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With You



比翼の雛鳥




図書館

by 高津 沙穂




 私、何をしているんだろう……

 一昨日の夜から、考えることの半分は、この言葉だった。

 一昨日は、羽柴に思いがけず告白され、家まで送って貰った後に、熱を出して寝込んでしまったのだ。
 羽柴に声を掛けられてから、家に帰るまでに、色々なことを考えすぎたためだろうか。
 不安ばかりが募って、精神から体が参ってしまったのだろうか。

 私、なんでOKしちゃったんだろう……

 一昨日の夜から、考えることのもう半分は、この言葉だった。

 自分では、まだ恋は早いと思っていた。
 付き合うと言うことは、どういうことかも解っていない。
 兄以外の男性に、好意を抱いたことはさほど無かったし、兄への好意は、恋や愛とは違う。

 なのに、「はい」と答えてしまった。

 羽柴のことは嫌いではない。
 好きだと言うことは解っている。
 ただ、怖かった。
 自分の知らない領域に踏み込むことが、怖かった。

 トントン……

 乃絵美の部屋のドアが、ノックされる。
 乃絵美は、ゆっくり立ち上がり、パジャマが乱れていないか確かめてから、ドアを開けた。

「ん? 起きられるのか? 大丈夫か?」

「うん……大丈夫だよ、お兄ちゃん……」

「学校、行けそうか?」

「うん……大丈夫」

 そう、乃絵美が頷くと、正樹は笑顔を見せる。
 ここ二日ほど、心配した顔しかさせて上げられなかった為に、その表情だけで、乃絵美は安心する。
 乃絵美の少し和らいだ表情に、今度は正樹も安心して、乃絵美の頭を軽く撫でてから、部屋を出ていった。

「さ、いつまでもこんな事で休んじゃいけないよね……」

 乃絵美は、兄の姿が、閉められた扉によって見えなくなると、そう呟き、てきぱきと身支度を始めた。


 乃絵美は、最近は下を向き、とぼとぼ歩くことが多くなった。
 いつも何かを ─── 大抵、羽柴のことを ─── 考えているためだ。
 今、一番乃絵美を悩ませていることは、
 「羽柴に会ったら、どう接すればいいのだろう」
 と言うことだった。
 付き合っているのだから、何か特別な受け答えをしなければ行けないのか。
 だとすれば、どうすればいいのだろうか。
 悩んでも悩んでも、答えは出てこなかった。

「あ……」

 だが、非情にもその時は、すぐに訪れてしまう。
 昇降口に辿り着き、靴を履き替えて、顔を上げた瞬間。
 目の前に、羽柴の顔があった。

「お、おはよう」

 羽柴が、ぎこちなく微笑んで挨拶をする。
 その表情を見ただけで、乃絵美の顔が真っ赤になった。
 途端に、思考もごちゃごちゃになる。
 顔も、次第にうつむいてしまう。
 何も、考えられない……

 羽柴は、そのまま突っ立っている乃絵美を、不思議に思いながらも、靴を履き替え、校舎の中へと入っていった。

「あ……」

 乃絵美の心の中に、後悔の念が一気に訪れる。

 なんで……なんであいさつすら出来なかったんだろう……
 挨拶ぐらい、すぐに出来ると思ったのに……

 自然と、表情が暗くなる。
 このまま帰ってしまいたくなる衝動に駆られながらも、こんな事でまた学校を休んでは行けないと、教室に向けて歩いて行った。

 教室に入り、自分の席に座る。
 後ろの席の友人は、まだ登校していなかった。
 鞄の中身を机の中に移し替え、乃絵美は大きく、ため息を付いた。

「乃絵美さん、大丈夫?
 休んだりして」

 急に、目の前から声が掛けられる。
 その声の持ち主が誰であるか、容易に想像が付いた乃絵美は、飛び上がらんばかりに驚いた。

「もしかして、無理にテニスに誘っちゃったりしたから……
 体調崩しちゃったんじゃ……」

 その問いに、乃絵美はうつむいたまま、首を横に振った。

「よかった……
 俺が原因だったら、どうしようかって、思ってたんだ」

「そ、そんな……
 ただ、ちょっと体の調子が……」

 クラス内に響いている、他の生徒達の声で、消え去りそうになる声で、羽柴の言葉を否定する。
 うつむいたままだったために、その表情はうかがい知れなかった。

「元気で来れたんなら、いいんだ。
 じゃあね」

 羽柴が、ゆっくりと乃絵美から離れていった。
 しばらくもしない内に、後ろの方から、羽柴をからかう男子の声が聞こえてくる。

 私、何やってるんだろう……
 顔も上げずに……
 羽柴さん、心配してくれたのに……

 乃絵美は、がっくりと肩を落とした。
 思い通りに体が動かない。
 思い通りに声が出ない。
 思い通りに表情を作れない。
 もどかしい……
 頭では、こうしよう、ああしようと思っているのに、心が、体が。
 乃絵美の全てが、それを拒否してしまう。

 私って、最低かも……
 乃絵美は、そう思わざるを得ない。

「乃絵美ぃ、みぃたぁわぁよぉ?」

 突然の声に、再び乃絵美は、飛び上がらんばかりに驚く。
 いつの間にか登校してきた友人が、声を掛けてきたのだ。

「な、何を……?」

「羽柴君と話してたじゃない。
 何話してたのぉ?」

「え……昨日休んだから……」

「ふぅん……
 乃絵美みたいな大人しい娘に、声を掛けてくるなんて……
 羽柴君、意外と乃絵美に気があるのかもね」

 その何気ない一言に、乃絵美の顔が真っ赤になる。
 冗談、冷やかしと解っていても、顔は敏感に反応してしまった。

「何赤くなってるのよ。
 冗談に決まってるでしょ?」

「もうっ」

 乃絵美が、そう怒ると、友人は笑って、自分の席に戻っていった。
 それを確認してから、友人に見えないように、またため息を付いた。

 気かあっただなんて、それ以上なのよね……
 だって、私達、もう付き合っているんだから……

 そう、心の中で思い起こすと、乃絵美の表情の赤みがさらに増した。
 こうして、乃絵美は今日一日、顔を赤らめたままで過ごすこととなった。


 乃絵美が、羽柴に告白されてから、一週間が過ぎていた。
 二人の間には、まだ何も進展はない。
 乃絵美は、挨拶をされても、全く返事が出来ずじまいだ。
 他の人たちから見れば、二人の関係は、恋人同士どころか、クラスメイト以下に見えるだろう。

 乃絵美は、深刻に落ち込んでいた。
 自分のせいで、恐らく羽柴は傷ついているだろう。
 折角両想いで、恋人同士になれたのに、何もしてあげられていない。
 それどころか、羽柴のテニスの練習すら見ていなかった。

 彼女なんだし……あいさつぐらいは出来ないと……
 そうは思うが、やはり、心と体は、別のことをしてしまう。

 どうしよう……本当にどうしよう……
 今、乃絵美は、そう考え、うつむきながら、夕方の校舎わきを歩いていた。

 乃絵美がいつも、羽柴の練習を見ていた時間。
 自然にあの渡り廊下に、足が向いていた時間。
 一番、ときめいていた時間。
 だが、今は憂鬱なだけだった。

「お〜い、乃絵美さん!」

 遠くから声がかかる。
 その声が誰かは、すぐに解った。
 乃絵美が羽柴と会うときは、大抵唐突だ。
 ただ、乃絵美がいつも、ぼーっとしているだけかも知れないが。

 一応、確認するために、顔を向ける。
 テニスウェア姿で、走って近づいてきているのは、間違いなく羽柴だった。
 逃げだそうとする足を、ぐっと堪える。
 そのまま、銅像か地蔵かのように固まりながら、羽柴が近づいてくるのを待った。

「こんな所にいたのか……
 図書室にいないしさ、探しちゃったよ」

「え……な、なに?」

 羽柴は、一旦膝に両手を置き、呼吸を整える。
 すぐに落ち着いたのか、ぱっと顔を上げた。
 その時の羽柴の表情が、告白の時の、あの真面目な表情に変わっている。

「あのさ、乃絵美さん。
 今度に日曜日……デート、しないか?」

 デート?
 乃絵美の頭の中に、疑問符が大きく浮かび上がる。
 友人から、デートという単語は聞いたことがある。
 しかし、聞いたまでのことであって、実践したことはない。

 デートって、一体何をすればいいんだろう……
 私もみんなみたいに、二人っきりで、色々なところにいったりするのかな……
 そんなこと、私にも出来るのかな……
 してもいいのかな……

 不安ばかりが、心の中に募っていく。

「乃絵美さん?」

 羽柴が、何も言わない乃絵美を不思議に思い、声を掛けてくる。

 な、何か答えないと……
 でも、何をどう答えたらいいの……?
 ど、どうしよう……

 いろいろな思いでグチャグチャな頭のまま、乃絵美は顔を上げ、口を開いた。

「ごめんなさい……」

「あ、そか……じゃあ、委員会頑張ってね」

 羽柴は、一瞬悲しそうな表情を見せるが、なんとか無理矢理笑顔を作って、乃絵美に背中を向けて走り去っていった。

 な、何言っちゃったんだろう……
 対して乃絵美は、放心状態になっていた。

 私、なんて嫌な女なんだろう……
 付き合っているのに、挨拶もしないし、変に黙っちゃうし、デートも断っちゃうし……
 本当に何やっているんだろう……
 なんとかしなきゃ……

 何とかしないと、どんどん嫌われていっちゃう……

 乃絵美は、なんとか顔を上げた。
 その顔には、強い意志が見て取れた。
 嫌われたくない、と言う思いが、自分の弱い心に勝った瞬間だった。

 明日、ちゃんと会って、今までのことを謝って、本当のことを話そう……
 私がこんな性格だから、迷惑をかけますって……

 羽柴のために、そして自分のために。
 乃絵美は、次の日を、決戦の日と決めた。


 その日の内に、乃絵美は、羽柴と話すための作戦を練って、早めに寝る。
 一度覚悟を決めてしまえば、乃絵美の心は、かなり軽くなっていた。
 朝、これほど気持ちよく起きられたことは、ここ十日の内では無かっただろう。
 最近は、下を見て歩いていたが、今日は、まっすぐ前を見て登校できる。
 ずっと見ていなかった光景が、目の中に飛び込んできて、乃絵美は少し徳をした気分になる。

 校門をくぐると、乃絵美は今日のために立てて置いた作戦を、何度も繰り返して、頭の中に叩き込んだ。

 図書室に呼び出して、すぐに謝って、自分の性格のことを必死に話して、なんとか解って貰って……
 これをきちんとこなせれば、大丈夫、と乃絵美は強気に思う。
 これだけ意志を高く持てば、心も落ち着くだろう。

 自分の教室には、いつもより早く着いた。
 教室の後ろのドアに回る。
 このドアを開ければ、そこに羽柴が居るはずだ。

「おはよう!」

「あ、おはよう、乃絵美さん」

 私だって、やれば出来るんだから。
 無意識に、笑みがこぼれる。
 達成感から来る、改心の微笑み。
 羽柴も釣られて、笑顔を見せた。

 何もかも、上手く行く……

「あの、今日の十七時、図書室に来てくれない?」

「え……? あ、いいけど、何?」

「お話ししたいことがあるの」

 一回礼をして、頷いた羽柴に背を向ける。
 いつもより少し大股気味に、乃絵美は自分の席へと向かった。

 この調子ならば、もう大丈夫。
 乃絵美は、そう確信した。


 今日の図書館の仕事は、本の整理だ。
 十七時となれば、やることもなく、ただだれているような時間だ。
 そんな中、乃絵美だけは、張り切っててきぱきと仕事をこなしていた。

 乃絵美は、入口が見える場所の本棚の整理をしている。
 表情には、自信が漲っていた。
 今日に掛ける意気込みが、すぐに見て取れる。

 時計の針が、いつもよりゆっくり、十七時をさしたように見えた。
 その瞬間、廊下から足音が聞こえた。
 乃絵美がその方向に顔を向ける。
 足跡の主はもちろん、羽柴だった

 羽柴は、図書室に入ってくると、歩みを遅くして、乃絵美の所まで来る。
 そして、乃絵美の二メートルほど手前で、立ち止まった。
 その瞬間、乃絵美は散々頭の中でシミュミレーとした言葉を、口に出そうとする。
 だが。

「ごめん」

「え……?」

 先に口を開いたのは、乃絵美ではなかった。
 羽柴の方だった。
 いきなり出鼻をくじかれる格好になった乃絵美は、戸惑う。
 言うべき言葉が、出てこない。

「僕、何を勘違いしていたんだろうな。
 僕なんかが、乃絵美さんみたいな人に、好かれるわけなかったんだ。
 乃絵美さん優しいから、断ったら僕が傷つくと思って、OKしてくれたんだよね」

「えっ……?」

 その羽柴の言葉で、一瞬にして、乃絵美の頭の中は真っ白になった。
 否定しなくては、と思うのだが、やはり言葉が出ない。
 先程までの自信が、一気に吹き飛ぶ。
 いつもの乃絵美に、戻ってしまう。

「バカだなぁ、ほんとうに。
 それなのに、舞い上がるだけ舞い上がって、迷惑掛けてばかり。
 挨拶するのすら辛そうなのに。
 もっと早く、気が付いて上げるべきだったよ。
 好きな女性のことなら、尚更ね」

「ち、ちが……」

「やっぱり、別れよう。
 僕のことは、忘れてもいいから。
 同じクラスにいるから、難しいかも知れないけどね。
 今まで無理して付き合ってくれて、本当に有り難う。
 じゃあ……」

 乃絵美の否定には答えず、羽柴は決定的な一言を投げかけた。
 そのまま、走って図書室から出ていってしまう。
 あっと言う間に、羽柴の姿は、見えなくなった。

 乃絵美は、その後ろ姿を、指一つ動かすことなく見つめていた。
 あまりの衝撃の強さに、何もできないでいた。

 十数分経つと、校内にチャイムが響く。
 その瞬間、乃絵美は膝から床に崩れ落ちた。
 そして、声を上げて泣き始めた。
 何事かと、図書委員が駆け寄ってくるが乃絵美は泣くことを辞めることが出来なかった。

 あまりのショックに襲われ、初めて味わう哀しみに包まれ、全てが無になってしまったと、心の中で、痛いほど分かっていたから。
 乃絵美は、泣くことを止められなかった。





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