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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

プロローグ



その音に目を覚ましたのは、偶然だと言っても過言ではなかった。
静寂に包まれた地底湖に、鍾乳石から滴った雫が落ちた……そんな小さな音だ。
耳をすましたって…常人に聞き取れるものではない。
……では…なぜ、彼女はその音で目を覚ましたのだろう……。
七畳程の寝室には、勉強用の机と、その隣の本棚によさりかかるようにして大きな熊のぬいぐるみが一つ。
女の子の部屋らしく、暖色系でまとめた部屋。
目覚めたばかりの彼女の意識は、夢の中のように、ぐらぐらと揺れていた。
白い天井を眺めながら…彼女はゆっくりと上半身を起こす。
酔っているようだ……。
自分を中心にして部屋が回るような錯覚に陥り、気分が悪い。
別に酒なんて飲んでいないのに…。
水が欲しい……。
そう思った。
ゆっくりとベッドから抜け出ると、彼女は時計に目を這わせる。
二時三十四分…。
俗に言う丑満つ時……まだ日が昇るには早すぎた。
普段なら眠りに就いてしまいさえすれば、朝まで起きない質なのに…。
(何故だろう……。)
そう考えても詮無き事なのだが…。
おぼつかない足取りで彼女は、部屋を出る。
(……?)
ドアを開け廊下に出た彼女にまた、あの音が届く……。
平屋建ての長い廊下の先を見透かそうと彼女は目を凝らしたが…闇がそれを遮った。
それから彼女の部屋の隣にあるドアを見る。
両親が起きている気配はない。
では何が音を立てているのだろうか……?
元来、好奇心旺盛な彼女はその出所をつきとめようと、玄関の方へと歩いていった。
一歩踏み出すたびに、古い床板が軋む音を上げる。
それが思いのほか大きく聞こえるようで、彼女は出来るだけ音を立てない様に、ゆっくりと歩を進めていった。
(………あれ?)
玄関の前まで来て、途端に、あの音が止んだ。
きょろきょろと当たりを見回しても狭い廊下に、めぼしいものはなどあるはずがない。
ただガラス張りの引き戸を通して淡い光が、射し込んでくるだけだ。
今宵は、雲一つも無い月夜。
家よりも、外の方が遥かに明るいのだ。
「……気のせい…かな。」
小首をかしげ踵を返す。
そうして、そのまま、当初の目的である水を飲む為、洗面所へと入った。
飲むだけでなく、先程から身を包むような霞を振り払う為に顔を洗う。
そうして…。
三度程顔にひんやりと冷たい水をかけた時であろうか……。
――――。
(!?)
あの音がすぐ間近で聞こえた。
顔を洗っていた彼女の手が凍り付く。
蛇口からながれ続ける水の音よりも大きな、鮮明な響き。
――――。
(な、なに!?)
まただ。
一体どこから…。
――――。
「!!」
背後から!?
洗面台から顔を上げ振り返るっ。
誰も…いない。
「嘘っ。」
嘘だ。
そんなはずが無い。
あの音は間違いなく、動いている。
ただ一所の場所で響いてなどいない。
誰かが、故意的に鳴らしているのだ。
彼女の家の中で、家の者でない誰かがっ。
そうして、それはついさっきまでこの洗面所に在った。
誰かが彼女の背後に立ったはずなのに……。
じわじわと恐怖という感情が彼女を侵食しだした。
自分は、もしかして大変な間違いをしたのではないだろうか…と。
取り返しの付かない所まで来てしまったのではないかと…。
その代償は……。
「ねえ。」
(えっ……!?)
思わず彼女は自分の口を押さえた。
自身の口から声が出たと思ったからだ。
「ねえってばっ……。」
少し舌ったらずで、ゆっくりとした口調。
彼女の自身の口調が背後からかけられる。
でも、背後は、洗面台しかない。
彼女と洗面台の間に人が入るスペースなどない。
「ねえ、こっち向いてよ。」
くすくすと笑いながらそいつは、こちらを見ろと強制する。
彼女はそちらを向く事が出来ない。
既に思考は混乱していた。
今だ自分は夢の中ではないのかと本気で疑ってしまう。
だが。
ついに…。
彼女は向いた。
声に従って、振り返った。
そこには……彼女が居る。
洗面台に取り付けられた鏡の中に彼女がいる…。
口の端をにっと釣り上げて不気味に笑う彼女がいる。
そうして…彼女の首には…。
赤い…糸。
ゆっくりと、彼女は目を見開いていく…。
そうして、自分の首元を呆然としてみた。
鏡の中の彼女と同じく、赤い糸が彼女の首には巻かれていた。
「い…。」
かくんと、糸の切れた人形のように、彼女はしゃがみこむ。
「いやあぁぁぁっ!!」
悲鳴。
喉が裂けんばかりに声をあげた。
そうしてしゃにむに、首にかけられた糸を振りほどこうとする。
離れない。
どんなに引っ張っても切れない…それどころか徐々に糸はきつく絡み付いてくる。
「いやああっ!!助けてっ!誰かっ!……お父さんっ!!お母さんっ!!」
どんなに叫んでも、両親から返事が無い。
まるで、現実の世界から、別の世界へと、繋がれた陥穽に陥ってしまったような…錯覚。
ここには自分以外、誰もいないような…閉ざされた世界。
あるのは絶望だけだ。
やがて、ぷつぷつと首から血の沫が出始める。
「いやあああっ!!いやっ!いやっ!止めてぇぇっ!!!!」
激痛にもはや彼女の糸をほどこうとする手は止まった。
床をのた打ち回る。
「がっ……ぎゃっ……ぐぇっ………がっっがっがっが。」
奇声だけが漏れる。
やがて……。
恐ろしいほどの勢いで噴出した血の飛沫が、天井を、鏡を、床を朱に染めた。
尚も血が流れ続ける首の、そこから上が亡くなっている。
ごろごろと行く当ても無く転がる彼女の頭。
苦悶を浮べて、異様な程に舌が飛び出て……白目をむいて…。
そうして静寂が訪れる。
闇が、そこにあった惨劇を塗りつぶしてしまうかのように…。
ただ蛇口から流れ続ける水の音が……響いていた…。
 
 
 
地上に生きるものは月の魔力から逃れる事は出来ない。
その引力に惹かれるように……狂気に取り付かれてしまう。
 
『寂光堂』 月輪の法則



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