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With You



比翼の雛鳥




渡り廊下 〜camera view〜

by 高津 沙穂




 九月。
 もう、十七時を回れば、辺り一面、茜色に染まってしまう季節である。

 そんな中、セントエルシア学園の、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を、一人の少女が、本を抱えて歩いていた。
 長いサイドポニーテールが一際目を引く、可愛い少女。
 名前を、伊藤乃絵美、と言う。

 既に校舎を包んでいる茜色に照らされた乃絵美の表情は、かなり優しげに見える。
 今、ここに画家や写真家が居たのならば、すぐにでも乃絵美を呼び止めて、自分の題材にしたであろう。

 乃絵美はゆっくりと、渡り廊下を歩いて行く。
 周りはかなり静かで、学校の中に、人は誰もいないのではないかと思えるほどだ。
 今聞こえるのは、乃絵美の足音のみ、だ。

 ガシャーン!!

 その時、どこかでガラスの割れる音が響いた。
 周りがかなり静かだったために、乃絵美は驚きのあまり少し飛び上がった後、恐る恐るその音の発生した方に、顔を向けた。

 乃絵美の視線の先には、テニスコートのベースラインで、ぼうっと校舎を見つめる少年が居た。
 校舎から視線を外した後、何度も素振りをしているところを見ると、どうやら少年が、ボールを打ち損ねて、校舎のガラスを割ってしまったようだ。

 少年───とは言っても、乃絵美と同じぐらいの年だろうが───は、素振りを何度も繰り返した後、側に転がっているボールを手に取り、上に放り上げた。

 (あっ……サービスの練習中なのかな……)

 弓なりに体を反らして、落ちてくるボールに合わせて、少年はラケットを振り抜いた。

「あっ……」

 少年の打ったサービスは、サービスコートやテニスコート内はおろか、ボールが外に出るのを防止するための金網さえ飛び越して、校舎の壁に当たった。
 後少し高ければ、今度は別のガラスを割ってしまう所であっただろう。

「……何回打ってるんだろう……」

 そう乃絵美が呟くのも無理はなかった。
 少年が打ったボールが落ちた場所には、無数のボールが転がっていたのだ。
 恐らく、少年は何度も、サービスを打って、その度にフェンスを越えているのだろう。

 少年は首を傾げながらも、再び、サービスのモーションに戻る。
 先程とは、サービスを打つ場所を少し変えていた。

(頑張って……)

 乃絵美は、心の中で、そう呟いた。
 手のひらが、少しずつ汗ばんでいるのが解る。
 名前も知らない少年に、すっかり感情移入してしまったようだ。

(今度こそ……)

 乃絵美が、心の中でそう祈る。

 だが、乃絵美のその祈りが、かなうことはなかった。

「そこの! ガラスを割るんじゃない!」

 少年がボールを打つ瞬間、いきなり大きな声が辺りに響いたのだ。
 それと同時に、ジャージ姿の男が、一直線にテニスコートの方へと向かっていた。

「そうか……ガラス割っちゃったんだもんね……」

 少し、乃絵美はがっかりする。
 少年が、サービスを決めることが出来なかったことに。

(あれ……私、何でこんなにがっかりして居るんだろう……)

 乃絵美は、にわかに自分の心に沸き上がっていた思いに、疑問を感じていた。
 少年は、乃絵美の知り合いでもない。
 まして、自分がテニスを出来るから、親心でそう思ったという訳では決してない。
 乃絵美は、スポーツ全般が、あまり得意ではないからだ。

 再び、視線をテニスコートに戻す。
 すると、少年も、ジャージ姿の男も、テニスコートから姿を消していた。

(本当に……どうしちゃったんだろう……)

 乃絵美は、そう考えながら、再び、渡り廊下を歩き始めた。

 ドンッ

「きゃあっ」

 数歩も進まない内に、乃絵美は何かにぶつかってしまった。
 本を持っていた部分が、ちょうど何かに当たったために、思いの外、バランスを崩してしまう。
 ふらふらとよろめき、何とか体勢を立て直そうとするが、それはすぐに無駄になってしまった。

「おっと……」

 ぶつかったのは、どうやら人だったらしい。
 ぶつかった人は、あまりダメージを受けていなかったらしく、ふらふらになっている乃絵美を、すぐに抱き留めた。

「ご……ごめんなさい……あ……」

 乃絵美は、謝ろうと顔を上げた。
 そして、そのまま固まってしまう。
 乃絵美がぶつかったのは、乃絵美が良く知っている人物だったからだ。
 まさか、知ってる人とぶつかるなどと言うことは思ってなかったからであろう。

「乃絵美……よそ見していると、人にぶつかるぞ。
 俺だから良かった物の、他の人だったらどうするんだ?」

「ご、ごめんなさい……お兄ちゃん……」

 兄の腕の中から、ゆっくりと離れる。
 兄は、多少困った表情で、乃絵美を見つめていた。

(そうだ……
 私は、せめてお兄ちゃんに、迷惑掛けないようにって、頑張ってるんだ……
 だから、頑張ってるあの人を見たら、
 つい、応援したくなっちゃったんだよね……)

「乃絵美、どうしたんだ?
 ……もしかして、病気かなんかじゃないだろうな?」

 乃絵美の額に、兄の大きな手のひらが当てられる。
 その手のひらが、かなり冷たかったために、乃絵美は驚いてしまった。

「きゃあ!」

「おわ……
 の、乃絵美!?」

「あ……
 ご、ごめんなさい……
 あの、その、病気じゃなくて、ただ、考え事をしてたから……」

「そうか……
 ならいいけど、考え事なら、自分の部屋か、どこか落ち着いたところで、座ってやった方がいいぞ。
 その方が、怪我はしないし、相手にも迷惑掛けないからな」

「はぁい、ごめんなさい……お兄ちゃん」

 乃絵美がそう微笑むと、ようやく兄も心配が解けたらしく、笑顔になった。
 そして、乃絵美の頭に手を乗せる。

「じゃあ、俺は帰るよ。
 乃絵美も一緒に帰るか?」

「あ、ううん。
 まだ、図書委員の仕事が残ってるから……」

「あ、そうか。だから、本持ってるんだな。
 ……じゃあな。気を付けて帰って来いよ」

 だんだんと遠ざかっていく兄の背中を、乃絵美は笑顔で見送った。

 頼もしい兄の背中。
 あの背中に、何回しがみついたことだろう。
 だが、やはりそのままでは行けない。
 彼女が出来た兄に、いつまでも頼りっきりではいけない。
 いつか、兄からは離れて、自立しないと行けないのだ。

(まだまだ……お兄ちゃんには迷惑を掛けちゃってるんだよね……
 もっともっと……がんばらなくっちゃ……)

 兄の背中が完全に見えなくなったところで、乃絵美は図書館に向かって歩き出した。

(せめて……
 あの人を見習って、先ずはピアノだけでもいいから……
 しっかり出来るように頑張ろう……)

 そう目標を決めると、いつもより少し、乃絵美の目の前が、明るくなったような気がした。

 瑠璃色の空が見え始めた夕闇。
 そんな神秘的な光景の中、乃絵美はしっかりとした足取りで、歩いて行った。





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