体育館の中に、生徒達の歌声が響いている。
今日は、この学校の卒業式。
ある者は涙に濡れ、ある者は晴れ晴れとして、この中に存在していた。
俺は、幸せな気分で卒業式を迎えていた。
確かに、学校から去ることは辛い。
だが、それ以上に、これから始まる人生への期待が大きかったからだ。
俺には、同い年の彼女がいる。
二年半前、二学期の始まりと共に、俺の居るクラスに転入して来た。
来て早々、一日も姿を見せなかったから、クラスメイトのほとんどは、その内すっかり存在を忘れていた。
そんな俺も、その中の一人だったが。
十月に入ってすぐの日、俺は担任から呼び出されていた。
俺は、担任から呼び出されるのは、そう珍しいことではない。
不良生徒、と言うわけでは決してない。その逆だ。
だからといって、優等生という訳ではなく、ただ、この学期は学級委員長を任されていたからだ。
何かまた、面倒くさい用事を言いつけられるのかなと思いつつ、担任が待つ進路指導室へと入っていった。
「おう、中川、いきなり呼び出してすまんな」
「何か用ですか? また七面倒くさい用事なんでしょ」
「まぁ、そういうな。それがお前の学級委員長としての仕事なんだからな」
「わかりましたから、なんなんですか。忙しいですから手短にして下さい」
その次に、担任から言いつけられた用事は、やはり面倒くさい用事だった。
だが、その用事が、俺の運命を変えるだなんて、その時は考えもしなかったが。
学校が終わってすぐ、俺は家から反対方向に歩いてきていた。
それは何故かと言われれば、担任から言いつけられた用事を遂行するためである。
この先にあるのは、高級マンションが立ち並ぶ地域だ。
根っからの庶民の俺には、全く似合わなく、近づくことさえ避けていたような場所だ。
担任から手渡された地図を頼りに、俺は一軒のマンションの入口に立っていた。
周りと違って、オートロックのないマンションだったが、内装は俺の居るマンションとはかけ離れていた。
メモに目を落とし、そこに書かれている部屋の前まで歩く。
403号室。俺は少し緊張した面持ちでドアホンを押した。
「はい、どなたでしょうか?」
チェーンロックのかかったドアの隙間から顔を出す中年の女性。
俺はその女性に頭を下げ、要件を告げた。
「こんばんは、僕は結城西高校の中川大樹です。
担任に頼まれて、榊原さんをなんといいましょうか、学校にきちんと来るように説得を……」
「ちょっと、ごめんなさいね」
中年女性は一度ドアを閉め、再びドアを開けた。
どうやら、チェーンを外したらしい。
「わざわざごめんなさいね、でも、あのね、うちの娘はここには居ないの」
「はぁ、そうですか」
「たぶん、この屋上にいると思うんだけど」
「えっと、どこから行くんでしょうか? 確かエレベーターは7階まででしたけど」
「えっ?」
中年女性は、驚いた顔をして、それから微笑み、頭を深々と下げた。
「え、えっと、どうかしました?」
「そこまでうちの娘のためにしてくれるとは、思わなかったから。ありがとうね」
「礼を言われるほどじゃないです。学校へはきちんと行った方がいいですから。
で、屋上へはどう行けば?」
「一番向こうにある非常階段から上がれるわ」
「わかりました。それじゃあ、失礼します」
頭を下げ、足早に離れようとする俺の背中越しに、中年女性の声が聞こえてきた。
「うちの娘を、よろしくお願いしますね、中川さん」
俺は振り返らずに、そのまま頭を小さく下げて、非常階段へと向かった。
屋上まで階段をのぼり、金属製の重い扉を開ける。
彼女の姿は、すぐに見つけることが出来た。
落下防止用の緑の金網に身を預け、東の方をじっと見つめていた。
今にも泣きそうな表情で。
俺は一瞬、声をかけるのを躊躇った。
彼女の容姿に、すぐに見ほれてしまったのだ。
美しい、という言葉だけでは、彼女には失礼に思えた。
だが、俺にはそれ以上、彼女を表現できる言葉が思い浮かばない。
だから、想いを詰めるだけ詰めて改めて思う。
美しい、と。
そうしていると、彼女の方が先に、俺の存在に気が付いた。
少しウエーブの掛かった亜麻色のセミロングの髪を揺らし、彼女が俺の方を見る。
俺はその瞳に吸い込まれそうになった。
「誰……?」
「あ……えっと、君は榊原美藍さんだよね」
「そうだけど、あんたは?」
「俺は、中川大樹。君の行くはずの学校の行くはずのクラスで会うはずのクラスメイトをまとめている学級委員長さ」
「そ。それで、なんか用?」
彼女は、物憂げな表情でまた、東の空を見る。
これは説得には何回も必要になりそうだな。
彼女の口調と態度を見て、すぐにそう感じだ。
「担任から言われて。君を学校に連れてくるようにってね」
「今から? 学校は終わってるでしょ」
「もちろん今すぐじゃないよ、明日からだ」
「そう……」
もう一度、彼女は俺の方を見る。
そのまま、ゆっくりと歩いてきた。
そして、俺の少し前で立ち止まり、俺を舐めるように見回した。
「あの……なに?」
「ねぇ、本当に私を学校に連れていきたいの?」
「あ、うん、そうだね」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
「担任に言われたから? それとも自分の意志で?」
「言われたからもあるけど、今は俺の意志の方が強いかな。
やっぱり、学校は行かないといけないし。それに……」
「それに……?」
「これは俺の直感なんだけど」
俺は、彼女に笑顔を見せて繋げた。
「君と学校に行ったら、なんだか毎日が楽しそうな気がするんだ」
彼女が、ひどく驚いた顔をする。
その顔は、先程見た彼女の母親と少しかぶった。
ひとしきり驚いた後、彼女はゆっくりとこう言った。
「いいわ、学校に行ってあげる」
「そうか、ありがとう」
「でもね、行くにあたってあなたにやって貰いたいことがあるの」
「え? 俺に出来ることならいいんだけど」
彼女は歩み寄り、いきなり抱きつき、俺の背中に手を回してきた。
腹部に高校一年生としてはあるまじき柔らかい感触が伝わり、俺は慌てた。
だが、本当に慌てることになるのは、彼女の次の言葉だった。
「私の恋人になってくれない……? いいでしょ?」
俺は慌てた。驚いた。
だが、断る理由なんて、どこにも有りはしなかった。
こうして、俺は彼女……美藍とつきあい始めた。
それから二年半、俺は一度も喧嘩することもなく付き合ってきた。
美藍が回りに出会いのいきさつを言いふらしてしまったために、学校公認のカップルとなってしまった為、邪魔も入らなかった。
理想のカップル。
そんな言葉が周りの空気としてあったし、俺たちもそのつもりだった。
そして卒業式。
これが終わって四月になれば、新しい生活がスタートする。
俺は大学生として、美藍は社会人として。
……同棲する者として。
だから、俺は幸せな気分だったのだ。
これからの新しい生活は、全て光り輝くものとなるだろう。
そう確信していた。
卒業式も終わって数時間経ち、別れを惜しんで友人達と話している連中も居なくなった。
このクラスにいるのは、俺と美藍二人だけだった。
美藍が外で会っていた友人連中と別れ、ここで待ち合わせをしていたのだ。
「じゃ、美藍、帰ろうぜ」
「あ、うん……」
美藍が教室の中を見回す。
教室の物一つ一つに別れを惜しむかのように。
最後の、その眼は俺を捉える。
俺は、笑ってそれに答えた。
「あのね、大樹、私言わなきゃいけないことがあるの」
「ん? なんだ?」
不意に話しかけてきた美藍の言い方に驚きながらも、俺は机に腰掛けて美藍が話すのを待った。
美藍は、少し言いにくそうにしながらも、胸の前でぎゅっと手を握りしめてから、話し始めた。
「あのね、私たち別れましょう?」
「えっ……?」
俺の頭は、驚きでグチャグチャになった。
なにがなんだか、まるで訳が分からなかった。
美藍の言葉が何を意味するのか、理解が出来ない。
「ど、どういうことだよ、それ……」
「私と初めてあったときのこと覚えてる……?」
俺は、その言葉に答えを返すことが出来なかった。
それほど、俺は動揺していたのだ。
「あの時、何で学校に来なかったのか、大樹は全然聞かなかったよね。
聞かなかったから言わなかったけど……全部あなたに言う」
美藍は、目尻に涙を浮かべていた。
机に置かれていた卒業証書を入れる筒を持ち、それを強く握りしめる。
そうすることによって、美藍は涙を堪えているんだろう。
「私ね、東京にいたときに彼氏がいたの。
家同志で付き合ってきた、二歳年上だけど、幼なじみみたいな人だった。
とっても格好良くて……私の憧れで……つきあえたときは本当に嬉しかった……
でもね、それからすぐに、私は引っ越さなければならなくなったの。パパの転勤で。
だから、私はものすごく悲しかった。二度と逢えないって訳じゃないけど、離れることは辛かった。
何日も泣いて過ごして、学校なんて行く気も起きなかった。
時々屋上に行って、彼が居る東京の空を見てた……その時だけは、心癒されたの。
でも、寂しくて……寂しいのは消えなくて……
そんなときに、あなたが来た。
あなたは私に優しくしてくれた。
そんな優しさに、私はすぐに惹かれちゃった。
この人なら、私の淋しさを埋めてくれるって」
美藍は顔を伏せた。
俺の視線から逃れたかったんだろう。
少し間をおいてから、美藍は話しを繋げた。
「あなたはいい人だったから、すぐに私の淋しさは埋まっていった。
でもね、私は、ずっと彼のことが好きだった。東京にいる彼が……
ずっと騙してた。ごめんね……」
何かを言わなくてはいけない。
その思いだけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
美藍を気遣う? 怒る? 蔑む?
どれを選んでいいか解らずに、俺は声を出した。
「じ、じゃあ、会社はどうすんだよ。就職、決まってるんだろ?」
「ごめんね……それも嘘なの……
会社は決まったことは決まった……でも、それは向こうの会社なの」
「な、なんだよそれ……」
自分の的外れな質問にも、美藍の答えにも腹が立った。
同時に、情けなくなった。
そこまでしても、美藍は東京に戻って、彼氏に会いたいのだろう。
その彼氏に、俺は勝つことが出来なかったのだ。
「俺のことは……もう、嫌いなのかよ」
「嫌いなわけないっ!」
俺の何気ない一言に、美藍は激しく反応した。
顔を上げ、大きな声を叩きつけてくる。
美藍の顔は、涙に濡れていた。
「大好きだから……きちんと別れを告げようと思った……
何度も言わずにいなくなろうと思った……
でも、それは出来ないってわかってた……
あなたが……大樹が好きだから……」
美藍は俺に背を向けた。
泣き顔を見られたくないのだろう。
その声で、俺は全てを諦めていた。
もう、いいじゃないか、と。
美藍は、本当に俺のことを好きでいてくれたのだと。
その上で、さらに好きな人が居るというのならば。
俺は、美藍の幸せのために、身を引くのが当然じゃないかと。
辛い。辛いのは当然だった。
二年半も愛し合ってきたのだ。辛くないはずはなかった。
だが、俺も美藍は好きなのだ。愛しているのだ。
だから、美藍の幸せを考えてあげたかった。
俺が、その決意の一言を告げようと口を開いた。
しかし、それより先に、美藍がぽつりと呟いた。
俺の決意を全て無駄にするような一言を。
「ねぇ……もし……
もし、そんな私を許してくれて……
私を後ろから抱きしめて、キスしてくれたら……
彼のことは過去のことにして、あなたを愛していくのもいいかなって、今、思っちゃった……」
微かに含まれる、期待の色。
俺はそれを見逃さなかった。
美藍の背中に抱きつき、キスをして、慰めれば、美藍は俺の所に戻ってきてくれるだろう。
その言葉に嘘はない、そう思った。
美藍に、一歩一歩近づいていく。
美藍の期待の色が、より一層濃くなる。
あと少し。あと少し踏み出して、手を伸ばせば、全てが元通りになる。
だが……
「いたっ……」
俺の右腕は、卒業証書を入れる筒を、美藍の頭に振り下ろしていた。
小気味いい音が教室に響いた。
美藍は信じられないといった表情で、殴られた部分を両手で押さえ、俺を振り返った。
そして、俺は最後の言葉を継げる。
「ばーか、俺を騙すだなんて百年早いぜ。東京でもどこかでもいっちまえ」
美藍の眼から、涙がさらに溢れ出した。
それから怒りの表情で、俺の顔面に向かって、卒業証書の入った筒を投げつける。
「馬鹿っ! 大樹なんてしんじゃえっ! 少しでも心変わりしようとした私が馬鹿だった!」
美藍は大股で走って逃げていった。
俺は、美藍を追いかけることはしなかった。
ため息を付いて、美藍の卒業証書の入った筒を拾い上げる。
「あ〜あ……馬鹿だな、俺って」
筒を開けて、美藍の卒業証書を取り出す。
それを見つめ、一文字一文字、ゆっくりと読み始めた。
次第に、その文字は霞んで、読めなくなっていった。
「卒業証書……か……」
卒業証書を、最後まで読まずに、筒の中にしまった。
「俺が、美藍から卒業する証書……ははは、やっぱ馬鹿みたいだ……」
手の中にある二本の筒を机の上に置き、窓際に歩いて行く。
見下ろしたグラウンドのまん中を、美藍は全力で走っていた。
おそらく、泣いているだろう。
そんな美藍の後ろ姿に、俺は呟いた。
「幸せになれよ……
俺にくれた愛を、その彼に向けてさ……
今度こそ、心変わりなんてせずに……
そうすれば、絶対に幸せになれるさ……」
美藍の後ろ姿は、校門から消え、街の中に消えていった。
それでも構わずに、俺は呟き続ける。
「向こうに行ったら、俺を忘れてくれ……
二度と思い出すことのないくらいにな……
俺がどんなに美藍を愛していたか、いや、今でも愛しているか……
気付くことにないようにな……」
空しい言葉は、どう転んでも美藍に届くわけはないだろう。
だが、俺は呟かずにはいられなかった。
美藍が、本当に幸せを手に入れて欲しいと願っているから。
例え、自分の気持ちを犠牲にしても。
俺は今日、学業ではない、他の何かから卒業したのだろう。