ここにいちゃいけない」
「え?ど、どうして?」
「危ないんだ。…ひょっとしたら俺が綾音さんを傷つけるかもしれない。それだけならまだしも…もしかすると綾音さんを……」
「私を…?」
「……殺してしまうかもしれない…だからそうなる前にここから離れるんだ」

 あの鬼が言っている事がすべて本当だとすると、俺はもうすぐ鬼になってしまう。具体的にどうなる、という事は分からないが、それでも危険な事に変わりはない。「鬼の殺戮の本能」と言う言葉も出てきた。ひょっとしたら、俺が鬼になったとたんに見境無く暴れ出すのかもしれない。どの道俺が危険な存在になる事だけは確かだ。
「いやです、帰りません」
「…綾音さん、解ってくれ。ここは危ないんだ」
「私…晶良さんに傷つけられても本望です。晶良さんだったら……殺されたってかまわない。だから…そばにいさせて下さい」
 そんな事が出来るわけが無い。今すぐにでも安全なところに帰ってもらわなきゃ。
「綾音さん、俺が言ってるのは多分本当の事だからね。俺はもうすぐ…」

 心臓がひときわ大きく「どくん」と脈打った。息が詰まるほどだ。何と無く瞳孔が開いたな、と言うのが分かる。
「もうすぐ…?もうすぐどうなるんですか?」
 心臓の鼓動はどんどん速く、大きくなっていく。全身のすみずみまで異常なほどの力がみなぎってくる。筋肉が少しずつではあるが膨張を始めた。パジャマの太股の部分が張り裂けそうなくらいだ。まさか…これが鬼になるという事なのか?
「綾音さん!逃げて!ここから離れて!」
 頭の中が混乱しかかってる。今は辛うじて正常な意識を保っているが、それもいつまでもつかわからない。もし本当に鬼になってしまえば、俺は真っ先にこの場にいる綾音さんを殺してしまうかもしれない。そうなる前に…
「早く逃げて!綾音さん、俺の言う事を聞いて!」
「でも、でも…」
 目の前が少しずつ明るくなっていく。両腕の筋肉が脈打ち、今まで枯れ木のようだった腕が丸太のように太くなる。爪も鋭く伸び、拳がせり出している。しかもそれだけじゃなかった。頭の中でまるで何かの呪詛のような言葉が繰り返される。
………憎め……人間を憎め…すべての人間を憎め…根絶やしにするのだ……我々の恨みを忘れるな……殺せ…お前を止められるものはいない…すべての人間を殺せ…人間と名の付く生き物を根絶やしに……犯せ…殺せ…壊せ…憎め……抗う事はできん…憎め、憎め、憎め、憎め、殺せ、憎め、殺せ憎め憎め憎め憎め憎憎憎憎憎憎憎憎……
 しかもその言葉はどんどん大きく、逆らえないほどの威圧感を持ち始めてる。
「綾音さん…頼む……ここから逃げて…」
「晶良さん!しっかりして、晶良さん!」
 ドアが開いた。少し暗かった室内に廊下の明かりが差し込んでくる。水野先生が声を聞きつけて入ってきたようだ。
「な……何が…何が起きてるっていうの…?」
 呆然としている。多分俺の姿を見たからだろう。
 耳の後ろが何かに引っ張られるようだ。触ってみると鋭く固い皮膚が突き出ている。全身の筋肉の膨張は人間の限界をはるかに超えていた。身体はどういうわけか倍以上の体積になっている。身長もはるかに高くなっているに違いない。体重が増加したのだろう、ベッドの脚がぎしぎしと悲鳴を上げている。
「あ、綾音ちゃん、とにかくここから出て!何なのこいつは!?」
「晶良さん!お願い、しっかりして!晶良さん!」
「!…あきら…?それじゃあれは…古門君…?」

 頼む、二人とも逃げてくれ!…そう言ったはずだ。だが声が出ない。代わりに地の底から響くような唸り声が口から漏れた。その声を聞いて水野先生が後ずさりをする。綾音さんもようやく事の危険さが解りかけたようだ。ドアの方へ移動した。そうだ、それでいいんだ。早く逃げてくれ。俺がまだ理性を保っていられるうちに…この呪詛の声に逆らっていられるうちに。
 廊下から鋭い光が射し込んできた。警備員が懐中電灯の光を当てたようだ。それとは別に窓の外、下の方に二つ並んだ光が見える。車のヘッドライトか?
 杉原病院内に悲鳴が響き渡った。まるでその悲鳴を合図にするかのように、俺の意識は急速に遠のいていった。


 深夜の街を何かが走り抜けていった。暗闇の中なので、普通の人間には何が走っているのかも分からない、それくらいのスピードだった。ただ何かの影が通り過ぎた、そうとしか思えないだろう。
 その後ろからものすごいスピードで車が走っている。まるで影を追いかけているようだ。
中に乗っているのは二人の女と、一人の若い男だった。
「病気…?」
 三人のうちで最も若いだろうと思われる髪の長い女がそう尋ねた。運転は男がしている。
「そう、病気なんだ。彼は今までに前例の無い病気にかかってる」
「浩一郎さん、病気ってどんな…」
「水野君、説明は後だ。今は彼を止めないと…」
 浩一郎さん、と呼ばれた男の左胸には杉原と書いたネームプレートがあった。無精ひげをはやして、目の下にはくまが出来ている。
 ヘッドライトに照らし出された影、それは紛れも無く「鬼」と呼ばれる伝説上の生き物だった。

 頭部に生えた二本の角、屈強で全身を鎧のように包む筋肉、血に飢えた双眸。今まで彼らもお伽話の中だけに存在すると思っていたのだろう。だが現実に、今彼らの目の前には鬼がいた。その鬼は車と同じスピードで走っている。
「信じられないな…もう十分も時速六十キロで走ってる。人間の脚力じゃないよ」
「それにしてもどこに向かってるのかしら…このまま真っ直ぐ行くと……」
 そこで一番若い女がはっと顔を上げた。
「まさか晶良さん…家に……?」
 今車が走っている道を真っ直ぐ行くと、この辺でも有名な旧家、古門家がある。
「杉原先生、急いでください!」
「ああ、目いっぱい急いでるよ。でもこの道でこれ以上スピード出したら事故るかもしれない。事故ったりしたらせっかくの薬も台無しだ」
 古門家まではこのスピードで行けばあと五分ほどだ。
「浩一郎さん…本当にこれで…?」
「ああ、そのために今までずっと大学病院に戻ってたんだ。絶対に割らないでくれよ」
 水野裕子の手には注射器と薬が入っていると思われるビンがあった。
「とにかく…早く彼に追いつかないとな。何をしに行くのかは解らんが…」


 玄関近くでの物音に気付いたのは古門家の次女、泉水だった。普段から元気が良く、明るく活発なので近所からの評判もすこぶる良い。
「深雪、聞こえた?」
「うん」
 姉の問い掛けに末っ子の深雪が肯いて答える。彼女は泉水とは違い大人しくて内気だが、非常に心根の優しい性格でおまけにしっかりもの、という事で姉同様に学校でも人気は非常に高いようだ。
 姉妹揃って玄関の方へ歩いていく。
「…泉水お姉ちゃん、開けるよ」
「いいよ」
 泉水の手には金属バットが握られていた。
 勢いよく玄関の戸が開かれる。…が、誰もいない。
「…なぁんだ、気のせいだったのかな?」
 あたりを見回しても何も無い。いつもの見慣れた庭があるだけだ。少し雪が積もっているが、それも毎年の事で慣れている。
「深雪、家に入ろ。寒いよ」
 と、泉水が妹の肩を叩いた。が、どういう訳か深雪の肩は震えている。
「…?どうしたの?」
「あ、あれ……」
 深雪が指差した先には………

 悲鳴がこだました。彼女たち二人の目の前には月明かりに巨躯をさらした鬼が立っていた。隆々とした筋肉、白い息を吐くたびに大きく上下する分厚い肩と胸板。そして何よりも両耳の後ろから後方へ天を突くように伸びた二本の角。
 紛れも無い鬼だ。しかもその鬼は明らかに二人を見ている。
「あ、あ………」
 あまりの恐怖に深雪は声も出せない。そんな妹をほぼ反射的にかばって泉水が前に出る。が、彼女の膝も震えていた。
 鬼が一歩前に踏み出す。同時に泉水の全身がこわばった。
「ななな何よ!深雪には指一本触らせないからね!」
 金属バットを構えていても震えは止まらない。あまりにも無力な武器だと本能的に解ってしまったからだ。
 鬼はただ黙って二人を見ていた。その目の中には一片の慈悲も無い。あるのはただ憎しみと殺意だけだ。そう、この鬼は目の前の非力な二人の少女に明らかに殺意を抱いている。
 角が庭の木に触れて雪が落ちる。が、そんな事は全く気にしていない。ゆっくりとではあるが、確実に一歩一歩泉水達の方へ近づいてくる。
「こ、来ないで…来ないでよぉ!」
 闇雲にバットを振りまわすが、鬼の身体にかすりもしない。彼女と鬼の距離が三メートルを切ったとき、ついに彼女も座り込んでしまった。膝が震えて立っている事もできない。
 鬼がゆっくりと拳を振り上げる。その時だった。

「晶良さん!やめて!」
 女の声が響いた。泉水たちにとっては聞き慣れた声だ。鬼もその声の主を見る。
「綾姉!」
「綾音お姉ちゃん!」
 姉の姿を認めてほっとしたのだろう、泉水が立ち上がり深雪に駆け寄った。
「晶良さん……お願い、この子達を傷つけないで…」
 その言葉に驚いたのはこの二人だ。
「晶良…?………どういう事?」
「お、お兄ちゃん…なの?」
 綾音に続いて二人の医師が門から入ってきた。一人の手には注射器が握られている。が、鬼の姿を目の前にして動く事も出来ない。
「…殺すなら私を殺して下さい……だから…この子達を……ほかの人を傷付けないで」
「綾姉!何言ってるのよ!早く逃げて!」
「私の命が欲しいならあげます。だから…晶良さんに戻ってください…もとの…いつものような優しい晶良さんに…」
 そう言うと綾音は鬼になった晶良を正面から見据えて座り込んだ。まるで覚悟を決めたような顔だ。しかし、鬼はそんな姿を見ても動じる気配すらない。
「綾音お姉ちゃん!逃げて、お願い逃げて!」
「ごめんなさい…私……あなたとの約束を守れなかった…守ってあげるって…何があっても絶対に守るって約束したのに……」
 彼女の両目から涙が流れる。しかし彼女の鬼を見る目には恐れはない。ただ哀れむような優しい視線だけだった。  雲が切れて月が鬼の顔を照らした。

「鬼が……泣いてる…?」
 鬼の両目からも涙のようなものが溢れていた。血の涙だ。体も震えている。何をしようとしているのかは解らないが、左腕で右腕を押さえつけている。しかし、その右腕は次第に頭上へと上がっていった。
 うめき声のような、低い声が響いた。鬼の両頬から血の涙が零れ落ちる。赤い雫が真っ白い雪に一つ、二つと斑点を作っていった。
 左手を解き、鬼が鋭い爪を前方に向けて右手を振り上げた。手刀を構えて狙いをつける。指先がむいているのは綾音の頭だった。
「綾姉!何やってるのよ!早く逃げて!」
 静かに綾音が両目を閉じた。空気を切り裂くように手刀が振り下ろされる。
「綾姉ぇ!」

 次の瞬間、手刀は彼女の首ではなく、他のところに突き刺さっていた。鬼自身の胸である。左手が右手首を掴んで、自らの胸に突き立てている。勢いよく血が飛び散り、目の前にいた綾音の顔に赤い斑点を作った。
 ゆっくりと鬼の身体が崩れ落ちる。真っ白い雪の上に真っ赤な血を飛び散らせて鬼の巨大な身体がうつ伏せに横たわった。その拍子に鬼の角が綾音の左腕をかすめた。白いシャツがわずかに赤く染まる。
「綾姉!」
 泉水が慌てて姉を鬼から引き離す。
「……鬼が…お兄ちゃんが綾音お姉ちゃんをかばって…?」
 まるで真っ赤な絨毯のように血は広がっていった。それとは逆に鬼の体が急速に縮んでいく。そして、ほんの数十秒後には彼女たち全員が良く知る人物の姿になった。 「晶良さん!晶良さん!…晶良さん、しっかりして!」
「いかん!この衰弱した体にこの怪我は…応急処置だ!誰でもいい、救急車を呼んでくれ!今すぐだ!」
「晶良さん…私は殺されても良かった…どうして?どうしていつも自分を犠牲にするの?どうして…あなただけがこんなに苦しまなきゃいけないの?」
十二月になって三度目の救急車が到着したのは、それからわずか五分後の事だった。


 杉原病院の手術室前は重苦しい空気に包まれていた。日付付きの時計は十二月十八日の午前八時半を指している。
ベンチには二人座っていた。一人はショートカットで見るからに活発そうだが、もう一人は長い髪を三つ編みにしていて、どこと無くおとなしそうな雰囲気を持っている。
 手術中のランプが消えた。それから少し遅れてドアが開き、二人の医師と数人の看護婦が出てくる。
「先生、どうだったんですか?」
「綾音ちゃんは大丈夫よ。骨にも異常はないし、傷もそんなに深くないわ。五針くらい縫ったけどすぐに治るわよ。傷痕もすぐに消えるわ」
「あの…それでお兄ちゃんは…?」
「…古門君は………」
 ベッドが出てきた。一つ目は綾音が寝ている。もう一つは人工呼吸器をつけた晶良が乗ったベッドだ。
「綾音ちゃんは麻酔で寝てるだけよ。二三時間したら目を覚ますわ」
「それで晶良は……」
 杉原浩一郎が手術室から出てきた。見るからに疲れ切った表情だ。
 それもそのはず、彼は今までの七時間、休みなしでずっと手術をしていたのだから。
「杉原先生!お兄ちゃんは?お兄ちゃんは助かるんですか?」
「助かるんでしょ?ねえ、何とも無いんでしょ?」
 二人から詰め寄られても彼は何も答えない。ただベンチにどっかりと腰を下ろして大きくため息を吐いた。
「先生、お兄ちゃんは…?」
 緑色の手術着のマスクを少し乱暴にはずすと、長く伸びた無精ひげが出てきた。目の前の二人が彼のひげの奥の口が動くのを待っている。
「彼は…古門君は……………」
 いったん言葉が切れた。そしてまた大きく息を吐く。
「…………多分…明後日までもたない…」
 頭を抱えて乱暴に髪をかきむしる。廊下に涙の雫がいくつか落ちた。

 数十秒間、言葉はなかった。ただ、時計の針だけが時間が進んでいるという事を知らせているようだ。
「…嘘……」
 泉水が呟いて浩一郎に詰め寄る。
「ねえ先生、嘘なんでしょ?……だって晶良が死ぬわけ無いじゃない。あんなに元気でしぶとくて…殺しても死なないくらい元気だった晶良が……ねえ、嘘だって言ってよ…お願い………嘘って言ってよぉ!」
 泉水の泣き声に隠れるように深雪のすすり泣く声も聞こえた。


 綾音が目を覚ましたのは昼少し前の事だ。幸い彼女の腕の傷は大した事はなく、傷痕も残らないと言う。しかし、彼女たちに見守られるようにして眠っている晶良はまだ目を覚まさなかった。心電図の無機質な機械音と人工呼吸器が上下する音だけが、彼の命がまだ繋がっている事を教えている。
「……杉原先生、お兄ちゃんは……病気だったんですか?」
 深雪が口を開いた。彼女の目は真っ赤に腫れている。さっきまで泣いていたのだからそれも仕方ないだろう。
「ああ、病気だったんだ。病気のせいで…あんな姿になってたんだ」
 ベッドに横たわる晶良はすっかり変わり果てていた。以前にも増して痩せている。体脂肪率は限界を下回り、まるでミイラのようになっている。眼窩は落ち窪み、頬骨が浮き出ている。すでに体力は使い果たすまでも無く尽きている。そこへ胸の傷だ。幸い胸骨と肋骨に遮られて心臓を傷つけるなどの重傷には至らなかったものの、ただでさえ弱った体に追い討ちをかける結果となってしまった。
 おそらく彼の身体が鬼から人間のそれに戻ったのは胸の傷のせいだろう。人間なら間違いなく即死していた。

「彼は……ある『菌』に感染してたんだ。見た事も無い新種の菌で…抗生物質をもっと早く作れていればこんな事には……」
 すでに体内のエネルギー源は使い果たしていた。もう自分では呼吸すら出来ないほど弱り切っている。辛うじて心臓を動かす事が出来る程度だ。
「晶良は……晶良の身体はどうなってたの?」
 泉水の目も泣き腫らしたばかりで真っ赤になっていた。綾音はすっかり変わり果てた晶良の姿を見てほとんど放心状態だ。
「彼の身体には…もうブドウ糖も脂肪も、肝グリコーゲンも筋グリコーゲンもない。人間が必要なエネルギー源がほぼ全くと言っていいほど無いんだ。……古門君が感染した菌のせいだよ」

 古門晶良が感染した菌は全く新しいものだった。血液中に入り込み、血管を伝って脳にたどり着く。
 脳には異物を遮断する脳動脈関門という器官があるが、どういう訳かこの菌は脳動脈関門を通り抜けて脳内に侵入、そこで増殖を始める。そしてある一定の数に達すると命令を出し始める。
 第一の命令はインシュリンの過剰分泌だ。副腎皮質から大量のインシュリンを分泌させ体内に入ってきた糖分を手当たり次第分解してしまう。その結果、膨大な熱とエネルギーが生まれてしまう。
 そして第二の命令、これは褐色脂肪細胞の増殖である。
 褐色脂肪細胞というのは、通常人の背中周辺に多くある細胞で、脂肪分を分解して熱とエネルギーに変換する働きを持つ。これを異常な数にまで増やしてしまう。
 第三の命令は骨と筋肉の強化で、脳に働きかけて成長を促すホルモンを分泌させる。
 ここでこの菌は変質し、何と細胞核に感染し始める。そこであるDNA情報を探す。もしもそのDNA情報が細胞核の中にあれば次の段階へ進むが、無かった場合は「新陳代謝を促進せよ」という命令を脳に出し続けさせる。筋肉、皮膚などのすべての細胞が分裂を異常なスピードで繰り返し、最後には腐敗してしまう。結果、全身が壊疽を起こして死んでしまう事になる。
 第四の命令は、今度は脳に働きかける。
 人間の脳の中でも原始的な部分、特に攻撃衝動を司る部分を活発化させる。そうすると活発化させたものは異常なほど攻撃的になり、近くによるものを全て攻撃しようとする。
 そして最後の命令、これは皮膚と骨の変形だ。
 皮膚と骨を急激に変形させるには莫大なエネルギーを必要とする。が、このエネルギーはインシュリンの分泌と褐色脂肪細胞によって供給される。
 変形をするとどうなるかというと、頭部の一部の皮膚が隆起し、まるで角のように発達する。骨も太く丈夫になる。

「これが古門君が感染した菌の作用なんだ。どういう理屈なのかは分からないが…」
「それだけ解ってるんだったら治療は出来るんでしょ?…助けられないの?」
「………出来る事は全部やったよ。菌を殺す抗生物質を注射したから、もう菌は死んでる。
でも…」
「でも?でも何なの?他に何かあるの?」
「…彼はもう自分の心臓を動かす事も出来ないんだ。……心臓を動かすにもエネルギーが要る。今もブドウ糖の点滴を続けてはいるが…インシュリンが全部分解してしまう。筋肉へいくエネルギーはごくわずかなんだ」
 しかももう自分で酸素を取りいれる事も出来ない。
「古門君が助かるためには…奇跡が起こるのを待つしかない………」


 翌朝早く、綾音は晶良のすぐそばにいた。一晩中ずっと彼の側を離れずに手を握りつづけていたようだ。だが晶良は目覚めない。
「綾姉、少し休んだ方がいいよ」
「…………」
「気持ちは分かるけど…このままだと綾姉また倒れちゃうよ。ね?ほら、少し横になって」
「私……」
 昨日よりはいくぶん生気が戻っているものの、まだどこか目の焦点が合っていないようだ。もう既に涙も枯れるほど泣いているのか、頬にはくっきりと涙の跡が残っていた。
「私…約束を守れなかった………」
「約束…?そう言えばそんな事言ってたけど…何の約束なの?」
「晶良さんと私の約束……絶対に…何があっても守ってあげるって約束したのに…」
「綾音お姉ちゃん、そんな約束してたの?」
「………深雪も泉水も知らないの…私が夢の中で晶良さんとした約束だから……」
「夢の中で?それじゃあ晶良は知らないの?」
 黙って綾音が首を横に振る。
「晶良さんには話したけど……」
「でも夢の中の約束だったらそんなに気にする事は…」
「違うのよ……あれは夢だけど…でも普通の夢じゃない……ずっと昔あった事のような気がして…」
「……考えすぎだよ。それより綾音お姉ちゃん、昨日のお昼から全然食べてないでしょ?何か買って……」
 不意に静かな病室の中に甲高い音が響いた。心電図の波形が乱れている。血圧が急激に下がり始めた。
「あ…晶良!晶良、しっかりして!」
 すぐに音を聞きつけて看護婦達がやってくる。にわかに病室は慌ただしくなった。
「晶良さん!…晶良さん、頑張って!…私と約束したでしょう?絶対に死なないって、絶対に生きるって…そう言ってくれたじゃないですか!」
 杉原が見慣れない機械を持って入ってきた。コードが伸び、その先にはアイロンのような鉄の電極が付いている。心臓が停止したときに再び動かすために電気ショックだ。
「杉原先生!血圧が……呼吸も乱れてます!」
「強心剤を打って!それから酸素濃度も高くするんだ!」
 綾音たち三人が見守る中、必死の作業が続けられた。しかし…

「心臓が…心臓が停止しました!」
 看護婦の一人が悲痛な声で言った。ピーという音が心電図から流れる。
「あきらめるな!電気ショックは?」
「はい!準備できてます!」
 彼の手に電極が握られた。すぐに晶良のパジャマの前を開いて胸を露出させる。電極を当てて「クリア」と言えばそれが合図になって、看護婦がスイッチが入れて電流が流れる。しかし、ある程度のレベルまでしか電圧を上げる事は出来ない。それ以上になると今度は電流で身体に障害が出るからだ。
「………クリア!」
 ベッドの上の身体が大きくのけぞった。まるで何かに持ち上げられるようだ。だが、晶良の心臓は動かなかった。一時大きく心電図の波形が乱れたが、またすぐに戻ってしまう。その作業が何度か繰り返された。しかし彼の心臓は止まったままだ。
「もっと電圧を上げろ!」
「でもこれ以上は……」
「限界まであげるんだ!これで動かなかったら…」
 これで動かなかったらもう晶良は助からない。死の淵から戻ってくる事は不可能という事になる。
「………クリア!」
 まるで身体全体が持ち上がるような、それほどの大きな衝撃だった。だがやはり晶良の心臓は鼓動を始める事はなかった。

 杉原ががっくりと肩を落とす。看護婦達の表情も一気に暗くなる。
「あ…晶良さん……」
 綾音が部屋を飛び出していった。ためらいながらも泉水が追いかける。
「お兄ちゃん……」
 深雪は部屋に残っていた。ゆっくりとベッドに横たわる晶良に近づいていく。
「ねえお兄ちゃん…返事してよ……ほんとは寝たふりしてるだけなんでしょ?…解ってるんだからね。ほら、目を開けてよ…お兄ちゃんってばぁ…」
 軽く晶良の体をゆすったり頬を叩いたりしている。だが彼は何も答えない。
「お兄ちゃん…お願い……お願いだから返事して…………目を開けて!目を開けてよお兄ちゃん!お兄ちゃん!…お、おにい……ちゃん…」
 大粒の涙がベッドのシーツに落ちる。
 認めたくなかった。今自分の目の前で一つの命が燃え尽きたという事を。その命が自分にとって大切な肉親のものであるという事も。だが、どれだけ泣いても晶良はそれに答える事はなかった。昔のように泣きじゃくる深雪の頭を苦笑しながら優しく撫でてやることはなかった。


「泉水お姉ちゃん、もういいの?」
「うん…それより綾姉は?」
 外はすっかり暗くなっている。泉水と深雪の二人はたった今、今日まで生きていた晶良に一人ずつ最後の別れを言っていたところだ。
「ほら、綾姉の番だよ」
 廊下のベンチにはまるで魂の抜け殻のような綾音が座っていた。まるで軽く触れただけでも崩れ落ちてしまいそうなくらい弱々しい。目も焦点があまり合っていない。
「綾音お姉ちゃん、お兄ちゃんにお別れ言ってこないと…」
 深雪に言われてようやく我に返ったのか、ふらつきながらも晶良の病室に入っていく。  静かにドアがしまった。薄暗い病室には既に冷たくなった晶良が横たわっている。胸の上には軽く組まれた両手が乗っていた。
「……晶良さん……」
 もう既に彼は綾音の声に答える事はない。
「ごめんなさい…私……あなたとの約束を守れなかった……」
 ずっと泣きつづけていたせいか、彼女の両目は真っ赤に充血していた。
「守ってあげるって…何があっても守ってあげるって……そう約束したのに………ごめんなさい…ごめんなさい………晶良さん……」
 そこから先は声にならなかった。いくら声を出すまいとしてもどうしても抑え切れない。少しではあるが、かみ殺したような声が出てしまう。
 その声は廊下の泉水と深雪にも聞こえていた。
「……泉水お姉ちゃん、私ちょっと綾音お姉ちゃん見てくる。何だか心配だよ」
「そうだね。…じゃあお願い」
 深雪がそっとドアをほんの少し開けると……
「…晶良さん、私も行きますね……一人じゃ寂しいでしょう?」
 綾音の右手には果物ナイフがあった。しかもそれを左手首に当てようとしている。
「綾音お姉ちゃん!やめて!」

 慌ててドアを開けて深雪が飛び掛かった。声を聞いた泉水も入ってくる。そしてすぐさまナイフを叩き落とした。返す左手で姉の頬を叩く。
「馬鹿!何やってんのよ綾姉!」
「泉水…お願い!私も死なせて!」
「何考えてんの!何言ってるのよ!」
「私……私…晶良さんなしで生きていく事なんて…」
「晶良がそんな事して喜ぶと思ってるの!?晶良がそんな事望むとでも思ってるの!?そんなこと…そんなことしたら晶良が悲しむだけじゃない!」
「私……わたし…」
 そこまで言うととうとう綾音は声を上げて泣き出してしまった。
「綾音お姉ちゃん…もう我慢しなくていいんだよ。思いっきり泣いてもいいんだよ…」

 彼女が妹達の前で声を上げて泣くのは初めての事だった。だが、泉水も深雪も驚きはしない。ただ黙って姉を抱きしめるだけだ。ただそれだけしか出来なかった。
 泉水はとうの昔に綾音が晶良の事を好きだという事に気付いていた。毎年バレンタインデーには晶良の為だけに特大のチョコレートを作って送っていたし、机の中にこっそり晶良の写真を入れていた事も知っている。それに去年あたりから頻繁に来るようになった縁談をすべて晶良の為に断っていたという事も。
 だからこそ、大きなお世話と思いつつも晶良と綾音が一緒にいられる時間を作ろうと彼女なりに努力していたのだ。泉水も深雪も、出来れば綾音と晶良に結婚して欲しいと思っていた。ひょっとすると一緒に住もうと誘ったのもそのためかもしれない。が、それも今となってはもう全てがかなわないものになってしまった。
「馬鹿……晶良の馬鹿ぁ!なんで死んじゃったのよ!綾姉がどれだけ晶良のこと考えてたか…それなのに勝手に死んで……」
 感情が昂ぶってしまった泉水を深雪が制した。

 過去数回、綾音は晶良に「好きだよ」と言おうとしたことがある。もちろん従姉弟としての「好き」ではなく、女として晶良を好きになっていたことをだ。
 晶良が大学に入って一人暮らしを始めたばかりのとき、彼の家へ遊びに行ってそのまま一緒に暮らそうかとも考えていた。だが、二人の間にある「従姉弟」という血のつながりが彼女の心の歯止めになっていたのかもしれない。その歯止めが取れたのは、綾音が大学に入学した、十八歳の頃のことだった。
 夏祭の夜、下着姿を見られたばかりの綾音はどことなく晶良と目を合わせるのが照れくさかった。が、出店が並んだ通りでがらの悪い男に絡まれたときに、晶良が体を張って綾音を助けてくれたのだ。
 それ以来だ。綾音にとって晶良が「頼りになる弟」ではなく「守ってくれる素敵な人」になったのは。
「晶良さん……」
 綾音が涙を流したまま立ち上がった。そして晶良へと近づいていく。
「……私の気持ちです………もっと早く伝えれば良かった…」
 ほとんど乾き切った晶良の唇にそっと自分の唇を重ねた。涙が晶良の顔に落ちる。

 その時だ。深雪が「あっ」という短い声を漏らした。
「何?どうしたの深雪?」
「今…今お兄ちゃんの指が動いた……」
「…そんな訳ないよ、気のせいじゃないの?」
「ううん、確かに今動いたよ!」
 深雪が綾音の向かい側に回って晶良の胸に耳を当てる。そして………
「動いてる!」
 と叫んだ。
「泉水お姉ちゃん!看護婦さん呼んできて!お兄ちゃんの心臓が動いてる!」
 突然病室は騒々しくなった。今まで静かで冷たい雰囲気だったのに、急に熱気を帯びてきていた。
「奇跡が起こった…絶対に死なせるんじゃない!奇跡は起こったんだ、後は僕たちが助けるんだ!」
 あらゆる蘇生処置が取られた。そして本当に奇跡は起こった。何と晶良の自発呼吸が回復したのだ。おまけに鼓動も復活している。
「信じられないわ……十数時間も心臓が完全に止まってたのに自力で蘇生するなんて…」
「とにかく、今は彼は生きてるんだ!ここからは医者の仕事、絶対に生かしてみせる!」

Back/Top/Next