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Saho Original Novel



カレンダー


by 高津沙穂




「ねぇ、兄さん……次はいつ来てくれるの……?」

「ん、そうだな……来年も、今日に来るよ」

「また、今日なの……? 一年逢えないの……?」

「仕方ないさ、俺だって忙しいし、母さん……いや、成美さんだってそんなに会うの許してくれないだろ」

「……そんな……」

「じゃ……」

「ま、まってっ 兄さん!」

 遠ざかっていく兄の後ろ姿。
 何度……いや、何千回と見ているはずの夢。
 この後、転んで、泥まみれになって、兄に追いつけなくて。
 そして、目が覚めるはずだ。

 そのパターンが破られることなく、この夢も、いつもと同じように覚めていった。

 目を覚まして真っ先に目に飛び込んできたのは、鏡に映った自分の顔。
 ベッドの側に置いてある鏡台。
 そこに、はっきりと涙を流している私の姿が映る。

 上半身だけ起きあがり、首を少しだけ横に向ける。
 その視線の先には、カレンダー。
 十二月。
 今年最後の月のカレンダー。

 そのカレンダーの十四日に、赤い丸が打ってある。
 忘れもしない、私の誕生日。
 それから、両親が別れて離ればなれになった兄と、唯一逢える日。

 そこから少しだけ視線をずらすと、その日までをカウントするために書かれたバツ。
 その数、二十三。
 数え間違えようのない数字。

 そう、兄は今年はまだ来ていない。

 家の外では、クリスマスイブを恋人同士で過ごす人が沢山いるだろう。
 私は、それとは全く関係ない。
 私は今まで、彼氏を作ったことがない。
 なぜなら、私は兄のことを愛しているから。

 兄も、私を愛している。
 一緒に家に居たときは、両親の目を盗んで愛し合っていた。
 それが当然で、揺るぎようのない事実だった。

 兄から別れを切り出されたことはない。
 私は、そんなことを考えたことすらない。
 二人は、恋人同士ではない、兄妹でもない、不思議な関係だ。

 でも、兄は今年はまだ来ない。

 再び、ベッドにうつぶせになる。
 襲いかかってくる現実に、涙が止まらない。

 一目、ただ一目でいいから、本物の兄の姿を見れば……
 この涙など、一瞬で止まるはずなのに。
 写真だけでは、涙をさらに増す結果にしかならない。

 早く、兄に会いたい。
 一瞬でも、その体に触れたい。
 頭の中が、兄でいっぱいになる。
 心の中が、兄でいっぱいになる。

 辛いけど幸せ。
 そんな時間……

 その時、不意に玄関のベルが鳴った。
 私は急いで起きあがる。
 階段を駆け下り、玄関へと走る。
 途中ですれ違った母が、驚いてしりもちをつく。
 でも、そんなことは私の目には入っても、頭には入らない。

 勢いよく、玄関のドアを開ける。
 目の前に、緑の何か。
 顔を上げる。
 そこには、私が待ち望んだ人の姿。

「兄さん……おかえり!」

 私は勢いよく抱きつこうとした。
 だが、兄は許してはくれなかった。
 私の頭に手を置き、近づくことを許してくれない。

 それでも、私は嬉しい。
 触れられた頭の先から、熱く火照っていく。
 兄を求めて、火照っていく。

「帰ってきたわけじゃないよ。成美さん、いるかい?」

「兄さん、私待ってたの。ずっと、ずっと……」

「美津子、成美さんはいるかい?」

「え……あ……」

 兄の手が、私の体を押し退ける。
 そのまま、私を見ることもなく、家の中に上がっていく。
 その後ろ姿を見送る。
 そして、微かに香ってきた香水……

 香水……?

 兄は、そんな物を付ける趣味はなかったはず。
 なのに、何故、香水?
 私は、顔を少しだけ横にずらした。

「成美さん、こんにちは、今日はちょっと報告に……」

 兄の声が微かに聞こえてくる。
 だけど、それは私の耳には聞こえても、頭の中に入らない。
 今は、私の目に映っている姿で、いっぱいだから。

 そこには、見たこともない女性。
 私に微笑みかけ、見下ろしている。
 私は、その女性が、悪魔か、死神に見えた。

「こんにちは……美津子ちゃんだっけ? よろしくね、私、村田真理っていうの」

 私は頭すら下げない。
 視線も外した。
 今、ここからすぐに逃げ出したかった。

 この女性は……
 この悪魔は……
 この死神は……
 すぐにでも、言い出すだろう。
 私の存在を、拒絶する一言を。
 信じ続けていた兄を、信じられなくなる一言を。

 だけど、逃げることは出来なかった。
 その言葉を、聞かなければならなかった。
 既に、悪魔は話を続けていた。

「もうすぐ、私、裕太君と結婚するの。
 正確には違うけど、あなたのお姉さんになるから、よろしくね」

 車に轢かれた方が、どれだけ良かったか。
 燃える家の中に閉じ込められた方が、どれだけ良かったか。
 数人の知らない男に暴行された方が、どれだけ良かったか。

 それを遙かに凌駕する衝撃が、私の中を駆け巡る。
 足に、まともに力が入らない。
 それでも、私は必死になって逃げ出した。
 逃げ出さなければ、私はこの悪魔に手をあげてしまうだろう。
 手をあげるだけで済めば、幸せかもしれないけど。

 私は、自分の部屋の中に逃げ込んだ。
 後ろから、誰かの声が聞こえてきた。
 だが、もうそれを理解出来るほど、私に余裕はなかった。


 部屋の中は、暗やみに包まれていた。
 この部屋を照らす物は、月明かりしかない。

 下の階からは、微かに声が聞こえてくる。
 楽しそうな声。
 おそらく、下では宴が始まっているのだろう。
 何度となく、母が来てドアの外から告げたから、知っている。

 カーペットの上に体育座りでじっと耐える。
 ますます自分が孤独になっていく事実に。
 きっと、押しつぶされるだろうが。

 涙が溢れて止まらない。
 私が飲んだ水は全て、涙へと変わるのだろうか。
 なら、何も飲まなければ、涙と悲しみは止まるのだろうか。

 私は目を閉じて、眠りにつこうとしていた。
 今から逃げるには、最も楽な方法だったから。
 だが、それは許されることはなかった。

 月明かりが、遮られていた。
 私の体に、影が落ちる。
 その影の形で、すぐに解った。
 私は窓に向かって顔を上げる。

「兄さん……」

 そう呟くと同時に、ベランダから兄が入ってきた。
 複雑そうな顔で、私に近づいてくる。

 私の心の中は、感激に包まれていた。

 兄は覚えていてくれた。
 昔、兄と一緒に過ごしていたとき、親の目を盗んで愛し合った。
 その時に、兄はドアではなく、ベランダから私の部屋に入ってきていたのだ。
 それを鮮やかに思い出し、私は感激する。

「ごめんな……黙っていて。でも、急に決まったんだ」

 そんなことはどうでもいい。
 今、こうして兄が来てくれただけで。
 私はなにもいらないのだから。

「それでさ……あの、結婚しても、また来るからさ……
 そんなに嫌わないでくれよ、頼む」

「兄さん……また来てくれるの……?」

「ああ、ちゃんと会いに来るさ、だから、真理を……」

 私は兄に飛びついた。
 すぐさま唇を奪う。
 一年と少しぶりの感触。
 私の心は沸き上がった。

「なにするんだ、もう、俺は結婚するんだから、こういうことはやめにしよう」

 兄が私を引き剥がす。
 それでも、私は兄を求める。
 何故か。
 それに答えるのは簡単。
 私は兄を求めている。
 兄も私を求めているのに違いない。
 だからだ。

「美津子、もうっ やめろっ!」

 だが、兄の強い力にはかなわない。
 思いっきりはねとばされる。
 後頭部に、強い衝撃が走った。
 耳に、兄がドアから出ていく音が聞こえてきた。


 しばらく立って、私は起きあがった。
 なぜ私は、机にもたれかかっていたのだろう。
 よくは解らなかった。

 下の階からは、声が消えていた。
 おそらく、兄は帰ったのだろう。

 私は立ち上がり、鏡台の裏に回る。
 そこには、来年のカレンダー。
 今年のカレンダーを外してから、同じ位置にそのカレンダーを着けた。

 そうだ、今年も兄は来てくれる。
 だから、兄が来てくれる日を書かなくてはいけない。
 私はそう思い、辺りを見回す。
 だが、どこにもペンが見あたらなかった。

 どうしようかと思ったが、ふと気がついた。
 何故か、私の手は、赤く染まっていた。

 そうだ、ペンのインクがこぼれて、手に着いたんだ……

 私はカレンダーをめくっていき、十二月の紙を出した。
 そして、十四日に指で丸を付ける。
 いびつで変な形になったが、そんなに気にはならない。

 あと三百五十五日。
 たったそれだけ過ごせば、兄は来てくれる。
 私に会いに来てくれる。
 そう思うと、嬉しくて溜まらなかった。

 今年最後の、一番大きな仕事をやり終えた私は、急に眠たくなってきた。
 頭の中で、来年は少し早く来てくれないかと思いながら、ベッドに倒れ込む。
 このまま眠れば、兄が来る日は早く来てくれるはずだ。
 嬉しくて溜まらない。

 だが、何故か涙が溢れてきた。
 後から後から、止めどなく。
 何故涙が流れるのだろう。
 嬉しいはずなのに、嬉しいはずなのに。

 そうだ……
 嬉しいから泣くんだ……
 うれし涙なんだ……

 そうして私は眠りについた。
 私を愛してくれる兄の腕に、抱きしめられることを、そっと思い出しながら……




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