Back/Index/Next
With You



比翼の雛鳥




l'omelette

by 高津 沙穂




「あ、おかえり、乃絵美」

 もう、夕方も過ぎ、夜になる時間。
 ロムレットで親を手伝っていた正樹は、入口から、乃絵美が入ってくるのが見えたために、声を掛けた。
 だが、正樹には、すぐに解ってしまった。
 乃絵美の様子が、いつもより、いや、かなり違うのだ。
 力無くうつむき、顔を上げようともしない。

「乃絵美?」

 返事すらしない乃絵美が心配になり、小走りで近寄る。
 その途端、乃絵美は素早く正樹の脇を通り抜けて、家の中へと入っていってしまった。

 何かあったのか?
 正樹は、心の中で、そう呟く。
 頭に思い浮かぶ、可能性。
 にわかに、乃絵美への心配が、酷く膨らんでいった。

「ごめん、ちょっと乃絵美見てくる」

 親にそう告げると、正樹は乃絵美を追って、家の中に入っていく。
 後ろから、親の不思議そうな声が聞こえた。
 それどころではない。
 今は、店の客よりも、乃絵美の方が心配だった。
 正樹は、心の中で、親と店の客に謝った。


 トントン……

 正樹は、乃絵美の部屋の前に立ち、軽くノックをする。
 しばらく待ってみるが、乃絵美からの返事は、無かった。
 もう一度、強めにノックしてみるが、それでも乃絵美からの返事は、無かった。

「乃絵美、入るぞ」

 一言、ドアの向こうにいるはずの乃絵美に断ってから、ドアノブを回す。
 入室を拒んでいるように見えたが、鍵までは掛けられていなかった。
 廊下のあかりが、暗い部屋の中を照らす。
 乃絵美の部屋は、灯りがつけられていなく、真っ暗だった。

「乃絵美?」

 手探りで、蛍光灯のスイッチを探す。
 すぐに、部屋の中が、明るい光で満たされた。

 数度瞬きをして、目を明るさに慣れさせる。
 十分に慣れる前に、部屋の中を見回し、乃絵美の姿を探す。

 乃絵美は、すぐに見付かった。
 ベッドの上に、うつぶせになって居たのだ。
 背中が、肩が、小刻みに震えている。

「乃絵美……」

 躊躇いがちに、声を掛けてみる。
 すると、乃絵美の肩が、大きく震えた。

 それからすぐ、乃絵美は、極力正樹に顔を向けないように、起きあがる。
 素早く両手で、目の当たりを擦り、正樹の方に向き直った。
 顔だけは、伏せたままだったが。

「どうしたの、お兄ちゃん。お店は?」

「お店は、じゃないだろ?
 乃絵美、どうしたんだ?」

「え?
 うん、大丈夫だよ」

 努めて明るく、答えようとする乃絵美。
 だが、言葉の端々に、小さな嗚咽が聞こえる。
 それが、正樹にはたまらなく痛かった。
 乃絵美がこうなるまで、乃絵美の変化に全く気が付かないでいた、自分の不甲斐なさに。

「大丈夫じゃないだろ。
 何年、一緒にいると思っているんだ?
 乃絵美が生きている間、ずっと一緒なんだぞ」

 その言葉に、乃絵美ははっと顔を上げた。
 顔中が、いや、襟まで、涙に濡れていた。
 目が、酷く赤い。
 十六年間、乃絵美に接していても、あまり見なかった表情。
 正樹は、心の中で乃絵美に謝った。

「お兄ちゃん……
 私……」

「どうした? 何があったんだ?」

 乃絵美は、ベッドの上に正座する。
 そのまま、両手をベッドにつけた。
 それは、正樹に極力、顔は見せないようにしているようだった。

 少しの間が空く。
 正樹は、緊張した面持ちで、乃絵美の言葉を待った。
 そして、衝撃的な言葉は、すぐに訪れる。

「私……

 振られちゃったの……」

 その告白が、今まで正樹の前で泣きやむという苦労をしていた堰を切ったのか、乃絵美は大声で泣き始めた。

 突然聞かされた乃絵美の恋愛、そして終焉。
 正樹は、一瞬どうしていいか迷う。
 だが、すぐに、乃絵美への想いを行動に移した。
 乃絵美に掛けよって、膝立ちになり、乃絵美を優しく抱いた。
 壊れそうになっている、天使の羽を、優しく癒そうかとしているように。

 乃絵美は、一瞬驚きながらも、暖かい正樹の胸に頬を当て、広い背中に手を回し、抱きしめた。

「乃絵美、しょうがないさ。
 長い人生なんだから、一度はそう言うことだって、あるよ。
 俺も、一度経験しているから……」

 左手で、乃絵美の頭を撫で、つとめて優しく、声を掛ける。
 子供を抱くより慎重に。
 恋人を抱くより暖かく。

「乃絵美は何も悪くない。
 ただ、二人の気持ちが、うまく繋がらなかっただけさ」

「……違うのっ」

 乃絵美は、強い口調で、正樹の言葉を否定する。
 強く抱いていた腕を放し、正樹から離れる。
 そして、正樹の目を、まっすぐに見つめた。
 哀しみに濡れる、その目で。

「違うの……
 お兄ちゃん、全部、全部私が悪いの……
 私がはっきりしないから……
 私が傷つけちゃったから……
 私が……っ!」

 乃絵美の告白。
 考えもしていなかったこと。
 正樹は、正しくない慰めをしてしまった自分を、酷く悔やんだ。

「そうか……
 良かったら、何があったのか、話してくれないか?
 お兄ちゃんが、乃絵美の哀しみ、少しでも分けて貰うためにも。
 乃絵美だけに、哀しい想いをさせたくないから。
 乃絵美だけに、辛い思いをさせたくないから、な?」

 その正樹の暖かい言葉に、再びの笑みの目から、涙が溢れる。
 正樹は、再び乃絵美を、優しく抱きしめた。
 乃絵美の胸によぎる、涙という嵐を、ひとまず収めるために。


 それから、正樹は、乃絵美に起こった今までのことを、全て聞いた。

 まずは、うまく行きすぎた日々。

 図書委員会の仕事中に、偶然渡り廊下を通りかかって、羽柴を見つけたこと。
 羽柴を見て、自分も頑張ろうと思ったこと。
 いつの間にか、羽柴を見るのが日課になっていたこと。
 いつしか、それが淡い恋心になっていたこと。
 ある日突然、見付かって、テニスの練習をしたこと。
 未だに信じられないっが、告白をされてしまったこと。

 そして、それからのすれ違い。

 羽柴に会うと、思いっきり緊張してしまうこと。
 何も喋られなくてもどかしかったこと。
 デートの誘いを、恐怖心から、思わず断ってしまったこと。
 今度こそ本当のことを言おうと意気込んだが、先を制されて振られてしまったこと。

 全てを隠さず、全ての真実のことを、全て話しきった。

 その間、正樹は真剣な表情で、一言も聞き漏らすまいと、乃絵美の言葉を聞いていた。
 時折、泣きそうになる乃絵美を、慰め、支えながら。
 乃絵美の全てを受け止めるために。
 正樹は、今の全てを、乃絵美との瞬間に注ぎ込んだ。

 乃絵美が全てを話し終えると、正樹は、一回大きく息を吐いた。
 天井を見上げ、それから、乃絵美に向き直る。
 そして、真剣な表情で、乃絵美に話し始めた。

「乃絵美、今でも、羽柴君のこと、好きか」

「うん……」

「また、誤解を解いて、恋人同士に、なりたいと思うか?」

「うん」

「じゃあ、やっぱり、乃絵美から、羽柴君に嫌いなわけじゃないと言うことを言わないといけないな」

「うん……」

 乃絵美の表情が、見る見るうちに沈んでいく。
 自分でも解っている答え。
 解っていても出来ない答え。
 答えようとしても、答えさせてくれない事実。

 果たして、今なら、出来るだろうか?
 兄に背中を押して貰ったからといって、出来るだろうか?
 羽柴を目の前にして、真実が語れるだろうか?

 乃絵美は、不安に押しつぶされそうになる。
 赤くなった目に、再び涙がたまり始めた。

「あのさ、乃絵美。
 乃絵美は、どんな時に、自分が一番強くなったと思う?」

「えっ……?」

 その時、不意に発せられる、正樹の一言。
 乃絵美の涙が、止まる。
 乃絵美は頭の中で考え始めた。
 だが、まだよく頭の中でまとまらない。

「俺の場合は、やっぱり、走っている時かな。
 その時、俺は一番強いんだと思う。
 好きな人を全て、手元に置いても、守り抜けると思えるぐらいの、強さを。
 乃絵美にも、あるだろう?
 俺の場合までと言わないにしても、乃絵美だけが持っている、乃絵美だけの強さを引き出せる、何かを」

 真剣な正樹の顔を見つめる。
 見つめれば見つめるほど、自分に何かを伝えようとしていることが解る。

 正樹にとって、走ることがどれだけ大事か、乃絵美にはよく解っている。
 昔、まだ正樹が小さかった頃。
 遠ざかっていく真奈美を、追いかけても、追いかけても追いつけなかった。
 だが、それを乗り越えて、今は正樹の心は、真奈美と共にいる。
 正樹は走り続け、例えそれが、運命の引き起こした偶然だとしても。
 走ることが、真奈美と正樹を引き寄せたのだ。

 正樹にとっての全て。
 勇気や自信を与えてくれる、行動。
 それは、「走ること」しかないであろう。

 だが、果たして。
 自分自身にも、そう言った物があるだろうか。
 正樹の走ることのように、強い想いを乗せられる物。
 自分の勇気や自信を、満ちあふれさせてくれる、魔法のような物。
 果たしてそれが、自分にあるだろうか?

「あ……
 あった……」

 乃絵美は、すぐにそれを見つけた。
 乃絵美にとって、乃絵美の全て。
 乃絵美に全てをぶつけられる物。
 それは……

「ピアノ……
 私には、ピアノがある……
 お兄ちゃんのように、絶対の自信じゃないけど……
 ピアノは……
 ピアノなら、私に勇気を与えてくれる!
 自信を、与えてくれる!」

 乃絵美の表情が、一気に明るくなる。
 つい先程まで、泣いていたのは、一体何処に行ってしまったのか。
 それだけでも、乃絵美にとってピアノは、かなり大きな物だということが解る。
 乃絵美の涙を、一瞬にして吹き飛ばしてしまうほどの、大切な物。
 ピアノという物によって、乃絵美は全ての哀しみを吹き飛ばしたのだ。

「お兄ちゃん……
 私、ピアノで頑張るよ!」

「そうか……
 頑張れよ、俺が出来ることなら……
 いや、例え出来ないことだとしても、協力するから」

「うん……
 ありがとう、お兄ちゃん」

 乃絵美は、正樹の腕に飛び込んだ。
 有り余る喜びを、全てぶつけるように。
 満面の笑みで。
 大切な物を気づかせてくれた、兄に感謝しながら。

 乃絵美は再び、前に向けて歩き出した。
 自信という名前の羽を、大きく広げながら……


 それから二ヶ月もの間、乃絵美は、ピアノの練習に全てを注ぎ込んだ。
 自分の想いを、全て乗せられるピアノを。
 自分の納得の行く場所にまで、引き上げるために。

 それは徐々に実を結び、六月の半ば過ぎになると、乃絵美の心の中は、自信に満ちあふれるようになった。
 心の中から、溢れてこぼれ落ちそうなほどに。

 それからすぐ、乃絵美は羽柴に、ロムレットに、数日後、訪れるように頼み込んだ。
 羽柴は、乃絵美の突然の変化と、突然の頼みに驚きながらも、了解した。
 羽柴にも、乃絵美の変化は、感じられただろう。
 自分の想いを、中途半端に終わらせたくないのは、羽柴も同じだろう。

 羽柴を迎え入れるための、精一杯の準備が、ロムレットでは始まっていた。
 事情を聞いた両親が、特別に半日、乃絵美と羽柴のために、ロムレットを貸し切りにする事になった。
 それには、正樹の説得が欠かせなかっただろう。
 乃絵美のための必死の説得が。

 乃絵美は、そんな兄や、両親に感謝しつつも、最後の調整に入った。
 完璧を、さらに完璧にするために、ピアノに向かう。
 いつの間にか欠けていた自信を、ピアノが補う。
 綻んでいた勇気を、ピアノが繕う。
 ピアノが、ドンドンと乃絵美を強くしていく。

 そして、乃絵美が羽柴に、全ての想いをぶつける日が来た。
 ロムレットは、開店以来初めての静けさに包まれていた。
 店の中には、溢れんばかりの乃絵美の想いを詰め込みながら。

 その時は、刻一刻と近づいていた。


 羽柴は、雨の中を、傘を差して歩いていた。
 辺りは静かで、時折、食器を洗うような音や、掃除機を使うような、生活の音が聞こえる程度だ。
 そんな中を抜け、羽柴はロムレットに向けて歩いて行く。

 しばらく歩いて行くと、やがてロムレットが見える。
 落ち着いた感じのする、喫茶店。
 何度も、乃絵美を見るために訪れた、喫茶店。

 だが、今回は、いつもとは違う。

 乃絵美から頼まれての、訪問。
 分かれてから、ただのクラスメイトになっていたはずなのに、一体何が。
 羽柴は、そう疑問を持ちながら、ドアの前に立った。

 ドアノブには、本日貸し切りの札が掛かっていた。
 羽柴は一瞬、入るべきかどうか迷ったが、すぐに決心し、中へと入っていった。

「いらっしゃいませ」

 すぐに、制服を着た店員が挨拶をしてきた。
 その店員を、羽柴は知っていた。
 乃絵美の兄、伊藤正樹だ。

「こちらへどうぞ」

 正樹が手を出した先には、店内に唯一置かれている、テーブルと椅子があった。
 その光景を不思議に思いながらも、傘を傘立てに置き、まず、その椅子に座ることにする。
 座るとすぐに、正樹がおしぼりを持ってきた。
 おしぼりを貰い、ゆっくり手を拭いていると、今度はすぐに、コーヒーが運ばれてくる。

「どうぞ、ごゆっくりとおくつろぎ下さい」

 そう告げ、深々と礼をした後、正樹は店の奥に消えていく。
 静かなクラシックの曲が流れている店内。
 その中で、羽柴だけが、動いている。

 不思議と、落ち着く雰囲気だった。
 いつも、人が沢山いる場所に、一人で居るからか。
 それとも、このコーヒーのお陰か。

 そろそろ、コーヒーを飲み終わろうかとする頃。
 それが解っているかのように、クラシックの曲が終わる。
 何事かと辺りを見回すと、奥から、御盆を持った正樹が出てくる。

 正樹は、御盆の上にコーヒーカップとソーサーを乗せ、口を開いた。

「本日のメインイベントで御座います。
 あちらのピアノをご覧下さい」

 その言葉に、ほとんど反射的に、店の置くにおかれているピアノを見る。
 すると、店の制服に身を包んだ、乃絵美が出てきた。

「の、乃絵美さん?」

「お客様、お静かにお願いします」

 思わず声を出してしまうが、すぐさま正樹に止められる。
 正樹はそのまま、一礼をして、店の奥へと戻っていった。


 乃絵美は、ゆっくりと歩いて、ピアノの前に辿り着くと、羽柴に向き直り、一回礼をした。
 そして、軽やかに椅子に座る。

 いつもと違う、優しく、真剣な横顔。
 一瞬にして、羽柴の視線が、乃絵美と、ピアノに注がれる。

 乃絵美は、鍵盤に手を置いた。
 一回大きく深呼吸をする。
 胸が、大きく上下する。

 そして、息を止めると……

 乃絵美は力強く、鍵盤を叩き始めた。

 いつもの乃絵美からは、想像できないほどの、激しい曲。
 行進曲風の、三連符の効いた軽やかな音。
 乃絵美も、きびきびと鍵盤を叩き続ける。

 その横顔の凄さに、音楽はからっきしである羽柴でも、魅入られていく。
 今までの乃絵美になかった新たな一面。
 羽柴は、驚きと共に感心する。

 やがて、曲は優しい、乃絵美らしいメロディに変わる。
 流れるような主旋律が、実に心地よい。

 乃絵美の表情も、優しく、心持ちうっとりとしているように感じられる。

 そして、曲は再び、行進曲風なメロディに戻る。

 激しさと、優しさのロンド。
 その時、羽柴ははっと気が付いた。
 乃絵美が、ピアノを通して伝えたかったことに。

 激しい、行進曲風なメロディは、羽柴を。
 優しい、流れるようなメロディは、乃絵美を意味しているのだ。
 互いが互いを助け合い、お互いを引き出している。
 無い物を補い合い、いいところを引き出している。
 一見反しているように見えるメロディも、実にバランスよく、美しく聞こえる。

 もう一度、流れるようなメロディに変わり、また、行進曲風のメロディに変わる。
 一生、このまま効いていたいと思える、乃絵美のそのピアノ。
 だが、それにも終わりは訪れる。

 一層、メロディが激しくなっていき、少しメロディの雰囲気が変わると。
 乃絵美のピアノは終わっていた。


 拍手の音が、店内に響きわたる。
 羽柴は、自分の手が腫れ上がってもいいとばかりに、激しく手を叩き続けていた。

 それでも、全く足りないほどの、乃絵美の演奏。
 完璧に、羽柴は心を奪われていた。
 例え、乃絵美が自分のことを嫌っていたとしても、自分の方からは、一生愛し続けられるだろう。

 乃絵美は立ち上がり、羽柴に向かって、深々と礼をする。
 それから、ゆっくりと羽柴に向かって歩き始める。
 静かな店内に、乃絵美の靴の音だけが、響く。
 乃絵美は、羽柴の一メートルほど前で立ち止まった。

「乃絵美さん……」

「まって……
 今は何も言わないで……」

 乃絵美は、自分の人差し指で、羽柴の唇を押さえる。
 羽柴が、首を縦に振ったのを確認すると、人差し指を離した。

「羽柴さん……
 私、どうしても言わないといけない事があるの」

 その声に、羽柴は大きく頷いた。
 口をきつく結び、きちんと聞く態度を見せる。
 もうこれで会うのをやめよう、と言われるかも知れないが、それでもきちんと聞かなくてはならない。

「私、緊張しちゃうと、いきなり話せなくなっちゃうの……
 話しどころか、挨拶もできない状態で……
 だから、すぐに黙っちゃって、羽柴さんに迷惑を掛けてた……」

「そうなんだ……」

「デートに誘われたときも、とっても嬉しかった……
 でも、知らないことをするんだって思ったら、いきなり怖くなっちゃって……
 それで、断っちゃったの……」

「ご、ごめん……僕は……」

「まだ……まだ言わないといけないことがあるから……」

 何かを言おうとする羽柴を、言葉で制する。
 そのまま、もう一歩羽柴に近づいた。
 一瞬、視線を落とし、羽柴の右手を、優しく握った。
 上目遣いで、羽柴の目を見つめる。

「乃絵美さん?」

「私は……
 私は……
 羽柴さんのことが、好きだったの」

「えっ……?」

「去年の九月に、羽柴さんが練習をしているのを見たの。
 最初の内は、頑張って居るんだなって思うぐらいで……
 でも、どんどん興味が沸いてきて、テニスがうまくなっていく羽柴さんに惹かれてた……
 テニスを教えてくれたことも嬉しかったし、その後告白してくれたことも嬉しかった
 でも……」

 乃絵美の目に涙が浮かぶ。
 滲んで見えなくなりそうな羽柴を、強く、強く想いながら、乃絵美は言葉を続けた。

「私……
 羽柴さんにばっかり迷惑を掛けて……
 ごめんなさい……」

 少しの間、二人を沈黙が包み込む。
 乃絵美にとって、今まで一生分にも思える、長い間。
 現実の時間にすれば、ほんの数秒だったのだが。

 そして、その間の後、先に口を開いたのは、羽柴の方だった。

「ごめん、やっぱり僕さえ気が付いていれば、乃絵美さんに、長い間こんな哀しい思いをさせずに済んだのにな……」

 乃絵美は、羽柴の手を離した。
 ポケットから出したハンカチで、涙を拭き、笑顔を見せる。

「確かに、最後の日は哀しかった。
 でも、その後は、ピアノが……
 ピアノが、絶対うまく行くって、私に勇気をくれたから……
 絶対、羽柴さんに解って貰えるって、信じてたから……」

「でも、でもね」

 その言葉に反応し、羽柴はすぐに口を開いた。
 羽柴は、すぐには言葉を繋げず、乃絵美の肩に両手を乗せた。
 潤んだ瞳を見つめる。
 何を言われるんだろうかという、微かな恐怖と、絶対大丈夫だという、確かな勇気。
 それらが、混在している、瞳を。

「でも、僕は乃絵美さんに、一分一秒でも、哀しんで欲しくないんだ。
 乃絵美さんのことが好きだから……
 乃絵美さんのことが大好きだから……」

 その羽柴の言葉に、乃絵美は再び涙を流した。
 今度の涙は、哀しみの涙ではない。
 嬉しさから産まれる涙。
 この世で、もっとも綺麗な涙の一つ。

「私も……
 私も羽柴さんのことが、今でも大好き……」

 嗚咽で、話せなくなってしまうのを堪えて、それだけ言いきる。
 そして、その言葉を言い終わった後、堪えきれなくなったのか、羽柴の胸に飛び込み、大声で泣き始めた。

 羽柴は、そうするのが、さも自然な姿であるかのように、乃絵美を抱きしめた。

「話すことが出来ないのなら、出来るように、徐々に慣れていこう。
 乃絵美さんの辛さや、哀しみは、全部僕が背負うから。
 乃絵美さんが普通に話せるようになるまで、一緒に頑張ろう。
 いつかきっと、普通に話すのが当然の、恋人同士になれるように、頑張ろう?」

「はい……
 がんばる……
 だから……
 これから、よろしくお願いしますね……」

 と、その時、大きな拍手の音が、ロムレットの中に響く。
 二人はびっくりした表情で、辺りを見回した。

 すると、店の奥から、正樹を先頭に、数人の男女が、拍手をしながら歩いてきていた。
 数人の男女は、二人には誰であるかすぐに解った。
 二人のクラスメイトだ。
 よく見れば、まだ奥の方には、真奈美や菜織、美亜子といった、おなじみのメンバーもいる。

「おめでとう 乃絵美ちゃん!」

「羽柴、お前くさいセリフだなぁ……」

 それぞれ、祝福したり、冷やかしたりしながら、二人の周りを取り囲んだ。
 二人は、今頃になって、まだ抱き合っていることに気づいたのか、顔を真っ赤にして離れた。

 しばらくして、拍手と祝福と冷やかしの嵐も終わる。
 正樹が取り敢えず、全員を落ち着かせたのだ。
 正樹が手を広げると、一同はゆっくりと後ろに下がり、二人の側には、正樹だけが残った。

「羽柴君、だよね」

「あ、はい」

 正樹は、羽柴にいきなり声を掛ける。
 緊張しているのか、少し羽柴の声がうわずっている。
 それを聞いて、正樹は笑顔を見せるが、すぐに真面目な表情になった。

「羽柴君。
 乃絵美は、まだまだ、体も、心も弱い。
 誰かが、支えになって上げないといけないと思う。
 いつかは、自分で立たないといけないとしても、それまでは。
 今までは、それは俺の役目だった。
 でも、これからは、それは君の役目だよ。
 当然、俺もきちんとサポートをするけど、君には、俺以上に頑張って欲しい。
 その覚悟、あるか?」

 その言葉に、羽柴は驚くが、すぐに決心を決める。
 真面目な表情で、嘘偽りもなく、羽柴はこう、言い切った。

「はい、もちろんです。
 僕に任せて下さい。
 乃絵美さんは、僕が全責任を持って、幸せにします!」

「は、羽柴さん……」

 乃絵美の涙から、また涙が溢れ出た。
 鼻と口を両手で覆いながら。
 涙でいっぱいになっている目で、羽柴を見つめる。
 乃絵美を見つめる羽柴の目は、優しく笑っていた。

「よろしく頼んだよ、羽柴君。
 乃絵美を幸せにして、自分も幸せになってくれ。
 これは、兄である俺からの、願いだ」

「はい」

 正樹が差しだした手を、羽柴は力強く握る。
 乃絵美を一生涯幸せにする役目は、この時、完全に正樹から羽柴に移った。

「そう言えば、ここに映画のチケットが有るんだよ。
 ほら、乃絵美も涙を拭いて。
 二人で、映画、見に行ったら?」

「え……お兄ちゃん?」

「そうですね、解りました」

 羽柴は、正樹から差し出されたチケットを受け取る。
 それを、ポケットの中にしまってから、乃絵美に手を差しだした。

「さぁ、行こう、乃絵美さん」

 その差し出された手と、正樹の顔とを交互に見つめてから、乃絵美は、優しく羽柴の手を握りしめた。

「うん、行こう、二人で……
 何処までも……
 二人で……」





Back/Top/Next