Back/Index/Next
With You



比翼の雛鳥




テニスコート

by 高津 沙穂




 乃絵美は、心を弾ませながら、渡り廊下へと向かっていた。
 五月に入ってからも、図書委員会には、あまり人が入ってこなく、
 乃絵美はいつも通り、放課後は図書委員会の仕事に追われることになってしまった。

 だが、乃絵美はそれで満足だった。
 今まで、日記にしてきたこととが、これからも続けられるからだ。

 教室の前の廊下を曲がり、渡り廊下にさしかかる。
 もう少し、後もう少しで、テニスコートで練習しているはずの羽柴が見られる……

 パコーン……

 その時、どこかから音が聞こえてきた。
 去年の九月から、八ヶ月間、一度もこの場所では聞こえなかった音だ。

 パコーン……

 足を止めて、渡り廊下の先の方を見る。
 すると、テニスコート側の窓が、所々開いているのを見つけた。

 なんでだろう……
 乃絵美は、考えてみるが、全く答えは思い浮かばなかった。
 しかし、別に窓が開いていたからといって、何か拙いことがある、と言うわけではない。
 ゆっくりとした足取りで、いつもそこと決めている窓へ行き、サッシに手を掛けて、羽柴の居るテニスコートを見た。

 羽柴のサービスの腕は、かなり上達していた。
 百発百中までとは行かないが、かなりの確率でサービスが成功する。
 後は、サービスが成功する確率を保ちながら、スピードとコースを厳しくして行くだけだ。
 険しい道のりにも見えるが、乃絵美にはそれが難しいことには思えなかった。
 今まで頑張り通した羽柴なら出来る、と。

 パコーン……

 羽柴の放ったサービスが、ラインぎりぎりに決まった。
 スピードもそこそこ出ていた。
 羽柴が軽くガッツポーズをする。
 それを見て、乃絵美も笑顔を隠せなかった。

「あっ……」

 先程は、今までで初めて、渡り廊下の窓が開いていた。
 今度は、羽柴が、渡り廊下の方を。
 つまり、乃絵美の方に顔を向けたのだ。

 今まで無かったことの連続に、乃絵美は思わず声を上げてしまう。
 その声に反応したのか、乃絵美の姿を見つけたからなのか。
 羽柴は乃絵美に向かって、大きく手を挙げて叫んだ。

「乃絵美さんっ!」

「あ、は、はい」

 釣られて乃絵美も、手を振り返す。

「何やってるんですか、そんなところで」

「あ、あの……」

 乃絵美は、答えようとするが、声が羽柴に聞こえなかったらしい。
 すると、羽柴は走って、渡り廊下の方に近づいてくる。

「あの……テニス、見てたの……」

「ああ。そうか。もしかして、テニスに興味、有るの?」

 テニスじゃなくて、あなたに興味があるの。
 そんなことは言えるはずもなく、乃絵美は顔を赤くして、首を大きく縦に振った。

「じゃあ、下に来て下さいよ、教えて上げますから」

 乃絵美は、その誘いに多少迷った。
 確かに、羽柴に近づくチャンスだが、先程から、必要以上に高鳴っている胸が気になった。
 まともに、話せそうもない。

 話せないでいて、恥をかくならいっそ、断った方が……

「ん……? どうしたの? 乃絵美さん」

「あ、い、いきます……」

 反射的に、行くと答えてしまった。
 本心が出てしまい、自分に慌てるが、行くと答えてしまったからには、行かないわけにはいかない。
 早足で図書室に戻り、残っていたもう一人の図書委員に、仕事を代わって貰い、テニスコートに急いだ。

 息を整えて、テニスコートの中へと入っていく。
 気づかれない位置で、さりげなく髪の毛を直した。

 パコーン……

 羽柴のサーブの音が、渡り廊下にいたときよりも、はっきりと聞こえる。
 この音と同じように、羽柴も、渡り廊下にいたときよりも、はっきりと見えた。

「あ、あの……」

「あ、いらっしゃい。結構早かったですね」

 乃絵美は、首を縦に振った。
 近くで見る羽柴は、乃絵美にはとても凛々しく見えた。
 こんなに近くで羽柴を見るのは、始業式の時に廊下でぶつかってしまったとき以来だ。
 乃絵美は、胸の高鳴りが羽柴に聞こえないようにと、胸を手でさりげなく押さえた。

「じゃあ、まずラケットの握り方から教えますね」

 羽柴は、コート脇にあるベンチに行くと、そこに置いてあったバッグから、ラケットを取り出した。
 グリップの部分がかなりボロボロなのを見ると、恐らく羽柴の使い古しなのだろう。

「じゃあ、握ってみて下さい」

と、今まで自分が使っていたラケットを、乃絵美に差し出す。

「えっ……そ、そっちじゃ……」

「こんなボロボロのヤツなんか、使わせられないですよ。さぁ、握ってみて下さい」

 乃絵美は、渡されたラケットを握った。
 全く握り方が解らなかったために、取り敢えず鉄棒を握るような形で握ってみる。

「そうそう、そんな感じで……あと、もう少し親指の力を抜いた方が……そうですね」

 どうやら、乃絵美の握り方でも、そう問題はなかったらしい。
 乃絵美は、恥ずかしいところを見せなくて済んだと、胸をなで下ろした。

「じゃあ、次は振ってみましょうか。えっと……僕のを見てみてやってみて下さい」

 羽柴がラケットを握り、二、三度振る。
 その綺麗さに、乃絵美は見とれそうになるが、自分もそれをしないといけないことにはっと気が付き、見ながら振ってみる。
 乃絵美の振りも、ぎこちないながらも、なかなか様になっているように見える。

「うーん……そうだなぁ、なんていったらいいか……」

「だ、だめ……?」

「いや、駄目じゃないんですけど、ちょっと……」

 羽柴はかがみ込むと、何度も反復練習をしている乃絵美を見つめる。
 しばらくそうしていたが、やがて、頷きながら立ち上がった。

「ん……やっぱりこうした方がいいかな……」

 羽柴はそう呟きながら、乃絵美の背後に回る。
 乃絵美が、何をされるのか、目を白黒させていると、羽柴は、乃絵美の背後から、腕を握ってきた。

「……えっ?」

「乃絵美さんの場合は、こう……ちょっと、ラケットが下がっているんですよ。
 ですから、この位置まで持ってくれば、いいんじゃないかと……」

 羽柴は、乃絵美の腕と一緒に、自分の腕を振って、乃絵美の体に覚え込ませようとする。
 乃絵美は、自分の心臓が、破れそうなほどに高鳴るのを感じた。
 だが、羽柴の期待を裏切るわけには行かないと、心臓の鼓動を押さえて、ラケットの位置に集中した。

「ん……良くなってきた……あとは、腰の回転がちょっと足りないかな?
 ラケットを振るとき、もっとここを、鋭く……」

 乃絵美が必死に押さえていた胸の鼓動が、再び大きく跳ね上がってしまった。
 羽柴が、乃絵美の腰を掴んだのだ。

「こういう風に……そう、それぐらいかな……」

 今度ばかりは、跳ね上がった鼓動を、押さえきることが出来なかった。
 顔がかなり熱くなる。
 今にも、火を吹きそうな程だ。

「じゃあ、僕がボールを投げますから、打ってみましょうか」

 不意に、乃絵美の体から、羽柴が離れる。
 乃絵美は、羽柴が離れていく間に、何とか心臓の鼓動を鎮めた。
 だが、それと同時に、淋しさも沸き上がってきていた。
 恥ずかしがりながらも、羽柴に触られたことが嬉しかったのだろう。

「ん……この位置でいいかな。じゃあ、行きますよ」

 羽柴は、5.6メートル離れた位置に、ボールが入った籠を持ってしゃがんだ。

「あ……お、おねがい……します……」

 乃絵美は覚悟を決めた。
 これで、きちんと打つことが出きれば、羽柴は喜び、好印象を与えるかも知れない。
 だが、もし外したら……

 乃絵美は構え、ボールがくるのを待つ。
 羽柴の手から、ボールが放たれた。
 乃絵美は思いっきり、ラケットを振った。

「え……?」

 乃絵美の後ろに、ボールが転がる。
 羽柴が放ったボールは、ラケットには当たらず、乃絵美の股の間を抜けて、転がって行ったのだ。
 乃絵美の目の前が真っ暗になる。

 絶対、がっかりさせてしまった……
 その思いが、頭の中を駆け巡る。

「あはは、最初はそんなものですよ。さあ、次行きましょうか」

 乃絵美はその声で、我に返る。
 羽柴は既に、ボールを放っていた。
 今度こそ、と意気込み、ラケットを思いっきり振った。

 ガシャーン!

 ボールは、コートに落ちず、フェンスを直撃した。
 乃絵美の目の前が、再び真っ暗になった。
 足から力が抜けて、思わずその場に崩れ落ちそうになる。

「ボールをちゃんと見ていないと、ラケットには当たりませんし、当たっても変なところに飛びますよ」

 羽柴の言葉に、何とか頷く。
 三度目の正直を信じて、乃絵美はラケットを握り直した。

「行きますよ」

 羽柴が、ボールを放る。
 乃絵美は、そのボールをしっかりと見て、当たる瞬間まで、じっとボールを見つめた。

 ガコッ

「ぶっ!」

 乃絵美は、大きく目を見開いた。
 焦りと、恥ずかしさで、頭の中がグチャグチャになる。

 乃絵美がラケットを振ると、ボールはフレームに当たり、明後日の方へと飛んでいった。
 そして、その先には、羽柴の顔面があったのだ。
 ボールは見事、羽柴の顔面を捉えた。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 乃絵美は、思いっきり頭を何度も下げる。

 もうこれで、私の初恋、終わるんだ……
 乃絵美は、そう感じずには居られなかった。

 だが、羽柴は、立ち上がると笑顔で答えた。

「あはは、いいんですよ。当たるような位置にいる、僕が悪かったんですから
 さ、次行きましょうか」

 乃絵美は、そんな羽柴が天使のように思えた。
 こんなに期待を裏切っているのに、まだ笑顔で救ってくれる。
 乃絵美は元気を出して、再び構え、羽柴のボールを待った。


 それから、一時間ほど、乃絵美は羽柴と共に、テニスの練習を続けた。
 乃絵美が打ったボールが、コート内に入ることはなかったが、乃絵美にとって、十分に楽しい時間となった。
 今日のことは、一生忘れないだろう。
 乃絵美は、今日の出来事を、胸の引き出しにしまっておくことにした。

「じゃあ、もう遅くなってきたし、帰ろうか」

「あ、うん……」

 太陽は、もう水平線ぎりぎりの位置にまで沈み、水平線近くは茜色、上空は瑠璃色になっていた。

「送っていこうか?」

「あ、ううん……いい……一人で、帰れるから……」

 その一時間の内に、二人はかなりうち解けていた。
 乃絵美は、まだ緊張が解けていないが、羽柴の言葉からは緊張が消えていた。
 このままの関係を続けていれば、乃絵美の緊張も、すぐに溶けるかも知れない。

「あのさ……またやりたかったら、僕の一人の時に、いつでもおいでよ」

「あ、うん……」

 乃絵美は微笑んだ。
 テニスがやれる、と言うことよりも、羽柴に会える、と言うことに対する喜びには間違いない。

「じゃあ、僕はもうちょっと残っていくから……」

「うん……バイバイ……」

 乃絵美は、羽柴に手を振って、テニスコートに背を向けた。
 家に帰る頃には、もう真っ暗になっているかも知れない。

 その前に、図書室に寄って、荷物を取ってこなくちゃ……
 乃絵美がそう考えていると、急に後ろから声がかかった。

「乃絵美さん!」

 乃絵美はその声に振り返った。
 すると、羽柴が走って、乃絵美の側まで来ていた。

「なに……?」

「あのさ、もう少し、話していいかな?」

「う、うん……いいけど……」

 そう答えると、羽柴は乃絵美の方とは違う方に体を向けた。
 乃絵美も、何だろうと不思議に思い、そちらの方に体を向ける。
 そこには、いつも乃絵美がテニスコートを見ていた、渡り廊下があった。

「あのさ……
 さっき、乃絵美さんを見つけたのは、初めてみたいな振り、しただろ?
 実は、乃絵美さんがずっと見ていたのは、知っていたんだ……」

 乃絵美の顔が、急に赤くなる。
 ばれていないと思っていたのに、本当は知られていたなんて……

「ご、ごめんなさい……その、ずっと、覗いてたり……して……」

「いや、責めてるわけじゃないんだ。
 邪魔されているわけじゃなかったしね、うん」

 乃絵美は、ゆっくりと羽柴の顔を見た。
 夕日に照らされた羽柴の顔は、いつもより暖かく、そして優しく見える。

「でも、そうは言っても、やっぱり気になっちゃってさ。
 あの娘は誰だろうって。
 それで、色々調べたんだ。
 そしたら、すぐに解った。君だって。
 その髪の毛、特徴有るからね」

 羽柴が、乃絵美のサイドポニーテールを見つめる。
 乃絵美は恥ずかしそうに、サイドポニーテールを掴んでいじった。

「それで、どういう娘なのかっていうのも気になって、君の家に行ってみたんだ。
 もしかしたら、君に会えるかも知れないって。
 中に入ってすぐ、解ったよ。
 君は、ピアノの前に座って、弾いていた」

 そう言えば、何日かピアノを喫茶店で弾いていたときがあった。
 あの時に、見られていたことになる。
 羽柴は気づいていたのに、乃絵美は全く気づいていなかった。
 まだ、自分のピアノの腕に満足していなかった乃絵美は、また恥ずかしいところを見られた、と思った。

「それから毎日、君の家に通ったんだ。
 行けば行くたび、僕は、ピアノについて詳しくないからよく解らないけど、
 上手になって行ってる、っていうのは、よく解った。
 頑張っているんだなって……
 それで、僕も頑張らなくちゃいけないって思った。
 それから、僕は毎日、一生懸命に練習するようになったんだ。
 君のおかげで、僕はここまで上達できた」

「そ、そんな……私、何もしてないですから……」

 自分が、羽柴の役に立っていたことを、乃絵美は正直に驚いた。
 私なんかでも、役に立てたんだ……
 そう思うと、嬉しくなる。

「そんなことないよ、ありがとう、乃絵美さん」

 羽柴が笑う。
 羽柴を見つめていた乃絵美の心臓が、一瞬高鳴る。
 胸に手を当てて、羽柴の目を見つめた。
 羽柴も、真剣な目で、乃絵美を見つめている。

「僕は、その後、こう思ったんだ。
 君を見て、こんなにも頑張れるんだったら、
 君が側にいてくれたら……
 もっともっと、頑張れるんじゃないかって。
 それは今でも、変わっていない」

 少しの間、二人の間を、沈黙が駆け抜ける。
 周りの生活の音も、止まってしまったように二人は感じた。
 時が、二人の間だけを、包んで護ってしまったかのように。

「乃絵美さん、僕は、君のこと、好きになってしまったんです。
 だから、迷惑じゃなければいいんだけど……」

 次の言葉を、乃絵美には容易に想像できた。
 想像出来た分だけ、心の準備は出来そうだが、心の高鳴りを、一気に跳ね上げてしまうことは、間違いない。

 不意に、羽柴の全てが愛おしくなった。
 そして、それを見つめる自分が、恥ずかしくなってきて、視線を足許に落とした。

 まだ、まだ早いと思っていたのに……

「僕と、付き合ってくれませんか?」





Back/Top/Next