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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

20 陰陽師鷹志



診療所の玄関の戸を開けると、鷹志の背がそこにあった。
二人立つだけでも狭い三和土には、来診した客の靴など一つもない。
休診中かとも思ったが、看板に書かれた診察時間はまだ有効なはずである。
と、するとただ、人気がないという事かもしれない。
診療所とは名ばかりで、玄関口から中の様子を伺う限り、そこは普通の民家のようだ。
受付らしい、長机が、目の前に在る。
ただし誰もそこには座っていない。
長机の傍らには小さなダンボール箱が置いてあって、埃に塗れたスリッパが乱暴に入っている。
玄関の戸から差し込む光に照らされて、すべてが煤けて見えた。
退廃した、人の住んでいない貸し家のように見えた。
診療所などという清潔なイメージは露程も感じない……。
嵩穂は……。
何か嫌な臭いを感じた。
臭覚に訴えてくるようなものでない……何かを……。
「ごめんください」
無言の兄に代わって、嵩穂は全体的に暗い家の中に声を掛けてみる。
………応答はない。
「留守?……それにしても不用心だよね……」
嵩穂が意見を求めたが、鷹志は無言のまま、何の躊躇もなく家の中へと上がった。
それも土足のまま。
人気のない診療所、そこに土足のままあがる黒衣の男。
あまりといえば、あまりにも、らしい、その行動に、しばらく嵩穂をぽかんと口を開いて硬直した。
が、直ぐに我を取り戻す。
「ちょっ、お兄ちゃん!何やってるのよ!」
そのまま真っ直ぐ、奥へと続く廊下を進もうとする兄を、妹は制止させた。
「返事がないようだから、勝手にお邪魔させてもらうだけだ」
鷹志は平然とそう言ってのける。
「何を――」
「いるよ。誰もいないわけじゃない」
嵩穂の苦言を出鼻で挫く。
言うべき言葉が空気となって嵩穂の口からパクパクと出た。
それでも、なんとか反撃の態勢を整える。
「それでも無断で、しかも土足で上がる事ないでしょっ、非常識よっ」
「無断じゃない、ここは診療所で、俺は客。それから土足で上がるなと言っても、埃の積もった廊下を歩くのは嫌だな、履き物もカビている」
何とも唯我独尊的発想である。
嵩穂はこめかみに指を当てて頭痛に堪えた。
「それほど言うのなら、ここで待っていろ」
そんな妹を呆れたような顔で見下ろして、鷹志は踵を返した。
光の届かない、陰気な家の奥へと進んでいく…。
土足のまま歩くから、ただでさえ古くなった床板が、ぎしぎしと軋んだ。
まるであばら屋だ。
嵩穂は僅かに逡巡したが、兄の背が奥の闇に消えると、靴を脱いで、家に上がった。
兄の真似をするのだけは頂けない。
一歩踏み出すだけで、塵が舞い上がる……、顔を顰めながら嵩穂は鷹志の消えた奥の間へと向かった。

 
廊下の一番奥、突き当たりの部屋は、意外にも十畳程の広さがあった。
ただし棚や、デスク、寝台など……雑然としていて、見た目よりも相当狭く感じる。
ここが診療室になるらしい…。
ドアの入り口付近に置かれた、大きな棚には、医療用と思われる薬品が、いくつか並んでいるが、良く見るとそのどれもが、空瓶である。
鷹志が寝たら頭と足がはみ出してしまうような、小さなベッドには薄汚れたシーツが掛けられている。
こんな所で横になるぐらいならば、地べたで寝た方がいくらかましだ、と嵩穂は思う。
一つしかない窓の傍にあるデスクには陽光に晒されて黄ばんだ紙片が乱雑なまま置かれていた。
窓から入ってくる光に、廃虚と化した診療室は黄昏色に染まっている。
……何か物悲しい……。
そうしてあの、嫌な臭いはこの診療室に入る事でピークに達する。
嵩穂は整った顔を歪ませた。
入り口で突っ立ったままの嵩穂に、鷹志が入ってくるよう促してくる。
一瞬、躊躇ったが、ここまで来て外で待機というのも御免だ。
嵩穂は、ゆっくり鷹志の傍らまで歩いていった。
「本当に、誰かすんでいるの、お兄ちゃん……」
嫌な臭いはするのに……。
生活の匂いをこの診療室からは感じない、いや診療所全体が、死んでいる。
この嫌な臭いはある意味、死臭だ。
「住んでいるよ、ただし人間かどうかは解らないがね。……見て御覧」
鷹志が、デスクの下の暗がりを指差す。
そうして笑みを浮べて呼ばわった。
「そこ、何をそんなに脅えているのかは知らないが、俺達は、あなたが考えているような人間ではないよ。寝床を荒らされたもぐらのように隠れていないで、出ておいで」
鷹志の言葉に反応して、暗がりが動いた。
誰かがそこにいるみたいである。
暗がりにまだ目の慣れていない嵩穂をそれを見逃していた。
のそりと、まず細い腕が出てきた。
骨に皮が引っ付いただけのような、手をしている。
そうして次に身体全体を、夕日に晒す。
所々染みがついた白衣を着た男が姿を現した。
警戒するような目で二人を睨み付けながら立ち上がる。
「……誰だ、あんたら…」
男の第一声。
何か面白い事があったのかと思うほど愉快そうな表情を浮べて…。
鷹志は答えた。
「陰陽師です」

 
 
大きくて丸い瞳は、陸に打ち上げられた魚のように、浮き上がっていて。
げっそりと痩けた顔は、縦に尖がっている。
所謂、神経質な悪人といった面相だ。
歳は四十代後半……嫌、五十に乗っているかもしれない。
「………取りたてじゃないのか」
疑うような目付きで、誰何してくる。
「俺達が借金取りのヤクザな人間に見えるか」
見えるよ、と言いたい所を嵩穂は我慢した。
なにせ全身黒一色で、色付き眼鏡をかけている優男は、怪しい以外の何者でもない。
傍らに嵩穂という可憐な少女が立っているからよいものを、鷹志はそこら変の感覚がやや狂っている。
しかも今は、土足で踏み込んでいるのだ。
「………だったらなんで、無断で私の家に入り込んでいるんだ」
「ここは診療所だろう」
「今日は休診だっ」
「そういう立て札はどこにも置かれていなかったが」
「入り口には鍵が掛かっていただろうっ」
鷹志が無理矢理開けたのだ。
嵩穂はすぐにその推論に達する。
兄の手癖の悪さが露見し、妹は片方の手で顔を覆った。
「お兄ちゃん!」
「嵩穂、鍵は破るためにあるんだよ」
弁解にもならない事を鷹志は言う。
それでまったく反省の色がない。
男は鷹志のその発言に、脱力したのか、そのままよろよろと後方へ下がると、空いている椅子に腰を下ろした。
「………本当になんなんだ、あんた達は……」
鷹志の頓珍漢な発言に、毒気を抜かれたという感じだ。
彼が一瞬浮べた、蔑んだような視線に、男は気がつかなかった、もちろん嵩穂も。
「さっきも言った通り、今日は休診日なんでね、患者だったらお断りだよ」
この荒れようでは、いつまでもたっても休診なのではないか、そう嵩穂の表情に出たのか、男は自虐的な笑みを浮べる。
肩を竦め、両手を挙げたお手上げポーズ。
「もっとも、いつ営業を開始するかと聞かれれば、当の本人も解らない事だがな。第一はじめた所で、こんな糞っ垂れな医者に診察してもらおうなんて馬鹿はいないだろうさ」
自分を責めているかと思えばそうでもない。
この境遇にある己に浸っているような、まったくもって後ろ向きな考え方に嵩穂は眉をひそめた。
「先程言った通り…」
男の身の上話など、まったく黙殺して鷹志は割って入った。
「私は陰陽師です。石内先生、あなたに憑いたものを祓いに来たのだよ、十七年前から、あなたの傍らを離れない悪霊をね」
男の表情が凍り付いた。

 
 
「な、何をあんたは突然言うんだ、宗教勧誘ならさっさと出ていってくれっ!」
突如、動揺しだした男、石内。
鷹志は、両手をコートの中へ入れたまま、椅子に座る石内の前まで歩み寄った。
まるで、目に見えない圧力を掛けられたように、石内は身体を仰け反らせた。
ぎしりと、背凭れが悲鳴を上げる。
先程まで和やかな様子で喋っていた鷹志の表情も一変している。
冷徹な仮面がかけられる、否、穏やかな顔こそ、この男の仮面だ。
今浮べている表情、それが鷹志の本質である。
嵩穂は息を呑む。
「俺は神道や密教とは無縁な存在でね。下世話な言い方をすれば拝み屋、憑き払いが俺の役目だよ。残念ながら宗教勧誘をしにあなたの所へ足を運んだわけではない」
「ふざけた事を……」
「"川崎"と名乗る夫婦がいた」
石内に鷹志は言葉を譲らない。
がらりと話しを変えてくる………。
一歩だけ鷹志は後ろへ下がった、床が軋んだ音と共にたわむ……腐っているのだ。
鷹志が一歩下がった事で、なんとか石内は体勢を立て直した。
「彼等が、それこそ裸一貫でこの地に現われたのは二十年程も昔。親や親戚、そう言ったしがらみを全て捨ててこの地に移住してきた。極貧での生活が何年か続いたらしいよ、夫の方は元来病弱で、きつい仕事をしては床に臥せる、まるで大衆が喜ぶ、どこぞの悲劇物のような生活だ」
鷹志の話しは続く。
石内は黙っている、相手の様子を伺うような視線を鷹志に向ける。
無駄だと、嵩穂は思う。
兄の魂胆を探る事など誰にもできない、それこそ神でさえも……。
彼を意識すればするほど、目に見えない魔手にからめとられてしまう。
そう、鷹志が呪詛(すそ)を掛ける気でいる、それだけは理解した。
何故なら、一言目の"川崎"その音に、彼は隠語を含ました。
この場でだけ通用する隠語を……。
その内容までは嵩穂には解らないが………。
「そんな二人の間にも、やっと運が向いてくる。ようするに帳尻が合ってきたという事だ。
バブルに乗じて莫大な借金をして必死で掻き集めた資金を利用した、クウェイナイトという店をオープンさせる。命を懸けた博打のようなものだよこれは。上手く行かなければ夫婦そろって、首でも括る覚悟はあったんだろう。店は繁盛した、店を建てた借金も返し、貧しい生活に嵩んだ借金も奇麗に滞りなく返済する。更には店舗を増やしていき、大々的なチェーン展開。一文無しから、誰もが羨むような財産家の誕生だ」
鷹志は一度言葉を切る。
そうして首を二度、軽く振った。
「上手く行き過ぎたな、彼等は。…先程も言うように、帳尻は合うものだ。夫婦はここから、悪霊に獲り憑かれたよう、不幸へ落ちていく…」
嵩穂は石内の様子を伺った。
彼は胸ポケットから、くしゃくしゃに潰れた煙草の箱を取り出すと、その中の一本を口に咥えた。
百円ライターで火を付けようとして、震える手が上手く煙草の先を捉えられない。
そんな石内に鷹志は見下すような視線を送った。
「因果という言葉を、あなたは知っているか?」
めまぐるしく鷹志の話しは展開する。
先程の話しの続きはどうなったのかと、嵩穂は問いただそうとしたが止めた。
これはただの会話ではない、つまる所、儀式なのだ。
儀式には不可侵な順序が存在する。
「因果?………因果応報とかいうやつの事か」
「そう、四因、六縁、五果。因果応報とは仏門が説く所の事象法則。原因、機縁との組み合わせにより、様々な結果を得る。例えば、今、俺がここで足を思い切り踏み鳴らすとしよう、そうすれば、どうなる? ……これは腐った木の板だ」
いつのまにか高圧的に問いただしている。
しかし、その事に石内は気がつかない。
ただ言われるがままに答える。
「砕けるんじゃないか…。それがどうしたんだ、まさかそれが因果応報というんじゃないだろうな」
鷹志が嘲りの笑みを浮べた……この男は幾つもの笑いを使い分ける。
「そう、その通り。これは因果応報だ。俺がこの板を踏む、それが原因。踏んだ板が腐っている、それが機縁。板が砕ける、それが"結果"。因果応報の三要素は間違いなくそこに存在する。そして、板が腐っているという機縁自体を結果とみなすなら。原因は湿気や、虫食い。機縁は、あなたがそれを改善する事を怠る人間性の持ち主だからという事。……解るか、そうやって世の中は流れていくんだ。すべての行いは何かしらの結果に結びつく」
今度は"結果"という言葉に隠語を加えた。
嵩穂はその素早い手際に圧倒される。
一つ一つの呪詛(すそ)だけでも、相当な集中力と予備動作が必要だというのに。
兄はそんなそぶりなど見せず、ただ喋るだけで隠語を完成させていく………。
それらは全て石内に向けて仕掛けられた罠だ。
一体、この石内という男に、どんな秘密があるというのだろう……。
よいよ、嵩穂は疑問に思う。
「いいかい、先生。己が行った所業には必ず結果がついてくる。あなたの半生を綴った帳簿はたった一冊、神の膝元にだけある、それをくすねて書き換える事はできない」
石内の痩せて窪んだ目が一際大きく広がる。
何かがこの男の琴線に触れていた、もう鷹志の瞳から逃れる事が出来ない。
釈迦の手に捉えられた猿そのもの…。
猿は無意味な反撃を試みる。
「あんた、私に何を言わせたいっ!ひょっとしてあの事か?だったら、諦めるんだな。あれは既に時効だっ!!いや、事件にさえもなっていないものだっ!」
あの事とは何だ? 石内の科白から新しい進展が見えた。
鷹志の目が危険な程、鋭く細められる。
嵩穂が口を挟む。
「あの事とは何ですか、事件とはどういう事何ですか?」
「うるさいっ!お前等には関係がないっ、さっさと出て行けっ。警察を呼ぶぞっ!」
石内の眼光は底光りし、殺意さえも覗かせている。
思わず嵩穂は一歩後方へ退いた。
だが、鷹志は逆に半歩、前へ出た。
「あなたに"警察"が呼べるのか?」
まただ、また隠語が産まれた。
いったい幾つの隠語を鷹志は生成しようというのか。
「そもそも、法に罰せられなければ、因果から逃れられたと思う、あなたの考えが甘すぎる。罰する方法は他に幾等でもあるんだよ。現実があなたの行いを捌かないのなら、非現実があなたを捌く」
鷹志が言葉を区切った。
次の一言を強調するため。
その雰囲気を、嵩穂も石内も感じた。
じとりと粘りつくような空気が、この部屋を包み込む。
夕焼けの色とあいまって、まるで血の海にいるような錯覚を嵩穂は覚えた。
……ここに、ここに滞る瘴気が濃すぎるのだ。
…それで嵩穂は、ようやく気がついた。
この診療所に入った時から感じている臭いの正体に……。

"ここで誰かが殺された"その事実に。

「俺には見える、あなたの背後に小さな女の子の影がへばりついているのがね」
石内が絶叫した。

 
 
 
石内の絶叫が、閉め切られた診療室で反響する。
それが嵩穂の耳朶を何度も叩いた。
「なんでだっ!なんで俺なんだっ!人が違うだろ、検討違いも甚だしいっ!!」
噛み付くような勢いで、鷹志に意味不明の問いを投げかける。
しかし鷹志は無表情のまま、た易くそれを受け流した。
「いや、間違っていないよ、川崎夫妻は既にこの世にはいない。あなたで最後だ」
「なっ、そんな馬鹿なっ!」
「本当だ……」
鷹志は、懐から新聞の切り抜きを、取り出すと、石内に投げて渡した。
「川崎夫妻は昨日、白骨死体で見つかった。『首無し』でな」
「ひっ!」
石内の手から離れた切り抜きが、ひらひらと舞って、埃に埋もれた床へ静かに落ちた。
彼がこれほどまでに動揺する理由とは何か…。
今だ先送りされ続ける真理に、嵩穂は苛々と非難がましい視線を兄にぶつけた。
だが返ってくるのは、小憎らしい程の冷笑だけだ。
黙って聞いていろと暗に命令してくる……。
「た、助けてくれっ、あ、あんた祈祷師なんだろっ。俺の後ろにいるっていう影を祓ってくれよっ」
椅子から転げるようにして、石内が、鷹志の羽織るロングコートの裾を掴んでくる。
優雅に後退して鷹志はそれを避けた。
前のめりにつんのめ、石内は無様に倒れ込む。
「因果応報だ、潔く結果を受け止めればいい…」
「"川崎"夫婦は、く、首を切られて殺されたんだろ? いやだ、俺は絶対に嫌だっ!!そんな"結果"なんて受け止めたくないっ!!そんな"結果"を受け止めるぐらいなら、"警察"に捕まった方がまだましだっ!!」
………言った。
鷹志が埋めた地雷の上に石内はその足を乗せてしまった。
自らその隠語を口にしてしまったら、一切の抵抗は無効となる。
呪詛(すそ)を相手に掛けるのではなく、相手に呪詛を掛けさせるのだ。
無意識の内に……。
後は、鷹志が発火のスイッチとなる言霊を放つだけ。
それで隠語は全て反転する。
「…………そこまで言うのなら助けてやっても良いよ、"石内武人"先生」
その言霊とは即ち、真名。
己の仕掛けた地雷を、鷹志は爆破させた。
瞬間、石内の内面が白撃に侵される、電流が流れたように身体を痙攣させる。
限界まで目と口が開き、瞳孔は完全に開ききる。
そのまま全身を石のように膠着させてしまった。
石内の心を、鷹志が完全に縛り付けたのだ。
その事実に、嵩穂を戦慄する。
「助ける代わりに、あなたの知っている事を語ってもらう。もちろん無意識下の事も、忘我の果てに沈んだ事も、すべて余す事なくだ」
言葉の爆破テロリストは厳かにそう宣言した。
石内武人は先程と対照的に、無感動なまま、はい、とだけ返事をした。
まるで操り人形のように…。
いつのまにか西陽は薄れて、窓の外はぼんやりと霞んできていた。
誰が点けたのだろう……。
部屋に一つしかない蛍光燈の明りが晧晧と灯っている。
冷たい汗を流している自分に、嵩穂は気づいた。
「ああ……いい忘れていた、先生。最初に言ったように俺は拝み屋であって、宗教家ではない。因果撥無(いんがはつむ)が俺の持論だよ」



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