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AIR Summer Story


飛泉 〜hisen〜

by 四季真



 声にならぬ悲鳴が、森閑たる雰囲気の中に響き渡った。
 中天に差し掛かった陽は眩しく我を誇り、その暑さは今が盛りといった様相だ。せめて少しでも涼しい日陰へと枝葉の木陰に避難していた小鳥たちが、突然の異音に慌てふためき大空に還る。
 鬱蒼と茂る木々の向こうからは水を打つ大音声。
 飛泉(ひせん)の吼声だ。
 涼風が吹き抜ける中を駆け抜けると、眼前に広がるのは眩ゆく光る水辺。飛泉は轟々と勢い良く降り立ち、潔いまでの水飛沫が宙を舞う。日の光を反射してきらきらと輝くそれは、水底まで見通せるほどに澄んだ水面に落ちると、幾重もの波紋を生じさせた。清水のせせらぐ中では、頭上のことなど露知らず、悠々と泳ぐ魚たちが群れるようにして遊んでいる。
 辺(ほとり)には天然の飛び石があり、人々が優に休むことが出来そうな大きさだ。
 今もそこでは、一人の可愛らしい少女と目見麗しい女性が、一時の水浴びを楽しんでいるところだった。少女はやんごとなき身分の貴人であり、翠髪の佳人は彼女を守り慕う、彼と同じ立場の淑女。どちらも、掛け替えのない存在だ。
 薄衣を羽織っただけの格好の少女が、突然の物音に反応してこちらへ振り向く。隣で微笑む歌人は彼の顔を確認すると、あらあらまあまあ、などと、のほほんと口にした。
 振り返った少女の顔が豪快に引きつった。
「!」
 間髪入れず、彼は背後へ向き直った。
 深、と静寂を湛える森々。
「?」
 彼は訝った。別に誰もいないではないか。
 気配すら感じさせずに接近した襲撃者を警戒した彼だったが、何も起きないことに拍子抜けして、腰の鉄鞘に添えた手を離した。
「おい、いったい何が」
 振り向いて言えたのは、そこまでだった。
 お手玉。
 恐るべき速度で飛来したそれは、油断していた彼の顔面を直撃した。
「こっ、この痴れものめっ!」
 仰向けに倒れる青年の体を受け止め、水が盛大な音を立てて跳ねた。


「……で、なんだ。その、裏葉が尻を撫でたのが原因だと言うのか?」
 全身ずぶ濡れになった柳也が、前髪から雫をぽつりぽつりと垂らしながら問うた。
 水浸しになってしまった狩衣を枝に引っ掛けて、無駄に降り注ぐ日差しで乾かしている最中なので、今の格好はとてもじゃないが人前に出れたものではない。
 なので、柳也は目の前にそびえる飛泉を茫洋とした視線で見つめていた。背後には、こちらに背を向けた二人が日向ぼっこを満喫中だ。
 少しばかり呆れた口調の柳也に悪びれた様子もなく、裏葉が平然と答えた。
「つい、目の前に可愛らしいお尻があったものですから」
「まあ、触りたくなる気持ちも判らんでもないが。というか、現に俺は触ったしな」
「同調するでない!」
「あら、神奈様。語意が違っております。この場合は『同意』が正しいのですわ。何故なら、同調というのは自分の意見を述べずに他人の……」
「そんなことは、どうでもいいのじゃ!」
 大層御立腹な様子でわめく神奈をなだめるように柳也。
「気にするな。別に減るものでもなし」
「減るわ!」
「そうか?」
「そうじゃ!」
 ふいと顔を背ける神奈に、やれやれと肩を竦める。別に濡れ場を覗き見されたわけでもなし。そう憤ることなどないと思うのだが。
「それはそうと柳也様」
「なんだ?」
「見ましたね」
「な、何をだ?」
 言うまでもなく水浴びした姿だろう。しかし、彼が水から上がったときには既に水干(すいかん)を身に付けていたので、しっかりと確認する暇はなかった。
 見れたと言っても、骨張った我侭娘の姿態くらいだ。
「余はおまえが今、無礼なことを考えておるような気がするぞ」
「気のせいだ」
 顔色一つ変えずに言う。
 そろそろ平気か、と水気を絞った狩衣を着込む。こんな格好でも周囲の警戒を怠ることはしなかったが、裸同然で剣を交えるのは……一介の武士として避けたかった。
 よしっ、と帯を締めると、それを見計らったかのような絶妙な間で、裏葉がこちらへ振り向いた。
「柳也様」
「なんだ裏葉? 俺は覗きなど……」
 しつこいな、と内心思いつつも弁解しようとして、絶句。
 そこには、目の幅涙を流して泣き崩れる裏葉がいた。
「よよよよ……。嫁入り前の乙女の柔肌を殿方に見られてしまいましたわ。かくなる上は、責任は取ってくださいましね。柳也様」
「せ、責任……?」
 何やら薄ら寒いものを背筋に感じる。それを誤魔化そうと、竹筒に入れた清水を傾けながらおずおずと訊ねる。
 裏葉は嘘涙をぴたりと止めてから、淑やかな笑みを浮かべて言った。
「柳也様の連れ添いになりとう御座います」
 ぶはっと勢い良く噴き出す柳也。
 げほげほ、とむせる彼に、神奈は険呑な視線を寄越した。
「ほお……、好きにすれば良いではないか」
 つん、とそっぽを向く。
 その面(おもて)は御髪(おぐし)に隠されて窺い知れぬが、思い計ることは用意だった。
「あらあら。拗ねてしまわれましたわ」
「拗ねてなどおらぬ!」
 口元を隠して穏やかに微笑む裏葉に噛み付くが、佳人はそれを軽く受け流し、これ幸いと我かんせずを決め込もうとしていた柳也に水を向けた。
「心配御無用ですよ、神奈様。……そうですよね柳也様?」
 急に話題を振られた柳也は、何のことかと首を傾げた。裏葉の意図が読み取れない。
 不思議そうな顔をする二人に、裏葉はゆっくりと頷いてみせた。
「柳也様は、神奈様以外の女性には見向きもしませんから」
 ぶはっ!
 今日二度目ともなる盛大な噴き出しをした柳也だった。


 場所が場所であれば、いっそ風雅とさえ言えたであろう静かな月夜。
 時折聴こえる身じろぎする物音の他は、取り立てて彼の耳に入る音は無い。
 柳也は周囲の警戒をしていた。
 といっても、二人からさほど離れていない場所に、ただじっと座っているだけだが。
 夜闇に乗じて奇襲するのは人のみに非(あら)ず。むしろ、本能で行動する獣の方がその傾向は顕著だ。襲われぬためには、焚き火を常に絶やさないのが手っ取り早くて効果的なのだが、逃亡者たる身の上では、それすら容易には実行出来ない。追っ手に見つかるのでは、と一抹の不安が拭い去れないのだ。もっとも、幸いなことに今まで見つかったことはないが、街道に近い今、高々と煙を昇らせるのは愚行といえる。
 薄暗い森は頑として喋らず、夜空から降る清き月光は音を奏でず。
 心地よい静寂が彼を包み込んだ。
 ひたすらに黙す木々だったが、自然に心を開けば様々な音が聴こえる。地虫の健気な鳴き声は四方にあまねく響き渡り、青葉が互いに擦れ合い生まれる歌は爽やかな風の調べに乗って、何処までも何処までも朗々と詠(うた)われる。
 そう、あの夜雲に隠れ見える月までも。
 闇夜の暗さに慣れた柳也の目には、人目を偲んで地表を照らす月光の薄明ですら十分な光源だった。視界に差し支えはない。
 いつもと変わらず異変の無い時間をまんじりともせずに過ごす。
(ま、何も無い方が良いのだろうがな……)
 ほぅっ、と幾度となくついた溜め息を、もう一度最初からし直す感じでしてみる。
 鞘に収めたままの長太刀を正面に持ってくると、『不殺』を誓った瞬間が脳裏に浮かび上がってくる。
 安穏とした日々と決別した忘れ得ぬ瞬間。
 変わることの無い日常と引き換えにしたものは、掛け替えのない二人の家族。取りたてて口に出したことは無いが、彼とて裏葉同様の思いを彼女たちに抱いている。神奈に聞いたことは無いが、もしそうだとしたら、この上なく嬉しいことだ。
 母上に逢いたい。
 少女の言葉を実現させるために。
 少女の願いを叶えるために。
 そのために、今、自分にここにいる。
 しかし、本当にそれだけなのだろうか?
 神奈を御母堂の元に送り届けた後、自分はいったいどうするつもりなのか?
 適当な答えはあるのだが、それとて本心からなのかは判らない。自分のことながら、いまいち判然としない。疑い知れない。
 何故に?
 迷いが口から出そうになり、幾度と無く押し止まったことか。
 もやもやと胸の奥で溜まりつつあるこの気持ちは何故なのだろうか?
 何処に、この想いの捌(は)け口はあるのだろうか?
 そもそも、この気持ちはいったい何なのだろうか?
 自覚するのが怖いくせに、その答えを追い求める自分。
 その答えが出たときに、これまでと同じように少女たちに接する自信が、無い。どこかですれ違ってしまいそうで。臆病にならざるを得ない。それが判っているからこそ、彼はそれに気づかぬ振りをする。
 彼は再び重い息を吐いた。深呼吸するように、長く大きく。
 音も無く訪れた夜風が、躊躇(ためら)いを遠くへ運び去っていく。その軌跡を何気なしに目で追う。
(いつか……はっきりさせなくてはならんよな)
 微苦笑しながら立ち上がろうとすると、不意に人が近づく気配を感じた。
 そろそろ、といった感じのぎこちない足音。自分では出来るだけ消しているつもりなのだろうが、腕に多少の覚えがある柳也の耳には、これ以上無いほどはっきりと聞こえた。
 そして、そんな未熟な歩き方が精一杯な人物はこの場に一人しかいない。
「起きておるか。柳也殿……」
 おずおずと発せられた声は小さく、寝ているものを起こさぬようにとの配慮が窺い知れる。鈴、とした声音は幾ばくかの不安を含み、僅かに重い。
 地を踏みしめる微かな足音と共に、その姿を月光の下にさらしたのは一人の貴人。
 映えやかな蒼光の下で静かに佇(たたず)むその姿は、まるでこの世のものではないかのような印象を見るものに与える。
 違う、と柳也はその考えを否定した。
「ああ、起きてる。見張りが寝ては、それこそ益体ないだろ」
 からかい口調で告げる相手は、自分が守るべき人。
 そう……人だ。翼があろうとなかろうと、少女は自分と同じ人間なのだ。
「神奈……眠れないのか?」
 問いかけに小さく頷くと、神奈は柳也の隣に腰掛けた。
 何をするでもなく、ただ黙ってそこに座る。
 柳也は何も問わずに、その背を大木に預けて彼女が話し始めるのを気長に待った。
 言うか言うまいか迷い、神奈の眉根が微かに揺らぐ。冴え冴えとした冷たい月光に照り映えた頬は、白磁のそれを思わせる。
 虫の音が幾度聴こえた頃だったか、その間隙(かんげき)を縫うようにして神奈の声が発せられた。
「のう、柳也殿」
「なんだ?」
「余は、母上に逢えるのであろうか……?」
 それはきっと、少女が幾度となく思った疑念。
 前の見えない今。それでも、ひたすらに進み続けるしかないが、不安は色濃く残り、決して消えない。自分が進んでいるのが前方なのだと、誰が証明出来ようか。
 しかし、立ち止まることは出来ない。
 だから、自分たちが前だと信じる方向を目指して突き進む。
 その間隙をついて入り込んだ疑念が、ふっと湧いて出て来たのだろう。
 翼人だ、などと世間では騒がれる少女が、実のところそこいらの娘子と相違ない心根の持ち主であることに、柳也は少女に出逢った当初から気づいていた。
 彼とて絶対にそれが可能だなどとは言い切れない。むしろ、方角しか判っていない……しかも、それすら定かではない現状から察するに、不可能という方が近いだろう。
 それに、風の噂という衛士の言葉。
『かつてここより南の社に、翼人の母子が囚われていたと聞いております』
 そこまでは、まだしも理解は出来る……神の遣いが籠の中の小鳥と変わらぬ生活を送っていたなどとは、俄(にわ)かには信じ難いものがあるが。
 しかし、それよりも更に戸惑いを覚えること。
『母親は人心と交わり、悪鬼と成り果てたと……』
 もし。もし、それが事実ならば、自分は取り返しのつかない事態を引き起こそうとしているのではなかろうか?
 そのような、僅かばかりの懸念を抱く自分がいる。
 が、しかし。
「逢える。絶対に逢える」
 『絶対』という可能性を込めて彼は口にした。
 揺ぎ無い明確な意思をもって。
 神奈の童女のように頼りない瞳を見つめて、再度確かめるように言う。
「絶対に逢える」
 もし御母堂が真に悪鬼であったならば、その時はその時だ。無責任のようではあるが、こればかりは致し方ない。最悪の事態ばかり想像していても気が滅入るばかりで、前進は望めない。ならば、脳裏の片隅にのみ覚えて置けばよいだろう。
 そうだ。自分が信じないで、誰がそれを信じるというのだ。僅かでも疑いを持った時点で、こちらの負けなのだ。
 ならば、己が自信を見せるしかない。
 儚気な表情を見せる神奈に相対し、柳也は力強い表情で頷く。
「俺が逢わせてやる。それが、俺の願いだからな」
「願い……?」
「ああ。お前が望むことは、どれだけ困難であろうとも叶えてみせる。例え世界がお前の望むことを非難しようと。世界中を敵に回そうと、俺はお前の傍(そば)にいる……それが正しいと思えばな」
 思いがけず真剣な表情を見せる柳也に、彼の中の男を強く意識してしまって戸惑いを感じながらも、神奈は恐る恐るといった感じで上目遣いに訊ねた。
「……もし、正しくなかったならば?」
「その形の良い尻を叩いて説教してやろう」
「するな痴れもの!」
 耳まで真っ赤になる神奈を見て、ひきつけを起こしたような笑い方で腹を抱える柳也。
 地面に這いつくばらん様子の彼を見て、その無礼な態度にたまりかねたように、ぽかぽかと彼を叩き始める少女。
 笑顔には凶相を払う力があるとされる。
 ならば、始終笑顔で居続けようではないか。
 であれば、事態は好転するに違いない。
「あらあらまあまあ。何やら楽し気でございますわね」
 神奈と裏葉と俺の三人で。
「うおわぁ!」
 彼女たちとなら、どんなときでも笑っていられる気がする。
「裏葉。もしや、柳也殿がやかましくて起こしてしまったか?」
 そう、例え今生の別れであったとしても。
「待て。なんで俺一人の責任なんだ」
 空を仰ぎ見れば、月。
「御二人とも、どうか御気になさらずに」
 満月まで日を数えるほどしか残されていない。
「神奈様が柳也様に話し掛けられた時分から起きていました故に」
 それが綺麗な円を描く頃には、何らかの結果が出ているだろうか?
「それは最初から盗み聞きしていたと言うんだ!」
 柳也は夜風にその身をさらし、
 届く当てのない願いを、
 夜空に浮かぶ蒼い月にかざした。
 

あとがき
 …………(今作が出来た余韻に浸っていることを表す三点リーダ)。
 …………(そろそろ後書きに入るかという気持ちを表す(以下略))。
 AIRを書くならば、下手な代物は書けない。そう、思いました。
 初投稿作なのに微妙な長さと言い回しを多様しているので、途中で飽きられないかと内心かなり恐々としています(笑)。
 まあ、そんな感じです(ぉ)。

2000・11・2"言い回しが古風になる夜半時"四季真

メール 011f00026@ris.ac.jp
HPアドレス http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Pen/7962/

感想は批判でもOKなので、気が向いたら送って下さい。


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