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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

16 狂いの見極め



上弦の月が中空にある。
湿った夜気の幕をかぶり、淡く、儚げな光の粒を地べたに在る僕達へと落していく…。
時折、山頂の方より流れてくる微風と共に聞こえる葉擦れの音、奏でる虫の音、それ以外、一切の音が僕と鷹志さんの間にはなかった。
すべてが幻、そう思っても可笑しくない……。
こんな夜は、元来話しの苦手なはずの、僕の口を滑らかにしてくれる。
夢ならば戯れ言も許されよう…。
「鷹志さん……」
左手を大地につけ、足を組んで座る僕。
鷹志さんは僕が背を預けている巨木の傍らで立ち、気持ち良さそうに目を瞑っている。
まさか立ちながら眠っているわけでもあるまい。
僕はそのまま言葉を続けた。
上弦の月が僕に囁きかけるままに……。
「鷹志さんは、狂いたいって思った事ありませんか?」
ふざけた事を聞く。
心の中に湧いてくるものを、そのまま口にしたらこんな科白が僕の口から紡ぎ出されたのだ。
僕の突飛な問い掛けに鷹志さんが閉じていた双眸を開いた。
それだけで、痛みさえも伴う寒気が僕を襲う。
瞳の色は、闇と同色の漆黒。
さらにその奥に潜むは、闇よりも深い………虚無。
恐怖を感じつつも、覗き込まずに入られない魅力を僕は感じている。
「………夜月は、そう思った事があるのか?」
答えは"ある"だ。
僕は困ったような、情けないような表情をして肯く。
「変ですか?」
鷹志さんは笑った。
声は漏らさず、表情だけが笑みをかたどった。
「変だな。……ただし変だと思うのは、お前がそんな事を気にしているのにたいしてだ。人が狂いたいと思う心理についてはどこにも矛盾はない」
鷹志さんの瞳が僕の姿を映し出す。
「どんな時計も、僅かであるが狂いが在る。そのささやかな狂いも毎秒、毎秒が積み重なっていけば、いずれ多いな狂いを生じる、時を刻むものとしての役を成さない、がらくたと化す……」
鷹志さんは、いつも持って回った、謎かけのような話し方をする。
そうして必ず問い掛けてくるのだ。
……お前ならどうする、と。
「夜月、もしそんな風に時計の狂いが大きくなったら、お前ならどうする」
「簡単です、直せば良い」
鷹志さんは、ゆるゆると首を振った。
「直すとは、己以外の何かを手本にして合わせる事だ。お前は何を手本にしてその時計を直すというんだ」
「狂っていない、正確な時を刻む時計じゃないですか?」
何を決まりきった事を……。
「正確な時を刻む時計が何であるか、お前はそれを判断する事ができるのか?」
問いを問いで返された。
これも鷹志さんの常套手段。
僕は答える事が出来ずに口を紡ぐ。
「言っただろ、どんな時計も刹那事に狂っていくんだ。お前が正確だと思っている時計もまた狂っている可能性は高い、いや狂っている。ならば、お前のやろうとする事は狂いから、狂いへ渡っただけに過ぎない、愚かな事だよ」
「じゃあ、どうしろと……」
僕は彼の科白に反論する事ができす、やや語義荒く解答を求めた。
「簡単だ。狂いを、狂いと思わなければ良い、つまり、何もするなって事だ」
「ちょっと待ってくれ。そんな卑怯な答えが……」
「俺の言う所が解らないか?」
「まったくっ」
ふふ、と鷹志さんが声を漏らした。
それは闇の中へ泡沫となって消えた。
「その狂った時の中で暮らしていけば良い。己だけの時をずっと頑なに守っていけば良い。なまじ外の世界に触れて時の狂いを悟るぐらいならば、狂った時計と共に流れていけ、それが流れて行く者自身の、真の時となる。……むろん、自身が望まずとも、向こうから間違いを正そうとする輩はでてくるだろう、その時はその人間もまた己の時に引き込むんだ。お前こそ間違っている、とな」
「…………」
言葉が出ない。
しかし、何度か口を阿呆のようにパクつかして、やがて掠れた声を絞り出す。
「……そんな、無茶苦茶な」
その言葉を鷹志さんは待っていた。
我が意を得たりとばかり膝を手で打った。
ぴしゃりと高い音が、木々の合間を縫って木霊する。
鷹志さんらしからぬ、素直な表現方法だ。
彼もまたこの幻想郷の中で、心を覆う壁が薄くなっているのかもしれない。
「無茶苦茶なもんか。げんに俺達人間はそれを無意識に、狡猾にそうし続けてるじゃないか」
「一体どこで」
「自分で話しを持ち出しておいて、何を頓珍漢な事を言っている。もちろん人の狂いでだよ」
長い雲の帯が、月を覆った。
さっと波が押し寄せるように、黒い影が迫って、僕と鷹志さんを飲み込んだ。
虫の音が止み、森全体が僅かな間、死ぬ。
彼の声だけが、響き続けた。
「人の狂いもまた、時計の狂いと差して変わらない、刹那的に現われる。何時でも人は狂っているんだ。 ではなぜ、人はそれを知りうる事ができないのか。それは、本人自身が自分の正気を疑わないからだ。己と違うものは、掃いて捨てるか、仲間に引き込むかのどっちかさ、決して己を正そうとはしない。掃いて捨てられるのは変人であって、引き込むのは教育者といった所か……」
結論付ける。
「変な言い方だが……狂いこそ人間の価値基準だよ」
「じゃあ、僕が狂いたいって思う事は……」
「俺の結論づけた狂いと、お前が答えを求める狂いとは別存在だ。お前の言うのは、医学的見地の狂い。それを前提に置いて言えば、お前は狂いから逃れたいばかりに狂いたいんだ、となる」
「は? ……言っている事が…」
まったく解らない。
ここまで来て、またも鷹志さんが悪戯心を起こしたのだろうか。
僕は鷹志さんがいるだろう位置をだいたい検討づけて睨み付けた。
その気配を察したのか、鷹志さんの笑い声が、見据えた方向から聞こえてくる。
「俺の言う"狂い"を"ずれ"、お前の言う"狂い"を"狂気"と定義しよう」
彼の講釈は延々と続くかと思われる。
明らかに彼は楽しんでいた。
「どんな人間だろうと"ずれ"はある。しかもそれは刻々と積み重なっていく」
それは解った。
「己の"ずれ"を信じたくないから、相手を自分の"ずれ"に引き込むか、除外するかを試みる」
それも解った。
「解るか? "信じたくない"、だ。俺達は自分の中の"ずれ"を信じていないんだ。それはつまり……」
…………。
………解った。
「自分の中の"ずれ"に気づいている。もしくは周りの者がすべて"ずれ"を持っている事に気づいている、意識の外で」
僕の口が自然と動いた。
簡単な事だった。
自分自身に当て嵌めてみれば、答えは見えていたのだ。
僕は鷹志さんの科白を奪って、語る。
「無意識下で感じ無ければいけないものを、意識的に感じてしまえば自身の"ずれ"によって、自身の存在を危うくしてしまう。周りの"ずれ"によって、絶望してしまう…。 つまりそれらから逃げるために"狂気"が産まれる」
強く、風が吹いた。
闇が晴れる。
上弦の月が雲の切れ間から顔を出す。
森が生き返る。
ぼんやりとした光りに照らされた鷹志さんの顔は、僕の想像とは裏腹に冷たい闇を湛えていた。
僕を煙に巻くような言動でからかっているのかと思ったが……。
彼はこの話題を楽しんではいなかった。
双眸を閉じると、鷹志さんはより深く、幹に背を凭れかける。
そして。
「俺の話しを理解するなよ、夜月。これこそ、お前を俺の"ずれ"に引き込む罠なんだからな」
まるでいつまでも終わりの無いウロボロスの蛇のように、鷹志さんの話しは締めくくられた。
…僕は何を信じたらいいのだろう……。
…………。
僕はその後、言葉を継げず、ただ黙って空が白みはじめるのを待った。
鷹志さんと共に、森の中で、朝を待った。
一生の何万日という在庫の中から取り出した一夜を、ただぼんやりとしながら流していった。
それが今の僕が一番していたい事だった……。

 
 
 
…………。
瞼の裏の明るさに僕は寝返りを打つ。
囁くような優しい呼びかけ、それと同時に揺すられる身体。
僕は夢から覚めた。
目を見開いた先には、翔子さんの顔があった。
心配そうに、こちらの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫…です?」
僕は肯くと、まとわりつく気だるさを振り払い、上半身を起こした。
僕は夢から覚めた。
そうして悪夢よりも悲惨な現実へと返る。



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