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Ryo Original Story



約束


by






「どうして、私じゃだめなの?」
 これがただの嫉妬に過ぎないってことは分かってる。頭ではしっかりと理解している。
 気持ちの整理はついているつもりだし、現実として認識もしている。ただ、どうしても頭から拭い去れない。このルサンチマンのような感覚を、拭い去ることが出来ない。
 誰に否があるわけでもない。強いて言えば、どこかで全てが食い違ってしまっただけ。誰に否があるわけでもないけど、それで納得できるわけでもない。
 全てのことの始まりは、一週間前に遡る。

*     *     *     *     *

 いつも通りの日常。いつも通りの食卓。
 私の前にはあなたがいて、あなたの瞳の中には私がいて。何も変わらない、繰り返されるページのように、ただ静かに、ただ優しく、とても幸せな時間が過ぎていた。
 何気ない会話。学校であった出来事や、近くにある体育祭の話、それに愚痴なんかを言い合っているだけの些細な内容。でも、私は幸せだった。
「俺さ、この家を出て行こうと思うんだ」
 唐突に、何の前触れもなく、何の複線もなく、はっきりと明確な声で響いた一言が、その瞬間に世界を破壊した。
 世界が暗転し、視界が闇に塞がれる。鼓膜が破れてしまったかのように、周りの音が一切聞こえない。操者を失ったマリオネットのように、その場にへたり込んで動くことが出来ない。
 頭は必要以上に回転し、状況を分析しているんだけど、具体的な対応策は生まれてこない。生まれたところで、身体へ信号を送ることが出来ない。何を言われたのか理解できない。言葉としては認識しているのだが、最期の一線を越えずにもやもやとした感覚が頭を覆う。
 何故?
 どうして?
 原因は?
 理由は?
 私に不満が?
 私に問題が?
 なんで…。
 様々な言葉が生まれては消えを繰り返し、思考がうまく形成できなかった。
 むしろ、正確な理解をしないために、わざと思考を滞らせているかのように。最期の一線を越えないよう、理解から逃げているように。理解したら、今のままでいる自身がないから…。自分が壊れてしまう自信があるから…。
 そんなことをどれくらいの時間考えていたのだろう。それは一瞬の間の出来事であったような気もするし、永く永遠に続いていたようにも感じられた。
 ようやく視界が色を取り戻し、他の器官も正常に働きだす。逃げ道はもうなく、現実だけが目の前で鎮座していた。現実を認識した脳はどうやら破壊されることはなかったようだが、それ以上の虚無感が体中を包む。まるで悪夢のようだと感じ、悪魔ならどれだけよかったかと自嘲する。それでも、現実は残酷に続く。
「そういう訳だから、今度の土日に引越すつもりだ。もう家は決めてあるから心配しないでいい。一人でも生活していけるくらいの金は、バイトで貯めてあるからさ」
「でも…なんでいきなり。私が何かダメだったんなら直すから…。ねぇ、出て行かないでよ。待ってよぉ…。なんで…なんでなの……?」
「その強すぎる思いがさ、俺には受け切れなかったんだ…。ごめん」
「なんで…。前に約束したよね、ずっと一緒にって。約束したよね…。なんで、なんでよ! 待ってよ! ごめんなさい…ごめんなさい。私が悪いとこは直すから、精一杯頑張るから! ねぇ、なんか言ってよ! 出て行かないでよ! 待ってよ、―――――」

*     *     *     *     *

 そして、家には私だけが残った。私が一人になって、今日で三日。
 一人にはその家は広すぎて、二人でいた頃の思い出が沢山残るその家は私には重すぎて、最期の台詞を聞いた食卓には楽しい思い出の欠片が残っていて、余計私を悲しくさせる。
 二人で入ったお風呂や、一緒に選んだ家具や小物の数々。人の死に直面したりと、周りから奇異の目で見られたりと、辛いことも沢山あった。だけど同じくらい嬉しいことも沢山あった。
 それを二人で支えてきて、それを二人で乗り越えてきて、多くの人の力を借りて、それでも二人で頑張ってきた。それが、すべて私に重く圧し掛かる。優しい笑顔が、楽しそうな笑い声が、私に強く圧し掛かる。
 それでも忘れることが出来ない。どうしても忘れることが出来ない。私には制約があるから、誓約があるから、成約させないといけないから、忘れることができない。
 あれは、私が一人になる更に四ヶ月前のことだった。

*     *     *     *     *

 外では激しい音を立てて雨が降っている。時折雷が鳴り響き、凄まじい音を鳴り響かせている。その音は周りの声が聞こえなくなるほどで、かなり近くに雷が落ちているのだと、さっきまで見たニュースで言っていた。雷が自分の住んでいる周りに落ちるなんて現実味があまり湧かなかったけど、この状況を見る限り現実なのだろう。
 辺りは夜の闇に覆われていて、家の周りの風景はほとんど見ることが出来ない。雷の光が一瞬闇を照らすときがあるが、激しい雨と霧で当りは白み、やはり周りを見ることはできなかった。夜が深くなるにつれ、その雨脚は更に強くなり、夜中の十一時を過ぎた頃、今までで一番大きな雷が轟音と共に落雷し、私が住んでいる一帯が停電してしまった。
 完全な闇。なんの明りもなく、連続的な雨音と、断続的な雷音だけが世界を構築する。懐中電灯を取りにいこうと思い部屋を出るが、階段を下りた一階にあることを思い出す。この暗闇の中、階段を下りることは出来ず、私は仕方なく部屋に戻ることにした。
 しかし、後ろを振り返った瞬間に、バランスを崩し転んでしまった。ゆっくりと立ち上がり、壁に手を当てて闇の中を歩き出す。前方から背後から、強いプレッシャーの様なものを感じ、足取りが自然と重くなってしまう。さっきまでは平気だった雷の音が急に恐ろしいものであるように聞こえ、私はその場にしゃがみこんでしまった。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 立ち上がろうと力を込めるが、壁を支える手や足がガタガタと震えてしまい、うまく立ち上がることが出来ない。しかし、この場でへたり込んでいるわけにもいかないので、這いずるように部屋へと向かって進んでいく。摩擦で足が少し痛いけど、そんなことも言ってられない。
「何やってるんだ?」
 突然、背後から声がかかり、身体がビクッと硬直する。身体中の汗が一瞬で引き、その後でどっと溢れるように噴き出してくる。心臓が一瞬停止したかと思ったが、どうやらなんともないようでよかった。一度硬直した身体はすぐに普段どおりに戻り、さっきまでの身体の震えや恐怖心も、何も無かったかのように治まっていた。私は壁に手を添えながらゆっくりと立ち上がり、声の主の方を振り返った。
「驚かせないでよ。ホント、ビックリしたんだから」
「あ〜、悪い。いや、部屋の前でなんかズルズルと擦るような音がしたから、なんだろうと思ってな。でも、何してんだ?」
「懐中電灯を取りにいこうと思ったんだけど、一階にあるの思い出したから、部屋に帰ろうと思って。この暗さじゃ、階段は怖いから」
「で、なんで部屋に帰るはずが、そんなところでへたり込んでたんだ?」
「それは……」
 雷や暗闇が怖かったなんて、恥ずかしくて言えない。言ったらきっと馬鹿にされると思うし、またガキ扱いされるから。私は、少しでも大人でいたかったから…。
「ちょっと、転んじゃって」
 結局、嘘をつく。決して正直になれない私。正直に言ったら、今の関係を壊してしまいそうだから。今の幸せを壊してしまいそうだから。今に満足しているわけではないけど、それでも私は嘘をついた。
「そっか。大丈夫か?」
「うん…大丈夫。暗かったし、部屋まで近かったから、立ち上がってまた転んでも嫌だし、そのままズルズルと行くことにしただけだから」
 でも、いつでも今を変えたいと思っている。変化のない毎日に満足している自分を変えたいと思っている。今とは違う毎日を、今とは違う幸せを手に入れたいと思っている。
 そのためには、今の関係を壊さないといけない。新しい世界の構築には、古い世界を破壊しないといけない。今を、壊していかないといけない。
「ん、気をつけろよ。こんな暗いんだから、寝るくらいしかすることもないんだし、さっさと寝ろよ」
 きっかけさえあれば、世界はいつでも変質する。きっかけはいつでも自分の周りに転がっている。何をきっかけとするかは自分次第だ。一歩を踏み出せば、どんな結果にしろ、新たな現実はついてくる。それが、希望に満ちたものなのか、絶望に満ちたものなのかは誰にもわからないけれど。
「あ、あの…」
「なんだ? なんか用か?」
「あの、ホントは雷が怖くて…。今日、一緒にそっちの部屋で寝てもいい?」
「は?」
「だから…一人だと怖いから、一緒に寝てくれないかって言ってるの! 恥ずかしいんだから、何度も言わせないでよ」
「え…まぁ、構わないけど」
 そして、私の世界は変質した。それが希望への道だったのか、絶望への道だったのか…。その時の私には、判断することは出来なかった。その現実に浮かれ、その結果に浮かれ、自分に都合のいい解釈だけを受け入れて、不都合な部分は掃き棄てて、私はその晩を過ごした。
 それはとても幸せな夜で、それは決して忘れられない夜で、確かな現実を持って、確かな感覚を持って、確かな痛みを持って、私の世界を変質させていった。私の横にはあなたがいて、あなたの瞳には笑顔の私が映っていた。
「ねぇ、これでホントによかったって思ってる?」
「ん? まぁ、今更どうしようもないしな。今はこれでいいと思ってるよ。所詮、結果論に過ぎないけどさ」
「そっか…。後悔してたら、寂しいなって思って。ねぇ、私のこと好き?」
「好きだよ」
「えへへ。なんか、照れるね。でも、すごく嬉しい」
「お前は、どうなんだよ?」
「好きだよ。大好き。ずっと昔から好きだった。それは嘘じゃないよ。もちろん、これからもずっと好きでいるよ。ねぇ、私のことずっと好きでいてくれるって約束してくれる? ずっと一緒にいてくれるって約束してくれる?」
「ああ、約束するよ」
「私も約束する。指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ます。指切った!」

*     *     *     *     *

 あの夜から、私たちは一緒のベッドで眠ることにした。時に愛し合ったり、ケンカしたりと、普通の幸せをかみしめていた。共に起き、共に生き、共に眠った。そんな幸せな日々が続いて行くと、疑いもしなかった。自分に都合のいい解釈だけを受け入れていた。絶望の道なんて、思慮にもいれていなかった。普通に考えたらうまくいくはずないのに。そんな思考をしないようにしていた自分がいた。
 それでも、現実は変わってゆく。ちょっとしたきっかけで、世界は変質する。何気ないきっかけで、世界は崩壊する。新しい世界の構築には、古い世界を破壊しないといけない。新しい世界の構築により、今の世界は破壊を免れることは出来ない。それがどんなに嫌な世界でも、どんなに避けたい世界でも免れることは出来ない。
 それでも、約束は続く。世界が変わっても、その要素は変化しない。誓約は成約させなければいけない。
「約束だもんね…」
 今とは違う毎日を、今とは違う幸せを手に入れたいと思っている。そのためには、今の関係を壊さないといけない。新しい世界の構築には、古い世界を破壊しないといけない。今を、壊していかないといけない。
「私はずっと好きだから…。それを守らないと行けないから…」
 今と違う世界の構築には、古い世界の破壊を…。
「待っててね…今行くから。約束を果たしに行くから」
 誓約を、制約を、成約させるため…。
「お兄ちゃん、二人で幸せになろう…」
 右手に握る包丁をしっかりと握り締め、私は新たな世界への扉に手をかけた。


                                    終




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