「冴子さん、そんな顔ばっかりしていたらだめですよ、せっかくの可愛いお顔が台無しです」
私の目の前には、いつもの笑顔。
少し眼鏡がポイントを落としているけど、総合的に見ればかなりの美形。
もっと言ってしまえば、東大出で頭も良く、水泳でオリンピック候補にかすめたこともあるスポーツ万能。
背は高いし、会社の社長の息子で、お金だってある。
全く、文句のつけようのない男の人。
でも、私はこの人が嫌いだった。
「友人と遊ぶ予定だったのを、いきなり連れてこられて、嬉しがる女が居たら見てみたいですが?」
「すみません、それについては本当に反省します。
冴子さんの行動を、もっと理解するべきでした」
痛々しい、泣きそうな顔になって頭を下げる。
悪い人じゃない。全然悪い人なんかじゃない。
この人が、政略結婚の相手なんかじゃなかったら、ここまで好かれれば、ころっと行ってしまったかもしれない。
でも、それは所詮、かなわぬ事。
「もういい、頭あげて。あなたみたいなのにそんな顔されたら、他の女に嫌われそうだし」
「そんなことありませんよ、冴子さんは、とても素晴らしい女性ですから。
僕などに保証されても、嬉しくないかもしれませんけどね」
「うるさいわね、そんな事言っても許してあげないわよ。 ……で、何?」
「ああ、そうでした。冴子さんに是非ご紹介したいところがありまして」
「ふぅん、で、どこなのよ」
「まあ、そんなに焦らないで下さい。少し、お時間を頂きます。
さぁ、お姫様、こちらへどうぞ」
フェラーリの助手席のドアを開け、私を中へと導く。
一瞬、そのまま走って逃げてやろうかと思ったけど、次に会ったときに、初っ端からあの泣きそうな顔を見るのは嫌だから、大人しく乗った。
「シートベルト、ちゃんと締めて下さいね。
冴子さんを怪我させたとあっては、僕は死んでも死にきれませんから」
「あーはいはい、乗る前から怪我するとか死ぬとか物騒なこと言わないで、安全運転しなさい」
「かしこまりました、お姫様」
そういって扉を閉め、運転席に乗り込み、車をゆっくりと走らせる。
その横顔は真剣そのもので、私は少し、笑えた。
「で、何? 何なのよここは?」
「結城北区の……昇龍区よりのほうですけど?」
「んなこと聞いてんじゃないわよっ」
「では、何を?」
「だから、この建物は何かって聞いているの」
私が指差した先には、一軒の喫茶店があった。
少し寂れた感じのそれは、私には似合っているとしても、奴には似合わない。
「喫茶店ですよ。さぁ、入りましょう」
私の腕を掴んで、歩いていく。
抗うことも出来ずに、私は引っ張られていく。
カランカラン……
大きなベルの音が鳴り、喫茶店の中へと入った。
そこは、他の喫茶店と何ら変わりのない喫茶店。
違うところといえば、入口の側に、グラウンドピアノがある事だろうか。
「あちらの窓際の席に座っていて下さい。私はマスターと少しお話しして来ますので」
「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」
「お紅茶とケーキはすぐに持って来させますので」
頭を下げて、足早に店の奥へと入っていく。
私は釈然としなかったけど、とにかく言われた席に座った。
そこには既におしぼりとお冷やが用意されていた。
私は軽く手を拭いて、あいつが帰ってくるのを待つ。
だけど、一向に戻っては来なかった。
一体、待たせて何をやっているんだろう。
いい加減待ちくたびれて、帰ってやろうかと思ったときに、目の前にティーカップが置かれた。
「お待たせいたしました」
「あ、はい」
次いで、ショートケーキが目の前に置かれる。
私は持ってきた初老の人に軽く頭を下げた。
「それでは、ごゆっくり」
とりあえず、私はこれを食べることにした。
食べていれば、帰ってくるかもしれないし。
まず、ティーカップを持ち、口に運んだ。
紅茶の豊かな香りが、ふわっと広がる。
「うわぁ……」
私がいつも飲んでいる、ティーバッグの紅茶とは全く違う香りに、思わず声が出てしまう。
これは、こっちのケーキも期待出来そう……
フォークで切り分けて、小さい欠片を口に運ぶ。
その瞬間、口の中にぱぁっと甘さが広がった。
「あ、美味しい……」
今までのしかめっ面から、一気に笑顔に変わっていくのが、自分でも解る。
それぐらい、美味しかった。
次々と平らげていってしまう。
「お待たせしました、お姫様」
向かい側の席に、あいつが座る。
にこにこした顔を、机の上に肘を立て、指を組んだ上に乗せ、私をじっと見つめている。
私はそれを無視して、ケーキをあっと言う間に平らげ、紅茶も飲み干してしまった。
「美味しかったですか? お姫様」
「うん、美味しいわ……これ作ったの、さっきのおじいさんかしら?」
「おじいさんというのは少し失礼でしょう……彼はまだ50歳なのですから」
「へぇ、そうなんだ……で、なんでここに連れてきたのかしら?」
「いえ、冴子さんのその笑顔を見たいが為です。
こうしていると、吸い込まれてしまいそうです……そのまばゆいまでの笑顔に」
その思いっきりくさい科白に、私は赤面してしまう。
視線を逸らして、とりあえず文句を言う。
「馬鹿な事言わないで。で、私に奢りたかったの? 結局」
「いえ、違います」
そういってから、あいつは店の中をぐるっと見渡した。
そして、立ち上がり、私の手を取り、優しく立たせる。
先程の笑顔から、一転して真面目な表情に、変わった。
「このケーキを作ったのも、紅茶を煎れたのも私です」
「へっ……? そ、そうなの? あなたにしては良くできているじゃない」
「私は、家は継ぎません。私の夢は、小さな喫茶店を持って、そこでお客様に美味しいケーキを振る舞うことです。
まだ、父には話していませんが、将来は絶対ここで働きます」
「って、あなた何言ってるの? そんなこと絶対あなたのお父さんが許すわけ……」
「無いでしょうね、でも説得します。なぜなら、ここが僕の夢なのですから」
嬉しそうに喫茶店の中を見回すあいつ。
その横顔に、何故かドキっと来てしまった。
「ですから、私は冴子さんを、親に言われて仕方なく付き合っているのではありません。
私が冴子さんを追いかけているのは、父の合併話には関係ないのです。
ただ、純粋に……」
そこまで言ってから、もう一度私に真面目な視線を向ける。
その先が予測できてしまい、私は胸を高鳴らせてしまう。
今までに言われたことより、遥かに重みの増す一言を受け止めるために。
「あなたのことを愛してしまったからです。
今の私には、あなたが必要です。あなた無しでは、この夢は達成できないと思っています。
お願いします。どうか、私の夢に付いてきてはくれないでしょうか」
その言葉に、私は頭を殴られたような衝撃を心に受けた。
こいつ……ううん、賢治さんは真面目に将来のことを考えている。
なのに私はどうだろう?
賢治さんのことを、政略結婚だと、汚らわしい目で見てばかりで、嫌なことばかりしかしてこなかったではないか。
賢治さんのことを、理解しようとなど、少しもしなかったではないか。
賢治さんは、私のことを理解しようと、必死になってくれたのに。
私は、賢治さんのことを、もっと理解したかった。
そして、その為には……
「……はい、私で良かったら」
数年後、二人が正式に付き合うきっかけになった喫茶店のカウンターの中に、二人の姿はあった。
あの後、二人の会社は正式に合併し、一つの会社となった。
その後で、二人は互いの家を出ることを決めたのだ。
親たちの猛反発を押し切り、勘当同然となってしまったが、今は幸せに暮らしている。
店は、小さいながらも、味の良さでそこそこの客入りは保てているようだ。
「ごめんね、冴子さん、苦労を掛けて」
今の賢治の口癖はこれだった。
そして、冴子の口癖は。
「いいえ……私、後悔してません。あなたの夢の道を、一緒に歩いていくと決めたのですから……」