Back/Index/Next
Tactics ONE Short Story



さよならのプログラム


by 高津 沙穂




 俺と澪は、高校を出た後、一緒に住むようになった。
 誰も反対しなかったし、二人とも悪いこととは思わなかった。
 だから、それはごく自然なことだったと思う。

 学校でしか会えなかった澪が、家に帰ればいつも側にいる。
 大好きな人を目の前にして、嬉しくないはずはない。
 二人は、幸せだった。
 時が経つにつれ、二人で居ることは、偶然から必然に変わっていた。

 しかし。

 俺と澪は、喧嘩をした。
 会社で、嫌なことがあって、自棄酒をしたせいか、理由はよく覚えていない。
 だが、そんな状態でも覚えていることが二つあった。  澪の涙。
 そして、パジャマのまま外へと駆け出していく澪の後ろ姿。

 俺は、なんて事をしてしまったのだろう。
 澪の居なくなった部屋は、とても大きくて。
 澪の存在の大きさを、痛感した。

 心の中にぽっかりと空いた穴は大きくて。
 俺は動くことすらままならなかった。
 澪と居ることが、必然から偶然に戻ってしまったことが、何よりも悲しかった。

 俺は、両手両足を床について、一人で泣いていた。
 大の男が情けない、と言われるかもしれない。
 それでも、俺はそうすることしかできなかった。

 俺は朝になっても、ずっとそのままでいた。

 ぴとっ

 辺りが登校する小学生の声で騒がしくなった頃。
 俺の背中に、何かが張り付いた。
 俺の背中に感じるのは、なんども感じてきた愛の重み。
 俺の視界の中に入ってきたのは、俺以外の涙の染み。

「澪っ」

 背中に乗られたまま、俺は叫ぶ。
 そんな俺の目の前に、すっとスケッチブックが差し出された。

『先輩、本当にごめんなさいなの』

 その文字は、滲み、なんども書き直されていた。
 ただ一行の字の中に、澪の思いの全てが、詰め込まれていると感じた。

『澪、いい子にするから、捨てないで欲しいの』

 次のページの文字を見て、俺はいてもたってもいられなかった。
 澪を、抱きしめて慰めてあげたかった。
 だが、それは出来なかった。
 俺の首に回された、埃と土にまみれた手が、それを許さなかった。

『公園で、一人でずっと考えたけど
 役に立たないって解ったけど
 それでも、先輩の側にいたいの』

 スケッチブックに涙を落としてから、澪は震える手でページをめくる。

『わがままで、ごめんなさいなの
 でも、先輩のことが大好きなの』

 澪の手から、スケッチブックが落ちる。
 次の瞬間、堰を切ったように澪の目から涙が溢れる。
 床に、澪の涙が次々と染み込んでいった。

 その瞬間、俺はこの背中の重みが、俺にとって何よりも大切だと気が付いた。
 遅すぎる。
 本当に遅すぎた。
 俺はなんて馬鹿だったのだろう。
 澪は、俺には当然にある物が無く、それに一人で闘ってるじゃないか。
 それなのに俺は、ただ少しのことで澪に当たり散らして……
 なんて、最低なんだ。

 力の抜けている澪の手を外し、正面で澪を抱きしめる。
 その小さな耳元に、語りかける。

「俺の方こそごめんな、澪。
 澪は、役にたってなんてないなんてことは無いさ。
 俺にとって澪は、かけがえのない存在なんだ。
 とっても大きな存在なんだ」

 何かを言い返したいのか、澪はスケッチブックに手を伸ばそうとする。
 俺はその手を優しく掴んでから、澪の唇に自分の唇を重ねた。

「本当にごめんな、澪」

 再び謝る俺に、澪は笑顔で答えてくれた。
 涙で濡れた笑顔。
 それを、満面の笑みにするために、俺にはやらなくてはいけないことがある。
 この大切な存在を忘れないようにしなければならないのだ。

 澪はスケッチブックに手を伸ばし、何かを書き始める。
 そして、俺の目の前に差し出した。

『泥だらけになっちゃったの
 抱きついて汚れちゃったから、先輩、一緒にお風呂に入るの』

 俺は立ち上がり、澪の手を取った。

「行こうか、澪」

 澪は、満面の笑みで頷いた。

 そう。俺は、この一瞬一瞬を大切にするんだ。
 幸せを、もっともっと二人で、分かち合うために。




Back/Top/Next