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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

21 布椎夜月の掛けた罠



私は、心を萎縮させて震えていた…。
ただ、表情にはそれを見せない様にした……それを夜月さんも求めているような気がしたからだ。
それでも、額を伝う汗を止める事はできない。
夜月さんの発する言葉も不明瞭で聞こえないし、身の周りの景色もなんだかぼやけている。
………ただ一色。
壁にも天井にも、床にも……塗りたくられた赤。
血液の赤だけが、私の網膜を焦がすよう…刻み込まれて、消えない。
激しい焦燥感に狩り立てられてしまう。
胸が熱い……。
なんなんだろう………?
何が私をこうまで苦しめるのか…恐怖させるのか……。
この赤いものが、私に何を訴えかけているのか……。
すべて解らない。
とにかく混乱していた。
だから、ふらつきながら冷たい床板に倒れ込んだ事もまるで他人事のように感じた。

 
 
九人が輪を作り、それぞれが意見を交換しあう。
闇が柔剣道場を覆う直前と、その間、そうして直後。
どこかに矛盾はないか……不審な点はないか……注意深く聞いて、吟味していったが……。
無駄だった。
手懸りの一つも見出す事が出来ない……。
僕は、募っていく焦りから、無意識の内に口の裏を噛んでいた。
口内に血の味が広がる。
それでも決して、表情に出すようなへまだけは、するわけにいかない。
もし、ここで僕達には後三十分の猶予しかないと言えば、取り返しのつかない状態に陥るだろう……。
しかし………解らない……。
僕は八人の誰からも目を離さない様にして、考える…。
念をかけてきた人物が、なぜ沈黙を守り続けているのかを……。
相手は俺など、警戒するに及ばない力の持ち主だ。
それは、僕の作った世界へ、強制的に入ってきた事からも解る。
今、この一瞬に残りの命を摘み取る事も簡単なはずだ……。
では、なぜ相手は行動を起こさないのか……。
起こさない理由があるのか………それとも……。
俺は不意に浮き上がってきた、ある一つの考察に、既にからからに乾いている喉を鳴らした。

面白がっているのか?

この状況を。
この場に沈殿する狂いに、後僅かでも惹き込まれてしまえば、この秩序は崩壊してしまう。
そうして崩壊してしまったら最後、修復は不可能。
誰もが狂気の彼岸を渡ってしまうだろう…それを…。
期待してるのか、敵は。
悪寒が走る。
……僕は身体を震わせた。
もし、もしその通りに、相手が考えているのだとしたら、もうそいつは、狂っている。
狂気の彼岸で、手招きをする魍魎(もうりょう)だ。
人間じゃない。
………誰だ?
誰なんだ、そいつは……。
この八人の中に、そいつは必ずいるはずだ。
あからさまな醜態を演じている瀬能か?
異常な程に落ち着きを取り戻した相原か、前川さんか?
恐怖に震える滝沢か、間島か?
予想を裏切って、井口さんか、佐原さんか?
それとも……。
人の中にまぎれた怪物を、僕は判断する事ができない。
………鷹志さんなら、看破する事ができるだろうか……。
ふと、そう考える。
あの並外れた慧眼の持ち主は、この怪物をどう料理する…。
そこまで思考が潤滑に滑って……止まった。

凛、道場中に張り巡らされた狂いの糸を、切り裂くような、清浄な音色。

そうして、唐突に静寂を破る、何か重いものが落ちる音、それが道場内に響いた。
「翔子!」
続いて、美紀の声。
僕は音がした方向に顔を向けた。
翔子が、床板の上に倒れ込んでいた。
美紀が、彼女に近寄り、抱き上げる。
他の者も、彼女へ近寄ろうとしている……。
どうする?
翔子に何かがあったのは明白だ。
美紀の腕の隙間から覗かせた、彼女の顔は、憔悴を通り越していた…。
だが。
だが、ここで、皆を所定の位置から離すのは危険すぎる。
…この…この状況下に置いてさえ、そう冷静に思考が廻る自分に、心底毒づきたい気分に陥った。
だから、静止の言葉を繰り出すのが遅れた。
翔子の周囲に、相原、間島、滝沢の三人による人垣ができる。
僕は……。
僕は翔子さんの側に行く事にした。
「…どうしたんですか?」
相原と間島の間を割って入ると、僕は前川さんに問い掛けた。
「気絶している……。極度の神経疲労かもしれない……すごい熱だ」
前川さんは、翔子さんの額に手を当てると、顔を曇らせて答えた。
翔子さんの、顔は火照り、息遣いは荒い…。
「翔子さんは、何か持病を持っているという事は無いんですよね」
「無いと思う。少なくとも部活では倒れた事は一度もない」
僕の出された質問に、前川さんは的確に、明確に答えていく。
あまりに、冷静過ぎて、少々僕は苛立つ。
そして気づく。
自分が冷静でない事に。
「……や…つき…さん……」
誰かが僕の名を読んだ、掠れた声で。
……翔子さんだ。
皆の視線が、一度、その名を紡いだ翔子の口に行き、そして、僕の方へと向く。
翔子さんは、気を失ったままだ。
僕の名を、無意識のうちに呼んでいる……。
僕は、自分に集中した視線に説明する言葉がみつからず、狼狽した。
そんな僕に、前川さんが助け船をだしてくれた。
ふっと、はじめてみる彼女の柔らかい笑み。
「そういう事か、夜月さん。…どうやら翔子に貸す腕は、私では役不足のようだな」
そう言うと、了解も得ず、立ち上がって、翔子さんを手渡してくる。
女性だというのに、凄い筋力の持ち主だ……いや、それはどうでもいい。
それよりも、僕の両腕に移った、翔子さんの温もり……。
前川さんは何か、勘違いをしている……。
「夜月さん、翔子さんの彼だったんですか」
勝手に納得し、これまた始めてみる爽やかな笑みを浮べると、相原が元の席に戻っていく。
その後に前川さんが続く。
滝沢に間島、過去、翔子さんに振られた経歴を持つ二人は、恨めし気な視線を置くって戻っていく……。
僕は、彼等が定位置に戻る間、馬鹿口を開けて、硬直するしか能がなかった。

 
 
…………。
気がついた時には…。
私は、濁濁(だくだく)と流れる川の辺に立っていた。
流れているのは、透き通るような、優しい水の色じゃない。
赤。
赤い液体が、どこからともなく流れてきている……。
赤い川が目の前に在る…。
でも、それは全然、不快なものではない、むしろ爽快な眺めだ。
全てのしがらみから離脱したような、人という殻を破ったような……高揚感、充足感、解放感……。
川面から渡る風を全身で感じた。
私は、一糸纏わぬ全裸を晒して、立っている…。
足の裏に、冷たい砂利の感触を感じる。
身体を伝って落ちるのは、赤い液体の雫……。
それは、足元で血溜りのように、溜まる。
赤い足跡が、川縁から点々と、私の立つ所まで続いていた……。
私は、あの此岸(しがん)から渡って、ここに今、在るのだ。
「うふふふふ…」
銀色に輝く、長い髪を掬い取ってみる。
いつも自分を悩ましてくれたその髪もまた、赤く汚れていた。
歓喜が私を包み込む。
「うふふふふ…」
妖しく妖艶な笑い声……。
誰が発しているのだろう………ああ、私か……。
…………。
……もう、いいかもしれない……。
このまま、ここにいても埒が空かない。
ただ渡るだけで、こんなに気持ちが良いのだ…。
だったら、もっと、もっと、向こうの方へ行ってみよう……。
至上の快楽がそこにはあるはずだ……。
だから。
だからもう…止めよう……。
ここで……立ち止まって……来る事の無い、迎えを…待つのは…。

凛、鈴の…音…一つ…。

辺りに立ち込めていた、血煙がその一瞬、晴れる。
ちょうど、さっと、一直線に入った亀裂が、縦に割れていくように…。
そうして、此岸に、一つの人影……。
遠くて顔の造作は見えない……、それでも。
私は、それが誰であるか、知っていた。
そう……知っていたのだ。
「や…つ……き…さん?」
一言目は確かめるように……。
「やつきさん……」
二言目は噛み締めるように……。
「夜月さん!」
三言目は、呼びかける。
彼は、私の待っていた、迎えだ。
彼しか、私を助ける事は出来ない。
「夜月さん、夜月さん、夜月さん」
私は、涙を流しながら、彼岸に佇む彼へ、呼びかけ続けた……。

 
 
………翔子さんは、僕の名を呼ぶ事を止めない。
彼女の赤く染め上がった頬には、涙さえも流れている……。
一体、彼女はどうしたのだろうか…。
僕は、この不思議な少女を眺めて止まない……。
こんな状況に陥っているというのに…不謹慎な事だが、心が安らいでいた。
冷静でいるようで、実は混乱していた、頭が聡明さを取り戻す。
僕は、今、やるべき事を完全に把握していた。
答えは、すぐ間近にあった。
鷹志さんならばどうするか……それが結局答えを導き出した。
僕達に残された時間は、後十分足らず………。
こんな、生殺しのように不健康な状況は、そろそろ止めにしたい。
「みんな、聞いてくれっ」
僕は、腕の中の翔子さんを気遣い、できるだけ小さな声で、皆の注目を集めた。
そうして単刀直入に、切り出す。
「……こんなふざけた事を仕出かしてくれた、犯人を引っ張り出す方法を僕は、思いついた」
「それは…本当ですか」
僕の発言に対して嬉々とした表情を浮べてくれたのは、相原だった。
彼はこの一時間という短い時の間に、僕を全面的に信用してくれるようになった…。
「ああ、この方法を使えば、間違いない」
「信用できないね」
俯いていた顔をのそりと上げて、間島が反論する。
だが、それに対して横合いから、滝沢の抗議が入る。
「間島、聞くだけでもいいだろ。………どうせ俺達にはどうしようもない状況なんだぜ……」
「そうだな、私は、夜月さんの話しを聞いて損はないと思う。翔子の好きになった男だ。信用するよ」
前川さん、それは誤解だ……。
いや………とにかく、二人の攻撃が入り、間島は沈黙した。
それが彼の答えのようだ、僕は了承の意を持って肯く。
由井さんと、井口さんは、確認をとるまでもない、彼女等はもう自分の意志というものが薄弱化していた。
残るは……。
「俺は知らんぞっ!お前達だけで勝手にやってればいいっ」
この天の邪鬼な先生様だ。
一人でも除外して、この方法を取るわけにはいかないのだ。
また、全員の協力が得られなくとも、成功は有り得ない。
「そう言わず、遣ってもらいたいんです。決して悪い様にはならないから…」
「知らんっ!!」
にべも無い。
見兼ねて相原が助勢に入ろうとしたが、僕はそれを手で制した。
こんな男の一人ぐらい誘導できないようでは、鷹志さんの域に到達するのは夢のまた夢だ。
「……あなたはこの生徒達の先生ですよね?」
「当たり前だっ!」
「だったら、生徒の事も考えて欲しい。……翔子さんはこの状態だ、直ぐ医者にでも看てもらった方がいい。由井さんも井口さんも張り詰めた緊張で、限界に達している。残りの皆も僕に任せていいと言った。あなたは、そんな取るに足らない意地だけで、生徒達の意志を無下にするのか」
鷹志さんの口先が乗り移ったようだ。
正論だが傲慢不遜である。
「きさ…」
「もっとも、この何十分の間に、僕とは別の方策が思い付いたのなら、そちらを先に行っても一行に構いませんが…」
瀬能には喋らせない。
喋らせるだけ時間の無駄だ。
「さあ、どうですか」
怒れる彼の顔を見据えて、急かす。
「さあ」
急かす。
「糞っ!!貴様の言う通りすればいいんだろっ!!してやろうじゃないかっ!だけど一度だけだっ!それで失敗したのなら俺はもう本当に知らんぞ」
了解だ。
一度でも失敗したら、もう僕達にできる事はない。
「解りました」
全ての協力を仰ぐ事に成功した僕は、一人一人の顔を順に見ていった。
最後に、僕の腕の中で眠る翔子さんに……。
窓の外の夕日は民家の輪郭を辿った影に、沈み込み始めていた。
後、数分もせずに、夜の帳が落ちる。
これが最後の日にならない事を願い。
僕は唯一つ、生き残るための方法を、皆に告げた。
「では、皆さん、耳を塞いで、大声を上げてください」

 
皆、一様に面食らった顔をした。
誰もが一瞬、阿呆面になる。
「……どういう事だ、それは……? それが夜月さんの得意な呪(しゅ)とやらに関係するのか?」
前川がもっともな疑問を口にした。
僕は肯くだけで、説明は加えない。
「すみませんが、そうである、としかいえない。皆にその説明をしてしまうと、これは意味がなくなるんです」
やたらと、曖昧な答えになってしまう。
それでも、一度確認を取った彼等は、僕の言う通りにしてくれると言う。
瀬能だけが、やや愚痴ったが……。
「それでは、初めてください」
僕の号令の元、皆の手が不思議なほど揃って耳に宛がわれた。
そうして思い思いの大きな声を上げる。
先程まで、静寂だった柔剣道場は、突然騒がしい空間へと転じた。
僕は、全員、耳に手を遣っている事を確認すると、ゆらゆらと口を動かし始めた。

 
我が名に誓い この手に捉えよふぞ 主の御霊

そが紡ぐはあやかしの糸 そが縛るは人の身ぞ

 
呪言の歌を歌う。
これが鷹志流に、僕のだした結論だ。
相手の力が強大ならば、力で対抗する事は愚かな事。
ましてや、今の僕は僕であって、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を使用する事ができない。
………ならば、どうするか。
超突猛進が相棒のステータスならば、搦め手こそ、僕の真骨頂。
相手の油断を突いて、思いもよらない呪(しゅ)の使い方をする。

 
七つ縒りて 六つほどく 七つ縒りて 六つほどく

そが紡ぐは善の綱 そが引くは骸呑み

 
呪言は、相手が聞いていなくても、聞く余地があれば効くのだ。
大音声の間隙を縫い、手の隙間を通って、耳にまで到達する。
聞き取れないほど小さな雑音となっても、それが聴覚として認知されさえすればいい。
それで効果はでる……後は、真名さえ知っていれば……。
つまり、相手の力の強さを逆手に取るのだ。
僕の呪言が効かない者、それが即ち……。
敵。

 
七つ縒りて 六つほどく 七つ縒りて 六つほどく

そにしたがへ そにうつろへ そをまつらへ

すなわちそは………

布椎夜月ぞ

 
呪言は……完成した。
皆、己に及んだ理の力に気づかず、耳を塞ぎ、声を上げている…。
残る儀式は一つ。
……僕は一度、溜まった唾を飲み込むと、代わりに肺の中へ空気を溜めていった。
そして……。
一喝。
八人の真名を稲妻のように閃かせた。
それに連動する呪(しゅ)は…。
「臨兵闘者皆陣列在前、縛止っ!」
韻、言霊の余韻が、心地よく場内に響き渡った。
翔子は寝ている。
六人が声を凍らせた、そしてたった一人。
たった一人だけ、阿呆のように、大声を上げ続ける……。
その男の真名は……。

瀬能雅彦。

僕が彼に視線を合わせると。
彼は、にゅいっと口元に笑みを象り、ケタケタと笑い出した。
だが瞳が笑っていない。
それは人形のように漆黒で、表情が消え失せていた。
僕は翔子さんを床に寝かせると、瀬能目掛けて駆けた。



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